楠緒子には今でも時折思い出す記憶がある。
 幼いころ、人買いに売られたことがあった。事情は知らない。おそらく義母が望んだからだろう。
 だが、楠緒子は隙を見て、逃げ出したらしい。
 気づけば、冬山でひとり倒れていた。
 一面は雪。前も見えないほど風は強く。
 そんな中、女の声がした。あれは不思議な声だった。風に掻き消えずにはっきりと、耳元で聞こえたのだ。

 おまえはかつて誓約《うけい》をした。
 よって、一度だけ、助けてやろう。
 しかし、これよりはおまえは己を死者と思え。
 その足は死者のもの、おまえが忘れぬようにおまえを苛む。
 その目は死者を視る。おまえは半ば死者なのだから。

 幼い楠緒子の意識はそこからふっと遠くなった。
 起きた時には、祖母が寝床の横にいて、自分が中設楽の屋敷に戻ったと知った。
 義母は、楠緒子が起きてきたのを見るや、ぶるぶると震えて逃げ出した。
 あとから聞かされたことだが、遠方に売られていったはずの楠緒子は自力で屋敷に戻ってきたらしい。しかし、それは元の楠緒子ではなく、異様な目つきと雰囲気を持っていたらしい。
 ぼろぼろの孫を見た祖母は地べたに膝をつき、礼を取り、屋敷に入れた。
 敷地内に入った途端に、楠緒子は糸が切れたように寝入ってしまったという。

――あの山で出会った女《ひと》は。

 いったいだれなのだろう、と今でも不思議に思っている。



「無理はしないでほしい」

 不比等はしきりにそういったが、楠緒子にはもどかしさがあった。
 舞姫としてのお披露目として「天女舞」を舞う。
 これは不比等の体面にも大きく関わるのに、自分の足のせいで天女舞ができないとなればどうなるだろう。

 ――不比等さまの立場が悪くなる。

 楠緒子が物部家で過ごし始めて日が短いが、御前に会って、不比等の周囲が味方ばかりでないことを知った。
 ここで自分が足を引っ張るわけにはいかないのに。
 花太夫である当主は舞い手のまとめ役も兼ねている。普段から多忙なのだ。
 今は楠緒子のお披露目の予定をどうにか後ろ倒しにできるように動いていると不比等は言っていたが、実際には難しいだろう。
 不比等がいない間、熊切が何度か様子を見に来たが、

「花太夫はあなたのためにしないでいい苦労をなさっています。逃げてみてはいかがでしょうか。少しはあの方に同情が集まってくるかもしれません」
「私はあなたの存在を認めていません」
「今ならまだ間に合います。早く出て行かれたほうがよろしいでしょう」
 
 そんなことを言い置いて戻っていく。
 そのたびに、しぐれは心配そうな顔で、楠緒子にしがみついてくる。

「くすおこさま、げんきをだしてください」

 お披露目の当日の明け方。やっと楠緒子の足が動くようになった。
 しかし、今から舞をならったとして、物部家一同が納得する舞を披露できるだろうか。

 ――そうだとしても。

 楠緒子は石舞台に立った。ひとり。
 まだ周囲は薄暗い。
 天女舞は不比等の舞姿を目に焼き付けていたので、自分でも舞ってみる。
 まずは足を踏み出したところで――違う、と確信した。
 あまりにも時間が足りなさ過ぎた。舞いたいのに、思うように動いてくれない。

――どうしよう。

 両の眼をぎゅっとつぶって、開いた時。
 目の端を、銀色の蝶が優美に横切っていった。まるで見たことのない、珍しい蝶だ。
 蝶は銀の鱗粉をまき散らしながら、楠緒子の前をゆっくりと旋回すると、無意識に彼女が差し出していた指先にとまった。
 指先が重い。

――これは。

 自然にいる蝶ではない。
 すると、楠緒子の耳元でだれかが囁いた。

 みていられぬ。腹立たしい。
 おまえの『舞』はそんなものではなかろう。
 少しだけだ。
 少しだけ、魂を、揺らしてやろう。

「あ……」

 楠緒子が漏らした吐息は、驚きのためか、心をえぐられる痛みのためか。
 ふつりと意識の糸がここで途切れた。



 朝早く、不比等に会いたいと庭から騒ぐタヌキがいた。しぐれである。

「くすおこさまがっ、くすおこさまがっ!」

 尋常ではない声の響きに、不比等は縁側に出た。

「何があった?」
「くすおこさま、いなくなっちゃった! みてたのに、どこにも!」
「なんだと。まだ足は動かないはずだろう?」

 でも、とぐずぐずとしぐれは鼻を鳴らしていた。
 不比等が庵に赴けば、彼女が丁寧に布団を畳み、寝間着を片付けた痕跡があった。彼女の使っていた下駄もなくなっている。
 不比等はどこにも楠緒子がいないことを確認するや、呆然とした。

 ――どこへ。

 ――どこへ行ってしまった……?

