「男は女より優れている」
 それが草原の(ウルス)の一つ、ゴラウン族の族長オトゴンバヤルの口癖だった。
 故に族長の娘セオラは、オトゴンバヤルが兄のシドゥルグや弟のチヌアばかりを褒めることに不満を抱いていた。そして勘違いをしてしまったのだ。
 女は優れていないから認められない。逆に考えれば、シドゥルグやチヌアよりも優れているところを父に示しさえすれば、女である自分も褒めてもらえるのだと。

 そう、それは完全なる勘違いだった。

 オトゴンバヤルが、ゴラウン族を挙げての狩猟大会を開催すると決めた日。十二歳だったセオラは実力を示すべく大会に出場すると決めた。
「セオラ姫様、どうかおやめください。族長様に叱られてしまいます!」
 当然ながら、参加は男にしか許されていない。セオラは男の装束を身に纏い、矢筒を背負うと馬に跨った。ばあやが必死に止めるのも聞かず。



「誰だ、あの少年は」
「チヌア様だとばかり思っていたが」
「しかし素晴らしい弓の名手だ」
 この日セオラは全ての参加者を退け、他の誰よりも大きく誰よりも多くの獲物を仕留め、見事大会の頂点に輝いた。
「見事な腕であった」
 褒美を与えんと段を降りてきたオトゴンバヤルは、これまで娘に見せたことのない最上の笑みを浮かべていた。
「そなたほどの腕前の男子がいれば、ゴウラン族の未来も明るい。しかし見ぬ顔だの。誰の息子だ」
 セオラは嬉しくなり、男物の帽子(マルガェ)を取って見せた。
「父上、セオラです! あなたの娘が、全ての男に勝利いたしました!」
 兄や弟のように褒めてもらえる、セオラは胸を弾ませそう言い放った。
 だが族長は顔色を変えた。ありえないものを見るように目を見開き、やがてその顔は怒りで赤黒く染まった。
「この、馬鹿者が!」
 伸びて来た手は頭を撫でるどころか、セオラの髪を掴むと地面へ引き倒した。
「きゃあっ!」
「女が男に恥をかかせるとは何事だ! この痴れ者が!」
 悲鳴を上げるセオラを、オトゴンバヤルは何度も蹴りつける。やがて族長は自分の膝の上へ娘をうつぶせに乗せると、その尻を部族全員の見守る中、幾度も打ち据え始めた。
「ははは、良い音がしおる! それ! それ!」
 オトゴンバヤルは観衆に目をやり、滑稽な見世物だろうと言わんばかりの顔をする。周囲の男たちは互いに目配せし、へつらうように嗤い始めた。
 セオラは恥ずかしさと屈辱と痛みで泣き出してしまう。
「母上! 助けて、母上!」
 しかし母ツェレンは、天幕の中でただ静かに微笑んでいるばかりであった。
 やがてオトゴンバヤルは満足気に笑うと、気遣い駆け寄って来たばあやに向かってセオラを放り投げた。
「さっさとその馬鹿を下げろ! 女がでしゃばればこんな目に遭うのだと、今日は良い勉強になっただろう」

 その夜、セオラは酷い熱を出した。一晩中、夢の中で男たちの嘲りの視線と嗤いを浴び続けた。
 一夜明け熱が引いた時、セオラの胸にあるのはただ父オトゴンバヤルに対する失望であった。
「セオラ姫様、大丈夫でございますか?」
「……うん」
 セオラは実力を示した。けれどオトゴンバヤルは、セオラが女と言うだけで𠮟りつけ、屈辱まで与えた。
 母親も私を見捨てた。このゴラウン族の中に、父に異を唱えられる者は一人もいない。
(あんなクソ野郎に、認めてもらおうなんて金輪際思わない)
 十二歳のセオラの胸に、冷え冷えとした思いは深く刻まれたのだった。



