ドンドンドンッ!
 凄まじい銅鑼《どら》の音が響いて、楠緒子は寝床から飛び起きた。

「うう……うう……」

 タヌキ姿のしぐれが器用に両耳を押さえて部屋の隅で怯えている。
 しぐれは、楠緒子が起きたことに気が付けば、その胸にぎゅっと飛び込み、

「ごぜんが……ごぜんが……きましたぁ」

 と、ぶるぶる震えながら言った。
 ごぜん……御前?
 うまく回らない頭だったが、しぐれの言っていることがやっとわかった。
 舞七家の中でも、頂点となる物部家は、とりわけ秘密が多い。近年の中設楽のように舞七家としての役割を半ば放棄してきた家では、得られる情報もかなり限られていただろう。
 だがそれでも、楠緒子も「御前」の存在を少しだけ聞いたことがあった。
 不比等の父、前花太夫は不比等に跡目を譲った後は、ほとんど表に出てくることはない。その代わり、表に出て、物部家で大きな力を持つ女性がふたりいる。
 ひとりは百襲姫《ももそひめ》。元は皇族の姫で、当代の花太夫へ降嫁した後、物部家の舞姫となった。こちらは老齢のためか、表には出てこない。
 もうひとりが「御前」。これは不比等の義母に当たる女性を指している。実質的に物部家の女性陣の中でもっとも格の高い女性になるだろう。
 どのみち、きちんと挨拶をしなければならない相手だが、不比等は楠緒子と会わせるのを躊躇っている様子だった。口調からして、わだかまりがあるようだ。
 不意打ちのような訪問とはいえ、応対しなければ失礼になってしまう。

「参りますので、少々お待ちを」
 
 声を上げたあと、楠緒子は寝間着の上に羽織をまとい、急ぎ足で玄関の扉を開ける。
 そこには気の強そうな中年女性と、お付きと思われる男女が六人ほどいた。ひとりが銅鑼を手に持っていた。
 間違っても、歓迎されているような雰囲気ではない。

「お待たせいたしました。楠緒子と申します」
「遅いですね。しかも何ですか、その恰好は。だらしない」
「失礼いたしました」

 そのぐらいの物言いは、中設楽家では慣れていた。
 ただ、反応自体は想定外だったのだろう、相手は鼻白む。
 楠緒子は深々と礼を取った。

「御前とお見受けいたします。で、あれば、わたしにとっては物部の母に当たるお方。このような形の対面となり、恐縮ですが、なにとぞよろしくお願いいたします」
「……あのへび男もみすぼらしい娘を選んだこと」

 鮮やかな紫に大胆な縞模様と花をあしらった着物できっちり身を固めた御前は、楠緒子に見下すような視線を向けた。

「楠緒子さん。どうしてわたくしどもがこちらに来たのか、おわかり?」
「いいえ。存じ上げません。教えていただけますでしょうか」

 御前は、分厚く白粉が塗られている顔を顰めた。楠緒子の反応がまたも気に入らないらしい。

「わたくしは、物部家のしきたりをお教えしに来たのです。舞姫に選ばれたからといって、調子に乗るものではありません。花太夫が選んでも、舞姫たる素質がなければ、ほかの物部家の者たちは、おまえを認めないでしょう。舞競べではたいそうなものを披露したようですが……それでもなお、なのです」
「はい」
「舞姫のおひろめをなさい」

 御前は断言した。

「おまえが本当に舞姫にふさわしいか――試させていただきます。これは物部家重鎮の総意なのです」
 
 楠緒子は少し考えて、言った。

「それは不比等さまもご存じなのでしょうか」
「当たり前ですよ。毎日毎日、わざわざ本屋敷まで来てやってるのに、無視するものですから、こうしてじきじきに来て差し上げたのですよ」
「そうだったのですか……」

 不比等が隠していたのならば、それは楠緒子に聞かせるべきではないと判断したのだ。つまり、不比等の意に添わないことを、御前たちはやろうとしている。
 物部家も一枚岩ではないということだ。特に血のつながりのない義母と息子では、意見が反目することもあるだろう。

――どうしたものかしら。

 不比等の知らないところで安易な返事は避けたい。

「――こんな朝早くからなにを、なさっているのですか?」

 知った声が横入りした。

「不比等さま」

 静かな怒りを全身にまとった不比等が歩いてきた。後ろには熊切もついている。
 御前は不比等が来ることは予想していたようだった。
 
「あら、遅いですね。来ないものと思っていましたけど」
「あなたが念入りに邪魔してきたものでね。気づくのが遅れましたよ。それで――私の舞姫にどのような御用でしょうか。普段は朝寝坊されているのに、珍しいですね。そんな緊急のご用件で?」
「ええ、緊急ですわ。わかったからには、すぐに楠緒子さんに教えてさしあげなくては、と思ったの」

 ふふ、と真っ赤な唇が弧を描く。

「三日後の夜に舞姫のおひろめが決まりましたの。書状は送りましたから普段は散り散りになっている一族の者が集まってきますわ」
「ずいぶんな勝手をされますね。私の許しもなく、書状を送ったのですか」
「だって、ぐずぐずされているものだから。こういうめでたいことはすぐにみなさまへお知らせしなければ」
「舞姫にも準備期間があるはずだ。歴代の舞姫も念入りな備えをしてからお披露目の場に臨んでいたのだがな。……そこまでして、楠緒子に失敗させたいのか」
「まさか。成功を祈っておりますわ、ええ、もう。本当に」

 くすくすと御前は笑う。

「神がかりまでする娘ですもの! 大諒闇《だいりょうあん》が来た際も、すぐに祓ってさしあげられるでしょう。舞姫を下りるのはその後でもよろしいわ」
「あなたのかわいい息子が心置きなく花太夫を継承できるために、か」

