「不比等が娘を《庵》に入れたようですね」
「では舞姫になるのは、中設楽の妾の子が」
「いいえ、いいえ。それはなりません。不比等に地位を固めさせるわけにはいきません」
「では、どうされるので」
「やりようはあります。花太夫が選んだ娘が舞姫にふさわしくないと示せればよいのですから。簡単なことです」
「……御前は怖いことをおっしゃる」
「もとより正統性はこちらのものですよ。我が子、忍成《おしなり》こそが真の花太夫であり、舞姫は櫻子さまにおいでいただくのが本来の道なのです」
「仕掛けるおつもりですか」
「布石だけは。勝負は別の時……大諒闇《だいりょうあん》が去った時に。それまでは忍成のために働いてもらいます。……おまえも、そのつもりでいなさい」
「承知しております」
楠緒子が物部家にやってきて、数日が経った。
不比等は日中のもろもろの所用を済ませた後に、楠緒子の庵まで行くことにした。
側仕えの熊切は彼女をあまりよく思っていないため、同行はしていない。
竹林を通り過ぎると、庵が見えてきた。
近づいてくると、良い匂いがした。
今日の夕食はなんだろうか。
つい数日前には考えてすらいなかった楽しみができていた。
きっかけは、不比等が差し入れた食材で楠緒子が料理を振る舞ったことだった。
楠緒子が台所に立つのを確認した後、戻ろうとしたのだが、彼女が引き留めたのである。
『不比等さまは食べていかれないのですか?』
食材は彼女の分だけのつもりで買わせてきたのだが、楠緒子は当然のように不比等の分もこしらえていたのだ。
楠緒子がせっかく申し出てくれたのだからと不比等はそのまま待つことにした。だが気がかりがあった。
『不比等さまのお口に合うかはわかりませんが……』
「口に合うか」。たしかに重要なことだった。
不比等はかつて毒を盛られたことがある。幸いにも大事に至らなかったが、以来、自分の見ていないところで人の料理したものを口にできなくなった。
――私の舌も馬鹿になってしまったからな……。
味に頓着しなくなったせいか、「おいしい」も「おいしくない」もよくわからなくなった。ただ、食事を摂取しなければならないという義務感でどうにかこうにかやりくりしてきた。
最後に美味しく食事をとれたのがいつかもすでに覚えていなかった。
楠緒子が用意した膳は簡単なものだった。白米、汁物、煮びたし、焼き魚。
『申し訳ありません、物部家の味付けを知らないものですから、こちらで勝手に味付けしました』
膳を不比等の前に置いた彼女はやや遠慮がちに引き下がる。
『あなたが気にすることはない。……いただこう』
せっかく彼女が用意してくれたのだ。うれしくないわけがなかった。
思えば前世の楠緒子は台所に立たなかった。これは彼女と過ごした時間はあまり長くなかったこともあるが、物部家の「舞姫」は家の主婦としての役割をあまり求められなかったこともある。使用人がいたら十分足りるからだ。
この料理をおいしさを感じられなかったとしても、気持ちだけでありがたくいただこう。
不比等は箸で白米をすくい、口に運ぶ。
『っ!』
『不比等さま?』
突然、口元を押さえてうつむく不比等に、楠緒子が慌てた顔になる。
むせたのかと思ったようで、不比等の背に手を添えようとしたのだが、不比等が己の手でそれを押し留めた。
『いや、大丈夫だ……。あまりにも、美味いものだから、驚いてしまった』
もしや。そんな思いで、震えた手で汁物を口にする。
――美味いな。
青菜の煮びたしと、鯵の焼き魚も美味しい。味がある。おいしいと感じたのだ。
あまりにも新鮮な驚きだった。料理をおいしいと思える日が来るなど思わなかったのだ。
不比等はがつがつと膳を完食した。
『人生でこんなに美味いものを食べられたのは初めてだ……』
人間、本当においしいものを口にすると、作った人に礼を言いたくなるものらしい。不比等が口を滑らせれば、楠緒子の目が見開いた。戸惑ったような顔のまま、彼女の口が動く。
『それは、ようございました。……よろしければ、また食べにきてください』
それからだれが見ているわけではないのに、そそくさと別れたのだが。
以来、不比等は日に二度、楠緒子のところで食事を摂ることになっていったのだ。