 五年が経過した。セオラの背丈や手足はすらりと伸び、瞳は星を宿したかのように輝く、美しくも凛々しい少女へと成長していた。
「む?」
 馬を操り、森の奥深くへ狩りに出かけたある日、国境にほど近い場所で蹲っている人の姿を認めた。
「誰だ、そこにいるのは」
 その人物はのっそりとした動きで、振り返った。
(若い男だ。この服装の刺繍は、サンサルロの人間だな。当直(ケシク)か?)
 相手が、普段から小競り合いを続けている国の人間だと悟り、セオラは油断なく弓に矢をつがえる。すると青年は慌てたように、胸の前で手を振った。
「ま、待ってよ! 撃たないで!」
「ここはゴウラン族の土地だ。サンサルロの人間が足を踏み入れてよい場所ではない」
「ごめんごめん、うっかり迷い込んでしまっただけなんだ! すぐに出ていくから、見逃してくれない?」
 青年は整った顔立ちをしていた。だが、顔つきはどうにも締まりがない。
(ここは国境からほど近い場所だ。この間抜け面なら、うっかり迷い込んだというのもありうる)
 サンサルロ族は獰猛な気性だと聞くが、目の前の青年からはそれらしいものが伝わってこなかった。何か懐に隠し持っている様子もない。セオラは矢を構えたまま青年に言い放った。
「三十数える間だけ待ってやる。その間にサンサルロへ戻れ。さもなくば射殺す」
「あ、ありがとう。えっ、なんで僕がサンサルロの人間だってわかったの?」
「服の刺繍を見れば一目瞭然だ。数え始めるぞ。一……」
「待って待って! 戻りたくても、どっちに進めばいいか分からないんだ」
(阿呆め)
 仕方なくセオラは構えた弓を下ろし、サンサルロの方角を指差す。
「そっちにまっすぐ進めば戻れる。早く行け」
「ありがとう、恩に着るよ」
 へにゃっと笑った青年の顔は、警戒心の欠片もない無邪気なものだった。セオラの張りつめた心がビリッと痺れる。あんな顔が出来るなんて、余程甘やかされて育ったに違いない。
「ところで君、どうして男のような物言いをするんだい?」
「……」
「とても可愛い顔をしているのに」
「一、二、三……」
 青年の言葉を聞き流し、セオラは数を数え始めた。青年は慌てて身を翻し、弾かれたように走り出す。その足取りに、セオラは目を見張った。
(早い。ゴウラン族にあれほど素早く動ける男はいない)
 草木の間を飛ぶように駆け抜けていく男の姿に、まるで牡鹿のようだとセオラは思った。

 狩りを終えたセオラは、集落へと戻って来た。
「ふぅ……」
 馬から降り、ぐっと背を伸ばす。見渡す限り天幕(ゲル)が張られている草原。これがセオラの物心ついてから毎日目にしてきた、遊牧民ゴウラン族の集落の風景だった。
「セオラ姫様」
 一つの天幕からばあやが姿を現わす。
「ばあや、収穫だ」
 セオラは笑うと、掴み上げた数羽の兎をばあやへ手渡した。
「処置を頼む」
 ばあやはそれを受け取り、使用人へと手渡した。
 セオラの天幕は今、母ツェレンの天幕群の中でも侍女たちの住む場所のすぐそばに張られていた。セオラの「できる限り父のいる場所から離れたい」と言う希望がかなえられ、五年前からこの位置になっている。
「セオラ様、こちらを」
 侍女の一人が恭しく何かを差し出す。
「なんだ、これは。……本?」
「はい、先ほどニルツェツェグ様よりお預かりしました」
「ニルツェツェグから?」
 年の離れた幼い妹の名を聞き、セオラは眉を上げる。
「隊商が来ているのです。そこに並ぶ品々の中で見つけられたそうで、きっと勉学好きなセオラ様ならお喜びになるだろうと。誰かのものになる前にニルツェツェグ様が買い上げられたとのことです」
「私のためにか、ありがたい」
 ページを開けば、そこには薬物や毒物に関する知識が細かな字でびっしりと記されている。
「これはすごいな。高かっただろうに」
「セオラ様が喜んでくれればそれでいい、とおっしゃっていました」
「そうか、だが……」
 セオラは顔を上げ、ばあやへと声を掛ける。
「先ほどの兎、処置を終えたらニルツェツェグの天幕へ二つほど届けてやってくれないか。この素晴らしい贈り物の対価としては、十分とは言い難いが」
 セオラの言葉に、ばあやは目を細める。
「かしこまりました。きっと妹君もお喜びになりますよ」



 事件が起きたのは、ある夜のことだった。
(ん? 馬の足音?)
 狩猟に()けたセオラの耳が、異変を感じ取った。本能が察する、良からぬものが集落へと踏み込んできたのだと。やがて、荒々しい怒鳴り声と女たちの悲鳴が耳に届いた。
 セオラは飛び起きると妹からもらった本を腹に括りつけ、身なりを整え武具を手に天幕を出た。
(何だこれは……!)
 既に集落の内部まで、外敵に侵攻されているのが分かった。
(あの刺繍は、サンサルロの……!)
「セオラ様ぁ!」
 馬に跨ったゴウランの男が、血相を変えて駆けこんで来る。その声に、あちこちの天幕が開き、侍女たちが顔を出した。
「すぐに森の中へお逃げください! サンサルロのやつらが……!」
 だが、彼の言葉は首を射抜く矢によって断ち切られてしまう。重い音を立てて馬から落ちた集落の男を前に、侍女たちは悲鳴を上げた。
「そこの女ども!」
 サンサルロの服を着た男が、闇の中から姿を現わす。セオラは弓を引こうとしたものの、すぐにその手を止めた。男の背後からも、サンサルロの兵士たちがぞろぞろと現れたからだった。彼らはゴウランの侍女たちを捕らえ、喉元に小刀(クドカ)を突きつけていた。
(私がここで抵抗すれば、きっと何人かの侍女たちが犠牲になる)
 弓を下ろしたセオラを見て、サンサルロ兵たちは満足気に笑った。
「女だてらに我らに盾突こうとはなかなかに勇ましい。だが、無駄な抵抗だ。さぁ、広場に集まれ」

