中設楽家の応接間は洋風になっている。父が数年前に強行したもので、舶来品の家具や調度品が並べられている。
花太夫の供としてやってきた男が、これらを見るや、眉をしかめた。
楠緒子にもその気持ちはわかる。
父は派手好きだ。豪華なものを所狭しと飾り立てたところで、落ち着かない空間となるだけ。
不比等も同じことを思っているかもしれないが、表には出さなかった。
洋風机を間に挟み、中設楽家と花太夫たちが向かい合って腰掛ける。楠緒子は父の後方で控えた。
「花太夫さま。急にこのようなところまでお出ましになられたとは驚きました。どのようなご用件でしょうか」
父はこう切り出しかけた後、はっと何かに気づいた顔になる。
「心当たりがあるのは、我が娘の明子が《舞競《まいくら》べ》に参ったことですが……もしやその件で? 明子が《舞姫》に選ばれたのでは……!」
「え、まさか……! 本当ですの! わたくし、天才だったのですね……! あの《舞姫》になれるだなんて」
「そうとも。明子、おまえは美しい娘だからな!」
親子ふたりは興奮したように話し出すが、楠緒子はうすら寒いものを感じていた。
不比等が喜び合う親子を眺めながら、うっすらと微笑んでいたからだ。
「だ、旦那様。花太夫さまはまだご用件をおっしゃっておりませんし、そう断言するのも早計かと」
「楠緒子は黙っていなさい! 姉妹の慶事も喜べないのか!」
「そうよ、楠緒子! お父様の言うとおりだわ!」
楠緒子も好きで口を挟んでいるわけではなかったが、主人一家にそう言われては黙り込むしかない。
そもそもどさくさに紛れて同席できているだけで幸運だ。追い出されないようにしたほうがいい。
問題は、正面にいるふたりのうち、座り姿さえも見惚れてしまうほどの優美な男にある。彼がこの場で何を話し出すのかわからないことだった。
「《舞姫》の件は、いったん棚上げにせざるを得ない状況にありますが……」
不比等は楠緒子をちらりと一瞥したが、すぐに視線は父の方へ。
「花太夫と舞姫は一対です。比翼連理《ひよくれんり》の間柄だからこそ、神々にもお喜びいただける尊い舞が披露できるもの。それに加え、私は、私の舞姫にずば抜けた舞の技量と品格、芯の強さを求めております」
「ええ、そうなのですわね……!」
「物部家は近いうち、神格が極めて高い神を勧請《かんじょう》する計画があります。命を懸けかねない、難しい儀式となるでしょう」
「まあ、怖い……!」
明子は弾んだ口調で応じている。彼女は自分こそが舞姫の条件に当てはまり、命の危険もないと信じているのだ。
「舞姫は、私の妻となることも意味します。どうせならば、好くことができそうな女性を選びたいもの。――ですので、まだ諦めず、足掻くことにしました」
男の声が応接間で真摯に響く。
まるで自分に言われているようで、楠緒子は落ち着かなかった。期待してはいけない、と自分に言い聞かせる。
彼が楠緒子をこの家から連れ出してくれるなどと、思ってはいけない。
「不比等様は、何をおっしゃっているのかしら?」
「さあ……」
明子の疑問には答えず、不比等は「さて」と口調を切り替えた。
「こちらを訪れて、いささか不審に思ったことがあります。先ほど、土地を守る石仏が壊されているのを見ました。土地の気も急速に淀んでいっているようです。舞を生業に持っている家にしては、無防備すぎる。……何か、あったのでしょうか」
「滅相もない! 普段通りですよ、なあ、明子!」
「そ、そうね……」
父はすぐさま否定してみせたが、明子は明らかに動揺した。
実際のところ、義母は縄で縛られて蔵に入ったままだ。母親が心配なのだ。
「お父様……」
「明子、そうもわけもなく不安そうにするものではない。花太夫様に余計なご心配をおかけしてはいけないよ」
父に言いくるめられた明子は素直に頷こうとしたが。
――ここしかない。
楠緒子はすかさず口を挟んだ。
「明子様、ご気分が優れないのでは? そのご様子であれば、奥様も心配なさいます。さ、こちらへ……」
義母のことをほのめかし、明子の手をそっと取れば。
楠緒子の思惑通りに。
パァン!!
