「しばらくはこの庵《いおり》があなたの家になる。自由に使ってほしい。また様子を見に来よう」
話をした後に、立ち去ろうとした不比等を、楠緒子は呼び止めた。
「花太夫さま、私はここで何をしたらよいのでしょうか? 今後、どのようにお仕えすればよろしいでしょうか」
「なんでもいい。舞の稽古がしたいなら、私を呼べばいい。庭の手入れで心が休まるのなら、それでも。妻としての役割を今すぐ求めるつもりもないのでそこは安心してほしい」
「わかりました……」
「生活に必要と思われるものはまた別で運ばせよう。さしあたっては……あなたに仕える女中がひとりいるとよいかもしれないな」
「いえ、そんなおそれおおいことは……。落ち着きませんし」
だれかに仕えているほうが、慣れている。その意味で楠緒子が首を振れば、不比等は思案しているようだった。
「……そうか。ならば、私も特に気を付けてここを訪ねることにしよう。女中の件はおいおい決めていこう」
不比等は最後、視線を逸らしながら告げた。
「呼び方だが……不比等でいい。花太夫の名は父にも使うことがあるからな」
「……承知いたしました」
沈黙があった。
「あ、あの……?」
「呼んでみてほしい」
「不比等、さま?」
「うん」
不比等は満足そうに頷く。
今度こそ不比等は庵を出ていった。
楠緒子はひとりで座敷に座った。
――静かだ。
竹林を駆け抜けていく風の音だけがそこにあった。
外にそっと出る。
勇気を出して、石舞台の階に足をかける。自由に使ってもいいと言われたけれども、舞台に上がることを許されてこなかったので、いまだに強い罪悪感がある。
あの舞競べの夜は、例外だった。
――あの時はだれかに助けられていた気がする。
少なくとも、楠緒子に舞ってほしいと願った「だれか」がいたから、楠緒子はここに立てている。
裸足で上がった石舞台は冷たい感触がした。
――この場所を私は知っている?
前世の楠緒子は、この庵を住まいにしていたらしい。この石舞台で舞の稽古を積んでいたのだと。
今の楠緒子に、その感覚はわからない。
ただ、石舞台の上に立つと、落ち着いた。
舞いたい――ふと、そう思った。手足が舞うために動き出す。
右手に扇を持つ――実際にはないため、そう見立てる。
今は袴ではないので、足捌きは小さめに、代わりに繊細に。
首筋は、鶴のような優雅さを思い。
型は意識しない。
竹林の爽やかな青さと、隙間を駆け抜ける風を、自分なりに表現してみる。
――これは、邪魔ね。
髪にさしていた簪《かんざし》を抜き取る。己の髪もまた道具となる。振り乱せば、情念や怒りを示し、風になびかせれば――しなやかな強さにも見えるだろう。
――昨夜見た舞は、こう、かしら。
不比等の舞を思い出しながら動きを再現する。ヤマトタケルの舞。女装していた少年の艶やかさと、敵を屠る残酷さ。
――ぞくぞくした。それぐらい美しかった……。
刃物に見立てた簪を振りかぶったところで動きを止める。
――見よう見まねだから見苦しいだけね。
あの時、不比等が醸し出していた清潔な色気というものが……楠緒子には難しい。男と女では舞い方が変わってくるけれども、不比等のそれは異次元の高難易度だ。
――それでも。
一緒に舞ってみたい。あの人に認められて、舞姫になることができれば、どれほど幸せなことだろうか。
そんな欲が頭をもたげてしまう。慌てて、頭を振る。
ぱちぱちぱち。
手を叩く音が響いたのはその時だった。
石舞台の傍らで、年頃十五歳といった少女が頬を紅潮させ、夢中で拍手をしていたのだ。いつのまに。
近づく気配もわからなかった。
「あなたは……?」
楠緒子が尋ねると、少女は驚いたように肩を震わせ、頭の上とお尻のあたりを確かめるように触ってから、体の前でぎゅっと拳を握る。
「こ、ここで……」
幼子のようにたどたどしい話し方。でも、必死なのが伝わってくる。あぐあぐと口を開いて閉じている少女が言い終えるのを待った。
「こ! ここで! は、はたらか、せて、く、くだ、さいっ!」
――ここで働かせてください?
