白昼の玄関先で正気を失った義母。
 その場には、義母を取り押さえた実父のほかに、楠緒子と明子もいた。
 楠緒子が帰ってきた「奥様」を出迎えたところ、何の前触れもなく平手打ちをした。
 近くにいた実父が騒ぎの気配に気づき、暴れる義母を押さえつけたところで、散歩に出ようとしていた明子もやってきたのだ。

「お母さま! お母さま! どうしましたの、しっかりなさってっ!」
「近づくな、明子! お母さまは今、正気ではない!」

 実父も珍しく声を荒げて制す。
 やがて明子はすすり泣きはじめた。

「お母さま! お母さま……! うう……っ!」

 足元に転ぶ石を拾い上げながら、楠緒子は呆然としていた。

――何が起こっているの。

 義母は歯をむき出しにし、カチカチと嚙み合わせていた。目はまっすく楠緒子を向いている。
 おまえなぞ、食ってやる。
 そう言わんばかりだ。
 義母には何かがとりついていた。義母の後ろに黒い影がいたから間違いない。

「……旦那様。人を呼んで参ります」

 楠緒子が立ち上がりながらそう言ったものの、父は「だめだ……!」と鋭い口調で止めた。

「我が家の恥をさらすわけにはいかぬ……! な、縄だ、縄を持ってきなさい」
「……承知いたしました」
「早くしろ!」

 そう言われ、楠緒子は急いで納屋から縄を持って戻った。
 その間も義母を押さえていた父の顔は真っ赤に膨れ上がっていた。

「は、早く巻きなさい……!」

 楠緒子は手早く義母を縄でぐるぐると巻き、手足の自由を奪った。口元は舌をかまぬように手ぬぐいでさるぐつわを噛ませる。
 父は信頼できる男の使用人を二人だけ呼び、義母を蔵に運ばせた。
 その間も、明子は散々泣いて、母親にすがりついていた。

「明子様、危ないです。離れてください」
「なによ! 冷静ぶっちゃって! どうせ、いい気味だと思っているんでしょ!」
「いいえ」
「お母さまがああなったのは、楠緒子のせいなんじゃないの!」
「……違います」

 否定に微妙なためらいがあったのは義母が放った言葉に引っ掛かりを感じたからだ。

『おまえに舞姫なぞ務まるわけがない。やめとけ、()()死んどけ』

 不比等から舞姫の打診をされたことは、どこまで広まっているのだろうか。
 今日、義母は百貨店へ買い物に行っていたはずだが、どこかで耳にしたのか。
 そして、何に憑りつかれ、連れ帰ってきてしまったのか。

「奥様は……おそらく悪いモノが入り込んでいらっしゃいます」
「気味の悪いことは言わないで! お母さまだって舞い手なのよ、霊力の高い人間には憑りつかないと聞いたわ、だから楠緒子が何かしたんでしょ、お母さまを恨んでいるでしょうからねッ!」
「恨んでなどいません。……それに霊力の高い人間はそれほど悪いモノには魅力的にも映るもので」
「小難しいことは聞き飽きたわ……! もう! 手を放してよッ!」

 明子を止めるために伸ばした手が振り払われた。
 胸のうちをさっと冷たい風が通り過ぎていく。

――わたしの言葉は届かない。わかっていたはず。

 楠緒子は身を翻した。
 手の中にある石の欠片を意識する。
 石仏さまが無事か、確かめなければ。



 楠緒子は中設楽家の屋敷を外側から回った。
 長い石塀の中で、北東の一か所だけ凹んだ部分に、楠緒子がいつも世話していた石仏があったのだが……。

「そんな……」

 今日の出来事の中で一番衝撃を受けたかもしれない。

――石仏さま、おはようございます。今日は天気がよいようで、洗濯物もしっかり乾きそうです。
――今日は使用人たちに饅頭がふるまわれました。石仏さまにもお分けいたします。今日も平穏無事でありますように。
――石仏さま、今宵もわたしの舞をご覧ください。少しでもお慰めになりますように。

 慈愛の表情で楠緒子を見守っていてくれていた石仏さまの頭が、なくなっていた。
 傍らには金づちが無造作に置かれ、頭だったらしい欠片が散乱していた。
 どうしたらよいかわからず、楠緒子は両ひざをつき、震える両手を合わせた。
 石仏さまも、金づちは痛かっただろう。
 屋敷の外から中設楽家を見守っていただけの石仏さまがどうしてこんな目に合わなければならないのだろうか。
 両の眼が熱くなる。

