イルミネーションがきらめく街の一角。
 骨にまでしみるような寒さのなか、私はジャージ姿でうずくまっていた。
 ……寒い。とてつもなく、寒い。
 手の感覚がなくなってから、どれくらい経っただろう。夜が明けるまで、あとどれくらいなのだろう。
 わずか一分が、まるで一時間のように感じてしまう。
「あぁもう、最悪……」
 私は白い息を悴む両手に吹きかけ、擦り合わせた。

 家を飛び出したのは、夕方のことだった。
 生まれた頃から父親がおらず、母子家庭だった私の家は、常に生活に困窮していた。
 昼夜働き詰めの母は家にほとんどおらず、おかげで私が毎日家事をしなければならなかった。
 そのせいで私は、友だちとテーマパークに行ったこともないし、放課後寄り道をしたり、買い食いをしたこともない。
 放課後、周りの子たちが遊んでいるあいだ、私はいつだったてまっすぐ家に帰って、洗濯やら掃除やら買い物やらの家事三昧だった。
 それだというのに、お母さんは授業参観や運動会に来てくれたことはない。
 そして、たまたま日直の仕事で遅くなってしまった今日。こういうときに限って、母は珍しく早く帰ってきた。
 べつにいつもやりっ放しなわけではないのに、母は帰ってくるなり洗濯物が散らばったリビングと洗い物が溜まっている流し台を見て、わざとらしくため息をついた。
 ため息は、私にとって暴力だ。
 じぶんの存在を責められている気分になる。
 私はあんたのためにこんなになるまで働いているのに、おまえは家事すらまともに手伝えないのか。そう言われている気がする。
 帰ってくれば小言かため息。私にはいつだって疲れた顔か険しい顔しか向けてこない。お母さんが笑った顔なんて、この頃ほとんど見たことがない。
「まったく、もうすぐ高校生になるっていうのに。じぶんで食べたものくらい、じぶんで洗えないのかしら」
 ぼそりとお母さんが言った。聞きづてならない。
「は? いつも洗ってるんだけど」
「じゃあ今日もいつもどおりやりなさいよ」
「今帰ってきたのに無理に決まってんでしょ。私だって暇じゃないの」
「なにが暇じゃないのよ。朝少し早く起きれば済むことでしょ。まったく……」
 母はわざとらしくガチャガチャと音を立てて食器を洗いながら、またため息をつく。
 耳を塞ぎたくなる。
 ……あぁ、もう。
 どうして私は、こんな星の元に生まれてしまったんだろう。
 貧乏でもいいから、せめて綺麗な母親から生まれるとか、裕福とはいかないまでも、せめてふつうの家庭の子に生まれることができたらよかったのに。
 ……世の中は、不平等だ。
 私は、きれいでもない母親から、裕福でもない家庭に生まれた娘。
「……はぁ」 
 うるさいなぁ。ため息をつきたいのはこっちなんだけど。
「まったく、なんで私ばっかり」
 は? それこそ、こっちのセリフだし。
 なんで私ばっかり、こんな我慢しなきゃならないの? 周りの子はなにも考えないで遊んでるのに。
 お小遣いだってたくさんもらって、旅行にだって連れて行ってもらってるのに。
「あーぁ。もうやだ。もう無理」
「なに?」
 半笑いで呟くと、お母さんが振り返った。眉間に深い皺を刻みつけて、私を見る。 
「……完全に親ガチャ失敗した。生まれるところからやり直したい」
 小さな声で悪態をつくと、お母さんが振り返った。
「なにか言った?」
「友だちは可愛い服着て、テーマパーク行って、カラオケ行って楽しそうに遊んでるのに。私はいつもまっすぐうちに帰ってきて、洗濯とか買い物とか、家のことばっかり」
 今度こそはっきり聞こえるように言うと、お母さんの眉間にさらに皺が寄った。
「仕方ないでしょう! 私だってこんなに働かなくていいなら家のことだってやるわよ! 少し家のこと手伝ったくらいで……」
「仕方ないで済ませないでよ! こっちはずっと我慢してるのに! そもそも、私を産んだのはお母さんの責任でしょ! じぶんで決めたことを私に当たらないでよ! いやなら産まなきゃ良かったじゃん! 今からでも捨てればいいじゃん!」
 大きな声で叫ぶと、お母さんに思い切り頬を叩かれた。手を持っていくと、頬が心臓になったかのようにじんじんと脈を刻む。
 頬を押さえたまま、お母さんを強く睨んだ。
 イライラがピークに達した。泣きたくないのに、視界が滲む。
