放課後の校庭は、夕焼けに染まった空の色を映してどこか切なく、そして美しかった。陸上部の練習が終わり、グラウンドの片隅でひとりストレッチをしていた篠原蒼(しのはら あおい)は、ふと視線を感じて顔を上げた。
 そこにいたのは、カメラを構えた写真部の三浦陽翔(みうら はると)。彼は蒼に気づくと、少し照れたように笑いながら手を振った。
「ごめん、邪魔してないよね? ちょっと夕焼けと一緒に撮りたくてさ」
 陽翔の声は軽やかで、どこか無邪気だった。その瞬間、蒼の胸がきゅっと締め付けられるような感覚がした。陽翔が笑うたびに、彼の存在が自分の中で大きくなることを蒼は自覚していた。
「……好きにしろよ」
 短く答えた蒼は、再びストレッチに戻るふりをしたが、その視線は陽翔から離れなかった。陽翔がカメラ越しに何を見ているのか、それが気になって仕方がなかった。
「蒼ってさ、本当に絵になるよね。なんだろう、空気感っていうか……特別なんだよな」
 陽翔がぽつりと漏らした言葉に、蒼の心臓が跳ねる。特別。それは蒼が陽翔に対して抱いている感情そのものだった。
「……お前、そういうこと簡単に言うなよ」
 声には出さなかったけれど、その言葉には少しだけ棘があった。陽翔が誰にでも同じように接すること、それが蒼を苛立たせる理由だった。
「え? なんか怒った?」
 陽翔は首を傾げながら微笑む。その無防備な表情に、蒼は目を逸らすしかなかった。自分だけが抱えるこの感情――執着にも似たこの想いを、どう扱えばいいのかわからなかったからだ。
 その日、夕焼け空の下で撮られた写真には、どこか寂しげな蒼の横顔と、それを見つめる陽翔の優しい視線が写っていた。
陽翔がカメラの液晶画面を覗き込みながら、「うん、いい感じだな」と満足げに呟く。その声が蒼の耳に届くたびに、胸の奥がざわつくのを感じた。
「ねえ、蒼はさ、なんで陸上やってるの?」
陽翔は突然そんなことを聞いてきた。カメラを首から下げ、蒼の隣に腰を下ろす。夕焼けの光が彼の横顔を照らし、その柔らかな表情に蒼は目を奪われた。
「……なんでって、別に理由なんてない。走るのが好きだからだよ」
短く答えた蒼は、視線をグラウンドに向けたまま、心の中で自分を戒めた。陽翔と話すときはいつもこうだ。言葉を選びすぎて、不器用な返事しかできない。
「そっか。でもさ、蒼が走ってる姿って、なんか自由そのものって感じがするんだよね。見てるとこっちまで気持ちよくなるっていうか……あ、変な意味じゃなくて!」
陽翔は慌てて手を振りながら言い訳する。その仕草がおかしくて、蒼は思わず小さく笑った。
「別に変だとは思ってないよ。ただ、お前って本当に誰にでもそういうこと言うんだな」
冗談めかして言ったつもりだったが、自分でも驚くほど低い声になってしまった。その瞬間、陽翔が不思議そうな顔でこちらを見つめる。
「え? どういう意味?」
陽翔の問いかけに、蒼は答えられなかった。本当は言いたかった。「誰にでも優しくするな」「俺だけを見てほしい」と。でも、それを口に出せば、この関係が壊れてしまう気がして怖かった。
「……なんでもない」
そう言って立ち上がると、蒼は鞄を肩にかけた。「俺、もう帰るわ。またな」
「あ、待って!」
陽翔が慌てて立ち上がり、蒼の腕を掴む。その手の温かさに、一瞬だけ足が止まった。
「蒼さ、本当に怒ってる? なんか俺、変なこと言っちゃった?」
陽翔の声には心配と戸惑いが混じっていた。その純粋な瞳が自分をまっすぐ見つめていることに気づき、蒼は心臓が跳ねる音を聞いた気がした。
「別に怒ってない。ただ……お前にはわからないよ」
それだけ言い残して、蒼は腕を振り払うようにして歩き出した。背後から陽翔の「また明日!」という声が聞こえたけれど、それには答えなかった。 その夜、自室でベッドに横になりながら、蒼は天井を見つめていた。頭の中には陽翔の笑顔と声ばかりが浮かんでくる。それなのに、自分はあんな態度しか取れなかったことへの後悔で胸がいっぱいだった。
「……俺はどうしたいんだよ」
呟いた言葉は虚しく部屋の中に消えていく。