「……ここで働きたいというのは」
「お、じょ、ちゅう……? お女中を、します!」
「あなたが……?」
少女は、こくんこくんと何度も頷いてみせた。そして楠緒子を指差しながら、
「お、つかえ、しますっ!」
と、言った。
楠緒子は目を細めた。
先ほど不比等から女中を置いてはどうかと提案されたばかりである。
不比等の意向があるとはいえ、楠緒子の立場は物部家では微妙なものだろう。そんな中、自ら志願してくれる者がいるのはありがたい話かもしれない。
――ただ、この子は。
「いっしょ、けんめい、やります! くすおこ、さま、を、おまもり、しますっ!」
「……ありがとう」
楠緒子がお礼をいうだけで、少女はぱあーっと顔を輝かせた。ぴょんぴょんとその場を跳ね回る。両手を上げながら、「やった、やった、やった!」と回る。
その拍子に、頭の上から……ひらりと葉っぱが落ちた。
「あっ!」
少女のかわいらしい声とともに、着物を着た少女の姿は掻き消えて、代わりに楠緒子を見上げて、「しまった……」といった顔で固まったのは、タヌキだった。
ふさふさの毛並み。大きな尻尾。つぶらな瞳。
楠緒子は驚かなかった。気配がすでに人外のものだとわかっていたし、姿が多少違うとはいえ、先日物部家を訪れた際に、楠緒子を化かしつつも懐いた様子を見せた女の子の面影もあった。
ただ、本人《ほんにん》としては、別人のつもりで現れたつもりらしい。楠緒子に正体がばれたとわかると、大慌てで近くの茂みに隠れた。
行かないで。
その時もタヌキはそう伝えてきた。楠緒子へ物部家に居てほしいと訴えかけてきた。
「どうして?」
楠緒子は純粋な疑問に思っていた。
「わたしを舞競べに出るように促したのはあなたでしょう? 物部家から出ようとしたわたしを引き留めようとして、今は、わたしの女中になりたいと言ってきて。……もしかして、わたしは、あなたとどこかで会っているの?」
「あうう……」
タヌキは茂みからそろそろと出てきた。ぷるぷると四肢を震わせながら。そして、落ちていた葉っぱを拾って器用に頭の上に乗せると、あっという間に先ほどと同じ少女の姿になる。
もじもじと伏し目がちな彼女の言葉を根気強く待っていると。
「くすおこ、さまの、まい、がすき、だから……。も、いちど、みられて、しあわせ、に、なれた」
ぽつぽつと話してくれた。
「まえ、たすけて、もらった……。おん、がえし、がしたい。だから、じょちゅうに……なる」
「わたしが、助けた?」
「ずっと、みてた……。くすおこ、さまは、むかしと、かわらない……。すきな、まいをする」
昔。昔とは、いつのことだろう。
「ひゃくねん……。ひゃくねん、まちました。かえってきて、うれしい」
眩暈がした。
不比等も告げていたことだ。
百年。
一族で消された名前。いないことにされた花太夫と舞姫。
タヌキ――おそらく、これもあやかしなのだろう――には嘘をつく理由もない。
――それでは、わたしは本当に……?
楠緒子が忘れてしまった前世が、あるのか。忘れてしまいながらも、こうして戻ってきてしまったのか。
――何のために。
だれが、望んでいたのだろう。前世の楠緒子が?