「お守りできなくて、ごめんなさい。ごめんなさい、石仏さま……」

 背後から、土を踏む音が聞こえたのは楠緒子が石仏さまに謝っていたその時だった。

「……何があったんだ」

 ぱっと振り向くと、相手の男は動揺したように目をさまよわせた。
 こんなところにいるはずのない人物に、楠緒子も驚く。

「はな、太夫さま……?」 

 花太夫、物部不比等。
 物部家と中設楽家は長らく疎遠であり、物部家当主の彼が訪れる理由などないはずだ。

「なぜ泣いている……? 頬も腫らして。それにこの様子は――」

 ためらいがちに尋ねられ、楠緒子の心は思い惑うが。

――物部家に中設楽家の内情を知られるわけには……。

 楠緒子は覚悟を決めて一礼した。
 よく見れば、不比等は供をひとり連れていた。頭ひとつ抜けた背丈の大男だ。

「失礼いたしました。中設楽家へ御用でしょうか」

 楠緒子に答える気がないのを察したのか、不比等も調子を合わせて頷いた。

「ああ、当主にお目通りを願いたいのだが」
「かしこまりました。確認いたしますので、恐れ入りますが少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「わかった。よろしく頼む」

 では、と楠緒子は足早に二人組から離れた。
 曲がり角を越えるまで、不比等の視線が楠緒子にずっと注がれているのを感じた。
 楠緒子は落ち着いた心地がまったくしなかった。

――あの方はどうしてここに……。

 舞姫の話は断った。その話は終わったはずだ。天下の花太夫ならば、舞姫になりたい舞い手は山ほどいる。楠緒子が断ることで、怒ることはあっても困らないだろう。

――だめ。考えてはいけないわ。

 不比等の思惑はどうあれ、花太夫の訪問は家の一大事である。楠緒子の一存で追い返せない。
 中設楽家の当主である父の意向を伺う必要がある。
 普段であれば、父をはじめとした一同がもろ手を挙げて喜んだだろうが、義母の一件がある今、花太夫は望まぬ訪問客となっていたのだった。





 会おう、と父は花太夫の訪問を受け入れることを決めた。
 座敷にいた父は短時間にげっそりとやつれた顔をしていた。

「ここで断っては不審に思われる。楠緒子、まさか花太夫様に陽子の件は告げていないだろうな」
「いえ、何も」
「それでよい。隠し通せ」

 少しためらった後、楠緒子は口を開く。

「旦那様。奥様の件を花太夫さまにお話しなさったほうがよろしいかと。奥様に憑いているモノはかなり悪質と思われます。わたしがお世話していた石仏さまも壊されてしまい、土地の守りも弱くなっています。優秀な舞い手であれば剣舞《けんまい》で祓うこともできましょうが、今、力量のある舞い手は遠隔地に出ています。花太夫さまにおすがりしたほうが事態は収拾できましょう……」
「ならん! 恥さらしな真似はできん!」

 黙っていた父は吠えた。

「陽子だって花太夫様にあられもない姿を見られるのは嫌がる! 陽子はただの病だ、今にきっと良くなる……」

 舞の名門七家のひとつ、中設楽家だが、当主の父はおよそ舞うことがない。舞い手としての実力はない。
 妻を救うための剣舞もできないのだ。

「だれにも陽子のことは知られてはならない……! おまえが視たモノなぞ知らん、信じぬ!」

 楠緒子はなおも迷ったが、およそ当たらなければよいと思う推測だけは伝えることにした。

「旦那様……奥様の件だけで凶事は終わらないかもしれません」

 土地の守りを失い、いわば霊的な守りがまったくない状態の中設楽家。
 身にある霊力は高いが、舞の修練もせず、己を守る術もないなら――。
 獰猛な獣の前にいながら丸裸で歩いているのと同じだ。

「強いあやかしが『食いに』来ることも考えられます。せめてだれか舞い手が帰ってくるまででも、何かしらの守りをつけておいたほうが……」
「っ! 楠緒子、黙れ! えらそうな口を聞きおってッ!」

