楠緒子を連れた不比等は、屋敷近くに停められていた車に乗り込んだ。
運転席に熊切が座っていた。彼は一緒に車に乗ってきた楠緒子を見るや、「なぜ彼女が?」と至極当たり前な疑問を口にした。
「とりあえず車を出せ。あとで話す。――行き先は『庵』だ」
庵、と聞いた熊切は一瞬押し黙った。沈黙の中にさまざまな感情が入り混じっていたようだが、やがては何も言わずに車を発進させた。
車内は小刻みに振動していた。初めて自動車に乗る楠緒子は落ち着かない気持ちで背筋を伸ばした。
もちろん、新しいもの好きの中設楽家も車を所有している。だが使用人扱いだった楠緒子の移動方法といえば、もっぱら徒歩だ。先日物部家に行った時でさえ、明子とともに人力車で向かっている。
「どうかしたか?」
隣に座る不比等が楠緒子の様子に気づく。
「いえ、車に慣れないもので……」
「君にも苦手なものがあるのだな」
「苦手では……ありません……ッ」
「わかった。私の腕にでも掴まっておきなさい」
不比等は手を伸ばして、楠緒子の手に己の腕を掴ませた。楠緒子はされるがままになって、目を瞑る。
熊切が運転しながら低い声で問う。
「不比等様、もうそろそろ事情をお話しくださいますか。中設楽家に行って、ご当主にお会いするだけのはずだったでしょう。間に剣舞をすることになったのは予想外でしたが。一体、何があって、彼女がここに?」
衣擦れの音がした。不比等が腕を組んだのだ。
「いろいろあった……が、かいつまんで話すと、彼女を引き取ることになった。私の妻にする」
「なんですって」
熊切の声色が変わった。
「舞姫にされるということですか。しかしどうしてまた急に……。御前がなんとおっしゃるか」
「あの方は私がだれを選ぼうと同じだろう。気に入らないものは気に入らない。それだけだ」
「……本気なのですか」
「この花太夫の決定だぞ。中設楽にも承知させた。だれにも何も言わせないさ。私が求めるのは、強い舞姫だ。彼女ならそうなれる」
楠緒子は黙って、不比等の腕に掴まっていた。腕からかすかに伝わる熱だけを感じていた。
熊切の、諦めたような吐息が車内に響く。
「そうですか。もうお好きになさってください」
「熊切よ、見捨てるなら今のうちだぞ」
熊切は黙り込んだ。
車は朝靄を進んでいく。
物部家の屋敷前に到着した……と思いきや、通り過ぎていく。
「庵には別の門から入るのだ」
「庵、とは」
「あなたがこれから住むところだ」
てっきり本邸の建物に行くと思っていたのだが、そうでないらしい。
車が止まる。目の前には竹林の小道があった。
進んでいくと、こじんまりとした建物が見えた。たしかに庵と呼ぶにふさわしい、平屋の古い家だ。
――ここなら馴染めそう。
掃除などの家事もひとりで行き届くだけの広さで、竹林に囲まれていて、静かな環境だ。
さらに家の裏には屋根こそないが、石造りの舞台があった。
――舞の稽古もできる……?
