試合が始まると同時に、大河(おおかわ)(たすく)はその巨躯に見合わぬ素早さで間合いを詰め、相手の懐へと飛び込んだ。
 奨の目には見えていた。攻撃を叩きこむべき箇所と、その軌道までも。
 次の瞬間奨の脚は、バックステップで距離を取ろうとした対戦相手の右側頭部を捕える。
 副審の赤い旗が音を立て、天に向かって突き上げられた。
「赤、上段蹴り、一本! 勝者、大河奨!!」
 主審の声とともに、空手の試合会場は一層の歓声に包まれる。
 今回の全国高校空手選抜大会も、奨の圧勝で終わった。



「オーガすげぇ!」
「今日も制限時間内かよ、オーガ!」
 控室へ向かう通路へ足を踏み入れた奨を迎えたのは、学校の同級生たちだった。彼らが競うように口にする「オーガ」というニックネームは、奨の苗字が「大河」であること、そして彼の容姿が由来していた。
「カッコよかったよ、オーガくん!」
「あ、ありがとう」
 クラスメートに囲まれた奨は、皆より頭一つ分ほども背が高い。その身は岩肌を思わせるごつごつとした筋肉に覆われている。針金のような髪の逆立つ頭からは湯気が立ち上っていた。
 いまだ全身に闘気の名残を纏ってはいたが、その顔には少年らしいはにかみが浮かんでいた。
「オーガが全国を制する瞬間をリアタイしたくてさ、今日はクラス全員で応援に来たんだぜ」
(クラス全員?)
 奨は誰かを探すように辺りを見回す。
「ん? どうした、オーガ」
「あ、いや。春原(すのはら)も来てんのかな、って」
「春原?」
 聞き返され、奨は慌てて言いつくろう。
「こ、ここ一週間ほど学校休んでいただろ、春原。でもみんなで来たって言うから、彼女も一緒かなぁ、と思って」
「春原、休んでたっけ?」
「さぁ」
 クラスメートたちは互いに顔を合わせ、首を捻っている。
「あれ? 全員誘ったつもりだったんだけど」
「来てるんじゃない? さっきその辺いたよね」
「いたっけ? 見てない気がする」
「存在感薄いしなぁ、あの子」
 その言葉に、悪意のない笑いが湧いた。
(来てない、か)
 しばらく学校を休んでいるくらいだ、この会場まで遠出できるような体調じゃないのだろう。奨はそう自分を納得させた。

 制服に着替え、遠征バスに乗る前にトイレに立ち寄った時だった。
「すごかったよね、オーガ」
 薄い壁一枚隔てた向こうにある女子トイレから、声が聞こえて来た。耳に馴染みのある声とその内容から、応援に来てくれたクラスメートの誰かだと奨は察した。
「オーガやばかったぁ」
「あんなすごいヤツと同じクラスなんて、マジ奇跡でしょ」
「同中の子に自慢したら羨ましがられた」
 女子たちからの賞賛の言葉に、奨の頬は知らず緩む。年相応の男子として、照れくさく嬉しく耳を傾けていた時だった。
「じゃあさ、オーガの彼女になりたいと思う?」
 彼女らのトークが思わぬ方へ向かった。奨の心臓がびくりと跳ねる。頭の中で警告音が鳴った。この先は聞くべきじゃないと、トイレから出ようとしたタイミングで、ドッと笑いが起こった。
「それはちょっと違うかな」
「だって見た目ゴリラじゃん?」
「てか、オーガだし」
「それな~」
 女子たちは心底楽しそうにキャッキャと笑っている。
「ところで、オーガって何?」
「ファンタジーとかゲームに出てくるモンスターかな」
「モンスターはねぇ。付き合うなら人間でしょ」
「強いのはすごいって思うけどね~」
 やがて彼女らが出ていったらしい扉の音がして、その場は静まり返る。
 洗面台の鏡の前でがっくりと肩を落としている奨に、個室から出て来たクラスメートが、気遣わしげな表情を浮かべ寄ってきた。
「気にすんなよ。俺らはオーガのこと好きだからさ」
「……あぁ」



 帰りのバスの中、奨は窓ガラスに映った自分の顔を見ていた。
(我ながらいかついよな)
 眉骨は高くせりあがり、その下にある目はお世辞にも愛嬌があるとは言えない。頬骨が目立ち、鼻と口はどっしりと顔の中に居座っていた。
 (オーガ)のあだ名は、あまりにもしっくりと彼に馴染んでいた。
(イケメンに生まれたかったなぁ)
 重いため息をついた奨の耳の奥に、鈴を転がすような声が蘇る。

――きれい……!

