中設楽が滅びる。何を言っているのだろう。
 楠緒子は信じられないが、不比等にはその場で説明するつもりもないようだった。
 夜半すぎの母屋はひっそりとしている。明子も寝てしまったのだろう。人の気配はない。
 戸を開けた途端に、中の空気が粘りついてくる気がした。

――なんだか、暗い……?

 今まで感じたことのない感覚に戸惑いながらも楠緒子は前に進む。
 かろうじて、廊下の天井に電球がいくつか灯っていた。
 父の書斎に向かう。不比等が熊切に義母の介抱と後始末を指示していたため、あの大男はついてきていなかった。

「なるほど……」

 背後を歩く男の意味深なつぶやきが耳に残る。
 廊下突き当たりにある書斎の扉は、わずかに開いていた。ひときわぎらついた光が漏れ出ている。

「旦那さま、楠緒子です。花太夫さまが旦那様に報告したいことがあると……」

 楠緒子が遠慮がちに扉を引く。
 中の様子を見た瞬間、喉の奥がくっ、と鳴った。
 舶来の赤黒い絨毯の上で男が伏せって倒れている。
 背中が小刻みに震えている。
 着物には見覚えがあった。あれは、父だ。
 だが父の背中はなぜか――黒く視えた。

「……体を起こそう」

 立ち尽くす楠緒子の肩を持って少し移動させた不比等がそう言って、父の傍らに行く。
 父の身体を仰向けにする。楠緒子は気付けば後ずさっていた。
 おそらく父は脂汗をかき、苦しげな表情を浮かべているのだろう。だが、楠緒子には父の顔にもやがかかっているように視えたのだ。特に、口元。もやで元の造形がわからない。

「今はまだそこまで苦しくないだろう。あなたは水を」
「は、はい……!」

 楠緒子は書斎に水差しを置いてあることを思い出し、父の書き物机からコップに水を注いで持ってきた。
 その際、何か小さなものが足に当たった気がした。
 不比等は慣れた手つきで父の上半身を助け起こし、楠緒子から受け取ったコップで水を飲ませた。溢れた水が父の着物の衿に溢れていく。

「ゴボッ!」

 父が大きく咳き込んだ。飲んでいた水を吐き出す。ぼたぼたと絨毯に黒い染みができた。まるで墨汁のように黒かった。
 父の目が開く。自分を助けた不比等と楠緒子を見つけたが、しばらくぼうっとしていた様子だったが、不比等が声をかける。

「中設楽のご当主。私がここにいる意味をわかっているだろうか」
「な、なんのことで……私は何も……」

 父が不比等からとびずさり、怯えた声を出す。
 不比等は囁くようにひとこと告げた。

「呪詛」

 父の目が見開かれた。白髪混じりの髪をわーっと掻きだす。たしかに父の髪には以前から白髪が混じっていたが、あそこまで白さが目立っていただろうか。

「ちがう、ちがう、ちがう……!」
「では、あれはなんでしょうか?」

 不比等が指差したのは、物書き机と父の身体の間。
 絨毯の上に散らばっているものがあった。人の形をした小さな木の板だ。よくわからないが、文字が書いてある。
 先ほど楠緒子が蹴ってしまったものだろう。

「私がこの屋敷に来て感じた厭な気配がありました。一番はあなたが奥方を閉じ込めた蔵。その次に感じた場所が……この書斎です」
「なっ……」
「あまり若造と思って侮らないほうがいい。おおよその検討はついている。……ご当主、あなたはここで呪詛を行なっていましたね。相手はそう……近頃事業拡大していると聞くので、商売敵といったところだ。人形《ひとがた》が散らばっているのを見る限り、呪詛をかけることは常態化していたのだろう。ちがうか?」
「知らない……! なにかの間違いでしょう! そ、そうだ!」

 父の目が楠緒子を見つけ、指差した。

「あの娘がやった! あれは不幸な娘だからな、人を呪う! あれの母も娘を産んでどこぞへ消えたあばずれだからな!」
「……旦那様」

 楠緒子は抗弁しようという気にもならなかった。そんなものはとっくに諦めていた。

「何を言っているんだ」

 不比等は冷たい眼差しで父を睨む。

「その体調異変は……あなたがかけた呪詛が正しく返ってきているからに決まっているのに」
「い、いや、そんなはずは……」
「人を呪えば穴二つ、という。呪詛をしても心得がある者が近くにいれば、呪詛が返されることもある。まさか人を呪っておいて、自分だけ何もないとは思っていたのか。舞を司る七家の血筋だから護られていると? ――そんなわけあるまい。正しい行いをしなければ、神は見放す」

 楠緒子の脳裏には壊された石仏さまが浮かぶ。
 「石仏さま」も去ったのだろう。去る決意をしたから、「壊された」。土地から加護がなくなった。
 楠緒子は石仏さまを視ることはなかったが、見守ってくれていたように思う。でも楠緒子ひとりの献身ではどうにもならないこともある。

「この家で霊的に弱いのは、中設楽の血を引かないあなたの奥方だ。だから、返ってきた呪詛は、あなたの奥方にまず行く。今回は祓ったが、元々呪詛はあなたから生まれ出たモノ――よってあなたもこのように体調を壊すことになる」

 祓ったときに変な感触がしたわけだ、と言いながら不比等は立ち上がって父を見下ろした。
 父は信じられないほどに狼狽えていた。
 人を呪えば穴ふたつ。どうして父がそんな単純なことにも気づかなかったのか、楠緒子にはわからなかった。