陽翔への気持ちは確かなものだ。それなのに、それをどう伝えればいいのかわからない。ただひとつだけわかること。それは――誰にも渡したくないということだった。 翌朝、教室に入った蒼はいつも通り席について窓の外を見るふりをしていた。しかし、その視線は自然と教室の入り口へ向かう。そして数分後、大きな声で友人たちと笑いながら入ってきた陽翔の姿を見ると、不意に胸が温かくなる。
「あ、おはよう! 蒼!」
陽翔がこちらに気づいて手を振る。その無邪気な笑顔を見ると、自分だけ特別扱いされたいという欲望がまた膨らむ。
「……おはよう」
短く返事をしたその瞬間、自分でも驚くほど自然な笑みが口元に浮かんでいることに気づいた。そしてそれと同時に、この関係を壊したくないという思いと、このままではいけないという焦燥感が交錯する。
そんな中で始まった一日。この日もまた、蒼は陽翔という存在に翻弄され続けることになる――しかし、それも悪くないと思える自分がいることにも気づいていた。
その日の放課後、蒼はいつものように陸上部の練習を終え、グラウンドの片隅でストレッチをしていた。夕焼けに染まる空を見上げながら、陽翔のことを考えていた。どうしても頭から離れない。あの笑顔、あの声、そして無邪気な仕草――全てが自分を縛りつけているようだった。
「蒼!」
突然背後から名前を呼ばれ、驚いて振り返ると、そこには息を切らせた陽翔が立っていた。カメラバッグを肩にかけたまま走ってきたらしく、額には汗が滲んでいる。
「……なんだよ、お前。また写真か?」
蒼はなるべく平静を装って言ったが、心臓が高鳴るのを抑えられなかった。陽翔が自分を探してここまで来たという事実だけで胸が熱くなる。
「いや、今日は違う。ちょっと話したいことがあってさ」
陽翔はそう言うと、蒼の隣に腰を下ろした。夕焼けの光が彼の横顔を照らし、その表情に一瞬見惚れる。
「……話したいこと?」
蒼は少し警戒しながら問い返した。陽翔が真剣な顔をするなんて珍しい。それだけに、何を言われるのか不安だった。
「うん。あのさ……最近、蒼がなんか避けてる気がしてさ。俺、何か悪いことした?」
陽翔はじっと蒼の目を見つめながら言った。その瞳には不安と戸惑いが浮かんでいて、蒼は思わず視線を逸らした。
「別に避けてなんかない。ただ……お前が気にしすぎなんだよ」
そう言いながらも、自分の声が震えていることに気づき、内心で舌打ちする。本当は避けていた。それは間違いない。でも、それは陽翔のことが嫌いだからじゃない。むしろ、その逆だった。
「本当に? 俺さ、蒼ともっと話したいんだよ。なのに最近ちょっと距離感じるから……正直寂しい」
陽翔は苦笑しながらそう言った。その言葉に蒼の胸がぎゅっと締め付けられる。
「寂しいって……お前、本当に誰にでもそういうこと言うよな」
思わず口から出たその言葉に、自分でも驚いた。でも止められなかった。このままではまた同じことを繰り返すだけだと思ったからだ。
「え? どういう意味?」
陽翔は首を傾げながら問い返す。その無邪気な態度に苛立ちと愛しさが入り混じり、蒼は拳を握りしめた。
「お前さ……俺以外にもそんなふうに接してんだろ? 誰とでも仲良くしてさ、誰にでも笑顔向けて……それが俺には耐えられないんだよ」
気づけば感情が溢れ出していた。抑え込んでいた想いが堰を切ったように流れ出す。
陽翔は驚いたように目を見開き、その場で固まった。そして数秒後、小さく笑った。
「そっか……そういうことだったんだ」
その笑顔にはどこか安心したような色が混じっていて、それが逆に蒼には理解できなかった。
「俺ね、実はずっと思ってたんだ。蒼ってクールで無口だけど、本当はすごく優しい人だなって。でも、それ以上に……特別なんだよね。他の誰とも違う」
陽翔はそう言いながらカメラバッグから一枚の写真を取り出した。それは以前撮った蒼の横顔だった。夕焼けの中でどこか寂しげな表情を浮かべている自分の姿。それを見た瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「これね、一番お気に入りなんだ。でも、この写真以上に俺が好きなのは……今ここにいる蒼そのものなんだよ」
