『天女』が舞っている――。
 熊切は、舞姫の一挙手一投足を目で追いながら、愕然とした。

『わたしは月子の舞にほれ込んでいたんだよ。まるで天女さまのようでねえ。伸びやかで、自由で、強かった』

 父から何度も聞かされてきた実母の話が頭をよぎる。

『おまえにも見せてやりたかったなあ……彼女がこっそりと舞ってくれた『天女舞』は、本当に語りつくせないぐらいに素晴らしいものだった』

 天女舞は滅多に舞われるものではない。不文律のように舞姫のみが舞うことと決まっていた。
 しかし、今、あの舞台の上で、月のように冴え冴えとした視線を放つその人以外で舞える者などいるだろうか。

 ――父が惚れた舞も、あんなものではなかっただろうか。

 体が震えだし、目元が熱くなるような舞。雑味などなくひたすら透き通った、水面を滑るような「天女舞」。
 手足がほっそりとしているものの、まるで華のない娘だと思っていたのに。

『あれならば、どんな神でも慈悲をくださっただろう。良い舞い手というものは、舞に真摯であることに尽きる』

 舞姫の舞が変わる。
 天女は人間の男を恋しく思い始めたのだ。
 ゆっくりと旋回するごとに、舞姫の目つきが初々しくなる。
 シャン、シャン、と鈴が振られる。顔つきに葛藤が出てきた。手つきに苦悩が表現される。
 しかし、彼女は領巾《ひれ》を取り戻すことを選ぶ。
 ふわり、と領巾を肩にかけた時――熊切は初めて気づいた。

 ――奥の社の扉が開いた……!

 物部家の人間は霊力の高い者も多く、『目端』が多少利く者もいる。熊切のほかにも扉に注目した者もいた。
 奥の社から神力の塊が……のそり、と動いたのを熊切は視た。
 奥の社は、特定の神を祀っているものではない。中には鏡がひとつだけ祀られている。
 舞で降りてきた神の依り代とするための鏡だ。
 よって、扉が開いたということは、何らかの神がそこに宿ったということだ。
 一体、どこぞの神が。
 熊切は目を凝らすも。
 ざあっと。風が。
 正面から吹き付ける強い風が吹いた。

 ――パキン。

 玻璃の割れたような音が響いた。
 直後、神力の塊が、熊切をはじめとした観客にぶつかる。
 舞姫の霊力が少し混じった、祝福の気だ。荒々しさがあるが、舞い手の霊力を上げてくれている。
 はあ、とだれかのため息がした。
 神力を当てられると、息を詰めるものなのだ。
 熊切も、このような経験をしたことがない。
 目の前では舞姫が舞い続けている。青白い燐光を纏いながら。
 天女は、夫に別れを告げ――去っていく。
 天女は流れるような仕草で奥の社殿に両手をついた。
 奥の社殿の扉はふたたび閉じられ、あの神力の気配はすでに消え失せていた。
 そののちに舞姫はしずりしずりと舞台を下りていく。
 その先にいたのは、花太夫だった。
 舞姫は、彼の前まで進み出ると――そのまま姿勢を崩した。すかさず花太夫が彼女を抱きとめる。
 舞は、そこまでだった。
 熊切は、まるで夢うつつにいるような心地でそのありさまを見ていた。

――おれは、何を見ていたのか。

 『天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』。古い歌にあるように、もう少し、せめてもう少し地上に留まってほしかった。そう惜しむほどの「何か」があの娘の舞にはあったのだ。
 喉がからからに渇いていた。
 気づけば、遠目で御前が自分を睨んでいることに気づく。
 ぼんやりした頭で、熊切は会釈をしたが、無視される。

――ああ、完全に見限られたな。
 
 御前は、舞姫の失敗を確信していたはずだ。舞姫である楠緒子の足が動かないと聞いていたのだから。
 熊切は嘘をついていたわけではないが、御前はそう思うまい。
 天女舞がはじまる前であったら、熊切は大いに焦り、挽回の方法を模索したはずだ。だが、今、そんな気にもなれない。
 熊切はいまださざめき、何が起こったのか興奮して話し出す一族の者たちをかきわけて、舞台の傍らまで来た。

「不比等様」

 ぐったりとした舞姫を抱えた不比等が熊切を見上げ、不思議そうな顔になる。
 熊切が進み出てきたのが意外だったのだろう。
 熊切は片膝をついて、主人と目を合わせた。

「お手伝いいたします。楠緒子さまを介抱しませんと。……あなたさまの大事な舞姫でいらっしゃる方なのですから」

 そうだな、と不比等は熊切の眼の奥を見据えているようだった。

「すみません……」

 楠緒子も、意識は失っていない。汗を大量に流して疲れ切っているようだった。
 彼女は、顔を覆った。

「足が動いて、ちゃんとやれて、ほんとうによかった……」

 楠緒子は無事にやり遂げたという気持ちからか、涙を流していた。
 不比等が彼女を見下ろす目には優しさと愛おしさで溢れている。
 今代の花太夫と舞姫だ。

 ――自分が仕えるべきなのは、この方たちなのだ。

 熊切はそう悟った。
 



 前回、《舞競べ》で待った時は、記憶がぼんやりした部分があった。
 しかし、今回の楠緒子はすべて覚えていた。
 楠緒子は、楠緒子のままで、舞うことができた。

「自分の舞を見ていたんです」

 行方知れずとなっていた間の行動を不比等に問われ、楠緒子はそう答えた。
 ふたりは庵で顔を合わせていた。

「天女舞をやっていた自分の姿です。きれいな池に映っていたのを夢中で眺めて。そうすると、体の動きがわかったんです。いえ、もしかしたら――思い出した、というほうが近いのかもしれません」