「ふざけんな! クリスマスだって一回もプレゼントもらったことないし、授業参観だって運動会だってお母さん一回も来てくれたことないじゃん! それなのに、なんで家の手伝いして勉強しなきゃいけないわけ!? 私、高校なんて行かないから!」
「まり! ちょっと、まり!」
 涙で滲む視界のまま、私はお母さんに言葉をぶつける。
「お母さんなんて大っ嫌い!」
 そう言い捨てて、私は家を飛び出した。


 ***


「あーぁ。サイフくらい持ってくるんだったな」
 外気を感じて早々、薄着でサイフすら持たずに家を飛び出してきたことを後悔する。
 まぁ、サイフがあったところで千円札一、二枚しか入っていないけど。
 あてもなく街をふらふらしていると、どこからかチキンの匂いが漂ってきた。
「……お腹減った」
 駅前の噴水の縁に腰掛けて、ぼんやりと行き交うひとたちを見る。
 寒そうに肩をきゅっとして歩くサラリーマンに、幸せそうに手を繋ぎ、見つめ合うカップル。楽しそうに笑い声を上げて歩いていく女子高生たち。
 噴水の向かいの大きなツリーは、電飾やオーナメントで可愛らしくメイクアップされている。
 よりによって、今日はクリスマスイブだ。
 みんな、今日は幸せな夜を過ごしているんだろうな。
 今宵、世界中の子供たちはワクワクしながら目を閉じて、明日の朝は普段なら絶対しない早起きをするのだ。
「……くだらな」
 私、サンタクロースを信じてた頃なんてあったっけ。
 思えば幼い頃から、私はつまらない現実のなかで生きていた気がする。空想も妄想もした記憶なんてない。だって、夢を見る余裕なんて私には与えられなかった。
「……さむ」
 手をこすり合わせていると、ふと目の前に影が落ちた。
「メリークリスマス! やぁ、君、ひとりかい?」
 私の心の内とは正反対の陽気な声に顔を上げると、サンタクロースの格好をした知らないおじさんがいた。
「は?」
 だれ、このひと?
 一瞬面食らったけれど、おじさんの背後を見るとティッシュ配りをするサンタクロースのコスプレのアルバイトのひとたちが目に入った。
 あぁ、なんだ。サンタクロースのコスプレをしたただのおじさんか。ティッシュでもくれるのかな。
 そんなふうに思っていると、おじさんはなにも持たない手で私の手を握った。ぎょっとする。
「こんなに冷たい手をして可哀想に。だれかと待ち合わせかい?」
 いや、フツーに女子中学生の手握るとか有り得なくない? 不審者じゃん。
 睨むようにおじさんを見上げる。
「違いますけど……というかおじさん、なにかの勧誘? 私、そーゆうの無理だよ」
 乾いた手を振り払ってぞんざいに言うと、おじさんは気にした素振りもなく快活に笑った。
「ホッホッホッ! ワシはサンタクロース! まさか女子中学生に夢以外を売るなんて有り得んよ」
「はぁ……」
 いや、胡散臭いことこの上ないが。
「さてお嬢ちゃん、暇ならワシと一緒においで。クリスマスマーケットに連れて行ってあげるよ」
「クリスマスマーケット? そんなのやってるの?」
「そうだよ。あそこをごらん」
 おじさんは通りの向こうを指さした。見ると、少し先のほうにほのかな明かりが見えた。いつの間に。というか、さっきからあったっけ。あんなの。
「……楽しそう」
 だけど、行ったところでお金を持っていない私はなにも買えない。
 私は力なく首を振って、楽しそうな世界から目を逸らすように俯いた。
「……でもいい。私、お金ないから」
 しかし、おじさんは「いいから」と強引に私の手を引いて立たせた。
「えっ……ちょっと、なにするの」
「子どもは遠慮なんてするもんじゃないよ! ほらおいで!」
 クリスマスマーケットの会場は、私もよく知る家の近くの公園だった。
 広場には、外国でよく見るマルシェのように即席のテントが張られ、アンティークランプやら宝石を埋め込んだアクセサリーやら異国情緒漂う絵画やら、さまざまな店が並んでいる。
 いつの間にこんな店ができていたんだろう。
「このクリスマスマーケットは今夜限定のスペシャル開催なのさ! 君、とっても運がいいよ!」
「はぁ……そうですか」
 ぼんやりした返事を返しながら、きらびやかな世界を他人事のように眺めた。
 宝石のように輝くスイーツ。
 できたてパンの香ばしい香り。
 ホットココアのあたたかな湯気。
 どれもこれも、私には関係のないものだ。
 やっぱり、来るんじゃなかった。