 春原鈴音(すずね)。小柄な上猫背で、誰とも視線を合わせることなく身を縮めている、目立たないクラスメートだ。教室の片隅で、いつも一人スマホか本を見ている。そんな彼女がある日、昇降口近くの掲示板に貼られた、奨の活躍を報じた新聞に目を輝かせて見入っていたのだ。
「きれい……!」
 胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、頬を染めてうっとりと見上げている。そして、側に立つ奨の存在に気付くと、真っ赤になって慌てだした。
「ちっ、違うんです、ごめんなさい! あのっ、この写真のオーガくんがすごくきれいで! びっくりしちゃって! あのっ、脚がまっすぐに伸びてるところとか、バランスが完璧なところとか、そのっ、目つきも鋭くてかっこよくて! あ、あぁああのっ! こんな美しい人がいるんだ、って思ってただけなんです! ごめんなさい!」
 なにを謝っているのかよく分からないが、とにかくやたらと褒めちぎってくれている。ただ、かなりのハイトーンでまくしたてるため、鼓膜には優しくなかった。
「いや、美しいって……ありえないだろ」
 普段聞き慣れない言葉に苦笑した奨へ、鈴音は「ぴゃっ」と飛び上がった。
「あ、あぁああ、ありえなくないです! オーガくんはすっごくきれいです!」
「いや、俺、ゴリラみたいだってよく言われるし」
「ゴリラ美しいじゃないですか! 森の紳士ですよ!」
 やはりよく分からないことを言っている。黙り込んだ奨を見て鈴音は更に焦り、目をぐるぐる泳がせた後「ごめんなさいっ!」と高音域の声で叫び逃げ去ってしまった。

 あの日以来、奨の目は鈴音の子リスのような姿を自然と追ってしまっている。
(今日の試合、春原にも見せたかったな)
 胸の前で拳を握り、あの時のように頬を真っ赤にして目を輝かせるだろうか。そんな彼女の姿を想像するだけで、奨の口元には穏やかな笑みが浮かんだ。



「ただいま」
 玄関の扉を開けた瞬間、カラコロと小気味のいい音と共に唐揚げの匂いが漂って来た。
「お帰り、奨。優勝おめでとう」
 キッチンに立つ母親が嬉しそうに振り返る。
「お腹すいたでしょう。今日は唐揚げ山ほど作ったから、好きなだけ食べなさい」
「うん、ありがとう」
(会場で俺の勝利を見届けた後、すぐ帰って大好物を作ってくれたんだな)
 嬉しく思いながら自室へ向かう奨に、母親の声が追いかけて来た。
「あ、もう夕飯の時間だから、(みやこ)呼んできて」
「わかった」

 部屋に荷物を置き私服に着替えると、奨は姉の都の部屋をノックした。
「姉ちゃん、晩飯」
 だが、扉の向こうは静まり返っている。
「姉ちゃん、いる?」
 奨がそっと扉を開くと、薄暗い部屋の中、ベッドの上でうつぶせになっている姉の姿が目に入った。長い黒髪が、枕の上に振り乱れている。
「寝てる?」
「……起きてる」
「具合悪いのか?」
「……違う」
「晩飯だって」
 ベッドから起き上がる様子のない姉の姿に、奨は一つため息をつく。
 姉の都は、奨の高校で古典の教師をしている。美人で親しみやすく溌剌とした都は、生徒たちの間でも人気が高い。当然ながら奨と苗字が同じだが、見た目があまりにも違うために二人が姉弟である事実は全く広まっていなかった。
(なんかあったのかな)
 人気教師ではあるものの、教職と言うのはなかなか気苦労の多いものらしく、姉が家で落ち込んでいる姿を奨も何度も目にしていた。
(今はそっとしておくか)
 そう判断し、奨が部屋を後にしようとした時だった。
「話聞けよ」
「うぉ!?」
 いつの間にか背後に忍び寄った都が、奨の服の裾をがっちりと掴んでいた。乱れた黒髪の間から、目が覗いている。
「なんだよ、びっくりさせんな」
「落ち込んでる姉を無視するからだろ」
(まともに返事をしなかったのはそっちだろうが)
 そうは思ったが、姉に逆らうと面倒でこの上ないことを骨の髄まで叩き込まれている奨は、言葉をぐっと飲み込む。仕方なく引きずられるまま、奨は都の部屋へと入っていった。

