あの日のことは、今でも深く染み付いている。
どこにでもいるような平凡な家族。
それが突然、地に落ちたからだ。
その全てのきっかけはそう。桜庭葉琉の死から始まる。
栖原成琉──旧姓、桜庭成琉の実の兄である。
『僕、何か嫌われることしたかな』
小さなノートに綴られていた日記は、その一言で幕をあげていた。
小さな、小さな種だった。
その時までは、端正な字で綴られたごく普通の日記だったのだろう。けれどある境に、それは日記ではなくなった。
否、最初から歯車は狂い始めていたのかもしれない。
まるで許しを乞うような文面に、滲んだペンの線。ヨレヨレになったページに、ぐしゃぐしゃに丸められたようなシワ。
それはページを重ねるごとに、劇的に登場回数を増やした。
『痛い。痛いな。疲れてきた。もう、楽になりたい。このまま死んで、何もかも忘れて。楽になりたい。トイレの床が居場所なんて、うんざりだ。一体いつからこうなったんだろう。でも、それも全部、僕が悪い。そう、僕が悪い』
『お金を貰った。僕は泥棒だ。嘘つきだ。教材は買わずに本当はジャージを買うんだから。痛い。名前を呼ばれる度に、心臓を掴まれるような気分だ』
『お前の幸せを保証してやれない。その言葉がずっと頭にこびりついている。ずっとずっと頭を侵して、囚われ続けている。これからもずっと、永遠に。その言葉を刻んだまま、僕はまた這いつくばるんだ』
葉琉は優しい人であった。
面倒見が良くて、誰からも慕われていて、その落ち着いた笑顔を浮かべる、そんな人。
まるでヒーローだった。
けれど正義感が人一倍強く、優しすぎるが故によく傷つく人だった。
自分が弱っている姿なんて微塵も見せない。泣いている顔だって、見たことがない。
そんな葉琉が、成琉は大好きだった。
心の底から、大好きだった。
──けれど、今は嫌いだ。
もっと葉琉が弱い人であったならば、ノートに全てを綴ってくれていたのなら、こんなことにはならなかったのに。
目の下の隈が濃くなって、疲弊していたことは知っていた。
けれど当時の成琉は、思春期だったからだろうか。成琉の葉琉に対する態度は目に余るものだった。
何を話しかけられても返答すらしない。
成琉は葉琉への強い憧れを拗らせたのだろう。葉琉に対してだけ反発していた。
けれど、そんなある日のこと。
葉琉は修学旅行に出かけた。
中学に修学旅行がなかった成琉は、どこか羨ましかったのだろう。

「じゃあ、成琉。行ってくる。お土産買って来るからな」
「……」

いつものように覇気のない声。貼り付けてあるかのような、取り繕った笑顔。初夏だと言うのに、着込んだセーター。荒れた肌。大きなリュックサック。
全てが気に入らない。
成琉はそんな葉琉を一瞥すると、テレビの画面に視線を戻した。

「体調悪そうなんだから休んだら? 平気なの?」

反応一つ返さない成琉に代わって言葉を投げかけたのは、母親だった。

「……大丈夫だよ」

けれど葉琉は、そんな心配を跳ね返してしまうほどの笑顔を浮かべた。

「じゃあ、行ってくるね」
「……」
「もう! 成琉も挨拶くらいしなさいよ」
「あははっ。今は思春期なんだよ」

その当時。自分が思春期と言うカテゴリーに縛られることすら、身震いがするほど嫌いだった。
意地を張って、結局葉琉と視線を重ねることすらしなかった。
けれど、最後。
玄関の扉が閉まりそうな時。何を思ったのだろうか。
成琉はふと玄関の方に視線を戻したのだ。そこに写っていたのは、ありえないほど小さい葉琉の背中だった。
心臓が妙に浮き立つ。
そしてそういう時の勘は当たってしまうのが、筋というものだ。
次に葉琉に合ったのは、それから三日後だった。
肉塊となって、帰ってきた。

