ここしばらくずうっと頭が重かった。
屋敷は昼間であってもいつも暗がりの中にあるようだった。父も母も体調が思わしくなくて、寝たきりが続く。
家には借金取りが来るようになった。父の不調で事業もうまくいかなくなったようだ。物部家から時折来る守り役が、いくばくか当座の資金を置いていくが、焼き石に水だった。
かつては屋敷を出入りしていた舞い手たちも姿を見せなくなった。今は物部家の庇護下にいるという。
屋敷にはもう、父と母、そして自分しかいない。あとは通いの老女がひとりだけ出入りするだけ。自由になるお金もないので、ついぞ外出もできていない。
――いっそわたくしも一緒に物部家へ連れていってくれたらいいのに。楠緒子なんかじゃなくて。
人外の美しさを持つ青年を思い出し、明子は束の間、うっとりした。
――あんな方ならば、少しばかり人と違っていたって我慢できるわ。
ガタッ!
明子はびくっと身を震わせて、外へ通じる障子を見た。
黒い影がぬうっと天井へ伸びている。
明子はもうわかっていた。障子を開けた先には何もいないのだと。
『この土地には守りがありませんので、仕方ありません』
『守りがあったとしても、どうしようもありません。これは中設楽の血筋にかかるもの』
『あなたのお父上が、呪詛をすることで招いたもの』
『主によれば、中設楽はこれより衰退し、滅びるとの見立てですので』
物部家の使者が淡々と告げていたことが、日々、現実となっていく。
滅びるとはなにか。自分はどうなるのか。このまま屋敷や父母とともに朽ちていくのか。
「ぜんぶ、楠緒子のせいだわ……」
明子は何度も何度も呟いていた。
楠緒子は、舞競べで明子の邪魔をし、勝手に舞った挙句に、物部家当主にうまく取り行って自分だけ逃げたのだ。
「おしおきしなきゃ……楠緒子だけ助かるなんて、許せないもの……」
明子が言えば、楠緒子はこの屋敷に帰ってくるし、明子の世話も、父母の看護もやってくれる。だって、楠緒子は中設楽の人間なのだから。
明子はその日も浅い眠りにつこうとしていた。
隣室では父と母の呻きが聞こえてきたが、様子を見に行く気力もない。ふたりともやつれきっていて、ぶつぶつと聞こえないことを呟くだけだからだ。
明子が寝返りを打った時、ぶるりと震えが背中を走った。
目玉。巨大な目玉が明子を見下ろしていたのである。
「きゃあああッ!」
明子は叫び、部屋を飛び出していた。
「助けて、助けて、助けなさいよくすおこぉ!……きゃっ!」
鼻先が何かとぶつかった。
薄暗い廊下の中、明子はだれかの腕に抱き止められた。
「どうも失礼しました。あやかしの気配を感じて入ってみれば。これはこれは……中設楽明子さまですね?」
柔和な声。若い男の声だった。
「そうですが……あなたは?」
その時、雲に隠れていた月が姿を現し、廊下を照らした。男の姿を映し出す。
短い黒い髪。声に違わぬ柔和な顔立ち。優しげな目元。
ぴしっとした洋装の人。
一目で明子はぽうっとなってしまった。
彼は明子の体を離してから「はじめまして」と告げた。
「僕は、物部忍成《もののべおしなり》。君を迎えにきました」
「迎えに……どうしてです?」
明子は聞き返しながらもある予感に打ち震えていた。
なぜなら、忍成と名乗った彼の瞳が明子への恋情に滲んでいたからだ。
「あなたを妻にしたくて。どうか、この手をとって一緒にきてくれませんか?」
明子には迷わなかった。
「はい! 喜んで!」
「よかった!」
忍成は明子をぐっと抱きしめた。その力は強く、明子が息を忘れるほどに。
「では行きましょう」
「はい!」
忍成は明子の手をひいていく。まるで夢のようだと明子は思う。しばらく続いていた頭の重さもなくなって、晴れ晴れした気持ちを味わった。
――あぁ、これでわたくしも幸せになれるわ……!