 父の激情に触れた楠緒子は口を閉じて、目を伏せた。

「失礼いたしました。……花太夫様を応接間にお通しいたします」
「くれぐれも、粗相のないように」
「はい」

 父が不機嫌そうに舌打ちをしたのが耳に残る。
 楠緒子はふたたび花太夫たちを迎えに出た。



 楠緒子が、壊れた石仏さまの前に戻ってきた時、不比等は腰を下ろしていた。
 頭がなくなってしまった石仏さまを拝んでいる。
 石仏さまの足元には、頭らしき石の欠片がきれいに拾い集められていた。
 銀の髪が、真剣に拝む横顔に一筋かかる。清らかな目元は、楠緒子が大切にしていた石仏さまにも似ていた。
 姿勢も良い。一目で彼が舞の名手だとわかる。
 楠緒子の気配に気づいた不比等は、楠緒子へ目を向けた。
 我に返った。

――見入ってしまったわ。

 楠緒子は感情を押さえた声で不比等たちを促した。

「花太夫様。大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。旦那様がお会いになりたいと申しております。ご案内いたします」
「承知した。よろしく頼む」

 供の男も、無言で不比等の後ろをついていく。
 ふたりを連れながら、楠緒子は緊張した。
 相手は花太夫だから、ばかりではなかった。

「こちらからお入りください」

 門をくぐり、庭を抜け……。
 玄関の戸に手をかけた時。
 背後の不比等が立ち止まった気配がした。
 彼の視線はある方向にあった。
 それは、不比等の供の男も同様だった。
 彼らが眺めているものにすぐに思い至り、楠緒子は声を上げた。

「花太夫様。旦那様がお待ちしております……!」

 不比等は楠緒子を見つめてくる。
 この時ばかりは、楠緒子の胸中も穏やかではなかった。
 彼は花太夫なのだ。物部家の当主。天下の舞い手を束ねる存在で、天下泰平のために祈りを捧げる者。
 そんな人物が、この土地の異変に気付かないはずがないのだ。

「……先ほどから気になっていることがあるのだが」
「どのようなことでしょうか」
「特に、あの蔵がよくないと思わないか」

 彼が気にしていた場所を指さされ、楠緒子の背中に冷や汗が流れる。

「さあ……?」

 楠緒子は首をかしげてみせた。
 あの蔵には、義母が閉じ込められている。幸いにも物音は聞こえていないが……楠緒子の肌は粟立ったままだ。
 不比等は一歩、楠緒子との距離を詰めた。途端に圧迫感が増す。
 彼の眼光は引き絞られた矢だった。彼は間違いなく、何かを確信している。

「いいや、あなたは気づいているだろう。傷ついた石仏さまの前で涙を流していたあなたは居心地が悪そうだ。あなたも感じやすい体質なのだろう。……壊された石仏はこの地の要《かなめ》だとあなたは知っているのだ」
「かいかぶらないでくださいませ。わたしは中設楽家に生まれながら舞を習うことも許されなかった身の上です」
「だがあなたは舞競べで見事に舞ってみせた。花太夫にも選ばれた」
「……おやめください。他の者に聞かれたら最後、わたしはこの屋敷にいられなくなります」
「ならば、私も問い直そう。……中設楽で起きていることを素直に教えなさい」

 じりじりと戸を背にしてはじまる攻防に、めまいがするようだった。後ろ暗さがある分、楠緒子の方が不利だった。徐々に押し負かされていく……。
 楠緒子の進退が窮まった時、「まあ!」と中途半端に開いていた戸から、明子が顔を出した。

「本当にいらっしゃっていたのですね! 不比等様、お待ちしておりました。さ、すぐに上がっていらしてっ!」

 楠緒子の体を押しのけ、明子は不比等の手をぐいぐいと引っ張って中に入れる。
 明子が今、不比等に会うべきではなかった。彼女は口が軽い。どんな秘密だって、聞かれるがままに話してしまうだろう。
 父も動転していて、そこまで頭が回らなかったのだ。

――わたしには明子様を止められない。

 諦めかけた楠緒子だが、ふと思いなおす。

――旦那様も、明子様からのお言葉であれば、咎められないはず。

 父は妻と明子を心底、思いやっているように見えた。ならば、楠緒子が口にするよりも明子から発せられたのであれば……花太夫に、中設楽家を助けてもらえるかもしれない。
 楠緒子は頭を巡らせはじめたのだった。