古くから、舞こそ神を招き、神をもてなし、神の助けを借りるための芸能だった。
 日ノ本には八百万(やおよろず)の神がいる。彼らは気まぐれで残酷だが、時に豊穣をもたらし、国家鎮護に力を貸してきた。外国勢力に囲まれてもなお、このちっぽけな島国が平穏無事でいられるのも、神たちの守りによるところが大きい。
 国家は早くから、神招きができる舞い手の保護に力を尽くし、時代を経るうちにその血統は七家に集約されていく。
 現在、その頂点に立つ家こそ、物部家(もののべけ)だ。当主は代々、「花太夫(はなたゆう)」と呼ばれ、国家のあらゆる神事を行い、長い歴史と多くの秘事を受け継いでいる。
 物部家の秘事のひとつに、「舞競(まいくら)べ」があった。
 物部家以外の名家である六家の娘たちを集めて、舞を競わせるもので、若き花太夫の花嫁選びも兼ねていた。
 これは夫婦で行う「番舞(つがいまい)」のためでもあった。男と女が舞うことでより強力な神の恩恵を受け取れる、もっとも格式の高い舞である。
 花太夫は霊力も高く、舞い手としての技量も高いため、女舞を担当する「舞姫」も、それ相応の者でなければならない。そうでなければ、「舞姫」が花太夫に押し負けて、神をよべないどころか、時に命すら危うくなるからだ。
 そのため、花太夫と同世代に生まれた六家の娘ならば、彼の花嫁となることを夢見て、幼いころから必死に舞をならう。
 よって、今宵行われる「舞競べ」でも、六家の娘が各々緊張に身を震わせながら、花太夫の前で舞を披露していた。
 広大な日本家屋を有する物部家の屋敷の奥深くの舞殿には、四方にかがり火がたかれ、太鼓、笛、手平鉦(てひらがね)の音が鳴り響く。内部の天蓋には注連縄が張られ、そこから五色の切り絵が垂れている。それらは夜風を受けてさやさやと揺れる。
 物部家の重鎮たちが居並ぶ中、六家からの「舞姫候補」はひとりずつ舞っていく。
 彼女たちは公平性を期すため、素性も舞う順番も花太夫には伏せられていた。純粋に、彼女たちの資質を見る場であるためだ。
 一人目、二人目、三人目……。
 ある意味で「舞競べ」の主役でもある花太夫は微笑みこそ面に貼り付けていたものの、内心は退屈していた。
 舞姫候補たちが見せてきたのは、どれもこれも変わり映えなく、たどたどしい「舞らしきもの」だったからだ。
 足さばきもよくなければ、旋回する際の重心もぶれている。霊力が高い娘が舞えば、すぐさま神が呼びかけにこたえ、時に花や雨を降らせ、天候をも変えるというが……。

《せいぜい、各家の土地神や精霊をよぶので精一杯とは。とてもではないが、私の舞には耐えられまい。六家の娘でさえも技量が届かないならば……だれが私の花嫁になれるというのだろう》

 花太夫は憂いの眼差しを伏せつつ、嘆息した。
 今の花太夫、物部不比等(もののべふひと)は二十三歳。白銀の髪を持つ美貌の男だ。蛇に呪われているという噂もあるが、とかく神秘的な伝説と不可思議な風聞に彩られている物部家にとってはたいした意味を持たない。

《近く、最高位の神々を招かなければならないのにも関わらず、これでは……》

 最高位の神々とは「天照大神(あまてらすのおおみかみ)」、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」、「月読命(つくよみのみこと)」の三柱である。
 歴代の当主の中でも随一の舞い手とも称される彼が求める「舞姫」の基準はあまりにも高いものだ。しかし、さすがに六家の娘の中に、「舞姫」の素質を見いだせる者もいるだろう。そう思っていたのだが……。

《この様子では期待できないな……》

 彼の感想通り、四人目、五人目の舞姫候補も、特に成果もなく舞を終えた。
 同席した物部家の面々も落胆を隠せないでいた。
 不比等も、最後の舞姫候補は見なくてもよいすら思っていた。
 しかし、「彼女」が舞殿に姿を現したとき、おや、と不比等がいぶかしむ。
 ほかの舞姫候補と違い、仮面をかぶっていたからだ。面をつけて舞うのは、民間ではよく聞くが、六家の伝統の型にはあまりない。