 御前は答えなかった。

「あなたのその行動力をもっと別のところに向けられたら、物部家はもっと発展できたのに。あなたは何もかもを権力の道具としてか見られないようだ。忍成《おしなり》が哀れだ」
「息子のためなら、どんなことでもするのが母なのですよ」
「ええ。あなたから私を守るために、私の実母が死んだのですから、よくわかります」
「人聞きが悪いわね。わたくしはそんなことしませんよ。あなたが蛇に呪われたのはあなたのせい、あなたの呪いを少しでも軽くするために命を縮めたのは、あの女の決断です。蛇をけしかけたのは、わたくしではなくてよ?」

 おしゃべりが過ぎたわ、と御前は告げ、楠緒子を見やる。

「楠緒子さん。早く準備に取り掛かることですよ。お披露目になるのは、天女舞《てんにょまい》――最高難易度となる舞なのですから」

 御前一行はそう言って去っていった。
 残されたのは、楠緒子、不比等、しぐれ、熊切だ。

「不比等さま……」

 楠緒子にはいろいろと尋ねたいことがあった。
 舞姫のお披露目が三日後に迫っていること。
 《大諒闇》という言葉。義母との確執。不比等にかけられた蛇の呪い――そして母親のこと。

 ――不比等さまも母親がいないのね。

 楠緒子の母は今もどこにいるのかわからない。きっとどこかで死んだのだろうと思っている。
 さらに不比等は楠緒子と同じで、継母からは冷たくされているのだ。

「……あなたには申し訳ないことをした。御前がああいったということは、本当に三日後にお披露目するように秘密裡に工作したのだろう」

 謝罪する不比等に……楠緒子はおそるおそる尋ねた。

「不比等さまは……敵がおおぜいいらっしゃるのですね?」
「見ての通りだ。幼いころから義母はあんな感じだ。自分の息子を花太夫にすることに執念を燃やし、手段を選ばない。私に毒を盛り、蛇の呪いをかけさせ、母の命を縮めさせた女だ」

 不比等は揺れる瞳で楠緒子を見つめた。

「物部家は外から見れば華麗に見えるかもしれないが、内情は醜いものだ。楠緒子。ここまで知ったなら、今からでも逃げたかったら逃げても構わない。このままでは私はもっとあなたに困難を強いることになる」

 不比等のいうことは真実なのだろう。
 花太夫と舞姫は、国の舞い手の頂点。注がれる光が強いほど、また影も濃くなる。
 中設楽もそうだが……古い一族はいろいろなものに縛られる。血に、役割に、家そのものに。

「思えば、私も愚かだったな……。だれを選んだとしても、こうなってしまうだろうに。まして、好いた人にこのような役目を課すことも――つらい。そんな単純なことにも気づかなかった」

 そう告白する不比等に、楠緒子は首を振った。

「元より、承知の上でわたしは物部家に来ておりますから」

 楠緒子は言葉を選びながら、ぽつぽつと続ける。

「だって、物部家ですもの。何があってもおかしくありません。――自分の命さえ、危うくなることだって」

 最後の言葉に、不比等の息呑む気配がした。

「それでもわたしは、不比等さまにお仕えすることを決めました。きっかけは中設楽の家のことでしたが――自分自身で決断したことです。それに、ほかに行き場もございません。元より舞姫にはふさわしくない身ではありますが――」

 許されるのならば、と声を絞り出す。

「わたしのような者でも、にせの舞姫ぐらいにはなれるでしょう。ですから、御傍に置いてくださいませ。お役に立ってみせます」

 不比等はしばらく沈黙した後、「わかった」と重々しく頷いた。

「本番まで少ししか時間がない。私も、できるだけあなたを支えよう。……熊切、稽古の準備をするぞ」
「承知しました」

 感情の読めない顔で、熊切はその場を離れた。その際に、楠緒子に何か気がかりなことを告げようとするような視線を投げたのだが――あれは気のせいだっただろうか。



 天女舞。これは神の使いとして天女が下りてきた際に、まとっていた羽衣を男が隠しとったために天上に帰れなくなり、盗んだ男を責めるも、恋に落ちてしまう女の舞だ。神歌は入らず、ただ静寂の中の舞のみで表現する。聞いただけでも、難易度の高さがうかがえる。
 楠緒子は、不比等に教わりながら稽古をはじめたのだが――すぐに壁が立ちはだかった。
 稽古中、楠緒子は下半身から崩れ落ちた。ばたん、と派手な音がした。
 不比等がすかさずそばにやってきた。

「大丈夫か。……なんだこの足は」

 不比等が、めくれ上がった袴から足を見てしまった。

 ――ああ、ばれてしまった。

 楠緒子が恐れていたことだった。
 どす黒い足。死者の足。

「しばらくすれば――治ります。ただ、足は動きません」

 楠緒子は告白した。

「幼いころ、わたしが死んだ時から、この足はすでに黄泉の国のものなのです……」

 かつて見た恐ろしい女性から告げられたことを繰り返す。

「時折、このような発作が起きるのです。ですからわたしは……本当の舞姫には、なれません……」
「なん、だと……?」

 驚く不比等に、楠緒子は脂汗をかきながら、近くの手すりを頼りに起き上がろうとする。

「無理するなッ!」

 滑った足ごと、不比等が支えた。焦ったような顔が近い。
 不比等は、楠緒子を庵に運んだ。だが、足はいっこうに良くならない。
 普段の彼女ならば、新しい舞を習得するのは簡単だっただろう。物部家の舞を少しずつ習っていたことも功を奏していた。
 こうして、残り短い準備期間が瞬く間に過ぎていったのだった。