今日、二度目にもなる平手打ちが楠緒子の頬へ飛ぶ。
眼前で目撃してしまった客人がふたりとも息を詰めた。
不比等は、衝撃を受けたかもしれない。自分が一度でも求婚した娘が無体を働かれていると。
――けれどこれはわたしが望んだこと。
頬を張られただけで済んだだけましだろう。
案の定、明子は激高した。我を忘れてまくしたてた。
「こんな状況でよくも、お母さまのことを持ち出せたわねっ! いつまでも蔵に閉じ込めておくのがかわいそうなのに! 楠緒子のせいで、おかしなことになっちゃったのに! この、恥知らずっ!」
「明子! やめなさい!」
「楠緒子! 返してよ! お母さまを返してよっ! あんなの、お母さまじゃないッ」
なおも楠緒子の衿《えり》を掴んでまくしたてる明子の指を掴み、冷静な手つきで剥がす者がいた。
不比等だった。
相手に気づいた明子は動きを止めておとなしくなる。
「ご当主」
立っている不比等に見下ろされた形となった父は、その言葉で凍り付いた。
「私が花太夫となる前後は物部家がごたついていましたので、舞の家を束ねる頭領筋として目が行き届かない部分もあったことでしょう。……何があったのか、お話ししていただけますね」
蛇に睨まれた蛙のようになった父は――やがて力尽きたように頭を抱えたのだった。
父の口がかなり重く、説明らしい説明ができなかったため、代わりに楠緒子が義母の件を話した。
買い物に出かけた義母が、様子がおかしくなった。楠緒子にも暴力や暴言を吐いた。尋常ではなかった。
暴れてしまうのを見るに見かね、今は縄で縛って蔵に閉じ込めている。
石仏さまは、義母が帰宅した時に壊したのだろう。
「いつもそちらの奥方はおひとりで買い物に?」
「普段ならほかの女中が御伴しているのですが、昨日からその者は病で里下がりをしています。本日は、百貨店に御用があったと聞いておりましたので、もしかしたらその道中に」
「何かがあった、と」
不比等の言葉に楠緒子が頷いた。
「不比等様、どうか! どうか、お母さまを助けてくださいませ……!」
明子は不比等の膝にすがりつきながらさめざめと泣いた。
不比等は「失礼」と一言断りを入れつつ、明子の体をどかして立ち上がる。楠緒子を見た。
「では、奥方様のご様子を見せていただいても?」
「それは……」
父は狼狽えたが、またもや不比等たちの眼光に負けて、蔵へ案内することとなった。
一同は母屋を出てから、庭を横切り、蔵に向かう。
明子は怯えてついてこなかった。
先導する父、不比等とそのお付きの後ろを楠緒子はついていく。
近くまで行けば、義母の呻きが風に乗ってやってきた。
父は南京錠を取り出して扉を開けた。うめき声が大きくなる。楠緒子の背筋に悪寒が走る。
「申し訳ありませんが、これ以上はどうにも」
「承知した。行くぞ、熊切」
父は中に入るのを拒んだため、二人で蔵に入った。
すぐに出てくる。
不比等は手帳と万年筆を取り出し、その場で器用に何かを書きつけると、熊切と呼ばれた男に手渡した。
「すまないが、必要なものはこのとおりだ。取りに行ってくれ。急ぎだ。あまり人に見られないように」
「承知しました」
命じられた男は足早にその場を後にした。
不比等は父に向き直る。そして真意を探るような目で。
「ご当主にひとつ問いたい」
「な、なんでしょうか……」
「なにか、私に話しておくべきことはないだろうか」
「はっ……? いえいえ! なにもございません!」
父は慌てて否定した。
「ところで、花太夫様はこれから何をなさるのでしょうか」
「奥方に憑いているモノを祓う。……今宵、剣舞《けんまい》を行おう。供にはそのための道具を取りにいってもらっている」
「さ、左様ですか……」
話している父の額からつうっと汗が流れ落ちる。
なぜ父はそこまで焦っているのか、楠緒子にはわからなかった。
「だがここは慣れない場所です。舞殿で舞うにしろ、どこに何があるのか、舞う前に把握しておきたい。案内を頼めるだろうか……あなたに」
不比等は楠緒子にそう告げる。
楠緒子は無意識に後ろに一歩下がっていた。
「ですが、わたしのような者では……」
「楠緒子、やりなさい。血が濁っているとはいえ、おまえも中設楽を名乗る人間だ。粗相のないようにしなさい」
父は楠緒子の背をぐい、と不比等の方へ押し出した。
「わしはこれで失礼いたします。残った仕事がありますので。何かあれば、この楠緒子にお申し出ください。よく動きますゆえ」
父が肩をいからせながら母屋に戻っていく。
楠緒子は目を伏せて不比等に向かい合った。
「……屋敷をご案内いたします」
しばらく、二人分の足音だけが響いた。
楠緒子は極めて事務的に屋敷の中を案内した。
母屋と土蔵はすでに行っているので、他の建物を巡っていく。
「ここが中設楽の舞殿《まいどの》か」
「はい。稽古場と隣接しています。舞殿には壁がありませんので、寒い時期は稽古場で舞の稽古を」
舞殿に上がる階《きざはし》を登った不比等は、他家の舞殿が珍しいのか、辺りを見回した。
楠緒子がその場で待っていると「あなたは舞殿へ上がらないのか」と尋ねてきた。彼から不自然に離れているように見えていたのだろう。
「わたしは舞殿や稽古場に上がることを許されておりませんので」
楠緒子の答えに、不比等は眉根を寄せたが、何も言わなかった。代わりにやや足音を立てながら階を下りてきた。
「あなたの舞はだれから習った? 舞の型は中設楽家の面影があったが、別のものも入っているように見える。あの舞競べで死霊面をつけたのはなぜだ?」
――なぜ今さらそのことを?
