楠緒子が中設楽の屋敷に帰り着いたのは夕方だった。
 幸いなことに足の「不調」はすっかり良くなっていた。
 門をくぐる前、楠緒子は屋敷を囲む土塀沿いに歩いた。ここは一部が凹んだようになっていて、石仏さまが佇んでいるのだ。いつもの習慣で、石仏さまに手を合わせる。

「ただいま帰りました。石仏さまは昨日と今日はいかがでしたか?」

 中設楽家の石仏さま。そう呼ばれているものの、この石仏さまは中設楽家が今の土地に移ってくる前からあったもので、詳しい由来はわからない。
 しかし今は亡き大奥さま――血筋では祖母となる方が、楠緒子に石仏さまの世話を任せていた。
 毎日のように挨拶をし、話しかけ、供物や掃除をするうちに、石仏は楠緒子にとって家族のような身近な存在になっている。
 もちろん、話しかけても返してくれないし、ただただ穏やかな微笑みを湛えているだけだが、それでよかった。石仏さまが聞いてくださる、と思えば心の支えになったのだ。
 石仏には少し土埃がついているようだった。楠緒子は持っていた手拭いで軽く拭いた。

「……また明日、改めてお清めに参ります。その時に、物部家での話も聞いてくださいね」

 門をくぐると、そこはもう日常だった。
 楠緒子は、出会った家人や舞い手たちに次々と用事を申しつけられ、すぐさま家事に追われた。
 中設楽家に使用人は少ない。当主に言わせるとだれもかれも泥棒に見えるからだそうだ。だから、楠緒子を含めた少数の使用人が朝から夜まで息つく間もなく働かなければならない。
 母屋では、明子が呉服商を呼び、次から次へと反物を広げさせていた。

「明子さま、戻りました」
「あらそう」

 楠緒子が両手をついて頭を下げたのに対し、明子は少し顔を上げただけの反応だ。

「おまえは不比等さまに感謝することね。お優しいことに、倒れたおまえを休ませるようにご配慮くださったの。またお礼の品を持って物部家へお伺いしなくてはね」

 明子は上機嫌だった。声も軽やかである。
 きっと頭の中は次に不比等に会う算段をつけることでいっぱいなのだろう。
 舞競べに行く前は散々「蛇に呪われた殿方なんて!」「見目麗しい方じゃないといや」と駄々を捏ねていたのに、すっかり不比等にのぼせているらしい。

「楠緒子に邪魔されたけど、あれから私もちゃんと不比等さまの前で舞を披露できたのよ。結果はまだ知らされていないけれど、きっと私が舞姫だわ!」

 これを聞いた楠緒子は背中にじっとりとした冷や汗を感じた。

――花太夫さまが明子様の舞に……満足されたはずがない。

 楠緒子は中設楽家でたくさんの舞い手たちを見てきたため、目も肥えていた。
 ここ数年、中設楽家はこれまでの生業よりも事業に重心を置いている。祖母の代ではそれなりに堅実な舞の一門として評価されていたが、今では舞い手の育成を疎かにし、優れた舞い手を抱えられなくなっている。
 原因は当主である父の無関心によるものだが、その気質は見事に娘の明子にも受け継がれている。
 祭礼や調伏の際、各地へ舞い手を派遣することは以前のままだが、中設楽家本家の人間は表には出なくなった。
 そのため、明子にとっての舞は家業でやっている古臭い「お遊戯」だ。祖母がどれだけ嗜めても稽古を積んでこなかった明子が、見事な舞をあの場で披露できたはずがない。

「残念だったわね、楠緒子。私がうらやましいでしょ。これがね、血筋の差というものなの。正妻の子の私と、妾の子のおまえ……仕方ないものだってわかっているわよね」
「……承知しております」

 明子はこれまで外で舞う機会がなかった。
 そのため明子の根拠なき自信は、中設楽家の舞い手たちに「お嬢様」としてちやほやされてできているものだと彼女自身は気づいていないのだ。
 本来であればどこかの機会で自覚させてやらなければならなかった。だが、楠緒子の言葉は明子には届かない。