 セオラは侍女たちと共に、族長オトゴンバヤルの天幕のある場所へと引き立てられる。すでにそこには、ゴウラン族の仲間たちが集められていた。
(父上……)
 うなだれて背を丸めた者たちの中には、セオラの父や母、兄弟たちの姿もあった。
(何をしているのだ、族長ともあろう者がこのように身を縮めて!)
 セオラの腹の底が熱く焼ける。しかし、サンサルロ族の勇猛さはセオラも耳にしていた。先ほどの自分と同じように、犠牲を出さぬよう大人しくしたのだろうと、自らを納得させた。
(しかし妙だ)
 草原の民は、他部族から女をかどわかし嫁にする風習がある。今宵もてっきり、それめあてで乗り込んできたかと思ったのだが。
(老若男女問わず集められているな……)
 辺りを観察するセオラに、怒鳴り声が跳んできた。
「家族のいる者は、家族の元へ行け! おらぬものは信頼できる人間同士で固まれ!」
 仕方なくセオラは、ここ数年顔も見せなかった家族の元へ赴く。オトゴンバヤルはセオラを一瞬ちらりと見やり、すぐにそっぽを向いてしまった。
「姉上」
 か細い声が夜の闇に霞む。不安げな顔つきの妹ニルツェツェグが、セオラを見上げている。
「大丈夫だ。私が守る」
 セオラは幼い妹の側にしゃがむと、そのか細い肩を抱いた。

「全員そろったな!」
 サンサルロ兵の胴間声が、篝火を揺らした。
「では、これからお前たちの中から人員を徴集する」
 人員?とセオラは疑問に思う。嫁探し目的でないとすればサンサルロ族によるゴウラン族の征服かと思ったのだが、それも違うようだ。
 だが、次に男がニタリと笑って口にしたのは、この上なく悪意に満ちた内容だった。
「それぞれの家族、もしくは集まりの中から、最も不要な人間を選んで差し出せ! さすれば、その他の者に手出しはせん」
 集落がどよめいた。
(酷い!)
 先程、彼らは家族で集まれと言った。家族のいない者は信頼できる者同士で集まれとも言った。
(その上でこんな惨いことを言うのか……!)
 怒りに震え、セオラが立ち上がろうと腰を浮かせた時だった。何者かが、強くセオラの背を押した。
 不意を突かれ、セオラは地面に倒れ伏す。振り返れば、篝火に顔を赤く染めた父親が、セオラに指を突きつけていた。
「お前だ!」
 フーフーと荒い息をつきながら、オトゴンバヤルは怒鳴る。
「我が家からはセオラを出す!! さぁ、皆の者も不要な人間をさっさと出せ!! それで残りの者は助かるのだ!」
「父上!」
 セオラは立ち上がり、父親の正面に立つ。
「なんだ、文句があるのか!」
 オトゴンバヤルは族長らしからぬ、キィキィとヒステリックな声を上げる。
「我に犠牲となれと言うのか? それとも自分の代わりに母親を差し出せとでも言うつもりか! 何という親不孝な娘だ、嘆かわしい!!」
「言ってない! 私は……」
「シドゥルグとチヌアは男だ! 男は血を繋ぐのに必要だから捨てられん。それともまさか、幼い妹のニルツェツェグを自分の代わりに犠牲にしろとでも言う気か? 何という残酷な娘に育ったのだ! 我は情けないぞ!!」
「違う!」
「じゃあ、なんだ!」
 暗がりの中で怒鳴り合う族長とその娘を、サンサルロ兵たちはニヤニヤと笑って眺めている。
 だが(いさか)っていたのはこの父娘だけではなかった。広場のあちこちで似たような光景は展開されていた。
「どうして私なんだ!? 要らないと言うなら、そいつだろう!」
「お願いだよ、見捨てないでおくれ。私はまだ死にたくない」
「ごめんなさい、許して! あなたに出て行ってもらうしかないの」
 セオラは阿鼻叫喚の様子に歯噛みをする。たとえ今からサンサルロの連中が「冗談だった」と言って、誰も連れ去ることなく引き上げたとしても、皆の心からは互いを信頼する気持ちが失われてしまっているだろう。
「父上、あなたはこれを見て何も思わないのか」
 セオラが声を震わせながら、集落の民を指し示す。
「ゴウラン族を守るのが、族長であるあなたの役目だろう。なぜ戦おうとしない? 交渉もしない? 言われるがままに民を見捨てることを選ぶのか!」
 だが憤るセオラを前に、オトゴンバヤルはやれやれと肩をすくめた。
「大局の見えぬ女には分からんのだなぁ。族長は、多くの民を救うための判断をせねばならん。一家族から一人差し出しさえすれば、残りは安泰に暮らせるのだぞ? 戦って多くの犠牲者を出すよりこちらの方がいいと、少し頭を働かせばわかるはずだ」
(あぁ……)
 セオラは眩暈を覚える。
(何が大局だ。その判断は、ゴウラン族の結束を失わせかねないのに……!)
「族長」
 気付けば、首の太いサンサルロ兵がセオラの背後に立っていた。これまでの様子から、この男が軍の指揮官のようだった。
「この娘は要らないんだな?」
「はい、どうぞ。好きに使ってやってください」
 へらへらと追従笑いをする父親に、セオラは何度目かの失望を覚える。
(たかが軍の一指揮官に過ぎぬ男に、族長ともあろう者が尻尾を振るとは……)
 セオラの手から弓矢が奪われ、地面へと投げ捨てられる。
「気が強い女は悪くないが、こいつは今回必要ねぇんだ」
「要らぬ者」たちは追われる羊のように、集落から連れ出される。
「父上」
 どうしても気が収まらず、セオラは振り返り父親に言い放った。
「あなたがそんなだから、ゴウラン族はここまで衰退したのだ。かつてはここも大きな(ウルス)だったのに」
 オトゴンバヤルがカッとなり立ち上がる。しかしサンサルロの男たちの割れるような嘲笑に包まれ、何も言い返せずただ口元をぶるぶると震わせ立ちすくむばかりだった。