疑問には思うが、楠緒子は素直に答えた。
「わたしの舞はだれかから習い覚えたものではございません。ただ、ひたすらにここで舞う舞い手の方々の動きを盗み見て、真似をしていただけです」
そうするうちに、体の動かし方でもこうしたほうがいい、というのが自ずとわかってくるのだ。そこからは我流となる。――こちらのほうがより美しく、神々も気に入ってくださる、と。
「死霊面のことはよくわかりません。用意された面を身につけただけですので」
顔を隠せたのはちょうどよかった。自分でもしっくり来たのだ。
陰鬱な死者の顔を模した死霊面……それはたしかに楠緒子にはぴったりと合ったのだ。
「もう、舞うつもりはないか」
「場が、ございませんから」
「用意する、と私が言ったら?」
「……どうしてそこまでおっしゃるのですか」
「いけないか」
彼は凪いだ目で楠緒子を見下ろしていた。
「私が、また観たいと思った舞だからだ。あれが、生涯に一度だけしか見られないことに、耐えられない」
楠緒子は不比等から視線を逸らした。心もとない気持ちを持て余しながら、言葉を選ぶ。
「わたしにとって舞は……生きること。ずっと、稽古は石仏さまに見ていただいていました。だれにも見つからないよう、夜に屋敷から抜け出して。そうしてでもなお欲したのは、わたしの執着でしょう……本当は望んではならないのに」
「なぜそのように諦める? あなたは中設楽家の血を引き、舞の才もある。舞姫になる資格はある。何が、あなたをそうさせる?」
楠緒子は答えられなかった。
不比等は根気強く彼女の返答を待っていたが、やがて「わかった」と続けた。
「今宵、ここの奥方に憑くモノを祓うため、剣舞を執り行う。物部家での技法を間近で見られる良い機会となる。……あなたが望むなら、お父上に同席できるよう取り計らうが、どうしたい」
「どうしたい、とは……?」
「あなたに決めてほしい。物部家の秘事のひとつを眼の前で体感するか、それとも知らないまま、昨日までと同じ日常を続け、目を背けるか。――選びなさい」
楠緒子は己の唇がおののくのを感じた。
この唇ひとつで重い選択をしなければならない。これはきっと、決定的に何かが変わってしまう。ひとつ決めれば、ふたつ、ふたつ決めれば三つ。坂を石ころが転がり落ちるように、傾いてしまう。そんな予感がした。
楠緒子の胸は先ほどからどくどくと高鳴っていた。彼が剣舞を執り行うと父に話したその時から。
――なんてずるい人。
花太夫という立場なら無理を言うことができるのに、楠緒子の気持ちを聞き、決めさせる。そうすれば、楠緒子は自分の決断から逃げられなくなるからだ。
ただそうだとしても……。
「花太夫さま」
その声は自分のものではないように響いた。
泣きたい気持ちで、呟く。
「……剣舞の場に、わたしもお連れくださいませ。花太夫さまの舞を、わたしも観たいのです」
目はからりと乾いている。
不比等はこの日初めて、年相応に顔を緩めた。
「やっと素直になったじゃないか。この強情っぱりめ」
笑みを向けられた楠緒子はただ無言で唇を尖らせたのだった。
花太夫の供としてやってきた男が、これらを見るや、眉をしかめた。
楠緒子にもその気持ちはわかる。
父は派手好きだ。豪華なものを所狭しと飾り立てたところで、落ち着かない空間となるだけ。
不比等も同じことを思っているかもしれないが、表には出さなかった。
洋風机を間に挟み、中設楽家と花太夫たちが向かい合って腰掛ける。楠緒子は父の後方で控えた。
