熊切がたくさんの荷物を抱えて戻った。
 不比等は、舞殿に隣接する稽古場を控え室として借りることとし、夜にかけて剣舞の支度を整えていく。
 舞は、夜に行われるのが通例だ。
 神話では、天照大神《あまてらすのおおみかみ》が弟の素戔嗚尊《すさのおのみこと》の行状に怒り、天岩戸《あめのいわと》に籠った。この時、世界は闇に包まれた。これをアメノウズメが舞い踊り、神々が騒いだところ、興味をひかれた天照大神は岩戸から出た。
 このことから古来より舞は夜に行われることになった。
 慣れた様子で支度を進めていくふたりを稽古場の外から遠目で眺めていた楠緒子だったが、やがて我慢できずに戸口まで近寄った。

「わたしにもなにかお手伝いできることはございますか?」
「ありません」

 熊切という男はぶっきらぼうに告げた。
 彼はわかりやすく楠緒子を邪険にしている。

「熊切。やめろ」

 座って舞のための衣装を広げていた不比等は熊切へ釘を差してから、「ひとつ頼みがある」と楠緒子を見上げた。

「化粧道具を一式持っていないか」
「化粧道具……?」

 楠緒子はいぶかしく思いながらも答えた。

「化粧道具は、持っていません。持つことは許されませんでしたので。奥様や明子さまならお持ちです」

 これを聞いた不比等の顔が曇る。

「ぶしつけなことを聞いてしまったみたいだな。……当然のようにあなたも持っているものと思っていた」
「とんでもございません。慣れておりますので。花太夫様は、化粧道具をご所望なのですね?」
「あぁ、あった方が助かる」
「でしたら奥様のものを持ち出して参ります。今回の舞は奥様のためのものですし、花太夫が必要とされるという理由ならば、奥様も納得してくださると思います」

 中設楽家では数少ない家人で家事を回している。楠緒子も、義母の部屋にある物の位置はおよそ把握していた。

「それでは少々お待ちくださいませ」
 
 楠緒子は小走りで母屋との間を往復し、化粧品一式が入った木箱を不比等へ差し出した。
 箱を覗き込んだ不比等は顔を上げた。

「ありがとう。助かった」

 柔らかな声音に、楠緒子は驚いた。
 中設楽家では何かをしてお礼を言われることがなかったからだ。無言か、八つ当たりの暴言が当たり前で、不比等のような対応があまりにも新鮮だった。

「いえ……」

 ――なんだかふわふわするわ。

 頭も体も軽やかになった心地で、楠緒子は一礼し、その場を離れた。
 不比等が名残惜しげな視線を投げてきたものの、これ以上あの場に留まっていても仕方なかった。
 いつもの仕事をこなし、冷静になりたかったのだ。
 井戸で水汲みをしていると、楠緒子の背後から生えてきた手が、楠緒子が持っていた小ぶりの桶を奪った。その中身が楠緒子の頭上から降り注がれた。
 全身ずぶ濡れになった楠緒子へ、仁王立ちになった明子が言う。

「今夜の舞を特別に見せてもらうって聞いたわ! お母様が今ああだからって、調子に乗らないでっ! 許さないわ、そんなこと!」

 楠緒子は何も言い返さなかった。それが習慣づいていたのもあったし、今回は身に覚えがあったからでもある。
 彼女はただ、水が溢れた桶を元の位置に置き、ふたたび水を汲み始めた。

「ちょっと! 聞いているの、楠緒子!」
「はい」

 楠緒子はまた明子が桶をひっくり返さないうちに返事をした。

「ずるいわ! 私にも許されなかったのに……!」
「花太夫様のお慈悲です」
「不比等様のお優しさにつけこんだの間違いではなくって!? とにかく、私は許さないわ……! お父さまにも言いつけてやるんだからっ!」

 そこまで言われては、楠緒子も言わずにはいられなかった。
 
「ご安心くださいませ。わたしは元々、花太夫さまに近づくには値しない者。明子様もご存じではありませんか……わたしがかつて死んでいたこと(・・・・・・・・・・)を」

 ひい、と明子は小さな悲鳴を上げて後ずさった。
 明子は裏表がなく、周囲に染まりやすい単純な娘だ。
 だからこそたやすく忘れてしまう――明子が目の前にいる異母妹にした仕打ちだって。