「しかしながら、候補のお嬢様方はほかにもいらっしゃいましたし……あの方たちも相応の稽古を積まれていたことでしょう」
「うるさいわねぇ。そんな方々が居並ぶ中、ちょろっと舞の稽古しただけの私が勝ってしまうのがいいのよ。楠緒子にはわからないでしょうけれど?」
「……はあ」
「楠緒子、もういいかしら。今、新しい着物を頼もうとしているのよ、邪魔しないでくれる?」
「かしこまりました」

 明子はふたたび呉服商の男と笑顔で反物の話をし始めた。
 ちょうど義母も座敷に入ってきて、楠緒子を見るや、顔をしかめる。
 楠緒子は潮時だと思い、その場を辞去した。
 明子と義母の様子から、不比等からの舞姫内定の連絡は入っていない様子で、ひとまず安堵した。
 どちらにしろ、楠緒子は断ったのだから、これから先も中設楽家の人々に知られないほうがよかった。特に明子は平静ではいられないだろう。

『あなたに、私の舞姫になってもらいたい』
『舞う気持ちよさ――快楽を知りながら、これまでと同じように日陰の身で我慢できると思うか……?』

 不比等からかけられた言葉を思い出せば、今も胸が疼く。しかしこれも日々に忙殺されていれば、いずれ忘れるだろう。
 楠緒子はそう思っていたのだが――。
 やがて楠緒子の身の上に「嵐」が吹き荒れ、彼女の運命を大きく流転させることになる。


 不比等は物部家の書庫で、代々の物部家の記録を読み返しているところだった。
 明かり取りの窓から日が差し込む中、書物をめくっていたのだが、背後の扉の向こうから、床板を踏む足音がした。

「熊切《くまきり》か」
「はい。花太夫さま、ご報告のため参上しました」
「入れ」
「失礼いたします」

 熊切が前屈みになりながら書庫へのっそりと入ってきた。
 書庫は本棚のほかに、書き物机が一式あるだけだが、大柄な熊切が入るとやや手狭になる。
 熊切は、不比等の補佐である。物部家に所属する舞い手ではあるが、一族の血は引いていない。霊力の高さを見込まれて物部家に入門した男だった。
 彼には、楠緒子の件について、調べ物を頼んでいた。
 熊切は正座の姿勢をとり、黒革の手帳に書き付けたメモを見つつ、訥々と報告する。

「……中設楽楠緒子さま。お年は十八歳。中設楽家当主の娘ですが、妾腹です。花太夫さまのお察しのとおり、中設楽家での扱いはよくないようで、ほとんど女中のようなものだとか。腹違いの姉妹である明子さまと同い年ですが、楠緒子さまのほうは満足に教育も受けられず、一族の生業となる舞も教えられていなかったようです」
「……舞すら教えられなかったのだな」

 舞の一族に生まれながら、舞を教えられない。一族としてはなから認めるつもりがないということだ。
 不比等は明子の懇願もあって、彼女の舞も見た。しかし、その力量の差は比べるのも楠緒子に失礼に思えたほどに歴然だった。
 楠緒子の舞には長年の鍛錬が滲み出ていた。真摯に向き合ってきたのが感じられた。だからこそ、神は彼女の舞に応え、「神がかり」まで至った。前世で知る「楠緒子」と見紛うほどの神々しさと、清らかさだった。
 
――楠緒子は「私」を知らないようだったが。

 だがそれでも気持ちは決まっていた。自分が舞姫を選ぶなら、それはあの娘しかいない。

「中設楽は近頃、事業で大変な財を得ていると聞く。あちらの母刀自《おもとじ》さまが亡くなられてからは有力な舞い手も出てきていないな」
「はい。中設楽の本拠地は元々帝都周辺でございました。ただその範囲であれば、同じく帝都に屋敷を持つ六家で事足ります。そのため、これまで特に問題になってこなかったのでしょう」
「そうか……今後も中設楽家の動向は注視しておこう」
「承知いたしました。ところで……」