そして、今も、彼女の住まう庵までやってきた。
「不比等さま。……ようこそお越しくださいました。もう少しですのでお待ちを」
庵にある小さな台所から顔を出した楠緒子はすぐにまた調理に戻った。
ぱちぱちと油が跳ねる音が短い廊下にも響く。今日は天ぷらだろうか、と不比等が思いながら待っていると。
「……今日は洋食か」
目の前に出されたのは、きつね色に揚げたふたつの塊。白米と汁物はついているが、中央に鎮座するその料理に意外な思いがした。
楠緒子の作る料理はこれまで和食ばかりだったからだ。外つ国の料理まで作れるとは思っていなかった。
「今日はコロッケにしてみました」
「ふむ……これが……」
まじまじと眺めていると、楠緒子がこちらを見ていることに気づく。どことなく、緊張をはらんだ視線だ。不比等と目が合えば、顔が伏せられる。
「もしかして、洋食はお気に召しませんでしたでしょうか」
「いや、見聞きはしていたが、実際に食べるのは初めてなもので、見入っていたんだ。喜んでいただこう」
物部家の食事はもっぱら和食で、不比等自身も味覚の問題からこれまで食事に頓着してこなかった。
手を合わせてから、さっそくコロッケに箸を入れる。さくり、と小気味良い音がして、身が割れていく。ひとくち分を作り、口に運ぶ。じゃがいもと肉のほっこりとした食感が、うまいという感情を呼び起こした。
「コロッケか……これはよいものだな」
楠緒子にそう伝えれば、彼女の顔が緩む。
「よろしゅうございました。和食ばかりでも飽きてしまわれるかもしれないと思いまして……」
「そんなことはない。だがあなたが洋食を作れるとは思っていなかった」
「中設楽の方たち……特に明子さまは新しいもの好きでしたから。コロッケも、どこかの洋食屋で食べたものが美味しかったからとわたしにも同じものを作れるようにわがままをおっしゃって……その時に、作り方を覚えました」
「そうか、中設楽家で……」
コロッケ自体はおいしいが、中設楽家での苦労を垣間見ると、そうも言っていられないような気になる。
「……不比等さまはいつもおいしそうに食べてくださるから、作り甲斐があります。コロッケを出しても食べてくださるかもしれないと思いました」
「あなたが作るものならなんでも食べられる」
不比等はコロッケをしっかり味わった。
白米と汁物も平らげた後、改めて彼女へ告げた。
「今日の料理でも確信したのだが、あなたの料理には霊力が宿っているようだ」
「霊力……ですか」
「そうだ。おそらくあなたがひとつひとつ食材に手をかけ、料理を作り上げる過程で、料理そのものにもあなたの霊力が染み付いているんだ。それは、和食のみならず、このコロッケにもある。霊力が宿ることで、元々の食材が持つ力が引き上げられ、よりおいしくなる」
「は、はあ……」
楠緒子には戸惑うような顔で聞いている。だが、これは極めて重要なことだった。
「それも私とあなたの霊力は馴染みがいい。食べた後には不思議と力が増す。そして、あなたの料理だけは……私にも味がわかる。あなたの霊力がそうさせるのだろう」
「不比等さまは……味覚が……?」
楠緒子の疑問に不比等は頷いた。
「昔、毒にあたったことがあってな。あなたのおかげで久しく忘れていた食事の楽しみができた」
「そうでしたか……」
彼女は少し顔を伏せた後、意を決した様子で居住まいを正した。
「そういうことでしたら、わたしもここのお屋敷でお役に立てると思います。これからも精一杯務めさせていただきます」
頭を下げられる。
不比等は「顔をあげてほしい」と告げた。
「こちらこそあなたに来てもらって助かった。……感謝する」
顔を上げた楠緒子に、不比等も頭を下げた。
夕食をとっても、この時季の外はまだ明るい。
楠緒子も自分の夕食を摂り、新米女中のしぐれに手伝ってもらいながら片付けを早めに終わらせた。
タヌキのあやかしであるしぐれは、不比等が庵にくる時は極力側に寄らないようにしている。苦手意識もあるからだろうし、化けられる時間にも限りがあるようだ。だが、楠緒子が食材の買出しの際にはお供としてついてきてくれるし、重いものも苦にせず持ってくれるので助かっていた。昼間は折をみて、家事のやりかたを少しずつ教えている。