――でも、わたしはそれを忘れてしまっている……。
楠緒子は事実をどのように受け止めたらいいのかわからなかった。
不比等はひとまず必要となる食材をふろしきに包んで、楠緒子の待つ庵まで戻ってきた。
――ちゃんと待っていてくれるだろうか。
中設楽家から連れ出したものの、まだ現実味は薄い。不比等との「取引」を反故にするような性格ではないが、不安は尽きない。
庵の前まで来て、声のかけ方に迷う。一寸、考えた後に「来たぞ」と当たり障りのない呼びかけをするに留めた。
「どうぞ」
楠緒子の声がすぐに耳に入る。不比等はいそいそと土間から下駄を脱いで上がる。
すると、彼女の方も廊下から姿を現した。
不比等の頬が緩まった。
「おかえりなさいませ……と申し上げたほうがよろしいでしょうか」
「ああ。……そうだな、とてもいい」
楠緒子の問いにも機嫌よく答えた不比等の眼は、彼女の胸元に吸い寄せられた。正確には、彼女が抱えた茶色と黒の「毛玉」に。
「不比等様、お願いがございます。例の女中の件ですが」
「ああ」
不比等は楠緒子の胸で丸まっている「それ」を凝視した。
「この子にやってもらおうと思います。タヌキのあやかしで、名前は『しぐれ』というそうです。この物部家でもあやかしが女中になることは早々ないでしょうが、お許しいただければ、そうしようかと」
タヌキの頭がもぞりと動く。不比等と目が合うと、ぎゃっと悲鳴を上げる。楠緒子の胸でじたばたしはじめる。
不比等は頭を抱えたくなった。
――このタヌキ、懲りてなかったか。
実は、不比等はこのタヌキを懲らしめたことがあった。舞競べの件で、明子を迷わせ、舞台に出られなくしたことがわかったからだ。
たとえ神事に通じる物部家でも、無害なあやかしを問答無用で退治するようなことはしない。いくつかある物部家の広大な土地には、多くのあやかしたちが棲んでいる。
昔は、舞い手の中にもあやかしが混じっていた時代もあったという。
物部家では昨今で当然とされていることも、当然ではない。逆もしかり。
舞姫があやかしの女中を抱えたところで、問題を起こさなければとやかく言う者もいないだろう。
だが、このタヌキはやめたほうがいいのではないか、というのが本音だった。
何せ、「前科持ち」で、化けるのも下手と来ている。女中になるといっても、楠緒子に世話されるだけではないか。
現に、楠緒子に大事そうに抱えられ、甘やかされている様子。不比等を恐れているにも関わらず、楠緒子から離れようとはしていない。
不比等は自らの凶暴性を自覚した。
――このタヌキ……。タヌキのしぐれ煮にしてやろうか。
本心をきれいに隠したまま、不比等は楠緒子に向き直った。
「あなたが望むならいいが……」
と、言いつつも、不比等は隙を見てタヌキと目を合わせると、「こうなったらしっかり務めてもらうからな」と念押しすることは忘れなかった。
話をした後に、立ち去ろうとした不比等を、楠緒子は呼び止めた。
「花太夫さま、私はここで何をしたらよいのでしょうか? 今後、どのようにお仕えすればよろしいでしょうか」
「なんでもいい。舞の稽古がしたいなら、私を呼べばいい。庭の手入れで心が休まるのなら、それでも。妻としての役割を今すぐ求めるつもりもないのでそこは安心してほしい」
「わかりました……」
「生活に必要と思われるものはまた別で運ばせよう。さしあたっては……あなたに仕える女中がひとりいるとよいかもしれないな」
「いえ、そんなおそれおおいことは……。落ち着きませんし」
だれかに仕えているほうが、慣れている。その意味で楠緒子が首を振れば、不比等は思案しているようだった。
「……そうか。ならば、私も特に気を付けてここを訪ねることにしよう。女中の件はおいおい決めていこう」
不比等は最後、視線を逸らしながら告げた。
「呼び方だが……不比等でいい。花太夫の名は父にも使うことがあるからな」
「……承知いたしました」
沈黙があった。
「あ、あの……?」
「呼んでみてほしい」
「不比等、さま?」
「うん」
不比等は満足そうに頷く。
今度こそ不比等は庵を出ていった。
楠緒子はひとりで座敷に座った。
――静かだ。
竹林を駆け抜けていく風の音だけがそこにあった。
外にそっと出る。
勇気を出して、石舞台の階に足をかける。自由に使ってもいいと言われたけれども、舞台に上がることを許されてこなかったので、いまだに強い罪悪感がある。
あの舞競べの夜は、例外だった。
――あの時はだれかに助けられていた気がする。
少なくとも、楠緒子に舞ってほしいと願った「だれか」がいたから、楠緒子はここに立てている。
裸足で上がった石舞台は冷たい感触がした。
――この場所を私は知っている?