(うん?)
 都の机の上に、同じゲームソフトが二本並んでいる。
(『精霊代行者~elemental(エレメンタル) agent(エージェント)~』?)
 亜麻色の髪の美少女が鮮やかな色彩の美形に囲まれている、繊細なタッチの絵柄のパッケージだった。
「で、なんなんだよ」
 やや強引にベッドに腰かけさせられ、奨は姉に尋ねる。だが、都は口を開こうとしては言い淀む様子を繰り返している。
「話聞いてほしくて、俺を呼んだんだろ」
「うん……」
 それでもなかなか話を始めない姉に退屈し、奨は机の上に並んだ二本のソフトのうちの一本を手に取った。まだ封も切られていない新品だ。眺めているうちにそれは、姉が数ヶ月前から発売を楽しみにしていた乙女ゲームであることに気付いた。
「春原鈴音、っているじゃん? アンタのクラスに」
 姉の口から不意に飛び出した名前に、奨は手にしていたゲームソフトを取り落としそうになる。
「お? おぉ……」
 動揺を悟られまいと自然体を装うとした奨であったが、都はそんな弟の様子など全く目に入っていなかった。
「あの子、ここ一週間休んでるでしょ」
「そ、うだっけ?」
「あれ、アタシが原因かもしれないんだ」
(え?)
 奨は体ごとぐるりと都へ向き直る。都は両手で顔を覆い俯いていた。長い黒髪がカーテンのようにその横顔を覆い隠している。
「姉ちゃんが、春原の休んでる原因って?」
 完璧とは言えなくとも、姉は基本気持ちのいい人間だ。生徒を不登校へ追い込むような真似はしないはずだと奨は困惑する。
「なんでそう思うんだよ」
 都は顔を上げると、奨の手にあるゲームソフトを指差した。
「それね、アタシが春原さんから取り上げたやつなの」
「取り上げた?」
「授業中に見ていたのよ」
 都の話によれば、それは乙女ゲーム「精霊代行者~elemental agent~」発売日のこと。鈴音は朝コンビニでソフトを受け取り、そのまま登校したようだった。嬉しさのあまりか授業中も机の中から引っ張り出し、コソコソとパッケージを眺めていたのを都が見とがめ、一度こっそり注意をしたらしい。しかしその後もやめなかったため、都は「放課後、職員室まで取りに来なさい」と言ってソフトを没収したのだ。
「アタシとしてはさ、ソフト返す際に『実は先生もこれ、楽しみにしてたんだ』って打ち明けて、感想なんかを話せたらいいなって思ってたんだ」
 だが鈴音は取りに来なかった。それどころか、午前の内に早退してしまったと担任から聞かされた。それから一週間、彼女は学校を休んだままだ。
「春原さんって大人しくて目立たないし、悪さして怒られることもない子じゃん? だから、注意を受けたのがよっぽどショックだったのかなぁ」
 都は深々とため息をつく。
「で、さすがに責任感じて、今日、春原さんの家に行って来たのよ」
「春原の家に? それで」
「……門前払い」
「怒鳴られたのか? 春原の親に」
 都は首を横に振る。
「会わせられる状態じゃない、ってそれだけ」
 会わせられる状態じゃない、というのはどういう意味だろうかと奨は疑問に思う。都は威圧感を与えるような教師じゃないが、やはり春原にとっては相当の恐怖なのだろうか。
「その時にゲーム返してやれば良かったんじゃないか? 親に説明して。そしたら春原も、姉ちゃんに許されたって安心するかもだし」
「出来るわけないでしょ。親御さんに内緒で買っていたものだとしたら、しかもそれを学校に持って行って没収されたなんてことになれば、彼女が叱られちゃうじゃない」
「あぁ、そっか……」
 都が再び頭を抱える。
「どうしよう、私のせいだ。でも、どうすればよかったのよ……」
 嘆く姉から目を逸らし、奨は手にしたゲームソフトを見る。
(春原、乙女ゲームするんだ)
 中央にいる美少女が主人公だろう。それを取り囲むように、クール、俺様、穏やか、少年の4タイプのイケメンが並んでいる。
(普通にこういうのも好きなんだな)
 そんなことを奨が思っていた時だった。階段を上がってくる荒々しい足音が聞こえ、扉が勢いよく開いた。
「ちょっと奨! 都呼んできてって言ったのに、二人とも全然降りてこないじゃないの! 唐揚げ冷めちゃうでしょ!」
 母の怒りの形相に、姉弟は慌ててベッドから立ち上がっる。
「あ、忘れてた」
 先に部屋を出ようとした都が、奨を振り返る。
「大会優勝おめでとう、奨」
「お、おぅ」