明子は気づかなかった。
忍成は、明子を抱きしめた瞬間に笑わなくなったことに。
そして、前を歩く間も不穏な眼光を放っていたことにも。
「まずは母に会わせたいな。あなたに会うのを、いろいろと楽しみにしててね……」
こうして、明子は中設楽の屋敷から消えたのだった。
屋敷は昼間であってもいつも暗がりの中にあるようだった。父も母も体調が思わしくなくて、寝たきりが続く。
家には借金取りが来るようになった。父の不調で事業もうまくいかなくなったようだ。物部家から時折来る守り役が、いくばくか当座の資金を置いていくが、焼き石に水だった。
かつては屋敷を出入りしていた舞い手たちも姿を見せなくなった。今は物部家の庇護下にいるという。
屋敷にはもう、父と母、そして自分しかいない。あとは通いの老女がひとりだけ出入りするだけ。自由になるお金もないので、ついぞ外出もできていない。
――いっそわたくしも一緒に物部家へ連れていってくれたらいいのに。楠緒子なんかじゃなくて。
人外の美しさを持つ青年を思い出し、明子は束の間、うっとりした。
――あんな方ならば、少しばかり人と違っていたって我慢できるわ。
ガタッ!
明子はびくっと身を震わせて、外へ通じる障子を見た。
黒い影がぬうっと天井へ伸びている。
明子はもうわかっていた。障子を開けた先には何もいないのだと。
『この土地には守りがありませんので、仕方ありません』
『守りがあったとしても、どうしようもありません。これは中設楽の血筋にかかるもの』
『あなたのお父上が、呪詛をすることで招いたもの』
『主によれば、中設楽はこれより衰退し、滅びるとの見立てですので』
物部家の使者が淡々と告げていたことが、日々、現実となっていく。
滅びるとはなにか。自分はどうなるのか。このまま屋敷や父母とともに朽ちていくのか。
「ぜんぶ、楠緒子のせいだわ……」
明子は何度も何度も呟いていた。
楠緒子は、舞競べで明子の邪魔をし、勝手に舞った挙句に、物部家当主にうまく取り行って自分だけ逃げたのだ。
「おしおきしなきゃ……楠緒子だけ助かるなんて、許せないもの……」
明子が言えば、楠緒子はこの屋敷に帰ってくるし、明子の世話も、父母の看護もやってくれる。だって、楠緒子は中設楽の人間なのだから。
明子はその日も浅い眠りにつこうとしていた。
隣室では父と母の呻きが聞こえてきたが、様子を見に行く気力もない。ふたりともやつれきっていて、ぶつぶつと聞こえないことを呟くだけだからだ。
明子が寝返りを打った時、ぶるりと震えが背中を走った。
目玉。巨大な目玉が明子を見下ろしていたのである。
「きゃあああッ!」
明子は叫び、部屋を飛び出していた。
「助けて、助けて、助けなさいよくすおこぉ!……きゃっ!」
鼻先が何かとぶつかった。
薄暗い廊下の中、明子はだれかの腕に抱き止められた。
「どうも失礼しました。あやかしの気配を感じて入ってみれば。これはこれは……中設楽明子さまですね?」
柔和な声。若い男の声だった。
「そうですが……あなたは?」
その時、雲に隠れていた月が姿を現し、廊下を照らした。男の姿を映し出す。
短い黒い髪。声に違わぬ柔和な顔立ち。優しげな目元。
ぴしっとした洋装の人。
一目で明子はぽうっとなってしまった。
彼は明子の体を離してから「はじめまして」と告げた。
「僕は、物部忍成《もののべおしなり》。君を迎えにきました」
「迎えに……どうしてです?」
明子は聞き返しながらもある予感に打ち震えていた。
なぜなら、忍成と名乗った彼の瞳が明子への恋情に滲んでいたからだ。
「あなたを妻にしたくて。どうか、この手をとって一緒にきてくれませんか?」
明子には迷わなかった。
「はい! 喜んで!」
「よかった!」
忍成は明子をぐっと抱きしめた。その力は強く、明子が息を忘れるほどに。
「では行きましょう」
「はい!」
忍成は明子の手をひいていく。まるで夢のようだと明子は思う。しばらく続いていた頭の重さもなくなって、晴れ晴れした気持ちを味わった。
――あぁ、これでわたくしも幸せになれるわ……!
明子は気づかなかった。
忍成は、明子を抱きしめた瞬間に笑わなくなったことに。
そして、前を歩く間も不穏な眼光を放っていたことにも。
「まずは母に会わせたいな。あなたに会うのを、いろいろと楽しみにしててね……」
こうして、明子は中設楽の屋敷から消えたのだった。