 夜道の中、セオラたちは連行される。
(傷病者や老人が多い……)
 サンサルロ兵は「不要な人間」を出すよう言った。
 故に、戦力や労働力となる人間を残すようにした結果こうなったのだろう。
「大丈夫か」
 足をよたつかせる老人に声を掛けたセオラに鞭が跳んで来た。
「余計な口を聞くな」
 セオラはキッと睨み返す。男は一瞬怯んだが、すぐにニタニタと下卑た笑いを浮かべた。
「族長様の姫君は、気位が高くていいねぇ」
 芋虫のような指先が、セオラの頬をペタペタと撫でる。
「だが捨てられたんだよなぁ。見限られたんだよなぁ。ならどうだ? 俺がもらってやろうかい」
「おい、やめろ」
 別の兵士がたしなめる。
「そいつらは例の作戦に使う奴らだ。勝手なことをすればバル様に叱られるぞ」
 男がセオラの頬から手を離した。
「チッ、勿体ねぇなぁ」
 未練がましくセオラを振り返りながら、男は隊列に戻る。
(例の作戦?)
 セオラはゴウラン族の老人を庇いながら、聞こえてきた言葉を頭の中で反芻した。


 森の中を夜通し歩き続け、一行は国境を越えた。
(ここは……)
 サンサルロとゴウランが接している場所ではあるが、西を向けばアルトゥザムとの国境がすぐ目の前にあった。ゴウランは、大国サンサルロと強国アルトゥザムが隣り合う箇所の、ちょうど両方の南部にへばりつくように存在している小さな国だった。
(嫌な予感がする)
 草原の民は、互いに互いの土地に侵入しては小競り合いの後に領地を削り合うことを繰り返してきた。今やすっかり力を失ったゴウランはともかく、サンサルロとアルトゥザムにとってそれは今も日常茶飯事だと聞いている。
「来い、お前たち!」
 サンサルロ兵はセオラ達を、深い森を挟んで道が二股に別れた箇所へと連れて行く。そして古びてまともに使えそうにない弓矢を、バラバラと虜囚へ投げつけた。
「いいか、俺たちは今からアルトゥザムに乗り込み、ひと騒ぎをしてすぐに引き返してくる。奴らは怒り狂って追ってくるだろう。俺たちは北の道へ引く。お前たちは南の道を行け。その武器で抵抗しながらな。奴らはお前たちを敵とみなし、襲い掛かってくるだろう。そこを森に身を潜めた俺たちが仕留めるって寸法だ」
(卑劣漢どもめ)
 得意げに語るサンサルロ兵に、セオラは怒りを覚えた。「要らぬ者」と言われ差し出されたのは、傷病者や老人など機敏に動けない者が多い。自分たちは馬で素早く移動しながら、まともに逃げられない人間を敵の気を引くために眼前へ放り出し、それを囮に陰から攻撃をすると言っている。しかも、森から道に向かって射かければ、間違いなく虜囚たちも巻き添えを食らうだろう。
(自分たちの小競り合いを成功させるため、無関係のゴウランの民を餌にする心づもりか)
 セオラの目の前で男たちが出発する。都合のいい囮を手に入れた男たちは、浮かれた様子でアルトゥザムとの国境へと向かい始めた。
 セオラは素早く最後尾の男の馬に飛び乗ると、男の首を絞めて気絶させた。即座に男の帽子(マルガェ)を毟り取り自分の頭へ乗せる。物音を怪訝に思い振り返ったサンサルロ兵の一人は、馬の影から覗く帽子を目の端で認め、気のせいだったかと視線を前方へ戻した。セオラは巧みに馬を操り、サンサルロ兵たちから徐々に距離を置く。十分に間が空いたところで、ゴウランの仲間たちの元へと戻った。
「セオラ様!」
「シッ」
 セオラは、気絶させた兵士を森の中へ放り出し、虜囚たちに蔓で縛り上げるように指示を出す。
「それから皆も、森へ隠れておけ。武器だけは持ってな。だがあいつらの言う通り、南の道を進んではだめだ」
「姫様、何をなさるおつもりですか?」
 セオラは白い歯を見せて笑い、男から奪った弓矢を携えた。
「あがいてくる」