 夕食を終え、風呂から上がって自室に戻った奨は、自分の机の上に例の乙女ゲームが置かれているのに気付いた。付箋が貼ってあり、姉の文字が行儀よく並んでいる。
『春原さんが登校するまで、このゲームは封印する。目の毒だから預かってて』
(俺の部屋に置くなよ)
 奨はそれを手に取り、何となく眺める。
 炎・水・風・地の四つのエレメントをそれぞれ体に宿し自在に操るエージェント。そして四人のエージェントの力を増幅させる力を持つ『護りの乙女』の物語。
『私の愛が世界を守る!』
 裏面にはそんな文字が躍っていた。
(春原も、やっぱりこういうタイプが好きなのか)
 並ぶ四人の男たちをじっと観察する。一番体格の良い赤髪の男ですら、モデルのように華奢だと感じた。

――モンスターはねぇ。付き合うなら人間でしょ

 トイレで聞いてしまった言葉が脳裏によみがえり、今更ながらムッとなる。
(別に気にしてないし。春原がどんなタイプ好きでも、俺には関係ない)
 ゲームソフトを机の上に戻し、奨はベッドへごろりと横になった。
(春原の家、一度行ってみるか?)
 その時にゲームソフトを返してやれば、彼女も安心するような気がした。
(けど、なんて言って行けばいい? 教師である姉ちゃんですら断られたのに。それに俺、春原の家知らねぇ)
 不意にとろりとした眠気が奨を襲う。
 大会での疲れと夕飯の満腹感が、そのまま奨を夢の世界へと誘った。



(あれ?)
 気付いた時、奨は見知らぬ街に立っていた。
(どこだ、ここ)
 やけに鮮やかでキラキラした世界だ。雰囲気は近世ヨーロッパに近いだろうか。辺りを見回すと、折れそうなほど華奢な人間たちがファンタジックな服を身に纏い、奨を見ている。しかも、あまり好意的でない目つきで。
「うぉ!?」
 自分の姿に気付き、奨は思わず声を漏らす。着古したTシャツにハーフパンツタイプのルームウェア、そして裸足だ。普段寝る時の姿そのままである。
(こんな格好で外うろついてりゃ、周りも変な目で見るよな)
 しかしなぜこんな姿で見知らぬ土地に立っているのか、奨にもわからない。
(参ったな、スマホも財布もないぞ)
 ひとまず交番に行くかと考えた奨は、近くの通行人に尋ねようとした。
「すみません、この辺に……」
 だが、近づこうとした相手は恐怖に目を見開き後ずさると、わななく口で叫んだ。
「オ……、オーガだ!」
(え?)
「オーガが街に侵入してきたぞ!」
 その途端、町のあちこちから悲鳴が上がった。
「えっ、何だよ」
 自分のあだ名がこんな見知らぬ街にまで広まっているのかと、奨は面食らう。
 子連れの女は子どもを抱え上げ、慌てて建物の中へと飛び込んでいく。その辺の木ぎれを掴み上げた老人が、威嚇するように声を上げながら、じりじりと後ずさりしていった。中には石を投げてくる者もいる。
「はぁ? ちょっと……」
 確かに見た目と体つきから、通りすがりの子どもに泣かれたことはある。何度か。だが、ここまで大勢の人間に怯えられるほどではないはずだ。
「あ、あの!」
 飛来してきた拳ほどの石を、奨は反射的に鍛え上げた腕で防ぐ。
(ん?)
 当たった(つぶて)は、そこまでの痛みを奨に与えなかった。怪訝に思い、奨は足元に落ちた礫を拾い上げる。掴んでぐっと力を込めると、それはクッキーのように粉々に砕けてしまった。
「なんだこれ」
 ぽかんとなった奨だったが、その光景を見て人々は一層悲鳴を上げた。
「ば、化け物だぁ!」
「オーガに殺される、逃げろ!」
 泡を食って逃げる人々の姿を呆然と眺める奨の脳裏に、あの声が蘇った。