「実は集合時間になっても────桜庭くんだけが帰ってこなく────探したんですけど────奈良の山から死体となった────」

何一つ頭に入らない。
大人たちが話している言葉が、途切れ途切れに鼓膜に入っては消えていく。
それなのに、涙がまた一つ服を濡らしていった。
視界がぼやけて、葉琉の輪郭でさえも儘ならない。
葉琉の全身には、あざがいくつも刻まれていた。黒くて大きくて、残酷で。
それなのに葉琉を遠ざけた。
本当は嫌いなんかじゃないのに。
なのに一時の感情で、プライドで、突き放した。葉琉は想像を絶するような苦痛を受けていたのに。
それからしばらく経って、葉琉の制服のポケットからノートが見つかった。
そこには、葉琉の地獄のような日々が綴られていた。
誰かにいじめられていたことは明らかだった。
けれど葉琉の死因は、事故死として処理されたのだ。足を滑らせて崖から転落したのだと。
事故死として処理されてはいたが、それが修学旅行中の事件だったためにマスコミにも報じられるようになった。
けれど、納得なんて出来ない。
だって、葉琉はいじめられていたんだ。もしかしたら、殺されたのかもしれない。耐えきれなくなって、自殺したのかもしれない。
母親は涙でふやけた顔で、葉琉の担任を責めた。
どうして、気がつけなかったのと。救えなかったのかと。喉が枯れてしまうくらいに叫んで、その肩を揺らし続けていた。
だって葉琉は助けを求めていたんだから。
『やっぱり、信じてもらえなかった。先生に相談したって、意味がない。僕の味方はいないみたいだ』
葉琉はヒントを出していた。
それなのに、教師は見て見ぬふりをしたんだ。
結局いじめを調査されることなく、葉琉を苦しめた人間はのうのうと生きている。何不自由なく、この世界で息を吸っている。
許せなかった。
そして地獄は連鎖して。
何故気がつけなかったのと、父親は母親を責めた。
何度も、何度も、か弱い母親を殴った。
ドアを閉めていても、イヤホンで音を遮断しても、肉体を殴る鈍い音だけはいつもすり抜けてきて。
気がつけば両親は離婚していた。
それから葉琉のことは誰も触れなくなった。過ぎし日に時間を費やせるほどの余裕なんてどこにも無かったのだろう。
日に日に生活は困窮してきて。
母親が渡すお金だけじゃ三食だってまともに食べられない。そんな時だったのだろうか。コンビニで食料を盗った。
商品を漁るように見ながら防犯カメラの死角を狙って。
苦労して手に入れたそのおにぎりは、吐いてしまうほど不味かった。腐敗臭がして、口の中で血が滲むように。
食べられなかった。

「おえええっ」

便器に顔を突っ込んでは、喉の奥から乾いた胃酸が漏れ出る。
虚しくて、痛くて、死にたくて。
けれど慣れてしまうのが、人の性というものだろう。
いつしか罪の意識も薄れてしまった。
けれど、どんなに他のことで意識を逸らそうとしても、最後に見た葉琉の小さい背中だけはこびりついて離れなかった。
後悔だけが、波のように押し寄せる。
口の中にどんどん入ってきて、呼吸が出来ない。
葉琉はどこまでも優しかったから。ノートにそいつの名前を書かなかったから。一目でいじめだと判断されなかった。
成琉はそんな大人を、教師を恨んでいる。
いじめた奴を恨んでいる。
葉琉の恋人だった人を恨んでいる。
復讐しよう。そう思った。
けれど教師の名前なんて知らない。
しかし成琉は一つだけ知っていた。葉琉の恋人だった人の妹が、クラスメイトだということを。
だから成琉は──。


「びっくりしたなぁ。お前吉澤と話したこともねぇのに、好きじゃねぇのに、告白なんかするからさ。聞き間違えかと思って、教室まで行ってあげたんだよ」
「っ」

心臓が凍てつく。
ああ、志路は全て分かっていたんだ。
成琉のことも、境遇も、汚れ切った心も、手の内だって、全て。
そうだ。
葉琉のいじめを調査して、世間から貼られている転落死の可哀想な子というレッテルを剥がして欲しかった。
葉琉の事故はS N Sでも話題になった。もちろんいい広まり方なんかじゃない。修学旅行で浮かれたんじゃないか。ダサい子。
そんな枠組みの中で葉琉は今もなお生き続けている。
それが悔しいのだ。
だから、葉琉を供養してあげたい。
それが成琉にできる最上級の弔いであり、贖罪だったから。

「は? どういうことだよ? 吉澤?」

その志路と成琉の後ろにはまだ状況が組み込めていない朔が、理解できないように声を上げる。
けれど、成琉は朔に対応できるほど、心の余裕なんて持ち合わせていなかった。
今にも溢れ出そうとする激情を押さえ込んで、小さく唇を開いた。

「全部、全部分かっていたんですね。俺が吉澤に告白したのも下心があるって」
「ああ。当たり前だ。俺は生徒の幸せを願ってる。そのためには生徒のことを隅から隅まで、ぜーんぶ知らないといけないんだから」

その言葉を聞いた途端、成琉の拳は志路に向かって大きく振り翳していた。

「おい! やめろ! 栖原! 殴ったって変わんねぇよ!」
「離、せっ!」

けれど、大きく翳した拳は、朔のよって止められてしまった。そう叫ぶ朔の顔は僅かに歪んでいて、その拳が朔の肩に突き刺さってしまったんだと知る。
けれど、もう成琉は耐えられなかった。
そう成琉の母親が志路を知っていたのには、理由があった。
だって、こいつが、志路が、──葉琉の担任だったのだ。
葉琉の担任をしてた時は、まだ新米だった。
新米の教師らしく生徒全員を幸せにすると意気込んでいて、いい先生だと成琉も耳にしていた。
生徒の幸せのために。
それが口癖だったらしい。
そしていじめを見て見ぬふりして、今ものうのうと生きているうちの一人。
黒いインクが筆の先から垂れて、真っ白の床に滲んでいく。成琉の理性はもうどこかへ飛んでいった。