「花太夫さま。急にこのようなところまでお出ましになられたとは驚きました。どのようなご用件でしょうか」
父はこう切り出しかけた後、はっと何かに気づいた顔になる。
「心当たりがあるのは、我が娘の明子が《舞競《まいくら》べ》に参ったことですが……もしやその件で? 明子が《舞姫》に選ばれたのでは……!」
「え、まさか……! 本当ですの! わたくし、天才だったのですね……! あの《舞姫》になれるだなんて」
「そうとも。明子、おまえは美しい娘だからな!」
親子ふたりは興奮したように話し出すが、楠緒子はうすら寒いものを感じていた。
不比等が喜び合う親子を眺めながら、うっすらと微笑んでいたからだ。
「だ、旦那様。花太夫さまはまだご用件をおっしゃっておりませんし、そう断言するのも早計かと」
「楠緒子は黙っていなさい! 姉妹の慶事も喜べないのか!」
「そうよ、楠緒子! お父様の言うとおりだわ!」
楠緒子も好きで口を挟んでいるわけではなかったが、主人一家にそう言われては黙り込むしかない。
そもそもどさくさに紛れて同席できているだけで幸運だ。追い出されないようにしたほうがいい。
問題は、正面にいるふたりのうち、座り姿さえも見惚れてしまうほどの優美な男にある。彼がこの場で何を話し出すのかわからないことだった。
「《舞姫》の件は、いったん棚上げにせざるを得ない状況にありますが……」
不比等は楠緒子をちらりと一瞥したが、すぐに視線は父の方へ。
「花太夫と舞姫は一対です。比翼連理《ひよくれんり》の間柄だからこそ、神々にもお喜びいただける尊い舞が披露できるもの。それに加え、私は、私の舞姫にずば抜けた舞の技量と品格、芯の強さを求めております」
「ええ、そうなのですわね……!」
「物部家は近いうち、神格が極めて高い神を勧請《かんじょう》する計画があります。命を懸けかねない、難しい儀式となるでしょう」
「まあ、怖い……!」
明子は弾んだ口調で応じている。彼女は自分こそが舞姫の条件に当てはまり、命の危険もないと信じているのだ。
「舞姫は、私の妻となることも意味します。どうせならば、好くことができそうな女性を選びたいもの。――ですので、まだ諦めず、足掻くことにしました」
男の声が応接間で真摯に響く。
まるで自分に言われているようで、楠緒子は落ち着かなかった。期待してはいけない、と自分に言い聞かせる。
彼が楠緒子をこの家から連れ出してくれるなどと、思ってはいけない。
「不比等様は、何をおっしゃっているのかしら?」
「さあ……」
明子の疑問には答えず、不比等は「さて」と口調を切り替えた。
「こちらを訪れて、いささか不審に思ったことがあります。先ほど、土地を守る石仏が壊されているのを見ました。土地の気も急速に淀んでいっているようです。舞を生業に持っている家にしては、無防備すぎる。……何か、あったのでしょうか」
「滅相もない! 普段通りですよ、なあ、明子!」
「そ、そうね……」
父はすぐさま否定してみせたが、明子は明らかに動揺した。
実際のところ、義母は縄で縛られて蔵に入ったままだ。母親が心配なのだ。
「お父様……」
「明子、そうもわけもなく不安そうにするものではない。花太夫様に余計なご心配をおかけしてはいけないよ」
父に言いくるめられた明子は素直に頷こうとしたが。
――ここしかない。
楠緒子はすかさず口を挟んだ。
「明子様、ご気分が優れないのでは? そのご様子であれば、奥様も心配なさいます。さ、こちらへ……」
義母のことをほのめかし、明子の手をそっと取れば。
楠緒子の思惑通りに。
パァン!!