 サンサルロ兵士たちは、アルトゥザムへ侵入するやひと暴れをする。そしてすぐさま馬を駆りサンサルロの領内へと取って返した。予定ではその勢いのまま北の道へ侵入し、追ってきたアルトゥザムの人間は、南の道をもたもたと進むゴウランの虜囚に気を取られるはずだった。
 しかし、分かれ道まで戻ってきた時にサンサルロの男たちは目を剥いた。ゴウランの虜囚たちの姿がない。
「あいつら、どこへ逃げやがった」
「追手が来る! ひとまず予定通り、北の道へ進むぞ」
 だがその時、森に隠れていたセオラが馬を操り飛び出してきた。
「なっ!」
 そのまま、たった今彼らが今騒ぎを起こしてきたアルトゥザムに向かって突進する。
「ば、馬鹿め! 死ぬ気か!?」
 セオラは手綱を引き締め、アルトゥザムとの国境へと向かう。その時、正面から飛んで来た弓が、セオラの耳元を掠めた。
(今だ!)
 セオラはすぐさま馬の頭を逆へ向け、今来た道を戻る。時おり馬上で身を捻り、追手に向かって矢を射かけながら。そしてアルトゥザムの連中を誘導しながら北の道へ突っ込んできた。
「ば、馬鹿っ!」
「こっち連れて来るな!」
 セオラは不敵に笑うと、馬から飛び降り藪へと身を躍らせた。すぐさま体を反転させ身を低くして矢をつがえ、追って来たアルトゥザムの兵に向かって射かける。ギャッと悲鳴を上げ、追手が馬から転げ落ちたのが見えた。
 タンッと音がして、セオラのいる近くの樹に矢が刺さる。
(ふ、やるな)
 方角からしてこれは、向かいの森から放たれたものだ。恐らくそこに身を潜めた仲間のうちの誰かが、渡された壊れかけの弓を使い攻撃をしたのだと思った。
 思わぬ方向から飛来した矢に、アルトゥザムの追手の陣形が乱れる。そこへサンサルロ兵が追撃し、追手は不利と見たのか引き返していった。



「この女!」
 危機が去った途端、サンサルロの男たちは怒りを爆発させた。藪からセオラを引きずり出し、地面へ押さえつける。
「お前たちには囮の役目を命じておいたはずだ! なぜ勝手な真似をした。俺たちを殺す気か!」
 固い地面で肌を傷つけ苦痛に顔をゆがめながらも、セオラはふてぶてしく笑って見せる。
「お前たちの策より私の作戦の方が、犠牲が少ないと思ったからな。事実そうだっただろう?」
「黙れ黙れ!」
 指揮官と思しき首の太い男が腰の刀を抜きながら迫って来た。湾刀(クルチ)の先をセオラの喉元へ突きつけると、憎々し気に顔を歪める。
「ゴウランの族長の娘、セオラ。お前の見目は悪くない。いい手土産になると思ったが、女だてらに生意気が過ぎる。残念だが、ここで首を落してやる」
 ゴウランの虜囚たちが悲鳴を上げた。草原の民にとって地に血を流す死とは、生まれ変わることを許されず、この世に悪霊としてとどまることを意味する。貴人にとって侮辱とも言える処刑法である。
「待て」
「なんだ。今更泣き言か?」
 怒りを漲らせる男へ、セオラは落ち着いた口調で告げた。
「違う。私のことは殺せ。ただゴウランの仲間たちは、サンサルロへ迎え入れてやってくれ」
 セオラの言葉に、猪首の男は毒気を抜かれた顔つきになる。やがて身を反らして笑うと、「いいだろう」と答えた。
「セオラ様!」
「姫様ぁ!」
 ゴウランの仲間の悲鳴に、セオラは薄く笑って見せる。
(この世界にはうんざりした)
 例え実力を示しても、女であるというだけで厄災のように扱われる。
(……解放してくれ)