 迷っているかのように熊切の目が伏せられる。

「花太夫さまは楠緒子さまを舞姫としてお考えかと存じますが……正直、賛成いたしかねます」

 普段、自分の意見を言わない男が珍しくそう言った。

「花太夫さまの後ろ盾にはなりえません。花太夫さまにはすでに多くの敵がいらっしゃいますので。強力な後ろ盾を持つ娘をお選びになるとよいかと」
「熊切は優しいな。物部家の事情に巻き込むのは忍びないということか」
「たとえば御園《みその》の櫻子さまのような方でしたら文句は出ないでしょう」
「御園の長女は舞競べには出てこなかったがな。おおかた、こちらの「御前」とことを構えたくなかったのだろう」

 御前とは、不比等の実母だ。しかし、兄を可愛がるばかりで、不比等を顧みなかった。
 櫻子は、母が兄の妻に望んでいる娘だった。

「私も考えないわけではない。……だからこそ迷う部分もある」

 そういえば、熊切の目が見開かれた。

「なぜ驚く」
「いえ……失礼しました。普段見ないご様子でしたので」
「『物部家の白蛇』とは思えないと?」

 熊切は気まずそうに沈黙した。慣れてきたとはいえ、彼もまだ不比等を恐れているのだ。
 熊切は話題を変えた。

「そういえば中設楽明子様が舞競べで神隠しに遭った件は今後どうなさいますか。捕まえてつまみ出しますか」
「放っておけ。結果論となるが、あの件がなければ楠緒子があの場で舞うことはなかったからな」

 神隠しの犯人はすでに不比等も承知していたが、きっぱりと否定する。
 明子を化かし、楠緒子を舞わせた動機を問いただしたいと思うが、あいにくそれより優先すべきことがある。
 不比等は開いていた書物を閉じて立ち上がる。

「……さて、舞の稽古に行くか」
「おともいたします」

 熊切も腰を浮かせた。
 熊切を従えて廊下を歩きながらも、不比等の背には孤独の重石がのしかかってくるようだった。

 ――花太夫様、わたしは己の幸せよりもやるべき役目のために生きているのです。

 じわじわと胸を苛む、楠緒子の言葉。
 彼女は舞姫にはならないと言った。
 しかしそれではあまりにも――もったいない。
 楠緒子の舞に魅せられた不比等は、ただただ、彼女と呼吸を重ねて舞ってみたかった。
 花太夫は、生涯ひとりと決めた舞姫としか、番舞を行わない。
 不比等は謎の舞い手から仮面が外れたその瞬間から、楠緒子との舞を夢見ている。
 そのためなら一族の反対意見など、なんとしてでもねじ伏せてみせる。
 不比等は稽古場へ続く長い廊下の中央で足を止めた。

「明日は、内密に中設楽へ行こうと思う」

 背後で息を呑む気配がした。

「熊切。……言いたいことはわかる。だが、苦労してでも「欲しい」と思ってしまったのだ。しばらくは頑張らせてもらえないか」

 熊切は押し黙ったまま、何も言わなかった。



 バチンッ。
 耳の近くで大きな音が響いたと思えば、頬に熱さが遅れてやってきた。
 この事態を予想していなかった楠緒子は、尻餅をついて、仁王立ちの相手を凝視した。
 普段は奥様と呼ばれる立場にある中年女性が、夫に両脇を押さえられながらも暴れている。聞くに耐えない罵詈雑言を楠緒子に浴びせかけながら。
 義母は少なくとも楠緒子への感情を見せない人間だった。楠緒子をいないもの、女中として扱うことで、精神を保っていたところがあった。これまで、楠緒子は義母から暴力を振るわれたことはない。
 美しく結われていたはずの髪さえ気にせず振り乱し、紫の着物もはだけるに任せている。中設楽家当主の妻は常軌を逸していた。それこそ、何かに「取り憑かれている」ように。
 楠緒子の目は人でないモノも視ることができた。
 義母の背後に黒い影がゆらめいていた。

 ――中設楽家の土地には守りがあるはずなのに。

 悪いモノは入って来られないはずだ。
 石仏さまが守っているから。

「あっ」

 義母が隙をみて、楠緒子の肩に何かを投げつけた。肩に当たって足元に落ちたものは石だった。……見覚えのある色をしていた。
 義母がくくくっと笑い出す。

「おまえに舞姫なぞ務まるわけがない。やめとけ、死んどけ」

 義母の口からしわがれた声が発せられた。
 その声は義母のものではなかった。