前世の楠緒子は、この庵を住まいにしていたらしい。この石舞台で舞の稽古を積んでいたのだと。
今の楠緒子に、その感覚はわからない。
ただ、石舞台の上に立つと、落ち着いた。
舞いたい――ふと、そう思った。手足が舞うために動き出す。
右手に扇を持つ――実際にはないため、そう見立てる。
今は袴ではないので、足捌きは小さめに、代わりに繊細に。
首筋は、鶴のような優雅さを思い。
型は意識しない。
竹林の爽やかな青さと、隙間を駆け抜ける風を、自分なりに表現してみる。
――これは、邪魔ね。
髪にさしていた簪《かんざし》を抜き取る。己の髪もまた道具となる。振り乱せば、情念や怒りを示し、風になびかせれば――しなやかな強さにも見えるだろう。
――昨夜見た舞は、こう、かしら。
不比等の舞を思い出しながら動きを再現する。ヤマトタケルの舞。女装していた少年の艶やかさと、敵を屠る残酷さ。
――ぞくぞくした。それぐらい美しかった……。
刃物に見立てた簪を振りかぶったところで動きを止める。
――見よう見まねだから見苦しいだけね。
あの時、不比等が醸し出していた清潔な色気というものが……楠緒子には難しい。男と女では舞い方が変わってくるけれども、不比等のそれは異次元の高難易度だ。
――それでも。
一緒に舞ってみたい。あの人に認められて、舞姫になることができれば、どれほど幸せなことだろうか。
そんな欲が頭をもたげてしまう。慌てて、頭を振る。
ぱちぱちぱち。
手を叩く音が響いたのはその時だった。
石舞台の傍らで、年頃十五歳といった少女が頬を紅潮させ、夢中で拍手をしていたのだ。いつのまに。
近づく気配もわからなかった。
「あなたは……?」
楠緒子が尋ねると、少女は驚いたように肩を震わせ、頭の上とお尻のあたりを確かめるように触ってから、体の前でぎゅっと拳を握る。
「こ、ここで……」
幼子のようにたどたどしい話し方。でも、必死なのが伝わってくる。あぐあぐと口を開いて閉じている少女が言い終えるのを待った。
「こ! ここで! は、はたらか、せて、く、くだ、さいっ!」
――ここで働かせてください?
「……ここで働きたいというのは」
「お、じょ、ちゅう……? お女中を、します!」
「あなたが……?」
少女は、こくんこくんと何度も頷いてみせた。そして楠緒子を指差しながら、
「お、つかえ、しますっ!」
と、言った。
楠緒子は目を細めた。
先ほど不比等から女中を置いてはどうかと提案されたばかりである。
不比等の意向があるとはいえ、楠緒子の立場は物部家では微妙なものだろう。そんな中、自ら志願してくれる者がいるのはありがたい話かもしれない。
――ただ、この子は。
「いっしょ、けんめい、やります! くすおこ、さま、を、おまもり、しますっ!」
「……ありがとう」
楠緒子がお礼をいうだけで、少女はぱあーっと顔を輝かせた。ぴょんぴょんとその場を跳ね回る。両手を上げながら、「やった、やった、やった!」と回る。
その拍子に、頭の上から……ひらりと葉っぱが落ちた。
「あっ!」
少女のかわいらしい声とともに、着物を着た少女の姿は掻き消えて、代わりに楠緒子を見上げて、「しまった……」といった顔で固まったのは、タヌキだった。
ふさふさの毛並み。大きな尻尾。つぶらな瞳。
楠緒子は驚かなかった。気配がすでに人外のものだとわかっていたし、姿が多少違うとはいえ、先日物部家を訪れた際に、楠緒子を化かしつつも懐いた様子を見せた女の子の面影もあった。
ただ、本人《ほんにん》としては、別人のつもりで現れたつもりらしい。楠緒子に正体がばれたとわかると、大慌てで近くの茂みに隠れた。
行かないで。
その時もタヌキはそう伝えてきた。楠緒子へ物部家に居てほしいと訴えかけてきた。
「どうして?」
楠緒子は純粋な疑問に思っていた。
「わたしを舞競べに出るように促したのはあなたでしょう? 物部家から出ようとしたわたしを引き留めようとして、今は、わたしの女中になりたいと言ってきて。……もしかして、わたしは、あなたとどこかで会っているの?」
「あうう……」
タヌキは茂みからそろそろと出てきた。ぷるぷると四肢を震わせながら。そして、落ちていた葉っぱを拾って器用に頭の上に乗せると、あっという間に先ほどと同じ少女の姿になる。
もじもじと伏し目がちな彼女の言葉を根気強く待っていると。
「くすおこ、さまの、まい、がすき、だから……。も、いちど、みられて、しあわせ、に、なれた」
ぽつぽつと話してくれた。
「まえ、たすけて、もらった……。おん、がえし、がしたい。だから、じょちゅうに……なる」
「わたしが、助けた?」
「ずっと、みてた……。くすおこ、さまは、むかしと、かわらない……。すきな、まいをする」
昔。昔とは、いつのことだろう。
「ひゃくねん……。ひゃくねん、まちました。かえってきて、うれしい」
眩暈がした。
不比等も告げていたことだ。
百年。
一族で消された名前。いないことにされた花太夫と舞姫。
タヌキ――おそらく、これもあやかしなのだろう――には嘘をつく理由もない。
――それでは、わたしは本当に……?