楠緒子はしげしげと舞台に見入る。
「自由に使いなさい。あなたのほかに使う者がいないのだから」
「え……」
不比等の言葉に耳を疑った。
「こんな立派な石舞台を、私ひとりで使えるのですか……? 稽古のために?」
「ああ。この場所は、あなたのためのものだ。――本当に」
言葉尻に、含みを感じた。
不比等は、時々、楠緒子の奥に別の人物を見ているかのような眼差しをしているのだ。これまでは、気づいていても流していたけれど……。
――この方にお仕えするならば、無視し続けることはできない。あまりにもよくしてもらいすぎている……。
理由を聞いておきたいと思った。
庵の土間から畳敷きの部屋に上がる。台所に居間、客間。外に面する廊下。こじんまりとした作りながら温かみがあった。
「昔から気に入っていたところでね、掃除は常にさせていたんだ。あなたもきっとくつろげるだろう」
その後、楠緒子の返答を待つような間があった。楠緒子は重い口を開く。
「そうですね。よい、ところだと、思います……」
落ち着いた雰囲気でたたずむ小さな家。気に入らないわけがない。
楠緒子は、床の間に置いてある花瓶に目を映した。梔子が一輪挿してあった。――楠緒子の好きな花だ。
そればかりでない。あらゆる調度品が、まるで自分自身がそこへ配置したかのように、しっくりときているのだ。まるでもうひとりの自分があらかじめこの家を好みの形に整えていたようだ。
「好みではなかっただろうか?」
「いえ。私にはもったいないぐらいです。……ただ、わたしの好むものが多すぎて。戸惑ってしまって」
素直に答えれば、不比等の眼がひときわ大きく見開かれた気がした。
「やはり、あなたは――」
不比等は、ひっそりとついてきていた熊切を振り向く。
「熊切。車はもう使わないから戻しておいてくれ。また用があれば呼ぶ」
「承知いたしました」
熊切は頷いて、その場を去った。
不比等は庭に面した座敷で腰を下ろした。楠緒子にも促す。
「こうなった以上、私もあなたを舞姫――私の妻に選んだ理由について話しておこうと思う。あなたからしても、急に現れた私があなたに執着しているものだから、不思議だっただろう」
「それは……」
「さすがにな。わかるよ」
さて、と不比等は居住まいを正した。
「あなたも知っているとおり、物部家は全国の舞い手を統括する舞七家――その筆頭であり、当主は代々《花太夫》を名乗る。物部家の花太夫とは、一番の舞い手の称号だ。さらにその歴史も長く、ゆうに千年を超える。その間も、神々との交渉を重ねてきた一族でもある。だからこそ一族には不可思議なことも起こり、伝えられてきた。たとえば、幼いころ、蛇に呪われてしまった私の髪も、その証拠のようなものだ」
不比等は、白銀の髪を一筋つまんで告げる。
――絹糸みたいにきれいな髪なのに。
ただ、人は奇異なものを嫌うものだとも楠緒子は知っている。
「物部家では何が起こってもおかしくない。私自身、そう思ってきた。でもこれ以上、私に降りかかることがあろうとは、あの舞競べであなたに出会うまでは知らなかった。死霊面をつけながら見事に舞い、伊邪那美を降ろしてみせたあなたは……かつて私の愛した女と同じ顔と名前をしていたよ」
息を呑む。そんなことが……あるのだろうか。
「楠緒子。あなたの名はだれがつけたものだ?」
楠緒子はここで初めて気が付いた。
不比等は、ここまで一度も、彼女の名を呼んでこなかったことに。
「私は……実の母が名付けてくれたものと聞いています。出奔してしまい、どこにいるのかもうわからないのですが」
「なぜ、その名をつけたのか、あなたの母上には聞いてみたいものだな。その人には、魂を視る力でもあったのかもしれない」
そうでなければおかしい、と不比等は続けた。
「実は、私の名はだれがつけたのかわからないときている」
「どういうことでしょうか」
「私の名づけ親を聞いても、だれも知らないんだ。ただ、いつの間にか、みなが『不比等』の名で呼んでいたのだと言われてきた」
ここで不比等は口調を変えた。
「昔、一度だけ『百襲姫《ももそひめ》』様にお会いしたことがある。西の本家の奥深くにいらっしゃる一族最高齢の巫女で、かつては舞姫もされていた方だ。とうに百歳を超えているはずだ。その方にお目通りを願った時――ひどく取り乱された。明らかにおかしかったと子ども心にわかった」
「初めてお会いしたのに、ですか?」
「御簾越しだったので、詳しい様子はわからなかったが、私の顔がよくなかったらしい。以来、私は百襲姫様の御殿が禁足になった」
不比等自身、それが疑問だったらしい。
自らの手で一族の歴史を調べ始めた。すると。
「およそ百年前に、一族から名前を抹消された花太夫と舞姫がいた。物部家では禁忌とされていたから、名前までなかなかたどり着けなかったが、ほかの舞七家にも頼り、どうにか探り出せた名が……『不比等』と『楠緒子』だ」
「花太夫様とわたしの名が……」