 覚悟を決め、目を閉じた時だった。
「勝手なことをするな、バル」
 よく通る若々しい声が、その場の空気を震わせた。
「ジャンブール様!」
 バタバタと慌ただしく、自分の周りから人の気配が遠のくのをセオラは感じ取る。
(ジャンブール?)
 目を開けば一人の青年が側にしゃがみ込み、セオラへ手を差し出していた。
「お前は……!」
 その顔に見覚えがあった。セオラは青年の手に引かれ、ゆっくりと身を起こす。
「あの時の、国境を越えて来た迷子の当直(ケシク)か?」
 牡鹿のように身軽に森の中を駆け抜けていった後ろ姿は、今でもありありと思い出せる。
 だがそこへ、胴間声が飛んで来た。
「無礼者っ!」
 先程、セオラを殺そうとした猪首の男だった。
「ジャンプール王に向かって当直とは何事だっ! この御方は……!」
「黙れ、バル。僕は王になるつもりはない」
「っ! ですが……」
「それから、誰がこんな真似をしろと言った? 今は特に、他族と揉め事を起こさぬよう厳しく申しつけておいたはずだ」
 青年の口から発せられた静かな怒りの声に、バルと呼ばれた男はへつらうように笑う。
「そ、それは。ジャンブール様の領地を少しでも広げておこうと思いまして、忠臣として出来るだけのことを……」
「命令もなく、二度とこんな真似をするな」
 主の言葉に、バルはぐっと唇を噛み言葉を止めた。
「……王、なのか? サンサルロの?」
 セオラの問いに、ジャンブールは困ったように笑い、首を横に振った。
「違うよ。まぁ、君と同じだね。族長の子って意味で」
(サンサルロの王子……)
 サンサルロは大国だ。ゴウランとは比べ物にならない。その上族長の息子となれば、将来は国を背負って立つ者の一人と言うことになる。
(同じなものか)
 族長の姫に生まれながら、父親から冷遇され続けたことを思い出し、胸が悪くなった。
 その時、不意に体が軽々と浮き上がる。
「えっ?」
 セオラはジャンブールの腕の中へ抱え上げられていた。
「何をする、下ろせ!」
「君は怪我をしている」
 そう言って、ジャンブールは傷ついたセオラの頬に唇を寄せる。セオラは息を飲み身をすくめた。
 そのままジャンブールは一頭の馬の所まで歩いてゆくと、セオラを乗せる。そしてその後ろに自分もひらりと跨った。
「お前たち」
 ジャンブールは振り返り、サンサルロ兵たちへ言葉を放つ。
「そこのゴウランの者らを連れて帰れ。足の悪い者もいるようだから、決して急かすな。乱暴を働いたり怒鳴りつけたりすれば罰を与える。いいな?」
「かしこまりました!」
 恭しく跪くサンサルロの男たちを残し、ジャンブールの馬は軽やかに駆け出した。
「待て、ジャンブール!」
 馬に乗せられたセオラは、遠のいていく仲間たちの姿を振り返る。
「私も仲間たちと一緒に歩いていく」
「それは許可できないなぁ。君はさっき、バルたちからこっぴどくやられていたからね。一刻も早く治療をしなくては」
「私は平気だ。だが、あの者らの中には年老いて十分に歩けぬ者もいる。馬に乗せるなら、そちらが先だ」
「バルたちにはしっかり言いつけておいた。足の悪い者を馬に乗せるのは、彼らがやるだろう。まさか僕の命令に逆らいはしないさ」
 穏やかな表情と口調ではあるが、自信を漂わせたジャンプールの物言いに、セオラの胸の奥がチリッと痛んだ。
「ん? どうかしたの?」
「……なんでもない」
「ならいい」
 二人を乗せた馬は、飛ぶように草原を駆け抜けた。



 サンサルロの集落へ到着すると、セオラは天幕の一つへと案内され、そこで丁寧な治療を受けた。
(なんだこれは……)
 治療を終えると、清潔で新しい服まで用意されている。しかもかなり豪奢な刺繍がほどこされた仕立ての良いものだ。奴隷に問うと、それはジャンブールがセオラのために用意したものだと伝えられた。