陽翔の言葉に、蒼は息を呑んだ。その瞳には嘘偽りのない真っ直ぐな想いが宿っていて、それだけで全てが報われた気がした。
「お前……本当にバカだな」
蒼は小さく笑いながら呟いた。そして次の瞬間、自分でも驚くほど自然な動きで陽翔の手を掴んでいた。その温もりが、自分たち二人だけの世界を作り出しているようだった。
夕焼け空の下で交わされたその想い。それは二人だけの青空となり、新しい関係への一歩となった――

陽翔の手を掴んだ蒼は、しばらく何も言えなかった。胸の中に渦巻く感情が多すぎて、どれを言葉にすればいいのかわからなかったからだ。ただ、陽翔の手が自分の手の中で温かく、そして少し震えていることだけははっきりと感じていた。
「蒼……?」
陽翔が小さく名前を呼ぶ。その声に促されるように、蒼はようやく口を開いた。
「……お前さ、本当に俺のこと、特別だって思ってるのか?」
自分でも驚くほど低く、そして震えた声だった。けれど、それが今の自分の精一杯だった。
陽翔は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。そして掴まれている手を少し握り返しながら、静かに頷いた。
「うん。俺にとって蒼は特別だよ。他の誰とも違う。一緒にいると落ち着くし、なんていうか……蒼といると、自分が自分でいられる気がするんだ」
その言葉はまるで夕焼け空から降り注ぐ光のように蒼の心に染み込んでいった。ずっと求めていたものが、こんなにも簡単に目の前にあったなんて――そう思うと同時に、自分の不器用さが少し恥ずかしくなった。
「……そうか。なら……俺も言うけどさ」
蒼は少しだけ視線を逸らしながら、それでも勇気を振り絞って言葉を続けた。
「俺も、お前が特別なんだ。他の誰にも渡したくないくらい……お前だけが、俺には必要なんだよ」
その言葉を口にした瞬間、胸の中に溜まっていた重たいものがふっと消えていくのを感じた。陽翔は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと笑顔になった。
「そっか……嬉しいな」
陽翔はそう言うと、掴まれている手をさらに強く握り返した。その温もりが蒼の心を満たしていく。
「でもさ、蒼。俺、他の人とも仲良くすると思うよ? それでもいい?」
陽翔は少し意地悪そうな笑みを浮かべながら言った。その言葉に蒼は一瞬ムッとした表情を浮かべたが、すぐに小さく笑った。
「……仕方ないな。でも、その代わり――」
蒼は陽翔の手を引き寄せ、自分と向き合わせるようにしてから続けた。
「俺だけには特別な笑顔を見せろよ。それくらいしてくれないと、許さないからな」
その言葉には冗談めいた響きもあったが、その奥には確かな想いが込められていた。陽翔は一瞬驚いたようだったが、すぐに満面の笑みで頷いた。
「わかった! じゃあこれからは蒼専用スマイルってことで!」
そう言って無邪気に笑う陽翔。その笑顔を見るだけで、蒼は胸がいっぱいになるのを感じた。
夕焼け空はいつしか深い青へと変わり始めていた。その下で二人は並んで座りながら、小さな会話を続けた。これまでとは少し違う距離感――けれど、それが心地よかった。 翌日から二人の日常は少しだけ変わった。教室では相変わらず陽翔が友達と賑やかに話している姿を見ることもあったけれど、その視線がふと自分に向けられる瞬間、その笑顔が自分だけへのものだということを蒼は感じ取れるようになっていた。
放課後になると自然と二人で過ごす時間が増えた。グラウンドで陸上部の練習を眺める陽翔や、その横でストレッチをする蒼。その光景が当たり前になっていく中で、二人だけの特別な時間が少しずつ積み重なっていった。
そしてある日、陽翔がふと言った。
「ねえ、この前撮った写真さ、一緒に見ない?」
その誘いに頷きながら、蒼は思った。この関係はまだ始まったばかりだけれど、この先もずっと続いてほしい、と。そして、自分たち二人ならそれができる気がすると――
空には青空が広がっていた。それはまるで二人だけの未来への道筋を示しているようだった。