信じられない気持ちだが、花太夫も好き好んで嘘を言う理由がない。
受け止めきれないまま、不比等が話を続ける。
「この時は、あなたの存在を知らなかったから、名前の一致は単なる偶然の可能性も捨てきれなかった。だが、あなたの……死霊面が外れた顔を知った時、私の中で、私でない『不比等』の記憶が蘇った。あなたのこともだ」
楠緒子。
不比等は懇願するような目で彼女を見つめていた。
「私の魂は、百年前に生きた花太夫『不比等』のものだろう。そして、同じ名と顔を持つあなたも、かつての舞姫『楠緒子』ではないかと思っている。儀式に失敗して命を落とそうとしていたあなたは言った。――『生まれ変わって一緒になろう』と」
『……きっと。生まれ変わって参りますから。そうしたら今度こそ一緒になりましょう……? 舞の腕もあげたら、晴れて、あなたの、妻に……』
百年前の舞姫はそう言って、息絶えたという。
「同じく『不比等』もまもなく命を落とした。儀式に失敗したことで、ふたりの記録も抹消されることになったのだろう。花太夫には別の者が立ち、一族は続いていった」
――そんなことが。
だが、楠緒子は困惑していた。
百年前の舞姫の生まれ変わりと言われても、ぴんと来るものはないのだ。
不比等は、楠緒子が何かを「思い出さないか」を注視していたが、楠緒子に変化がないのを見ると、ゆっくりと失望の色が広がっていった。
「きっとあなたのほうは……何もおぼえていないのだな」
確認するように問われ、楠緒子は小さく頷き、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いい。こればかりは仕方のないことだ」
前方に座る不比等の気配が動く。
「顔をあげなさい」
視線の先に、不比等の顔があった。
「過去を覚えていないとしても、あなたは私の愛する人だ。今度こそ、あなたを幸せにしたい」
しかし、不比等には憂いの影があった。
「――どんなことが起きようとも。私の舞姫は楠緒子だけだから」
楠緒子の頬に滑るかと思われた指が、触れることなく、畳に落ちた。
運転席に熊切が座っていた。彼は一緒に車に乗ってきた楠緒子を見るや、「なぜ彼女が?」と至極当たり前な疑問を口にした。
「とりあえず車を出せ。あとで話す。――行き先は『庵』だ」
庵、と聞いた熊切は一瞬押し黙った。沈黙の中にさまざまな感情が入り混じっていたようだが、やがては何も言わずに車を発進させた。
車内は小刻みに振動していた。初めて自動車に乗る楠緒子は落ち着かない気持ちで背筋を伸ばした。
もちろん、新しいもの好きの中設楽家も車を所有している。だが使用人扱いだった楠緒子の移動方法といえば、もっぱら徒歩だ。先日物部家に行った時でさえ、明子とともに人力車で向かっている。
「どうかしたか?」
隣に座る不比等が楠緒子の様子に気づく。
「いえ、車に慣れないもので……」
「君にも苦手なものがあるのだな」
「苦手では……ありません……ッ」
「わかった。私の腕にでも掴まっておきなさい」
不比等は手を伸ばして、楠緒子の手に己の腕を掴ませた。楠緒子はされるがままになって、目を瞑る。
熊切が運転しながら低い声で問う。
「不比等様、もうそろそろ事情をお話しくださいますか。中設楽家に行って、ご当主にお会いするだけのはずだったでしょう。間に剣舞をすることになったのは予想外でしたが。一体、何があって、彼女がここに?」
衣擦れの音がした。不比等が腕を組んだのだ。
「いろいろあった……が、かいつまんで話すと、彼女を引き取ることになった。私の妻にする」
「なんですって」
熊切の声色が変わった。
「舞姫にされるということですか。しかしどうしてまた急に……。御前がなんとおっしゃるか」
「あの方は私がだれを選ぼうと同じだろう。気に入らないものは気に入らない。それだけだ」
「……本気なのですか」
「この花太夫の決定だぞ。中設楽にも承知させた。だれにも何も言わせないさ。私が求めるのは、強い舞姫だ。彼女ならそうなれる」
楠緒子は黙って、不比等の腕に掴まっていた。腕からかすかに伝わる熱だけを感じていた。
熊切の、諦めたような吐息が車内に響く。
「そうですか。もうお好きになさってください」
「熊切よ、見捨てるなら今のうちだぞ」
熊切は黙り込んだ。
車は朝靄を進んでいく。
物部家の屋敷前に到着した……と思いきや、通り過ぎていく。
「庵には別の門から入るのだ」
「庵、とは」
「あなたがこれから住むところだ」
てっきり本邸の建物に行くと思っていたのだが、そうでないらしい。
車が止まる。目の前には竹林の小道があった。
進んでいくと、こじんまりとした建物が見えた。たしかに庵と呼ぶにふさわしい、平屋の古い家だ。
――ここなら馴染めそう。
掃除などの家事もひとりで行き届くだけの広さで、竹林に囲まれていて、静かな環境だ。
さらに家の裏には屋根こそないが、石造りの舞台があった。
――舞の稽古もできる……?