「くすおこさま。きょうもやりますか?」
「そのつもり」
「しぐれもみます」
そんな会話をしながら白い衣と袴に着替えて、庵の裏にある石舞台へ回る。
不比等はすでに支度を終えて待っていた。しぐれが人間の姿を保っていたが、石舞台が見えるぎりぎりのところに隠れるようにして立つ。
「お待たせしました」
楠緒子が石舞台の上まで歩いていくと、不比等の気配が変わる。身震いするような神々しさ。花太夫の威厳。
「では今日もはじめようか。……音を上げないように」
「よろしくお願いいたします」
楠緒子は、不比等に少しずつで構わないから舞の稽古をつけてほしいと頼んでいた。
舞を少しでもうまくなりたい。その一心である。
楠緒子の舞はあくまで我流なのだ。きちんとした師が欲しかった。
『それは構わないが……私は厳しいぞ?』
『構いません。私も、物部家に来たからには物部の舞を身につけたいのです』
不比等は熟考していたようだが、やがて了承した。
不比等の言っていたとおり、稽古は厳しいものだ。目線、足先、腰の位置。わずかな体の動きにも不比等の指摘が飛ぶ。
普通の人間ならば音を上げてもおかしくない。
けれど、楠緒子にとっては厳しいことも喜びだった。
中設楽家に生まれながら舞を習わせてもらえなかった。中設楽の舞を我流で真似してきただけ。それなのに、今や物部家の花太夫に直接指導をつけてもらえる。それこそ、贅沢すぎる贅沢だ。
足が擦り切れてもいい。胴がちぎれてしまってもいい。舞ができることへの喜びに優るものはない。
辺りが暗くなり、互いの顔が見えなくなるころ。不比等の稽古は終わった。
「ではまた明日」
そう言われて、今日も終わってしまったと名残惜しい気持ちになる。
本邸に戻っていく不比等を見送り、楠緒子は寝床についた。隣にはしぐれがたぬき姿で就寝している。
このまま穏やかな日が続くかと思われたのだが――早朝、楠緒子はある訪問客に叩き起こされた。
「おまえが本当に舞姫にふさわしいか――試させていただきます。これは物部家重鎮の総意なのです」
突然現れた見知らぬ女性にそう言い渡されたのであった。
「では舞姫になるのは、中設楽の妾の子が」
「いいえ、いいえ。それはなりません。不比等に地位を固めさせるわけにはいきません」
「では、どうされるので」
「やりようはあります。花太夫が選んだ娘が舞姫にふさわしくないと示せればよいのですから。簡単なことです」
「……御前は怖いことをおっしゃる」
「もとより正統性はこちらのものですよ。我が子、忍成《おしなり》こそが真の花太夫であり、舞姫は櫻子さまにおいでいただくのが本来の道なのです」
「仕掛けるおつもりですか」
「布石だけは。勝負は別の時……大諒闇《だいりょうあん》が去った時に。それまでは忍成のために働いてもらいます。……おまえも、そのつもりでいなさい」
「承知しております」
楠緒子が物部家にやってきて、数日が経った。
不比等は日中のもろもろの所用を済ませた後に、楠緒子の庵まで行くことにした。
側仕えの熊切は彼女をあまりよく思っていないため、同行はしていない。
竹林を通り過ぎると、庵が見えてきた。
近づいてくると、良い匂いがした。
今日の夕食はなんだろうか。
つい数日前には考えてすらいなかった楽しみができていた。
きっかけは、不比等が差し入れた食材で楠緒子が料理を振る舞ったことだった。
楠緒子が台所に立つのを確認した後、戻ろうとしたのだが、彼女が引き留めたのである。
『不比等さまは食べていかれないのですか?』
食材は彼女の分だけのつもりで買わせてきたのだが、楠緒子は当然のように不比等の分もこしらえていたのだ。
楠緒子がせっかく申し出てくれたのだからと不比等はそのまま待つことにした。だが気がかりがあった。
『不比等さまのお口に合うかはわかりませんが……』
「口に合うか」。たしかに重要なことだった。
不比等はかつて毒を盛られたことがある。幸いにも大事に至らなかったが、以来、自分の見ていないところで人の料理したものを口にできなくなった。
――私の舌も馬鹿になってしまったからな……。
味に頓着しなくなったせいか、「おいしい」も「おいしくない」もよくわからなくなった。ただ、食事を摂取しなければならないという義務感でどうにかこうにかやりくりしてきた。