「お前さえ気づいていれば! 兄ちゃんのいじめに気がついていれば、こんなことにはならなかったんだ! 今だって普通の暮らしを送っていたのに! 兄ちゃんに謝ることだってできたんだ! けどお前が救わなかったから、いじめを調査しなかったから父さんは狂った! 俺たちは地獄へ堕ちたんだっ!」

あの日々が走馬灯のように蘇ってくる。
あんな平凡な日がずっと続くのだと思っていた。こんなにも汚れ切った手を纏うことになるなんて、誰が想像しただろう。
成琉の瞳から、一筋涙がこぼれ落ちる。
視界が歪んで、鼻がツンと刺されたように痛くなって。肩で息を弾ませ、叫び続ける。
怒りと虚しさと悲しさと、そんな感情の波が押し寄せて、成琉を潰していく。
そんな成琉を朔は受け止めていた。朔の肩に、大きなシミを落としていく。
あの日から地獄を辿ってきた成琉を知っているから。
成琉に肩を殴られながら、それでも静かに支え続けていた。

「桜庭は残念だったよ」
「……は?」

けれど志路はそんな成琉を見ても、一つ小さなため息を吐くだけ。
「いい奴だったのになぁ。あまりにもいい奴だったから、俺はいじめなんてねぇと思ったわけ」
まるで氷水のように冷たい声を浴びせる。
志路の口から語られるその言葉に、成琉の肩が揺れた。

「だから、見て見ぬふりをしたってわけか?」
「……」

志路は答えない。
成琉と目を合わせようとすらしない。コンピューター画面を覗いているだけ。けれどそれは、どうしようもなく肯定の意味を伴っていた。

「あああっ!」

成琉は叫ぶ。
こんなにも突きつけたれた現実が悍ましいとは思わなかった。
葉琉は優しい人だった。そんな人が、こんな悪魔みたいな奴に見殺しにされたなんて。
どうして自分は気づいてあげられなかったのだろう。いくらだってヒントはあったはずなのに。

「何が生徒の幸せだ! お前は幸せを奪ったんだ! お前は最悪で、悪魔みたいな教師だっ!」

喉が痛い。
叫んだ拍子で張り裂けてしまいそうなほど、強く強く叫んでいた。
するとその時。
ずっと口を噤んで黙っていたままだった志路が、ガタンと椅子から立ち上がった。志路の頭部によって窓から差し込む光が遮られて、一気に部屋が暗くなる。

「じゃあ! どうすれば良かったんだよ!」
「っ!」

空気が揺れるほどの声量だった。
目を見開いて、何かに取り憑かれたように口を開く志路。その形相に思わず息を呑んだ。

「ああ確かに、桜庭のいじめなんて嘘だと思ったよ! あいつは誰からも好かれてたから、嘘に決まってるだろってな。だからあのノートを見た瞬間、血の気が引いた」

そう語られる言葉は、成琉でさえも知らない志路の記憶だった。
まるで弁解する子供のように、志路は叫んでいた。

「俺は生徒のことを何も知らなかった。生徒の幸せを守ってやれなかった。ただ生徒が幸せになるような教師になりたかっただけなのによぉ! だから、知らなかったから生徒のことを全て知らなくちゃならねぇと思ったんだよ! だからお前たちに盗聴器もカメラも全部仕掛けた」
「……ふざけんなよ!」

志路から語られる記憶。
それは、成琉にとって地獄そのものだった。葉琉が好かれていたから。そう偏見でいじめがないと思ったこと。だから生徒の全てを知ろうと思ったこと。
そんなの、全て志路の勝手だ。
自分勝手に解釈する教師。
無愛想な弟。
最悪だったクラスメイト。
そんな環境の中で生きてきた葉琉がいたたまれなくて、仕方がない。
志路の声に被せるように、叫ぶ。

「だから盗聴器も仕掛けたって? そんなん、逃げただけじゃねぇかよ! 兄ちゃんのことには全く向き合わないで、生徒を監視して罪滅ぼししてたのか? おかしいだろ!」

荒くなった呼吸に抗うように、深く息を吸う。

「兄ちゃんを返せよ! 俺の普通を、返せよ!」

未だ溢れて止まない涙を親指でグッと拭う。
乾いてカサカサになった指に涙が染みて、痛い。
そんな時だった。
鮮明になった視界で志路のことを見上げると、志路の頬には涙が走っていた。先ほどまでの怖気の走るような顔なんて、どこにもない。
一回りほど成琉より体は大きいのに、まるで小さく見えた。