楠緒子が忘れてしまった前世が、あるのか。忘れてしまいながらも、こうして戻ってきてしまったのか。
――何のために。
だれが、望んでいたのだろう。前世の楠緒子が?
――でも、わたしはそれを忘れてしまっている……。
楠緒子は事実をどのように受け止めたらいいのかわからなかった。
不比等はひとまず必要となる食材をふろしきに包んで、楠緒子の待つ庵まで戻ってきた。
――ちゃんと待っていてくれるだろうか。
中設楽家から連れ出したものの、まだ現実味は薄い。不比等との「取引」を反故にするような性格ではないが、不安は尽きない。
庵の前まで来て、声のかけ方に迷う。一寸、考えた後に「来たぞ」と当たり障りのない呼びかけをするに留めた。
「どうぞ」
楠緒子の声がすぐに耳に入る。不比等はいそいそと土間から下駄を脱いで上がる。
すると、彼女の方も廊下から姿を現した。
不比等の頬が緩まった。
「おかえりなさいませ……と申し上げたほうがよろしいでしょうか」
「ああ。……そうだな、とてもいい」
楠緒子の問いにも機嫌よく答えた不比等の眼は、彼女の胸元に吸い寄せられた。正確には、彼女が抱えた茶色と黒の「毛玉」に。
「不比等様、お願いがございます。例の女中の件ですが」
「ああ」
不比等は楠緒子の胸で丸まっている「それ」を凝視した。
「この子にやってもらおうと思います。タヌキのあやかしで、名前は『しぐれ』というそうです。この物部家でもあやかしが女中になることは早々ないでしょうが、お許しいただければ、そうしようかと」
タヌキの頭がもぞりと動く。不比等と目が合うと、ぎゃっと悲鳴を上げる。楠緒子の胸でじたばたしはじめる。
不比等は頭を抱えたくなった。
――このタヌキ、懲りてなかったか。
実は、不比等はこのタヌキを懲らしめたことがあった。舞競べの件で、明子を迷わせ、舞台に出られなくしたことがわかったからだ。
たとえ神事に通じる物部家でも、無害なあやかしを問答無用で退治するようなことはしない。いくつかある物部家の広大な土地には、多くのあやかしたちが棲んでいる。
昔は、舞い手の中にもあやかしが混じっていた時代もあったという。
物部家では昨今で当然とされていることも、当然ではない。逆もしかり。
舞姫があやかしの女中を抱えたところで、問題を起こさなければとやかく言う者もいないだろう。
だが、このタヌキはやめたほうがいいのではないか、というのが本音だった。
何せ、「前科持ち」で、化けるのも下手と来ている。女中になるといっても、楠緒子に世話されるだけではないか。
現に、楠緒子に大事そうに抱えられ、甘やかされている様子。不比等を恐れているにも関わらず、楠緒子から離れようとはしていない。
不比等は自らの凶暴性を自覚した。
――このタヌキ……。タヌキのしぐれ煮にしてやろうか。
本心をきれいに隠したまま、不比等は楠緒子に向き直った。
「あなたが望むならいいが……」
と、言いつつも、不比等は隙を見てタヌキと目を合わせると、「こうなったらしっかり務めてもらうからな」と念押しすることは忘れなかった。