 治療と身支度をすっかり終えると、セオラはジャンブールの天幕へと案内された。
「へぇ」
 ジャンブールはセオラを見て、目を輝かせる。そして柔らかく口元をほころばせた。
「うん、すごくきれいだ」
「……」
「その色、絶対セオラに合うと思ったんだ。けれどここまで似合うなんてね」
 セオラは表情を硬くしたまま、はしゃぐジャンブールを見返している。
「あれ? その服、気に入らなかった? 別の色が好き?」
「いえ。大変ありがたいと思っている」
「それならいいけど。どうしたの、怖い顔をして」
「私をどうするつもりだ」
 セオラの言葉に、ジャンブールはきょとんとなる。
「どう、って?」
「私はサンサルロ兵の虜囚となった。この地において私は、奴隷のようなものだ。なのにこんなきらびやかな服を与えて」
 セオラはギッとジャンブールを睨みつける。
「皆で慰み者にする気か?」
「えぇえええ、しないしない!」
 慌てたようにジャンブールは両手を大きく振った。
「まぁ、でも」
 ジャンブールはすぐにいたずらっぽい目線をセオラへ寄こす。
「ちょっとお願いを聞いてもらおうかな、とは思ってる」
「願い?」
 眉間に皺を寄せたセオラへ、ジャンブールはにこやかな微笑みを返す。
「うん。君には僕の後宮(オルド)で第一妃になってもらおうかな、って」
(あぁ、そういうことか……)
 セオラは大きく息をつく。草原の民の間では、妻にするための女を略奪することなど日常茶飯事だ。
「なら、私だけを攫えばよかったのだ。私ならゴウランには何の未練もない。抵抗など一切せず大人しくかどわかされてやった。なぜ関係ない者までゴウランから連れ出した。しかも、命を脅かすような真似までして」
「誤解があるようだけど」
 ジャンブールはセオラをベッド(オル)へと腰かけさせる。 
「僕が君を第一妃に求めるのと、今回のバルによるゴウラン襲撃の件は別物だ。あれはバルによる勝手な暴走。信じてほしいと言っても難しいかもしれないけれど、僕の知らないところで行われたことだった。……ごめんね、辛い思いをさせた」
 ジャンブールの言葉に、セオラはふんと鼻で笑う。
「別に辛くなどない。私自身はあのクソ親父から解放されて清々している」
「クソ親父?」
「お前の所のバルはゴウラン族に『身内の中から要らぬ人間を一人差し出せ』と言ったのだ。そしてオトゴンバヤが不要と判断し、放り出した人間が私だ」
「……」
 ジャンブールは返す言葉が見つからず口をつぐむ。しかしセオラは、からからと陽気に笑った。
「つまり私を第一妃にしても、お前に得はない。それどころか小国の不要物である私を第一妃などにすれば、お前の名に傷がつこう。わかったら、第一妃にはもっとましな別の女を……」
「いや、僕の第一妃は君しか考えられない」
 ジャンブールの確信を持った声音に、セオラは小さく息を飲む。そして小声で「物好きめ」と呟いた。
「しかし酷いな」
「何がだ」
「君の父親の、キミに対する仕打ちだ」
「だからそれは気にしていないと……」
 セオラの手に、ジャンブールの大きな手が重なる。
「僕が許せないんだ。君がどう思っていようと」
 ピリ、と胸の奥が痛む。長年気付かないふりをしてきた感情、それを包み込む膜がほころびてしまいそうで、セオラは動揺した。
「なぜ、私を第一妃に望む」
「僕には必要なんだ。セオラのように賢くて強く、腕の立つ人が」
 ジャンプールの言葉に、セオラの心臓が一つ跳ねた。
「強くて、腕の立つ?」
「そう」
 言ってジャンブールはセオラを引き寄せると、更に声を潜めた。
「サンサルロは今、内部情勢が微妙なんだよ。実は先日、王である父が亡くなった」
 えっ、と声を上げそうになったセオラの口元へ、ジャンブールは指先を添える。
「そこで次の王の選出となったのだが、僕ら草原の民は末子相続が基本だろう? 僕もそのつもりでいた。けれどどうやら家臣の間では、次男である僕を次期王に推す動きが出ているようなんだ」
 こんな頼りなさげな男が?とセオラは思う。しかし、先ほど国境付近で彼に対し、家臣たちが平身低頭していたことを思い出すと、あながち嘘ではなさそうだ。既に彼を王と呼んでいた者もいた。
「このままでは兄弟たちが結託して僕を排斥する動きになりかねないんだよね。だから僕には、頼りになる仲間が必要なんだ」
「仲間……」
「そう。セオラ、君のような」
 ジャンブールはセオラの手に重ねた手に力を込める。
(この男は、政争に勝つために私の能力を必要としているのか)
 初めての扱いに、セオラの心が震えた。