 行き交うひとたちは素敵なコートにふわふわなマフラー、あたたかそうな手袋までしていて、見た目から生活水準が違っていやになる。
 戻ろう、と踵を返そうとしたとき、おじさんがいないことに気が付いた。きょろきょろとしていると、少し先の屋台から戻ってくるおじさんの姿があった。いつの間にかどこかへ行っていたらしいおじさんは、手に焼きそばのパックを持っていた。
「お待たせ! いやぁ、なかなか混んでるねぇ。はい、どうぞ」
 おじさんが私に差し出したのは、目玉焼き入りで青のりがたっぷりの焼きそばだった。
「……だから、お金払えないからいらないってば」
 そう断った直後、我慢の限界を迎えたらしいお腹の虫が盛大に空に抜けた。それはもう、騒がしいマーケットのなかでも大きく響くほどに。
 それまで冷え切っていたはずの顔が、めちゃくちゃ熱くなった。
「ホッホッホッ! 素直でいい子だ! ほらほら、君も早くここに座りなさい」
 おじさんはそう言って、私の声も聞かずに空いていたテラス席に座ってパックを開けた。あたたかそうな湯気が空へと昇っていく様子に、ごくりと喉が鳴る。
「早く食べないと冷めてしまうぞ」
「……でも」
 足踏みする私に、おじさんは小さく笑った。
「目玉焼き付き、青のりたっぷりのスペシャル焼きそばじゃぞ?」
 ――そのセリフに、え、と思う。
「スペシャル焼きそばって……」
 驚き、小さく声を漏らした私に、おじさんはにっこりと笑う。
「これが好物なんだろう?」
「……どうしておじさんがそんなこと知ってるの?」
 驚いて私はおじさんを見る。すると、おじさんは目尻を最大限まで下げて朗らかに笑った。
「ワシはサンタクロースだからね。いい子のことはなんでも知ってるんだよ」
 ――いい子。
 その言葉に、わけもなく涙がほろりと零れ落ちた。
「……私、いい子じゃない。素直じゃないし……今までだって、私のところにサンタなんて一回も来たことないもん」
 にぎわうマーケットは、別世界のようにきらめいている。そんななか、私はたったひとりで、こんな薄汚れた格好で、知らないおじさんに食べ物を恵まれている。
 私がちゃんといい子だったら、きっと今頃優しい家族とあたたかい場所で笑い合っていたはずだ。
 せっかくのクリスマスにこんなことになっているのは……。
「私が、悪い子だから」
 すると、それまで黙って私の話を聞いていたおじさんが静かに話し出した。
「……さっきねえ、街でとある女性に出会ったんだよ。その女性は君にとてもよく似た写真を持って、道行くひとに娘を知りませんかってずっと訊ねていたよ」
「え……それって……もしかしてお母さん……?」
 おじさんが頷く。
「ワシも声をかけられてね……詳しくわけを聞いたら娘さんと喧嘩をしてしまったと言うんだ。彼女、この寒いなか、ずっと探し回ってたよ。きっと今も探し回ってるんじゃないかなぁ。それで、娘さん探しを手伝うようと言ったら、お金を渡してきたんだよ」
「お金……?」
「もし見かけたら、娘はお金を持っていないから食べ物を恵んでほしいって。見ず知らずのワシに、さ」
 この焼きそばは、そのお金で買ったものだよ。おじさんはそう言って、優しく微笑んだ。
「ワシに君の好物を教えてくれたそのひとは、だれより君を想ってるひとだ。だからね、このご馳走はぜんぶ、ワシからではなくて、そのひとからのクリスマスプレゼントなんだよ」
 おじさんは、黙り込んだ私に優しい声で続ける。
「家族なんだから、ぶつかることはあって当然だ。家族だからこそ素直になれないこともある。小言ばかりで、おせっかいで、うるさいって思うこともたくさんあるだろう。だけどね……それは、君を愛してるからなんだよ」
「愛してる……?」
 私は呆然と聞き返した。
「そうだよ。愛してるからうるさいんだ。愛してるから、ぶつかるんだ。どうでもいいと思ってたら、喧嘩にすらならないんだよ」
「……でも、お母さん、私の前だといつもイライラしてるよ」
「本音を見せてるってことじゃないのかなあ。お母さんも人間だからね、君に甘えてるんだよ」
「私に……甘えて……? え、そうなの? お母さんなのに甘えるの?」
「家族だからね」
 おじさんはそう言って、にこりと笑った。
「家族……そうなんだ……」
 お母さんは、朝起きてもいたりいなかったりしたけれど、必ず朝食と夕食は用意してくれていた。
 それなのに私は……顔を合わせるたび、なんて言っていた?