「あなたの娘は狐を見たと言ったから、呪詛する時に動物霊でも使役したのだろう。本体も別にいる。動物は祟る上に執念深い。一生、狙われ続けると思ったほうがいい」
「そんな……! それは困る……! 家には陽子もいる、明子もいる! 花太夫、なんとかしてくれませんか」
「ならないな。それどころか、もはや舞七家にも留まれないだろう。呪詛が返ってくる以上、片手間の商売も立ち行かなくなる。中設楽は没落する」

 ああああああぁーっ!
 父はうずくまって絶叫した。壊れた人間が出せる声だった。
 ぱたぱたと軽い足音がやってくる。

「お父様っ?」

 寝巻き姿の明子が入り口で立ち尽くした。

「なに……これ、なに……?」

 父は娘に構っていられるわけもなく、楠緒子に説明できるわけもなく。
 不比等が代わりに答えた。

「奥方に憑いていたモノは祓えたが、あなたの父君は大変な重荷を背負うことになったということだ。……ご当主、この件は他家とも共有させてもらう」
「それだけは、それだけはご勘弁ください」

 父は絨毯に頭を擦り付けている。明子は「なに、なんなの」と震えるばかり。不安そうな顔を見ながら、楠緒子も覚悟を決めた。
 その場で三つ指をつき、不比等へ頭を下げる。

「花太夫さま。わたしからもお願い申し上げます。どうかご慈悲を賜りたく」

 少し顔を上げると、不比等の目が揺らいだ気がした。

「なぜ、あなたが……」
「これまで当主の行状にも気づかなかったことはわたしの罪です。そして、曲がりなりにも中設楽も七家のひとつ……舞い手を抱えて参りました。彼らを路頭に迷わせるわけには参りません。せめて彼らの身のふり方を世話するまでご猶予をいただきたいのです」

 額を絨毯に擦り付けた。
 舞い手たちを当主の罪に巻き込むわけにはいかないという一心だった。
 中設楽は舞い手の庇護者である。庇護を無くした舞い手は寄る辺もなくしてしまう。

「中設楽の罪は、中設楽の者たちが償うべきもの。わたしにできることがあるならばどんなものでも差し出します。ですので、どうか……」
「どんなものでも差し出す、か」

 ふいに楠緒子の顎が持ち上げられた。
 美しい顔が目の前にある。

「それは、私の望みをわかっていて、言っているのか。知っていて、取引しようというのだな……?」

 感情のない声は身震いしそうなほど冷たい。
 楠緒子は、頷いた。良心の呵責を感じながら。
 それでも己の顎に触れる手を取り、自分の頬へ滑らせた。

「望まれるのであればいかようにでもなさってください。ただし舞姫にはふさわしくない身ではございますが……」

 不比等の眉がひそめられる。
 彼はなおも楠緒子が舞姫となることを嫌がっているように見えているのかもしれない。本当はそうではないのだが、楠緒子には言えなかった。

「これより先、花太夫さまにお仕えいたします。どのようなことをご命令されても従いましょう。その代わり、できるだけで構いません、中設楽が少しでも良い方向へ行けるように、ご尽力いただけませんでしょうか?」

 不比等と楠緒子の視線が絡む。……根負けしたのは不比等だった。
 楠緒子の頬に触れた手に一瞬、力がこもった。

「……このような形ではなかったはずだがな」
「……? あの」
「こちらの話だ」

 視線を外した不比等は楠緒子を立たせると、父を見た。

「事が大きいため、一旦処分は保留とさせてもらう。今後のことはまた話しにこよう。……くれぐれも不用意な真似はしないように」

 父は明らかに安堵した顔になった。手をすりながら不比等を拝んでいる。そのさまを見下ろした楠緒子は、

 ――父はこんなに小さな人だっただろうか。

 そんなことを思った。

「この娘は私が連れ帰る。文句はないな?」
「どうぞどうぞ! 何の役に立たない娘ですので、お好きなようになさってください!」
「ご当主、しばらく口をつぐめ。聞くに耐えない」
「あ、あのう……」

 明子が弱々しく口を挟む。手をもじもじさせながら不比等へ上目遣いになる。

「私も物部家へ連れていってくれませんか?」
「理由は?」

 平坦な口調で問われた明子は目をぱちくりとさせた。

「だ、だって……その薄汚れた子より、私のほうが……そのう、かわいいでしょ?」
「いや、そう思わないが」

 不比等は即答し、楠緒子の手を引いた。

「ここは空気が悪い。早く行こう」

 楠緒子は小走りでついていった。
 後ろから、明子が「えっ、えっ、えっ」と混乱をきたしている声が漏れてくる。
 楠緒子は母屋を抜け、庭を横切り……門をくぐった。
 そのころには青紫の空が現れていた。
 清々しい空気。肺に目一杯、朝を吸い込むと、外に出た実感が出てきた。

 ――わたしは、中設楽の家を、出たの……?

 無茶な取引を申し出て、聞き入れられて、結果として家を出ることになった。
 重大な人生の選択をあっという間にしてしまった。
 感慨深い気持ちに浸っていると、道の途中で繋がれていた手が離された。

「あなたという人はいつでも他人のために覚悟を決めるのだな」

 不比等がため息をついていた。

「そういうところは、本当に嫌いだ」

 冷水を浴びせかけられたようなものだった。晴々しさが急速にしぼむ。
 不比等に嫌われてしまった。無理もない。多少なりとも好感を抱いてくれていたのに、それを踏みにじる真似をしたから。
 そうだとしてもやっていくほかない。これは契約なのだ。

「誠心誠意、お仕えいたします」
 
 不比等はそれ以上、何も言わず、ただ朝焼けの空を見上げたのだった。