楠緒子はしげしげと舞台に見入る。
「自由に使いなさい。あなたのほかに使う者がいないのだから」
「え……」
不比等の言葉に耳を疑った。
「こんな立派な石舞台を、私ひとりで使えるのですか……? 稽古のために?」
「ああ。この場所は、あなたのためのものだ。――本当に」
言葉尻に、含みを感じた。
不比等は、時々、楠緒子の奥に別の人物を見ているかのような眼差しをしているのだ。これまでは、気づいていても流していたけれど……。
――この方にお仕えするならば、無視し続けることはできない。あまりにもよくしてもらいすぎている……。
理由を聞いておきたいと思った。
庵の土間から畳敷きの部屋に上がる。台所に居間、客間。外に面する廊下。こじんまりとした作りながら温かみがあった。
「昔から気に入っていたところでね、掃除は常にさせていたんだ。あなたもきっとくつろげるだろう」
その後、楠緒子の返答を待つような間があった。楠緒子は重い口を開く。
「そうですね。よい、ところだと、思います……」
落ち着いた雰囲気でたたずむ小さな家。気に入らないわけがない。
楠緒子は、床の間に置いてある花瓶に目を映した。梔子が一輪挿してあった。――楠緒子の好きな花だ。
そればかりでない。あらゆる調度品が、まるで自分自身がそこへ配置したかのように、しっくりときているのだ。まるでもうひとりの自分があらかじめこの家を好みの形に整えていたようだ。
「好みではなかっただろうか?」
「いえ。私にはもったいないぐらいです。……ただ、わたしの好むものが多すぎて。戸惑ってしまって」
素直に答えれば、不比等の眼がひときわ大きく見開かれた気がした。
「やはり、あなたは――」
不比等は、ひっそりとついてきていた熊切を振り向く。
「熊切。車はもう使わないから戻しておいてくれ。また用があれば呼ぶ」
「承知いたしました」
熊切は頷いて、その場を去った。
不比等は庭に面した座敷で腰を下ろした。楠緒子にも促す。
「こうなった以上、私もあなたを舞姫――私の妻に選んだ理由について話しておこうと思う。あなたからしても、急に現れた私があなたに執着しているものだから、不思議だっただろう」
「それは……」
「さすがにな。わかるよ」
さて、と不比等は居住まいを正した。
「あなたも知っているとおり、物部家は全国の舞い手を統括する舞七家――その筆頭であり、当主は代々《花太夫》を名乗る。物部家の花太夫とは、一番の舞い手の称号だ。さらにその歴史も長く、ゆうに千年を超える。その間も、神々との交渉を重ねてきた一族でもある。だからこそ一族には不可思議なことも起こり、伝えられてきた。たとえば、幼いころ、蛇に呪われてしまった私の髪も、その証拠のようなものだ」
不比等は、白銀の髪を一筋つまんで告げる。
――絹糸みたいにきれいな髪なのに。
ただ、人は奇異なものを嫌うものだとも楠緒子は知っている。
「物部家では何が起こってもおかしくない。私自身、そう思ってきた。でもこれ以上、私に降りかかることがあろうとは、あの舞競べであなたに出会うまでは知らなかった。死霊面をつけながら見事に舞い、伊邪那美を降ろしてみせたあなたは……かつて私の愛した女と同じ顔と名前をしていたよ」
息を呑む。そんなことが……あるのだろうか。
「楠緒子。あなたの名はだれがつけたものだ?」
楠緒子はここで初めて気が付いた。
不比等は、ここまで一度も、彼女の名を呼んでこなかったことに。
「私は……実の母が名付けてくれたものと聞いています。出奔してしまい、どこにいるのかもうわからないのですが」