 たまには外食がしたいだとか、いつも同じ味でつまらないとか文句を言ったりした。それだけじゃなく、わざと残して食べなかったりもした。
「私……最低だ。お母さん、疲れてるなか、頑張って作ってくれてたのに」
 泣きながら、焼きそばを口に運ぶ。
 この焼きそば、お母さんのものとぜんぜん違う。でも、昔お母さんに連れていってもらったお祭りで食べた味とよく似てる……。
 そうだ、思い出した。小学校に上がる前、屋台で食べたこの焼きそばを気に入った私が、お母さんに家で作ってってせがんだんだ。
 それから、お母さんは焼きそばに必ず目玉焼きと青のりをたっぷり入れてくれるようになった。
「お母さん……」
 途中から、味なんて分からなかった。拭っても拭っても、涙はとめどなくあふれてくる。
「お母さん……」
 ――お母さん。お母さん。
 お母さんに、会いたい……。帰りたい、家に。
「……おじさん、私……お母さんにちゃんと謝りたい……。私、お母さんにすごいひどいこと言った。親ガチャ失敗したとか、お母さんなんて大嫌いとか……。お母さんがずっと頑張ってること、ちゃんと分かってたのに……」
 ぽろぽろ涙を流しながら懺悔する私を、おじさんは朗らかに笑って慰めた。
「ホッホッ。君はまだまだ子どもだ。わがまま放題やって、転んで、後悔して、それでいいんだよ。そうやって子どもは少しづつ大人になっていく。お母さんも、そうやって成長してく君を見るのは嬉しいんじゃないかなぁ」
 唇を引き結ぶ。
「……お母さん、許してくれるかな」
 不安げに呟く私の頭を、おじさんが優しく撫でてくれる。
「さてと。そろそろ、聖夜のベルが鳴るねぇ」
 顔を上げる。見上げた先には、灰色の空。そこから、白い雪が舞い落ちてくる。
 一瞬、世界が静寂に満ちた。
 ――ゴーン、ゴーン、と大きなベルが鳴る。まるで世界中のすべてのいきものをたたえるような音が、聖なる夜に優しく響く。
 静かにベルの音を聞いていると、おじさんがふと視線を流した。意味深な視線の流れに、おじさんの目線の先を辿る。
「まりっ!」
 華やかな喧騒のなかにお母さんの声が聞こえた気がして、私は弾かれたように立ち上がる。
「お母さん……?」
 私はきょろきょろと辺りを見回す。ふと、一点に目が行く。見ると、マーケットの入口のほうから人混みをかき分けて走ってくるお母さんの姿があった。
「お母さん……っ!」
 泣き声のようなか細い声で、私はお母さんを呼ぶ。
 お母さんは眉間に皺を寄せて、私に気がつくなりまっすぐこちらへ向かってきた。
「まり! あんたって子は……!!」
 その声は、確実にいつも私を叱るときの色を含んでいて。その目に、叩かれる、と咄嗟に私は目を瞑った。
 しかし、待てど暮らせど思っていた衝撃が来ることはなく、代わりに優しいぬくもりが私を包んだ。
「もうっ……バカ!!」 
 恐る恐る目を開けると、私は――お母さんに、強く抱き締められていた。
「お母さん……ごめんなさい」
「謝っても許さないから!」
「うん……ずっと、探してくれてたの?」
「当たり前でしょうが! まったくもう、どれだけ心配したと思ってるの! このバカ娘!」
「……うん。ごめんなさい……」
 涙を流しながら、お母さんにすがりつきながら、私は震える声で何度も謝った。
「ひどいこと言ってごめんなさい。心配かけてごめんなさい。ご飯残して、わがままばっかり言って……」
 しゃくり上げて泣く私の背中を、お母さんが優しくさすってくれる。
「……もういいから。まったくこんなに身体冷やしちゃって……ほら、帰るわよ。早くお風呂入ってあたたまりましょ」
 お母さんに手を引かれる。その手を見て、ハッとした。お母さんの手はあかぎれていて、とても痛々しかった。
「……ねえ、お母さん」
 おずおずとお母さんに問いかける。
「私……帰っていいの? あんなひどいこと言ったのに……」
 私の問いかけに、お母さんは驚いたように目を丸くして、すぐに震えた声で言った。