「……は? なんで──」

お前が泣くんだよ。
そう告げようとした。けれど、その言葉は最後まで言えなかった。志路の情けない辿々しい声にかき消されていく。

「じゃ、じゃあ! どうすればいいんだよ! どんなに詫びたって桜庭には届きやしねえし、もうこの世にもいない。どうやって罪を償えばいいんだよ! 俺だって、後悔くらいしてるよ! 生徒一人くらい、守りたかったに決まってんだろっ! 毎日眠れないくらいにはなぁ!」
「……っ」

志路の狂ったように見開かれた双眸からは、仕切りに涙が伝っていった。そう発せられる声は震えていて、そんな志路は初めて見るくらいに小さくなっていった。
成琉の中には、一人では抱えられないくらいに憎しみや憎悪が充満している。けれど、こんな姿を見せられてしまっては、もうただ怒鳴り散らすことなんてできなかった。
志路がメガネを取り、白衣の袖で目頭を擦る。
その時だった。あの時の光景が、走馬灯のように蘇ってくる。
その日は、葬式だった。桜庭葉琉の、葬式だった。仕切りに見ない顔ぶれたちが訪れる中、一人だけ嗚咽を漏らして、泣いている大人がいた。
まるで子供のように蹲って、涙を流す大人が。
メガネを手に持ちながら、必死に切れ長の目頭を拭っている大人が。
ああ、そういえば。そうだった。
成琉の中で、散らばったピースが綺麗に並べられていく。その言葉に、嘘はない、そう断言できてしまった。
出来て、しまったから。

「じゃあ!」

成琉は拳をしまった。
そして成琉を支えるように抱えていた朔を押して、志路の方へ向かう。

「お、おい!」

朔が焦るように声を荒げる。けれど、成琉には聞こえていなかった。そのまま志路の方へ突き進み、そして志路の横で足を止めた。
思い切り、それを蹴った。
バキッ
ガシャンッ
鈍いような、鋭いようなそんな音が生物準備室に響き渡る。

「はあ? お前何っ」
「生徒を守りたいなら、こんなもんなくたって、守れよ! それがお前の仕事だろ!」
「っ!」

成琉の悲痛な叫びが、空気を揺らして志路に降りかかった。
成琉の握った拳から僅かに血が滲み出す。成琉が力を込めて破壊したのは、志路の机上にあるコンピューターたちだった。
感情任せによって力をぶつけられたコンピューターたちは呆気なく、下に堕ちていった。
志路はただその光景を眺めながら、涙と共にへたりと地面に落ちていく。どこまでも地獄に落ちていった二人に相応しい最後だった。

その次の日。
あるニュースが全国を震わせた。
それは教師が生徒の持ち物に盗聴器やカメラを設置していたというニュースだ。プライバシー問題が注目を浴びる中で、教師がしていたという事実は話題となった。
そしてそのニュースとともに、志路は学校から消えた。
志路と言う人間なんて最初から存在していなかったかのように、パタリと。
容疑者はこう供述しているらしい。
『生徒を監視していたことは間違いない。申し訳なかった』
たった二言にも満たないような短い供述だった。
容疑者は生徒一人一人のフォルダに情報を入れていたらしく、コンピューターが壊れても、その情報は消えることがなかったらしい。
そしてその動機が、あの事件だということも全国に伝わった。そのお陰で桜庭葉琉の捜査が再度行われることになった。
葉琉のノートは警察に預け、成琉のポケットはすっかり空っぽになってしまった。
そして成琉は、心奈と別れた。
もう復讐なんて、必要なくなってしまったから。

「ごめん。君を利用していただけだったんだ」

心奈は目を見開いたあと、小さく頷いた。
けれど、

「そっか。私捻くれてるから。ちゃんと付き合って、栖原くんのこと好きになりたかったな」

と語る言葉は、僅かに震えていた。
けれどそうやって、自分のしたことに片をつけていっても、全て消えるわけではない。
万引きをした店に頭を下げることは、どんなに行ってもキリがなかった。親と同伴し、一軒一軒謝罪し、罵声を浴びる。けれどそれは受け入れなければならない戒めとして、成琉の心に刻まれ続けた。
そんな日々を送るうち、あの時のことはもう過去になりつつあった。

「最近、眠れてるみたいで安心した。あん時はどうなるかと思ったけどな」

決して楽しい思い出ではない。地獄のような日々であったことは間違いない。けれど、これからの日々まで地獄にする勇気は、もう成琉にはなかった。

「もうあんなのはごめんだな」
「──それは悪かった」

そう笑う二人の間には、夏の湿気の含んだ風がゆるりと吹いて、二人の額に汗を落としていった。