「明子様。わたしは舞が好きなのです。明子さまよりずっと……だから今宵ばかりはご寛恕くださいませ。これ以降はいつも通りにお仕えいたしますから」

 明子はぷるぷると唇を震わせたが、何も言わないまま逃げるように駆けていった。
 楠緒子はため息をついた。
 自分が思ったよりも剣舞を観たくて必死になっていたのを自覚したからだ。
 凍えそうなほど寒かったあの日を思い出す。
 一面の雪。奪われていく体温。もう立ち上がれないと思った幼い日。
 理不尽はいつだって楠緒子を抱いて離さない。

 ――舞うことは、生きること。

 石仏の前で舞っている間は辛いことも忘れられた。
 これから観られる花太夫の舞は、きっと楠緒子にとって直に目にできる最初で最後の機会なのだ。ならば、観てみたい。
 舞い手の頂点に立つ「花太夫」の舞がどんなものか。
 その舞は楠緒子の前に広がった寂寥な未来をほのかに照らす灯台となるだろう。
 


 夜の舞殿。かがり火が四方に焚かれていた。
 楠緒子は落ち着かない気持ちで板敷の床の端に座る。辺りを見回してしまうのは、舞殿からの景色に不慣れだったからだ。
 今宵だけ、楠緒子は中設楽の舞殿に上がることを許されたのだ。

『どうせ見物するのなら近くの特等席で観なさい。今代の花太夫がどんな舞い手か、あなたにも知っていてほしい』

 花太夫の舞は、公でそうそう観られるものではない。楠緒子はその魅力に抗えるわけもなく。
 不比等もわかっていて、話を持ちかけてくるのだから始末が悪い。
 楠緒子も威儀を正し、一着きりの外出着を纏っていた。
 まもなく、義母も熊切に担ぎ上げられたまま舞殿に入ってきた。
 義母は身体中を縄で縛られたままだった。
 口元は舌を噛まないように布でさるぐつわをかまされている。乱れた髪型と着物や、獰猛な目つきが、義母の尋常ならざる様子を伝えてくる。

「う、うぅ……!」

 義母は楠緒子を見据えて、もがきながら近づこうとしたが、熊切が手刀で義母の首筋を打ち、気絶させた。

「やはりだめですね。……その場でもっとも弱い者に襲いかかろうとする。飢えた獣だな」
「あ、ありがとうございます……」
「いえ」

 熊切はそっけなく答え、楠緒子から離れたところで腰を下ろした。彼もまた不比等と同じく美しい姿勢をとる。
 彼は懐から龍笛を取り出して吹く。
 彼の前には、鉦《かね》や鼓を広げられている。彼は楽人なのだろう。
 龍笛の旋律は柔らかく、伸びやかだった。見た目には無骨そうな男の指から繊細な音色が生み出されていく。
 楠緒子は目を瞑って耳を傾けていた。

――女舞《おんなまい》で使われそうな音だわ。

 可憐に舞う少女が脳裏に思い浮かぶ。しかし、無垢ではない。色香を纏い、たくみに男を誘惑するような。
 旋律に乗って人が動く気配がした。稽古場の方角を見ると、全身が白の衣装に包まれた「女」が立っていた。
 髪まで白い。ただ白粉の塗られた顔の中で、目尻と口元ばかりが朱に染まっている。
 なんて軽やかな足取りだろう。楠緒子の目には何の屈託もなく生きる「少女」に映る。
 頭から爪先まで別人にしか見えなかった。
 とにもかくにも、「彼女」に見惚れてしまう。あれで、靡かない男などいるのだろうか。
「彼女」はするりと階を音もなく駆け上がり、義母の前でゆるやかな旋回をする。
 気絶していた義母の目は開き、ぼうっと「彼女」を見上げていた。
 にっこり、と「彼女」は微笑み、義母のさるぐつわを外した。ふうっと息を吹きかける。