最後に美味しく食事をとれたのがいつかもすでに覚えていなかった。
楠緒子が用意した膳は簡単なものだった。白米、汁物、煮びたし、焼き魚。
『申し訳ありません、物部家の味付けを知らないものですから、こちらで勝手に味付けしました』
膳を不比等の前に置いた彼女はやや遠慮がちに引き下がる。
『あなたが気にすることはない。……いただこう』
せっかく彼女が用意してくれたのだ。うれしくないわけがなかった。
思えば前世の楠緒子は台所に立たなかった。これは彼女と過ごした時間はあまり長くなかったこともあるが、物部家の「舞姫」は家の主婦としての役割をあまり求められなかったこともある。使用人がいたら十分足りるからだ。
この料理をおいしさを感じられなかったとしても、気持ちだけでありがたくいただこう。
不比等は箸で白米をすくい、口に運ぶ。
『っ!』
『不比等さま?』
突然、口元を押さえてうつむく不比等に、楠緒子が慌てた顔になる。
むせたのかと思ったようで、不比等の背に手を添えようとしたのだが、不比等が己の手でそれを押し留めた。
『いや、大丈夫だ……。あまりにも、美味いものだから、驚いてしまった』
もしや。そんな思いで、震えた手で汁物を口にする。
――美味いな。
青菜の煮びたしと、鯵の焼き魚も美味しい。味がある。おいしいと感じたのだ。
あまりにも新鮮な驚きだった。料理をおいしいと思える日が来るなど思わなかったのだ。
不比等はがつがつと膳を完食した。
『人生でこんなに美味いものを食べられたのは初めてだ……』
人間、本当においしいものを口にすると、作った人に礼を言いたくなるものらしい。不比等が口を滑らせれば、楠緒子の目が見開いた。戸惑ったような顔のまま、彼女の口が動く。
『それは、ようございました。……よろしければ、また食べにきてください』
それからだれが見ているわけではないのに、そそくさと別れたのだが。
以来、不比等は日に二度、楠緒子のところで食事を摂ることになっていったのだ。
そして、今も、彼女の住まう庵までやってきた。
「不比等さま。……ようこそお越しくださいました。もう少しですのでお待ちを」
庵にある小さな台所から顔を出した楠緒子はすぐにまた調理に戻った。
ぱちぱちと油が跳ねる音が短い廊下にも響く。今日は天ぷらだろうか、と不比等が思いながら待っていると。
「……今日は洋食か」
目の前に出されたのは、きつね色に揚げたふたつの塊。白米と汁物はついているが、中央に鎮座するその料理に意外な思いがした。
楠緒子の作る料理はこれまで和食ばかりだったからだ。外つ国の料理まで作れるとは思っていなかった。
「今日はコロッケにしてみました」
「ふむ……これが……」
まじまじと眺めていると、楠緒子がこちらを見ていることに気づく。どことなく、緊張をはらんだ視線だ。不比等と目が合えば、顔が伏せられる。
「もしかして、洋食はお気に召しませんでしたでしょうか」
「いや、見聞きはしていたが、実際に食べるのは初めてなもので、見入っていたんだ。喜んでいただこう」
物部家の食事はもっぱら和食で、不比等自身も味覚の問題からこれまで食事に頓着してこなかった。
手を合わせてから、さっそくコロッケに箸を入れる。さくり、と小気味良い音がして、身が割れていく。ひとくち分を作り、口に運ぶ。じゃがいもと肉のほっこりとした食感が、うまいという感情を呼び起こした。
「コロッケか……これはよいものだな」
楠緒子にそう伝えれば、彼女の顔が緩む。
「よろしゅうございました。和食ばかりでも飽きてしまわれるかもしれないと思いまして……」
「そんなことはない。だがあなたが洋食を作れるとは思っていなかった」
「中設楽の方たち……特に明子さまは新しいもの好きでしたから。コロッケも、どこかの洋食屋で食べたものが美味しかったからとわたしにも同じものを作れるようにわがままをおっしゃって……その時に、作り方を覚えました」
「そうか、中設楽家で……」
コロッケ自体はおいしいが、中設楽家での苦労を垣間見ると、そうも言っていられないような気になる。