 いくらお披露目が迫っていて、舞えないからと逃げ出すような女ではない。
 あれほど、舞に執着する者もそうそういないのに。
 人前で舞い手として立てる喜びをだれよりも知っている。
 なにか、不慮の事態に巻き込まれたのではないか。
 不比等は、熊切にひそかに楠緒子の捜索を頼んだ。
 しかし、熊切は驚いた様子もなければ、乗り気ではなかった。

「探さない方があの方のためではないでしょうか」
「なんだと?」
「嫌で逃げ出したのではありませんか」
「……熊切」

 不比等から低い声が出た。

「おまえに御前の息がかかっているのは知っているが、この場で言っていいことと悪いことがあるぞ」

 熊切は目を見開いた。ばれていないと思っていたのだろうか。
 彼は、感情を押し殺したように「……探します」とだけ言って、踵を返した。
 不比等はまだめそめそしているタヌキの体を小脇に抱えた。

「きゃあ!」
「わめくな。いいか、ここは協力体制といこう。楠緒子を探すのだ。あやかしの眼や鼻でなら行方がわかることがあるかもしれない」

 これを聞いたしぐれはぷるぷると体を震わせつつ、それでも頭が上がった。

「はなして。じぶんであるく」

 しぐれは、不比等から距離を取ると、地面に鼻をこすりつけるようにして歩き始めた。
 総じて、獣のあやかしは人よりも五感が優れている。もしかしたら今一番頼りになるのは、この新米女中かもしれなかった。
 不比等はだまって、しぐれの後をついていったのだった。






 夜が来た。
 結局、楠緒子は見つからない。

――やはり逃げたな。

 熊切は広大な物部家を探索していたが、夕方になり、お披露目が行われる舞台にやってきた。
 奥の社殿には灯篭が灯され、舞台手前にしつらえられた客席には毛氈が敷かれた。一族の重鎮が続々と着席していく。
 《舞競べ》の時に使用した舞台とは違い、お披露目の場は公の意味が強い。
 《舞競べ》を見られなかった熊切を含め、一族やそれに連なる者であれば、だれでも見に行くことができた。
 熊切も例にならって、客席後方に陣取った。
 不比等の姿はまだないが、時間ぎりぎりまで己の舞姫を探しているのだろう。
 そこまでする価値がどこにあるのか、熊切にはわからなかった。
 満足に体も動かせない舞姫に何の価値がある?

『こちらが何もしなくともいいなんて、とても楽なこと。そうだと思わないかしら、熊切』
『はい』

 もし楠緒子が万全であったなら――御前の命令で彼女へ何をさせられていたのか、わからなかった。
 その意味で、楠緒子の不調は都合がよかった。
 不比等にはすでにばれていたようだが、熊切は御前から遣わされた身だ。
 物部家では御前についたほうが得と踏んだからだ。
 熊切は物部家の分家の出だが、体が大きすぎることもあり、舞の才はなかった。
 物部家では舞の才こそが序列を決める。残念ながら熊切は物部家の中において弱者に分類される。
 あの月家の血を引いているのにねえ、と気の毒そうに言われるまでが流れだ。
 月家は舞七家には入らないが、もっとも古い形の舞を残している。熊切はその月家の女と物部家の舞い手から生まれた。幼いころは期待されていたが、今は諦められている。代わりに細かな雑事ばかりが得意になった。 
 父は今や病気がちで、舞い手として家の役には立てない。熊切を助けてくれる立場にはなかった。夜になれば、月を見上げ、ちびりちびりと酒を飲み、うわごとのように母を恋しがっている。

『月子に会いたいなあ。いい女だったんだなあ』

 まるで初恋のように父は目を輝かせ、同じことを繰り返す。

『舞姿がきれいでな、まるで天女のようだった……』

 己を捨てた母に対し、どうして父はそのような顔ができるのか、熊切にはわからない。
 月家というのだから、よほど舞はうまかったのだろうが。
 だが、父と――熊切を置いて去った母である。なんなら、「月子」の名も偽名とのことだ。

――俺にはわからないな、何も。

 不比等が女に執心し続けることも、その執心の的となっている楠緒子の価値も。
 熊切は単に物部家で侮られることのない立ち位置でいたいだけである。

――舞も、嫌いだ。

 初めて物部不比等の舞を目にした時、圧倒的な才能の差を見た。舞い手として一人前になることは諦めた。
 才能のない人間は生きるため、舞以外に頼るしかないのだ。
 物部不比等にふさわしい舞姫は、彼に比肩する才能の持ち主でなくてはならない。
 舞すら習うこともできず、ただ生家で隷属していた女に、それほどの器があるものか。