 銀の蝶をおいかけたら、池にたどり着いた。そして池に舞姿が映っていた。それを手本に無我夢中で舞い続けていたのだ。
 時間の感覚はわからなかったが、「もういけ」と女の声がふたたび響き、促されるように歩いていたら、あの舞台までたどり着いていたのだ。
 
「そうか……何か、ほかに思い出したことはないのか?」
「いえ、それは」

 不比等は、楠緒子が前世の記憶の断片でも思い出したのではないかと期待したのだろう。

「元からある神のお優しさによるものですので。天女舞を思い出せただけでもありがたいことです」
「そうなのか」

 不比等はしみじみとして呟いた。

「前世のあなたは天女舞も稽古していたのだな……」

 気を取り直した不比等はふたたび尋ねた。

「あなたを助けた神とは、どなただろうか」
「女神でいらっしゃることはわかりました。神力も感じられました。でも、名乗られなかったんです。わかっていたら、感謝の気持ちで舞ったのですが……」

 だれに捧げるか、という気持ちでも、神々への届き方は異なるものだ。
 ふと、楠緒子は天女舞のことを思い出した。

「そういえば、今回の舞で神力をくださったのは、男の神でいらっしゃいました」
「そうだな。あの力の感じは、男神でいらっしゃるようだった。声は聞いたか」
「いえ。……でも、かなり高位の方かもしれません。流れ込んでくる力の感覚が《力加減》されているようでした」

 神が名乗ると、神々から与えられる加護は強くなる。しかし、その分だけ器に負担がかかる。
 舞姫として未熟な楠緒子には、まだ名乗れないといったところだろう。
 話を聞いていた不比等が、改まったように座り直す。

「前回の舞では、あなたはイザナミを降ろしていた。そのあなたに対し、加減をする神は限られてくるように思う。これも、神力をあてられた私の感覚でしかないが、あの荒々しい力から推測すると――」

 ここまで聞かされた楠緒子にも、不比等が言わんとすることがわかった。震えるような心地になる。

「まさか、その神とは――」
「ああ」

 不比等は重々しく頷いた。

「イザナミにも近しいとも言える。神の最上位であり、根の国の支配者。若き日には高天原を荒らしまわり、ヤマトノオロチを調伏した勇猛な神――スサノオノミコトだ」



 物部家の奥深く。
 巫女である百襲姫《ももそひめ》は、長い眠りからふと目を覚ました。
 何か、かすかな音が響いた気がしたからだ。
 手元を見る。

 ――ああ……御統《みすまる》が。

 首からかけていた玉飾り。その玉のひとつが、紐から外れて板敷の床に転がっていた。――真っ二つに、割れている。
 百襲姫は震える息を吐いた。

 ――まもなく、滅びがやってくる。

 泡沫のような思考は、すぐにやってきた眠りによって飲み込まれていった。
 



 その日、庵にやってきた不比等は、出迎えた楠緒子の顔を見るや、

「あなたが舞姫として認められた」

 開口一番に言った。

「え、それは……どういう」
「それだけあなたの天女舞がよかったということだ。一族の話し合いの中でも、御前が決定を覆せなかった。一族の者たちも一枚岩ではないからな……」
「と、いうことは……私が、舞姫に……?」

 実感はない。不安は残る。足はいまだに不調になるし、この目は死者をみてしまうのだ。

 ――それでも、うれしい。

 舞を認めてもらえたことが。
 物部家にいる資格があるのだと言われた気がした。

「くすおこさま、おめでとうこざいますっ!」

 しぐれがタヌキ姿になって胸に飛び込んできた。頬ずりをしてきて、えへへ、とご機嫌になっている。

「くすおこさまはまいひめなのですね! てんにょまい、しぐれもみたかったのにざんねん……」

 ご機嫌になったかと思えば、落ち込んで、と忙しい。
 しぐれはお披露目の刻限のギリギリまで楠緒子を探しに行っていたため、楠緒子の舞を見逃してしまったそうだ。
 不比等は花太夫の役目があるため、途中で別れたのだという。

「しぐれは、一所懸命にやってくれていたものね。……ありがとう」
「! と、とんでもない、ですっ!」

 しぐれは楠緒子の腕の中で恥ずかしそうに前足で顔を隠した。

「……チッ」
「不比等さま?」

 頭上で響いた舌打ちに、楠緒子は視線をあげた。
 不比等は穏やかな顔で楠緒子を見下ろしていた。

 ――気のせい?

 楠緒子と目が合った不比等はまなじりを下げた。

「楠緒子。改めていうが、あなたの先日の舞も見事なものだった。……あなたが、私の舞姫で、そのことを一族に知らしめることができたことがとてもうれしい」
「……はい」

 ふと、不比等の瞳が翳りを帯びた。

「だからもう……はなれないでくれ」

 言葉の重みが、軽やかな空気を冷やした。

「どうしてそのようなことをおっしゃるのですか」

 楠緒子はもういちど、誓いの言葉を口にする。

「わたしはあなたさまにお仕えする、と決めました。ですので、あなたが離しさえしなければ、わたしはここにいて、あなたの舞姫となりましょう」

 そう、死の巣食うこの足でも、許されるのであれば――。
 楠緒子は言葉を呑み込むと、不比等を庵の中へ促した。

「不比等さま、お食事にしましょう。用意はできております」
「そうだな。終わればどうする?」
「舞の稽古をつけてくださいませ」
「そうしよう」

 いまだたどたどしく、距離もあいまいなふたりでも、少しずつ、進んでいる。
 夏の気配が滲む、昼間の出来事だった。