今日、二度目にもなる平手打ちが楠緒子の頬へ飛ぶ。
眼前で目撃してしまった客人がふたりとも息を詰めた。
不比等は、衝撃を受けたかもしれない。自分が一度でも求婚した娘が無体を働かれていると。
――けれどこれはわたしが望んだこと。
頬を張られただけで済んだだけましだろう。
案の定、明子は激高した。我を忘れてまくしたてた。
「こんな状況でよくも、お母さまのことを持ち出せたわねっ! いつまでも蔵に閉じ込めておくのがかわいそうなのに! 楠緒子のせいで、おかしなことになっちゃったのに! この、恥知らずっ!」
「明子! やめなさい!」
「楠緒子! 返してよ! お母さまを返してよっ! あんなの、お母さまじゃないッ」
なおも楠緒子の衿《えり》を掴んでまくしたてる明子の指を掴み、冷静な手つきで剥がす者がいた。
不比等だった。
相手に気づいた明子は動きを止めておとなしくなる。
「ご当主」
立っている不比等に見下ろされた形となった父は、その言葉で凍り付いた。
「私が花太夫となる前後は物部家がごたついていましたので、舞の家を束ねる頭領筋として目が行き届かない部分もあったことでしょう。……何があったのか、お話ししていただけますね」
蛇に睨まれた蛙のようになった父は――やがて力尽きたように頭を抱えたのだった。
父の口がかなり重く、説明らしい説明ができなかったため、代わりに楠緒子が義母の件を話した。
買い物に出かけた義母が、様子がおかしくなった。楠緒子にも暴力や暴言を吐いた。尋常ではなかった。
暴れてしまうのを見るに見かね、今は縄で縛って蔵に閉じ込めている。
石仏さまは、義母が帰宅した時に壊したのだろう。
「いつもそちらの奥方はおひとりで買い物に?」
「普段ならほかの女中が御伴しているのですが、昨日からその者は病で里下がりをしています。本日は、百貨店に御用があったと聞いておりましたので、もしかしたらその道中に」
「何かがあった、と」
不比等の言葉に楠緒子が頷いた。
「不比等様、どうか! どうか、お母さまを助けてくださいませ……!」
明子は不比等の膝にすがりつきながらさめざめと泣いた。
不比等は「失礼」と一言断りを入れつつ、明子の体をどかして立ち上がる。楠緒子を見た。
「では、奥方様のご様子を見せていただいても?」
「それは……」
父は狼狽えたが、またもや不比等たちの眼光に負けて、蔵へ案内することとなった。
一同は母屋を出てから、庭を横切り、蔵に向かう。
明子は怯えてついてこなかった。
先導する父、不比等とそのお付きの後ろを楠緒子はついていく。
近くまで行けば、義母の呻きが風に乗ってやってきた。
父は南京錠を取り出して扉を開けた。うめき声が大きくなる。楠緒子の背筋に悪寒が走る。
「申し訳ありませんが、これ以上はどうにも」
「承知した。行くぞ、熊切」
父は中に入るのを拒んだため、二人で蔵に入った。
すぐに出てくる。
不比等は手帳と万年筆を取り出し、その場で器用に何かを書きつけると、熊切と呼ばれた男に手渡した。
「すまないが、必要なものはこのとおりだ。取りに行ってくれ。急ぎだ。あまり人に見られないように」
「承知しました」
命じられた男は足早にその場を後にした。
不比等は父に向き直る。そして真意を探るような目で。
「ご当主にひとつ問いたい」
「な、なんでしょうか……」
「なにか、私に話しておくべきことはないだろうか」
「はっ……? いえいえ! なにもございません!」
父は慌てて否定した。
「ところで、花太夫様はこれから何をなさるのでしょうか」
「奥方に憑いているモノを祓う。……今宵、剣舞《けんまい》を行おう。供にはそのための道具を取りにいってもらっている」
「さ、左様ですか……」
話している父の額からつうっと汗が流れ落ちる。
なぜ父はそこまで焦っているのか、楠緒子にはわからなかった。
「だがここは慣れない場所です。舞殿で舞うにしろ、どこに何があるのか、舞う前に把握しておきたい。案内を頼めるだろうか……あなたに」
不比等は楠緒子にそう告げる。
楠緒子は無意識に後ろに一歩下がっていた。
「ですが、わたしのような者では……」
「楠緒子、やりなさい。血が濁っているとはいえ、おまえも中設楽を名乗る人間だ。粗相のないようにしなさい」
父は楠緒子の背をぐい、と不比等の方へ押し出した。
「わしはこれで失礼いたします。残った仕事がありますので。何かあれば、この楠緒子にお申し出ください。よく動きますゆえ」
父が肩をいからせながら母屋に戻っていく。
楠緒子は目を伏せて不比等に向かい合った。
「……屋敷をご案内いたします」
しばらく、二人分の足音だけが響いた。
楠緒子は極めて事務的に屋敷の中を案内した。
母屋と土蔵はすでに行っているので、他の建物を巡っていく。
「ここが中設楽の舞殿《まいどの》か」
「はい。稽古場と隣接しています。舞殿には壁がありませんので、寒い時期は稽古場で舞の稽古を」
舞殿に上がる階《きざはし》を登った不比等は、他家の舞殿が珍しいのか、辺りを見回した。
楠緒子がその場で待っていると「あなたは舞殿へ上がらないのか」と尋ねてきた。彼から不自然に離れているように見えていたのだろう。
「わたしは舞殿や稽古場に上がることを許されておりませんので」
楠緒子の答えに、不比等は眉根を寄せたが、何も言わなかった。代わりにやや足音を立てながら階を下りてきた。
「あなたの舞はだれから習った? 舞の型は中設楽家の面影があったが、別のものも入っているように見える。あの舞競べで死霊面をつけたのはなぜだ?」
――なぜ今さらそのことを?