――モンスターはねぇ。付き合うなら人間でしょ

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 奨は逃げる一人を追う。
「ぎゃああっ、来るなオーガ! こっちへ来るな!」
「俺は人間だって!」
「おい、人の言葉を話してるぞ」
 人々の間に動揺が走る。
「人間だって言ってるが……」
「ふざけるな! あんな体つきの人間がいるものか」
(えぇ~っ!?)

 その時、軽やかな足音と共に駆けつけてきた華やかな一団があった。
(えっ?)
「皆、下がれ! ここは我々に任せておくがよい」
 銀髪にアメジストの瞳を持つ美青年が、高貴な声を轟かせる。白銀の刃がキラリと光を跳ね返した。
 悲鳴を上げ逃げ惑っていた人々の顔に、希望が滲む。
精霊(エレメンタル)代行者(エージェント)様だ!」
「助かったぞ!」
(精霊代行者、だって?)
 奨は息を飲み、銀髪の青年を見つめる。それは姉の持っていた乙女ゲーのパッケージに描かれたキャラクター、そのものだった。
「結界の綻びはまだそこまで広がっていないはずなのですが、なぜオーガほどのモンスターが街の中に……」
 黒髪に愁いを帯びた金の瞳、褐色肌の男が杖を構える。
「どうだって構やしねぇ。平和を脅かす敵は、倒すだけだ」
 やけに華奢な人々の中で比較的体格の良い赤髪の男が、意外にも冷ややかな灰色の瞳でにやりと笑った。
「ほら、エレノア、こっちだよ。急いで!」
「は、はひぃ~」
 少し遅れて、栗色の髪の少年が一人の少女を連れて駆け付けて来た。
「何をしていた、エレノア」
 銀髪の青年が鋭い視線を、遅刻してきた少女へ投げかける。その瞬間、エレノアと呼ばれた少女はびくりと身をすくませ、泣きそうな表情でじりじりと後ずさりを始めた。
「ご、ごめんなさ……」
「背筋を伸ばせ!」
「ぴぃっ!」
「護りの乙女としての自覚が足らんぞ、遅刻した理由はなんだ」
「えと、それは、そのぉ……」
 亜麻色の髪をした少女は背を丸め、視線を彷徨わせながら胸元で拳を震わせている。
(何なんだ、これは……)
 奨は目の前の光景を、ただ唖然として見つめる。
(あいつも、こいつも、全部あのゲームのキャラクターそのものじゃねぇか!)
 その中で、唯一印象が違う人物がいた。ゲーム「精霊代行者~elemental agent~」の主人公エレノアだ。パッケージを見ただけだが、そこに描かれたエレノアは落ち着いた雰囲気の清楚な少女だった。だが目の前のエレノアと呼ばれる人物は怯えたように身を縮め、目つきはおどおどと定まらず、か細い声を震わせている。
(……似てるな、春原に)
 そんなことを思っていた奨へ、エレノアが視線を向ける。その瞬間、エレノアは目を見開いて甲高い声で叫んだ。
「お、オーガくん! なんでここに!?」
「! 春原か?」
 奨の言葉にエレノアはこくんと頷く。思わず駆け寄ろうとした奨であったが、その足元へ音を立てて矢が刺さった。目を上げれば、栗色の髪の少年が蒼い瞳に鋭い光をたたえ、こちらへ矢を向けている。
「動かないでね、次は一撃で楽にしてあげるから」