「ぎゃあっ!」

 それだけのことなのに、義母が叫び声を上げる。
 楠緒子の目には義母の背中から何かが抜け出ようとしているように視えた。
 黒い、四つ足の獣。――狐?
 楠緒子が訝しげに思う間にも、舞い手は背中に隠し持っていた短剣を抜き放ち――義母の胸を刺し貫く。
 義母の目が見開く。
 彼女の背中の黒い獣が、「ぎゃんっ!」と啼き、義母の背中から抜け出ようとした。
 あれを逃したらまずいのではないだろうか。楠緒子はとっさに声を上げていた。

「まだ、獣が背中に……!」

 花太夫は一瞬だけ楠緒子を見るや、すぐさま、背中から浮き出た獣の影をむんずと掴み、短剣で胸を刺し貫く。
 獣の胸から濃い影が激しく吹き出た。まるで血潮のようだった。

 ――あ……。

 花太夫の横顔に、猛々しい――しかしまったく見知らぬ少年の面影が重なる。少年は流れ出る血に喜んでいるようにも見えた。
 花太夫がさっと獣を持ちあげた手を振れば、獣は燃えた紙のようにばらばらになって消えた。
 花太夫は白い光を身に纏い、短剣を手に雄々しく舞った。
 掲げた短剣の鋒《きっさき》のように流れていく視線は鋭い。顔つきまで男のものに変わる。舞い方も変化する。足踏みは力強く、舞は勝利を寿ぐ。
 龍笛も勝利者のために奏でられていた。涼やかだが威厳も漂う。
 かつて、日ノ本を統一するために各地へ遠征した皇子がいたという。彼がはじめに名を成したのは、とある氏族の長を滅ぼした時。
 若い皇子は、相手を欺くため、女装して宴に潜り込んだ。そして、油断したところで、相手を襲い、その胸に剣を突き刺した。後世に伝わる彼の名は、その時に相手から譲られたものだ。
 楠緒子が、花太夫の横顔に視た少年はもしかして。

――日本武尊(ヤマトタケル)
 
 笛の音が静かに止み、花太夫の体から光が消える。
「花太夫」は不比等に戻り、額から汗を滴らせながら大きく息をした。

「――終わったな」
 
 楠緒子は圧倒され、声も出ない。
 世界から音が失ったように思えた。
 いや、違う。自分の鼓動ばかりが音を立てていた。激しく、大きく。

「花太夫。無茶なさったわりに何もなくて、何よりです」
「あぁ。神歌があったほうがなおよかったかもしれないが、加護は無事に得られたよ。ただ……」

 不比等と熊切の会話が遠くから聞こえてきた。
 楠緒子がぼうっとしているうちに、楠緒子の前に不比等が立っていた。

「あっ……」

 楠緒子は慌てて立ち上がる。
 唇に紅をつけた不比等がいやになまめしく思えた。

「奥方から憑いているモノを祓えた。熊切に母屋へ運ばせたが、じきに正気に戻るだろう。だいぶ消耗しているだろうが、養生すれば問題ない」
「そうですか、よかった……」

 不比等はじっと楠緒子の目を覗き込んだ。

「その目は、いろんなモノが視えているようだ。私よりも鮮明に見えているだろう」
「そ、そうでしょうか……」
「そうだ。我々が気配を察するのと違い、あなたは視覚でもしっかり捉えられているらしい。先ほど、あなたが上げた声で、そう確信した」

『まだ、獣が背中に……!』

 確かに楠緒子はそう言った。
 観念して告げる。

「はい。……この目はそういったモノを視ることに長けているようです」
「なるほど。あなたには「アレ」が何に視えた?」
「狐、のように思えましたが……」

 楠緒子は義母に入っていたモノを思い出しながら続ける。

「相応に大きくて、毛並みも感じられるような……でも真っ黒でしたが」

 不比等はこれを聞いて少し考えていたようだったが、楠緒子へ問う。

「今宵の剣舞が終わったことをご当主へ報告に伺おうと思う。案内してもらえるだろうか」
「かしこまりました」
「それと、あらかじめ言っておきたいのだが」

 歩きかけた足が、止まる。
 冷たい夜風がふたりの間を駆けていく。

「あなたはこれからの身の振り方を考えたほうがいい。……中設楽《なかしたら》はいずれ滅びるだろうから」

 不比等はそう予言したのだった。