「だ、だが、それならば私を妃にする必要はないだろう? 侍女として、あるいは相談役として側においてくれれば」
「セオラに第一妃でいてほしい理由は、もう一つある」
 ジャンブールはセオラを逃すまいとするように、握る手にさらに力を込めた。
「僕たち兄弟は亡き父の寵姫たちを、自分の後宮へ迎え入れなくちゃならない」
 他の地域では奇異な光景と思われるだろうが、この風習は草原の民にとって当然のことだった。主を失った寵姫たちは、その息子の後宮へ迎え入れられるのである。
「だが寵姫たちの中に、父を殺した人間がいるようだ」
「なんだと?」
 今度こそ、セオラは声を上げてしまった。ジャンブールは大きな手で、セオラの口を塞ぐ。
「……ジャンブール、それは本当の話なのか?」
「亡くなった時の父の状態を見て、医者(マンバ)が毒物を疑っていた。かなり言葉を濁してはいたが」
「心当たりは」
「ある」
 ジャンブールの瞳に、怜悧な光が宿る。
「父の寵姫の中でも低い地位だった者の中に、父亡き後息子である僕たちの所で上級妃にならんと画策した者がいるようだ。父存命のうちから、僕に懸想してきた者のうちの誰かだと睨んでいる」
「義理の息子に懸想? そんな恥知らずがいるのか」
 ジャンブールは重々しく一つ頷き、一転悪戯っぽく笑った。
「そこでセオラの出番だ」
「私がどうした?」
「今度こそ第一妃にならんと企んでいたのに、再婚する前に僕が第一妃を選んでしまった。件の寵姫はどう感じるだろうね?」
「私に憎悪を募らせるだろうな。……おい」
 セオラはジャンブールの胸倉を掴み上げた。
「私が狙われるではないか。その、先王に毒を盛ったと思われる寵姫に」
「そうなるね。ひょっとしたら刺客を寄こされるかもしれない」
「こら」
「だから必要なんだよ。第一妃にはセオラのように賢く強い人が」
 セオラはしばし、ジャンブールのへらへらした笑顔を睨みつけていた。やがて大きく息をつき、手を離す。
「つまり? 私を第一妃にすることで、王殺しの犯人をあぶりだしたいのだな、お前は」
「そうだね」
 襟元を直しながら、ジャンブールは天幕の天窓を見上げた。
「僕が後宮に迎えた女の中に父を殺した者がいたら、どうなると思う? ただでさえ家臣たちから王に望まれ、兄弟たちから睨まれている僕だ。寵姫が父王を殺したのは僕の手引きだった、なんて言いがかりをつけられかねない。そうなれば、兄弟たちは賊を討伐するという大義名分を得てしまう。それを避けたいんだよ」
 ジャンブールは、はははと力なく笑う。
「ね? 色々複雑でしょ?」
「そうだな、だが」
 セオラはベッドから立ち上がり、腰に手をやる。
「第一妃の話、私が断ると言えば?」
「君は断れないよ、セオラ」
「なぜだ」
「ゴウランから君と一緒にここへ来た虜囚がいるよね」
 ジャンブールがにんまりと笑う。
「彼らは老人や傷病者が多いようだね。きっとサンサルロで迎えても満足に働けず、厄介者扱いをされてしまうだろう。でも、君が僕の第一妃になってくれたら、彼らの生活は保障するよ。どう?」
(こいつ……!)
 柔らかな物腰でへらへらしているくせに、嫌なところをしっかり押さえてくる。セオラはぐっと拳を握ると、苦々しい顔で口を開いた。
「……わかった。お前の申し出に従おう」
「やった!」
 ジャンブールはぴょこんと立ち上がると、飛びつくようにセオラを抱きしめる。
「なっ! 離せ!」
「ははは、君の武勇はサンサルロにまで伝わっていた。偵察で初めて見た時から、僕は君が欲しかったんだよ!」
(偵察!?)
 ひょっとして、あの森で出会った時のことを言っているのだろうか。
「道に迷ったというのは噓だったのだな」
「いいじゃないか、細かいことは」
「細かくない!」
 セオラは身をよじり、無理やりジャンブールを振り払う。
「ジャンブール、こちらも一つ条件を付けさせろ」
「条件? 何かな」
「第一妃にはなろう。ただし、先王殺しの犯人をあぶりだすまでだ」
 セオラの言葉に、ジャンブールは不満そうな顔をする。
「そんな剽軽(ひょうきん)な顔をしても駄目だ。犯人を捕まえたら、あとはお前に相応しい女を第一妃に据えると誓え」
「……わかったよ」
 一つ肩をすくめ、ジャンブールは表情を引き締める。
「セオラ」
「なんだ」
「改めて、僕の第一妃になってくれるね」
 ジャブールの真剣な瞳に、セオラはどうにも落ち着かない気持ちになる。
「……わかった」
 そっぽを向いて答えたセオラに、ジャンブールは心底嬉しそうに微笑んだ。