(くそっ)
 奨は攻撃に備え身構える。だがぐっと踏みしめた瞬間、足元の石畳がパキっと崩れた。
(! また)
 さっきの石礫と同じだ。この世界のものはやけに脆い。試しに奨は足元に刺さった矢を引き抜き、その矢尻を指ではじいた。それはいとも簡単に砕けてしまった。
「くっ、化け物め!」
 再び矢が襲い掛かる。どんな仕組みであるかはわからないが、矢は数本束になって飛んで来た。
「ふっ!」
 矢の軌道を奨は読み取る。そして容易くすべての矢を弾き飛ばした。
(いける!)
「えぇ~、嘘でしょ」
 矢を無効化され、少年が頭を抱える。
「下がってろ、ティボルト!」
「ここからは、オレとケニスに任せな!」
 少年を庇うように、剣を持った銀髪と、斧を携えた赤髪が前に出て来た。
(武器を持った相手に対しては、どう動くか……)
 奨は呼吸を整える。強度に不安のある足元をゆっくり踏みしめて固め、身構えた。
「だ、だめですぅ。皆さん、この人は敵じゃないです!」
 エレノアが顔色を変えて、あわあわと精霊代行者たちを止めようとしているが、彼らは耳を貸す様子がない。
「護りの乙女としての自覚のないそなたの助力など必要ない」
「邪魔にならねぇ場所に下がってな、お嬢ちゃん」
 二人にきつく言われ、エレノアはびくりと身を縮める。
「だ、だけど、でも……っ」
 消え入りそうな声で涙を浮かべるエレノアを見て、奨は心を決めた。
(このままじゃ、春原と話が出来そうにない。悪いが一旦全員倒してからにするか)
「せぁあああっ!」
「おらぁあああっ!」
 銀髪の剣と、赤髪の斧が迫って来た。奨は間合いと軌道を見定める。
「オーガくん、逃げてぇ!」
 奨はまず、攻撃が直線的な赤髪に狙いを定めた。斧の攻撃を横へと弾き、正拳突きを顎へお見舞いする。軽く小突く程度に。
「ぐふっ!」
 標的を吹っ飛んだ赤髪から、すぐさま銀髪へと移す。横薙ぎに迫って来た刃を足運びで躱す。そして剣の軌道を見定め即座に距離を詰めた。
「しまっ……」
 得意の蹴りで側頭部をとらえる。石礫や石畳の例があるのでかなり手加減をしたが、二人は脳を揺らされ、立てない様子だった。
(よし!)
 奨は振り返り、エレノアを見る。
「春原! 春原なんだな?」
「オーガくん、どうやってここに?」
 ようやくこの状況を説明してもらえる、そう思って奨がエレノアに駆け寄ろうとした時だった。
 脳天から衝撃が貫き、奨はその場に崩れ落ちた。
「おっ、オーガくん!?」
「下がっていなさい、エレノア」
(あ……)
 体が強張り動けずにいる奨の側へ寄ってきたのは、杖を持った黒髪の青年だった。金の瞳が鋭く奨を見下ろしている。
 青年は再び何かを唱え始める。杖の先がまばゆく光るのが見えた。
「だっ、だめです、ノランさま!」
「邪魔をしてはなりません、エレノア」
 エレノアが青年の衣に取りすがり、何とか押しとどめようとしている。
(魔法か……)
 手足が痺れ、奨は起き上がることが出来ない。
(魔法の対処法は、さすがに知らねぇな……)
 奨の意識はそこで途切れた。