《それも死霊面(しりょうめん)か……。実物は初めて見るな。ますます珍しい》

 面に彫り込まれた陰鬱な表情。ある地方では無念の死を遂げた一族を弔うために作られ、舞に使用されていると聞く。不比等もこれまで史料から存在を知るのみだった。
 板敷の中心に、彼女は立った。すらりと伸びた手足に、背中でひとつに結わえられた黒々とした髪。白い衣に赤い袴を身に着け、採物(とりもの)として御幣(おんぬさ)を持っている。

《気になるな……》

 不比等はにわかに前のめりになる。面の下にある顔のこともそうだが、楚々とした立ち姿に妙ななつかしささえ覚えている。
 吹いていた風がいつのまにか止んでいた。
 不比等の好奇心もよそに、彼女はゆっくりと旋回しながら舞い始めた。楽の音が驚いたように彼女の後ろからついていく。
 サッ……サッ……。
 御幣がふられるたび、辺りが清められていくのを肌で感じる。足さばきは、まるで雲を踏むかのように優雅だ。
 舞い手の霊力が、器から水がこぼれるように、溢れていく。それはさわやかな青色のように不比等は感じた。
 彼女の頭上から優曇華(うどんげ)の華がひらひら落ちてくる。それはこの世の華ではなく、床に触れるや消えていく。ささやかな赤い花弁だ。とある神へ彼女の舞が届き、満足の意思を伝えているのだ。一族の者たちが熱心にささやき始める。「あの娘が一番だ」と。
 はじめは緩やかにはじまった舞が、さらに激しくなっていく。重心を保ったまま、彼女は何度も何度も旋回した。身体に遅れて動く袖や髪が美しい残像を見せている。指先は、鳥の翼のように自由だった。
 優曇華の華が消え、青い燐光が彼女の体にまとっていく。燐光は大きく、大きくふくらんで……青い蝶の群れとなり、羽ばたき、空に散った。この現象は見る者すべての肌を粟立たせた。
 不比等さえ、腰をうかせて見入っていた。

《まさかこの娘、《神憑(かみが)かり》しようと……! いったい、どの神を》

 舞い手の中に「神」が乗り移る。神が舞い手を気に入った究極のしるし。《神憑かり》は舞い手なら一度はあこがれる境地だ。
 娘は立ち止まり、「人でない目つき」でその場にいたもっとも高位の人間――不比等を見つめた。
 不比等は興奮した。《神憑かり》の段階まで至れる舞姫は、歴代でも数人しかいなかったという。男である不比等にはできない技だった。
 彼は作法にのっとって彼女の前に伏した。

「物部不比等と申します。ようこそお越しくださいました。どうか、御名をお示しくださいませ」

 女はしばらくの沈黙の後、かすかに、「いざ、な、み、の……」と唱え、視線を逸らして、ゆっくりと舞に戻った。
 長老衆がさらにざわつく。伊邪那美(いざなみ)といえば、天照大神たちの母である。冥界の女神なので神格を考えるのが難しいが、間違いなく強力な力を持つ。
 神懸かりの時間はごくわずかだった。しかし、期待をするには十分であった。

《この娘ならば、きっと……!》

 最後に御幣をサッ、と振り、彼女は舞を終えた。一瞬、屹立した彼女はそのまま力を尽きて崩れ落ちる。

「危ない!」

 不比等はすぐさま、自分の舞姫の元へ寄った。抱き起こす。仮面の下で、息を荒げていたので、少しためらうも、頭の後ろにあった紐を解く。
 からん、と仮面が彼女の顔から滑り落ちる。
 不比等は息をのんだ。

「君は……」

 綴じられていた巻物の紐がほどけていくように不比等は思い出していた。
 目が閉じられていても、その面立ちを知っている。
 一度は諦めるしかなかった女。
 別れすらも清々しかった女。
 失ってはならなかった女……。