「……不比等さまはいつもおいしそうに食べてくださるから、作り甲斐があります。コロッケを出しても食べてくださるかもしれないと思いました」
「あなたが作るものならなんでも食べられる」
不比等はコロッケをしっかり味わった。
白米と汁物も平らげた後、改めて彼女へ告げた。
「今日の料理でも確信したのだが、あなたの料理には霊力が宿っているようだ」
「霊力……ですか」
「そうだ。おそらくあなたがひとつひとつ食材に手をかけ、料理を作り上げる過程で、料理そのものにもあなたの霊力が染み付いているんだ。それは、和食のみならず、このコロッケにもある。霊力が宿ることで、元々の食材が持つ力が引き上げられ、よりおいしくなる」
「は、はあ……」
楠緒子には戸惑うような顔で聞いている。だが、これは極めて重要なことだった。
「それも私とあなたの霊力は馴染みがいい。食べた後には不思議と力が増す。そして、あなたの料理だけは……私にも味がわかる。あなたの霊力がそうさせるのだろう」
「不比等さまは……味覚が……?」
楠緒子の疑問に不比等は頷いた。
「昔、毒にあたったことがあってな。あなたのおかげで久しく忘れていた食事の楽しみができた」
「そうでしたか……」
彼女は少し顔を伏せた後、意を決した様子で居住まいを正した。
「そういうことでしたら、わたしもここのお屋敷でお役に立てると思います。これからも精一杯務めさせていただきます」
頭を下げられる。
不比等は「顔をあげてほしい」と告げた。
「こちらこそあなたに来てもらって助かった。……感謝する」
顔を上げた楠緒子に、不比等も頭を下げた。
夕食をとっても、この時季の外はまだ明るい。
楠緒子も自分の夕食を摂り、新米女中のしぐれに手伝ってもらいながら片付けを早めに終わらせた。
タヌキのあやかしであるしぐれは、不比等が庵にくる時は極力側に寄らないようにしている。苦手意識もあるからだろうし、化けられる時間にも限りがあるようだ。だが、楠緒子が食材の買出しの際にはお供としてついてきてくれるし、重いものも苦にせず持ってくれるので助かっていた。昼間は折をみて、家事のやりかたを少しずつ教えている。
「くすおこさま。きょうもやりますか?」
「そのつもり」
「しぐれもみます」
そんな会話をしながら白い衣と袴に着替えて、庵の裏にある石舞台へ回る。
不比等はすでに支度を終えて待っていた。しぐれが人間の姿を保っていたが、石舞台が見えるぎりぎりのところに隠れるようにして立つ。
「お待たせしました」
楠緒子が石舞台の上まで歩いていくと、不比等の気配が変わる。身震いするような神々しさ。花太夫の威厳。
「では今日もはじめようか。……音を上げないように」
「よろしくお願いいたします」
楠緒子は、不比等に少しずつで構わないから舞の稽古をつけてほしいと頼んでいた。
舞を少しでもうまくなりたい。その一心である。
楠緒子の舞はあくまで我流なのだ。きちんとした師が欲しかった。
『それは構わないが……私は厳しいぞ?』
『構いません。私も、物部家に来たからには物部の舞を身につけたいのです』
不比等は熟考していたようだが、やがて了承した。
不比等の言っていたとおり、稽古は厳しいものだ。目線、足先、腰の位置。わずかな体の動きにも不比等の指摘が飛ぶ。
普通の人間ならば音を上げてもおかしくない。
けれど、楠緒子にとっては厳しいことも喜びだった。
中設楽家に生まれながら舞を習わせてもらえなかった。中設楽の舞を我流で真似してきただけ。それなのに、今や物部家の花太夫に直接指導をつけてもらえる。それこそ、贅沢すぎる贅沢だ。
足が擦り切れてもいい。胴がちぎれてしまってもいい。舞ができることへの喜びに優るものはない。
辺りが暗くなり、互いの顔が見えなくなるころ。不比等の稽古は終わった。
「ではまた明日」
そう言われて、今日も終わってしまったと名残惜しい気持ちになる。
本邸に戻っていく不比等を見送り、楠緒子は寝床についた。隣にはしぐれがたぬき姿で就寝している。
このまま穏やかな日が続くかと思われたのだが――早朝、楠緒子はある訪問客に叩き起こされた。
「おまえが本当に舞姫にふさわしいか――試させていただきます。これは物部家重鎮の総意なのです」
突然現れた見知らぬ女性にそう言い渡されたのであった。