 奨が目覚めた時、そこは殺風景な小部屋の中だった。
 青空ののぞく小窓、そして廊下に繋がる面に鉄格子がはまっている。
(なんだここ、牢?)
 起き上がると、ジャラと何かが音を立てた。
(おっと)
 手首と足首に枷がはめられている。そこから繋がった鎖は壁の中へと埋め込まれていた。
(これもやっぱ、脆いのかな)
 そんなことを思いながら、奨が鎖の繋ぎ目を指先で曲げようとした時だった。
「お、オーガくん!」
 格子の向こうに、エレノアが立っていた。
「ご、ごめんなさい、オーガくん。あたしの力が及ばなくて……」
 申し訳なさそうに背を丸め、胸元で握った両手をもじもじさせている。そして落ち着きなく視線を漂わせ、奨と目を合わせようとしなかった。
「春原、なんだよな?」
 奨の問いに、エレノアはぴくんと身をすくめる。
「ど、どうしてわかっちゃったの?」
「なんとなく。話し方とか、姿勢とかのクセかな」
 エレノアは、うーうー唸りながら「変かなぁ、やっぱりあたし、おかしいのかなぁ」と髪を掻きむしった。
「なぁ、春原。これって『精霊代行者』の世界だよな」
 奨の言葉に、エレノアは初めて目を合わせる。
「えっ、オーガくん、乙女ゲームのことわかるの?」
(うっ)
 古典教師の大河都とは姉弟で、姉に見せてもらったとは言いづらい。
「SNSのプロモで流れて来たのをちょろっと見ただけ。タイトルと絵しかわからない」
「あたしも一度もプレイしないままここに来ちゃったから、似たような状況かも。でも……」
 エレノアは表情を引き締めて、こくりと頷いた。
「オーガくんの言う通り、ここは『精霊代行者』の世界だよ」
 言って、エレノアはへなへなとその場へ崩れ落ちる。
「それであたしがなぜか、エレノアになっちゃったの。なんでぇ?」
 エレノアは潤ませた目を奨に向ける。完成された美少女の顔を間近に見て、奨はほのかに緊張を覚えた。
「オーガくんはどうやってその姿のままここへ来たの?」
「わからない。家で寝たはずが、気付いたらここにいた」
「あたしも同じ、寝て目が覚めたらここだったの。でも、どういうわけかこんな姿に。あたしも元の姿のままモブが良かった。モブのZくらいがちょうどよかったのにぃ」
(モブのZってなんだよ。どんだけモブいるんだよ)
 エレノアの言葉におかしみを感じ、奨は笑う。
「でもその姿で良かったな、春原。モンスターとみなされたら討伐されてたぞ」
「ぴゃあ! こ、怖いこと言わないで」
 あわあわと落ち着きなく身を揺する子リスのようなエレノアの姿に、奨は妙な安心感を覚えていた。
「春原、どうやったら俺ら元の世界に戻れるんだ?」
「分かんない」
 エレノアはう~んと首を捻る。
「漫画とかアニメとかゲームでは、ゲーム転生ものはクリアしたら戻れる、みたいなのセオリーだけど」
「だよな」
「でも最近は、戻らずその世界で暮らすのが主流かも」
「だよなぁ……」
 深々とため息をついた俺に、エレノアは慌てる。
「ご、ごめんなさい!」
「? なんで春原が謝るんだ?」
「だって、あたしが買ったゲームの世界だし」
 そのゲームは取り上げられた後、今、自分の家で保管しているなどと奨は言えない。
「このゲームのクリア条件は?」
「ごめんなさい、わからないの。乙女ゲーは色々プレイしてるから大体のパターンは掴めるけど、このゲームは事前情報で得たことしか……」
「それでもいい、春原が知ってる分だけ教えてくれ」
「わかった。えぇとね、まず……」
 その時、固い足音が近づいてきた。エレノアは慌てふためき、奨は音の方向を睨みつける。
 やがて姿を現わしたのは、杖を持った黒髪の青年だった。
「護りの乙女よ。姿が見えないと思ったらこんなところにいたのですね」
「あばばば」
 金色の瞳に射すくめられ、エレノアが身を固くする。そして格子の間から手を差し入れ、奨の手に触れた。その華奢で小さな手は小刻みに震えていた。
「エレノアよ」
「はひぃっ!」
「護りの乙女がモンスターに絆されたとなれば国の皆が不安になります。即刻ここから離れなさい」
「で、でも、ノラン様っ」
 エレノアは双眸に涙を浮かべながら、奨の手にかけた指に力を込める。
「お、オーガくんはモンスターじゃありません。優しい人です!」
(春原……)
 震えながらも自分を守ろうとするエレノアの健気な姿に、奨は胸の奥がグッと締め付けられた。
 ノランと呼ばれた青年はため息をつきながら、軽くウェーブのかかった黒髪をかき上げる。そして、金色の瞳を奨へと向けた。
「ではあなたが敵でないと証明していただかなくてはなりません。これをクリアできない場合、即殺処分でよろしいですかね?」
「殺処分!? ひぃいい、あばばば……」
「護りの乙女よ。あなたには、この国を守る使命があることを理解しておられないのですか? 身勝手な行動で国の安寧を脅かすような者を、我々も護りの乙女として認めるわけにはまいりませんよ」
 黒髪の青年の言葉遣いは丁寧であったが、そこには有無を言わせぬ迫力があった。
(このままでは、春原まで立場を悪くしかねない)
 奨は、震えているエレノアの手に自分の手を重ねる。
「ふぇ!?」
「大丈夫だ、春原」
 涙を浮かべ不安そうにしているエレノアへ、奨は頷いて見せた。そして冷ややかに見下ろしている金の瞳を真っ直ぐに見返す。
「わかった、その証明とやらをして見せればいいんだな? 俺は何をすればいい?」