「なにばかなこと言ってるのよ! 当たり前でしょ! 引きずってでも連れ帰りますからね!」
「……うん」
 いつも、お母さんを前にしたら絶対素直になんてなれなかった。
 でも、今は。
 素直にお母さんに甘えたいと思うじぶんがいる。たぶん、おじさんのおかげだ。
 あ、そうだ。すっかりおじさんの存在を忘れていた。あらためてお礼を言おうと、周囲を見る。
「……って、あれ?」
「まり? どうしたの?」
「いや……さっきまでここにサンタのコスプレしたおじさんがいたんだけど……」
 クリスマスマーケットは相変わらず私たちを置き去りにしてにぎわっている。けれど、そのどこにもおじさんの姿は見当たらない。
「おじさん?」と、お母さんが首を傾げる。
「仕事に戻ったんじゃないの?」
「……そうなのかな」
 お礼、言いそびれちゃったなと思いながら私はマーケットの人混みを眺めた。
「まり。行くわよ」
 お母さんに呼ばれ、慌ててお母さんに駆け寄る。となりに並んで、お母さんを見上げた。
「……ねえお母さん、迎えに来てくれてありがとう」
 改めて礼を呟く私に、お母さんが驚いた顔をする。
「……もういいわよ。子どもの世話をするのは、親の務めなんだから。私こそ、今までいろいろ我慢させてごめんね。お母さん、これからもきっと、まりには我慢させちゃうと思う。けど……まりがもっとわがまま言えるように、頑張って強くなるから」
「お母さん……」
 申し訳なさそうな顔をするお母さんを見た瞬間、胸が潰れそうになった。ぶんぶんと首を振って、私はお母さんに抱きつく。
「……私も、強くなる。もうわがまま言わない」
「いいのよ。まりはもっと甘えて。子どもはわがままで、いたずらするいきものなんだから」
「……私、お母さんの子でよかったって思ったよ」
 お母さんが恥ずかしそうに笑った。
「あらあら。どういう心境の変化かしら? 今まで散々文句垂れてたくせに」
「そっ……それはそうだけど! 今はそう思ってること伝えたかったの!」
「はいはい、ありがとね」
 呆れたように笑うお母さんを見ていたら、不安でいっぱいだった私の心はいつの間にかすっかり軽くなっていた。
「夜ご飯、なに食べたい?」
「夜ご飯かぁ……」
 実はさっき、世話焼きのおじさんから好物をもらってしまったのだけれど。と、そこまで思い出してハッとした。
 そういえば、お母さんは私を探しているとき、おじさんに会っているはずだ。それなのに、さっき……。
『おじさん? 仕事に戻ったんじゃないの?』
 まるで、おじさんが仕事中だったと知っているかのような発言。
「……ねえ、お母さん」
 呼ぶと、お母さんが振り向く。
「なに?」
 お母さんの表情を見て、私は首を横に振った。
「……ううん、なんでもない」
 ありがとう、おじさん。
 私は心のなかでおじさんに礼を言って、お母さんに向き直る。
「……ねえお母さん。私、焼きそば食べたい。目玉焼きと、青のりたっぷりのやつ!」
 私のリクエストに、お母さんはくすっと笑った。
「言うと思ったわ」
「それからホットココアも飲みたい。お湯じゃなくて、ミルクで溶かしたやつ」
「はいはい」
 手を繋いで家路を歩いていると、どこからかベルの音が聴こえてきた。クリスマスマーケットの通りは出てもうしばらく経つのに、ほかの場所でもイベントが行われているのだろうか。
 そんなことを思って空を見上げる。
 その、見上げた先の空になにかを見つけた気がして、私は歩みを止めた。
 目を凝らす。
 立ち止まった私に気付いたお母さんが、怪訝そうに振り返る。
「まり、どうしたの?」
「あれ……!」
 空の彼方を指さす。
 藍色の帳を下ろした空に浮かぶまんまるの月の前を、なにかが横切っている。
 立派なツノが生えたいきものに引かれて進む、ソリのような乗り物。
 その乗り物に、見覚えのある人影が見えた。ナイトキャップと立派なあごひげをたくわえた、おじさんによく似たシルエットが……。