疑問には思うが、楠緒子は素直に答えた。
「わたしの舞はだれかから習い覚えたものではございません。ただ、ひたすらにここで舞う舞い手の方々の動きを盗み見て、真似をしていただけです」
そうするうちに、体の動かし方でもこうしたほうがいい、というのが自ずとわかってくるのだ。そこからは我流となる。――こちらのほうがより美しく、神々も気に入ってくださる、と。
「死霊面のことはよくわかりません。用意された面を身につけただけですので」
顔を隠せたのはちょうどよかった。自分でもしっくり来たのだ。
陰鬱な死者の顔を模した死霊面……それはたしかに楠緒子にはぴったりと合ったのだ。
「もう、舞うつもりはないか」
「場が、ございませんから」
「用意する、と私が言ったら?」
「……どうしてそこまでおっしゃるのですか」
「いけないか」
彼は凪いだ目で楠緒子を見下ろしていた。
「私が、また観たいと思った舞だからだ。あれが、生涯に一度だけしか見られないことに、耐えられない」
楠緒子は不比等から視線を逸らした。心もとない気持ちを持て余しながら、言葉を選ぶ。
「わたしにとって舞は……生きること。ずっと、稽古は石仏さまに見ていただいていました。だれにも見つからないよう、夜に屋敷から抜け出して。そうしてでもなお欲したのは、わたしの執着でしょう……本当は望んではならないのに」
「なぜそのように諦める? あなたは中設楽家の血を引き、舞の才もある。舞姫になる資格はある。何が、あなたをそうさせる?」
楠緒子は答えられなかった。
不比等は根気強く彼女の返答を待っていたが、やがて「わかった」と続けた。
「今宵、ここの奥方に憑くモノを祓うため、剣舞を執り行う。物部家での技法を間近で見られる良い機会となる。……あなたが望むなら、お父上に同席できるよう取り計らうが、どうしたい」
「どうしたい、とは……?」
「あなたに決めてほしい。物部家の秘事のひとつを眼の前で体感するか、それとも知らないまま、昨日までと同じ日常を続け、目を背けるか。――選びなさい」
楠緒子は己の唇がおののくのを感じた。
この唇ひとつで重い選択をしなければならない。これはきっと、決定的に何かが変わってしまう。ひとつ決めれば、ふたつ、ふたつ決めれば三つ。坂を石ころが転がり落ちるように、傾いてしまう。そんな予感がした。
楠緒子の胸は先ほどからどくどくと高鳴っていた。彼が剣舞を執り行うと父に話したその時から。
――なんてずるい人。
花太夫という立場なら無理を言うことができるのに、楠緒子の気持ちを聞き、決めさせる。そうすれば、楠緒子は自分の決断から逃げられなくなるからだ。
ただそうだとしても……。
「花太夫さま」
その声は自分のものではないように響いた。
泣きたい気持ちで、呟く。
「……剣舞の場に、わたしもお連れくださいませ。花太夫さまの舞を、わたしも観たいのです」
目はからりと乾いている。
不比等はこの日初めて、年相応に顔を緩めた。
「やっと素直になったじゃないか。この強情っぱりめ」
笑みを向けられた楠緒子はただ無言で唇を尖らせたのだった。