「なぜ、その名をつけたのか、あなたの母上には聞いてみたいものだな。その人には、魂を視る力でもあったのかもしれない」
そうでなければおかしい、と不比等は続けた。
「実は、私の名はだれがつけたのかわからないときている」
「どういうことでしょうか」
「私の名づけ親を聞いても、だれも知らないんだ。ただ、いつの間にか、みなが『不比等』の名で呼んでいたのだと言われてきた」
ここで不比等は口調を変えた。
「昔、一度だけ『百襲姫《ももそひめ》』様にお会いしたことがある。西の本家の奥深くにいらっしゃる一族最高齢の巫女で、かつては舞姫もされていた方だ。とうに百歳を超えているはずだ。その方にお目通りを願った時――ひどく取り乱された。明らかにおかしかったと子ども心にわかった」
「初めてお会いしたのに、ですか?」
「御簾越しだったので、詳しい様子はわからなかったが、私の顔がよくなかったらしい。以来、私は百襲姫様の御殿が禁足になった」
不比等自身、それが疑問だったらしい。
自らの手で一族の歴史を調べ始めた。すると。
「およそ百年前に、一族から名前を抹消された花太夫と舞姫がいた。物部家では禁忌とされていたから、名前までなかなかたどり着けなかったが、ほかの舞七家にも頼り、どうにか探り出せた名が……『不比等』と『楠緒子』だ」
「花太夫様とわたしの名が……」
信じられない気持ちだが、花太夫も好き好んで嘘を言う理由がない。
受け止めきれないまま、不比等が話を続ける。
「この時は、あなたの存在を知らなかったから、名前の一致は単なる偶然の可能性も捨てきれなかった。だが、あなたの……死霊面が外れた顔を知った時、私の中で、私でない『不比等』の記憶が蘇った。あなたのこともだ」
楠緒子。
不比等は懇願するような目で彼女を見つめていた。
「私の魂は、百年前に生きた花太夫『不比等』のものだろう。そして、同じ名と顔を持つあなたも、かつての舞姫『楠緒子』ではないかと思っている。儀式に失敗して命を落とそうとしていたあなたは言った。――『生まれ変わって一緒になろう』と」
『……きっと。生まれ変わって参りますから。そうしたら今度こそ一緒になりましょう……? 舞の腕もあげたら、晴れて、あなたの、妻に……』
百年前の舞姫はそう言って、息絶えたという。
「同じく『不比等』もまもなく命を落とした。儀式に失敗したことで、ふたりの記録も抹消されることになったのだろう。花太夫には別の者が立ち、一族は続いていった」
――そんなことが。
だが、楠緒子は困惑していた。
百年前の舞姫の生まれ変わりと言われても、ぴんと来るものはないのだ。
不比等は、楠緒子が何かを「思い出さないか」を注視していたが、楠緒子に変化がないのを見ると、ゆっくりと失望の色が広がっていった。
「きっとあなたのほうは……何もおぼえていないのだな」
確認するように問われ、楠緒子は小さく頷き、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いい。こればかりは仕方のないことだ」
前方に座る不比等の気配が動く。
「顔をあげなさい」
視線の先に、不比等の顔があった。
「過去を覚えていないとしても、あなたは私の愛する人だ。今度こそ、あなたを幸せにしたい」
しかし、不比等には憂いの影があった。
「――どんなことが起きようとも。私の舞姫は楠緒子だけだから」
楠緒子の頬に滑るかと思われた指が、触れることなく、畳に落ちた。