『……きっと。生まれ変わって参りますから。そうしたら今度こそ一緒になりましょう……? 舞の腕もあげたら、晴れて、あなたの、妻に……』

 かつて。腕の中で命を落とした彼女ーー愛しい楠緒子(くすおこ)
 なんとしてでも会いたくて、不比等もふたたび同じ世に戻ってきた。
 そして、今、また「運命」に出会った。

《ああ、わかった。自分はこの(ひと)にもう一度会うために生まれてきたのだ》

 楠緒子にもたぐいまれなる舞の才があった。そのために命を縮めもしたけれど、今世ではそうさせまい。
 不比等の心が色づいていくようだった。こんな優しい気持ちを、今世で抱くのは初めてだった。

「この娘がいい。この娘にしよう」

 不比等は絶対の確信をもって周囲に宣言した。彼らも、圧倒的な差をつけた彼女を認めないわけにはいかないだろうと思ったが……。
 彼らの大半は、彼女の顔を見て、けげんな顔をしていた。一人の若手が進み出た。

「花太夫、実は……我々が聞いていた最後の舞姫候補は中設楽家《なかしたらけ》の大姫……明子様と伺っておりますが、明子様はこの方ではございません」
「なんだと……? 一体、どういうことだ?」
「さあ……我々もさっぱりでして」

 そこへ着物姿の女が舞殿に乱入した。栗毛の髪を振り乱し、目を怒らせながら、不比等の腕にいる少女を見つけるや、

「なんてことをしでかしてくれたのよっ、この泥棒猫! 我が家の恥め!」

 と少女へつかみかかろうとする。
 あまりにも品のない言いように、不比等は不快感をあらわにした。

「あなたは、なんだ?」

 問われた着物姿の少女は、不比等に気づくと、ぽっと顔を赤くした。声がみるみるうちに小さくなり、「中設楽の明子ですわ」と自らを名乗った。
 中設楽家の明子。本来、彼女が舞うはずだった少女だ。

《いったい、何が起きている……?》

 不比等は戸惑うも、腕の中のぬくもりは手放せそうになかった。



 楠緒子にとって、舞うことは生きること。幼いころから、家にいる舞い手たちの舞を見ながら育った。
 けれど。
 舞をならうことは許されなかった。すでに明子がいたから。毎日毎日へとへとになるまで働かされ、中設楽家の一員とは名乗れなかった。
 それでも。
 それでも。
 舞わなくちゃ、いけない気がした。
 見つけてほしい人がいる。霧の向こうで、楠緒子を待っている人がいる。なぜか胸がつまって、泣き出したくなるほど、大事な人だった。そんな気がする。
 楠緒子はいつも隠れて舞っていた。だれも見ない庭の片隅で、ぼろぼろの袖をひるがえし、時に血のにじむ足を引きずりながら、「見知らぬだれか」のために舞っていた。
 自分でも不思議に思っていた。

《そこまでして舞うのは、だれのためなんだろう……?》

 楠緒子の意識はゆっくりと「今」へ浮上していく。だれかに手を握られていた。

「ん……?」

 目が覚めた先には、真剣な面持ちでこちらを見つめてくる美しい男がいた。

《銀髪だ……。きれい……》

 日に透かせばきらきら輝くのではないか、と楠緒子は心で思う。
 きれいなものは、好きだ。彼女自身は持たせてもらえなかったけれど。
 しかし、これはどういうわけなのだろう。直前の記憶が抜け落ちていて、明子のお付きとして物部家の屋敷に入ったところまででしか覚えていない。

「あの、あなたは……?」

 すると、彼は少し落胆したようにも見えて、なんだか申し訳なくなった。

「私は不比等だ」

 相手が名乗った。同時に温かい手が楠緒子のそれを優しく包み込む。
 ふと、泣きたい気持ちになった。まるで、ずいぶん前に心ならずも別れてしまった恋人へ思うような……。

はじめまして(・・・・・・)、我が片翼の君。……あなたには急なことかもしれないが、あなたに、私の舞姫になってもらいたい」

 楠緒子にとって、その申し出は青天の霹靂だった。