――逃げて正解だ。

 熊切は皮肉な笑みを浮かべながら、舞台を眺めていた。
 そろそろ、当代の花太夫が舞台に出てきて、儀式の取りやめを告げるころだと思いながら。
 しかし。
 ぱきり、と傍の松明がひときわ大きく爆ぜた時に、傍らを横切る白い影がいた。
 『彼女』はまるで幽霊のように音もなく、一同の隙間を縫いながら、まっすぐと舞台を目指した。
 『彼女』は楠緒子だった。白い衣に赤い袴、手には大きな鈴を持っていた。髪はすべて下ろしている。
 だれもいない舞台に上がると、奥の社殿に一礼した。
 腕を振り上げる。
 シャン、シャン、と初めて鈴の音が響いた気がした。
 客席の人々はまるで夢から醒めたように身じろぎした。熊切も息を忘れていた。

――目つきが違う。

 あれはだれだ、と思った。
 普段の従順そうな少女の面影はひとつもなかった。鋭く、深く――そして、人ではないような。

「天女だ……」

 だれかのつぶやきに、背中がぞわりと粟立った。
 舞い手の持つ領巾《ひれ》が風で動くとともに、流麗な舞がはじまった。



 天女舞は舞姫のお披露目として舞われることが多い。
 それというのも、天女舞は物部家のはじまり、すなわち花太夫と舞姫の関係を反映させた舞だと言われているからだ。
 ある時、天女が地上に舞い降りる。
 天女は羽衣を纏っている。羽衣がなければ天に帰ることはできない。
 地上の男がこの天女を見染め、羽衣を隠してしまい、天女はやむなく男の妻となることにした。
 だが天女は羽衣を見つけ、羽衣を纏って天に帰る。
 ――これが一般に知られている羽衣伝説というものだが、物部家では天女を舞姫、花太夫を男となぞらえる。
 舞姫は天から花太夫に授けられたものと考えられた。羽衣を隠して地上にとどめているのだから、ともすればすぐにいなくなってしまうかもしれない。
 舞姫は天女舞の中では「天女」という人外であり、羽衣を奪われて「人」になる。夫となる男への情も滲み出つつも神聖さが失われてはならない。
 動きはゆったりとしたものであり、激しさはない。だからこそ難しい。

 ――前世の楠緒子は天女舞を舞えなかった。お披露目すら許されなかった状況だった。

 当時は慌ただしく舞姫を選定し、そして死へと向かう儀式へ臨んだ。
 だからこそ、不比等は今世では万全の状態で、できるだけ人から祝福されるようにしてやりたかったのだ。

『幼いころ、わたしが死んだ時から、この足はすでに黄泉の国のものなのです……』

 楠緒子の告白は驚くべきものだった。
 彼女には今世で「死にかけて」からそれ以降の記憶しか持たないという。そして死にかけた時に、声をかけた存在がいたのだと。

 ――生まれ変わってもなお、私たちは幸せにはなれないのだろうか。

 そんな思いもよぎったが、口には出せなかった。
 不比等は楠緒子を探し続け……そして舞台の脇まで来た。
 彼女が見つからず、そして万全でもない今、一族の多くを敵に回し、今後の立場が危うくなろうとも、人々の前に進み出て、事の経緯を説明しなければならない。
 それこそが花太夫の役目である。
 主役の舞姫が来ないことを危ぶむ一族の者たちを落ち着かせ、不比等は舞台の階に足をかけた。
 その時に。
 ふわり、と重い空気が塗り替えられていく気配がした。
 清浄な霊力。なんという清々しさか、懐かしさか。

「楠緒子……?」

 まるで風のように女が舞台へ上がる。
 不比等と目が合う。
 楠緒子の目元が笑う。
 それはまるで、前世で舞をともに稽古していた時にも見せた、あの……。
 不比等は、己の心が強く揺り動かされているのを感じた。
 舞姫は、自在に手足を操った。鈴を鳴らし、足踏みをする。
 体の軸はけしてぶれない。
 抑えられた情の舞。時に酷薄な人外の舞。普段の彼女からはまるで別人のようで。

 ――あぁ、でも、少し、先日のヤマトタケルの舞の面影があるな。

 舞姫は、前世からもさらに進化していた。記憶がないのにどういうことだろう。
 魂に刻み込まれたものは、本人が忘れてしまっても、泡沫のように時に浮かび上がってくるものか。

 ――舞姫。あれが、私の舞姫なのだ……。私だけの。

 不比等は息を呑んで舞姫を見つめ続けている。
 そして、楠緒子の舞に呼応するように……奥の御殿の扉がひとりでに開く。