それから成琉は全ての事情を、メールで朔に話した。
志路がどんな瞳をしていたか、どんな声で話していたか。その細かな情報を一つ一つ。
朔は成琉を疑うどころか、最後まで耳を傾けていた。
盗聴器のことは朔も想像していなかったようで、文面からでも憤りや驚きが現れていた。
だって朔にも盗聴器が付けられていたのだから。
成琉とは違って通学カバンではなく、制服の胸ポケットについてあったらしい。
あの日の昼休み。成琉と朔は通学カバンを持っていなかった。
となれば考えられるのは、制服。
そして探したら案の定だったというわけなのだ。
大抵のことはすぐ受け入れられる朔でも、流石に信じられなかったのだろう。
その短いメッセージには動揺が滲み出ていた。
その日から、二人の共同戦線は始まった。
このことが志路に悟られないように、未だ朔の胸ポケットには盗聴器が入っている。
そして、成琉たちは盗聴している証拠を炙り出すことにした。
志路に直接問い詰めても、またのらりくらりかわされるだろう。教師は生徒の言うことなんか聞いてくれないから。
だから成琉たちは、直接志路をつけた。
けれど、どんなに探っても、ボロを見つけようとしても、一向に証拠が出ることはなかった。
これも全て志路の思惑通りかもしれない。そんな不安は途端に大きなしこりとなって、成琉たちに降り注いでいた。
二人は疲弊の色が現れ始めた。
ばれてはならない。
けれど、証拠を探し出さないといけない。
その重圧が、まるで重りのように肩にのしかかっている。
志路はいつだって優しい教師の仮面を貼り付けていて、その仮面を外で外すことなんてない。
成琉は血が滲むほど、下唇を噛んだ。
口の中に錆びた鉄の匂いが広がって、思わず顔を顰める。
そんな成琉の様子に朔が、言いづらそうにその唇を開いた。
「なあ。やっぱ、親に話そうぜ。あいつ、尻尾ださねぇもん。このままじゃ証拠掴めないままで終わる。志路に見下されたままでいいのかよ」
「……」
「俺だって、悔しいよ。あんなクソ野郎を追い詰めることすら出来ねぇの」
「……ああ」
頭上から降り注ぐ焼けてしまうほどの熱。アスファルトに反射する太陽の熱。それらが、ジリジリと、でも確実に二人の頬を焼いていた。
初夏だった世界は、もう夏色に染まっていた。
二人に影を与える大木には、茶色の蝉の抜け殻がしがみついていて。成長したそれが煩く鳴いていた。
もうすぐ夏休みに入る。
そうなってしまったらもう、証拠だって入手しずらい。
焦る朔の気持ちも分かってしまうから、成琉は口篭った。
「お前はさ、辛いだろうけど。やっぱ俺たちだけじゃ無理だ、大人とやり合うなんてさ。だから、少しでも。このままだと……葉琉さんみたいに」
「っ」
そこまで言うと、朔は口を噤んだ。
分かっていた。
もう自分たちだけでは、どうにもならないと言うことを。どんなに恐怖に打ち勝ったとしても、成琉はどこまでもちっぽけだったのだ。
この数日間。それをどこまでも痛感させられた。まるで心臓を射る矢のように深く刺さっている。
分かっていたからこそ、その言葉が痛かった。
あの時をきっかけに、母親は毎日パート三昧。
時給の低い定食屋で働いていて、どんなに働いても生活が豊かになることはない。毎日三食食べることが精一杯で、他のことに手をつける余裕もない。
日々濃くなっていく、目の下の黒い影。
増えていく、シワ。
汚れていく、指先。
そんな母親を見ると、殴られたように頭が痛くなった。
だから成琉は決めていた。
母親にだけは迷惑をかけないと。
けれど……それ以上に朔の言葉が、成琉の肩を揺らしていく。過去の黒い記憶を掘り起こさせる。
「……分かった。協力を得られるかどうかは分からない、けど」
「ありがとう、栖原」
そう成琉が告げると朔はほっとしたように顔を綻ばせた。
チクタクと虚しい音を奏でては消えていく、時計の針。
そんな時計を眺めながら、成琉はため息を吐いた。傍らに置いてあるその棚に目をやる。そこにはたくさんの写真が飾られていた。どれも、掛け替えのないもの。
不思議と視界が滲んだ。
写真の中の指が幾重にも重なり出して、成琉は思わず天井を仰いだ。
嘲笑するように乾いた笑みをこぼす。
すっかり堕ちてしまったな。
あの日から全て。
あんなに澄み切っていた手はこんなにも汚れてしまってる。真っ直ぐ純粋な瞳はもうここにはいない。
憎悪と嫌悪と、負の感情にすっかり覆われて。
こうなったのは紛れもなく、あの日からだろう。
だからこそ、あいつを、二度と同じ犠牲を増やさないためにも、暴かなければならない。
そう、いつの間にか手のひらに沈んでしまった爪痕を眺めていた時。
鍵穴に何かが差し込まれる音がした。
ガチャ
遠慮がちに音を立てて開かれる扉。
「母さん。おかえりなさい」
「え? まだ起きてたの?」
大きなエコバックを抱えて、汚れ切った衣服を纏っているのは母親だ。
いつもと違うその風景に目を見開いた。
「うん。話したいことがあってさ。ちょっと夜更かし」
「……そっか。ごめんね、母さんすぐに帰れなくて。ちょっと客同士が揉めちゃって。お酒入ると人って怖いよね」
申し訳なさそうに八の字に歪む眉毛。
母親は、いつもそうだ。
自分を犠牲にして自分が悪いような言い方をして。自分は平気だと言い聞かせるように、ペラペラと饒舌になって。
それが気に入らなかった。
けれど、そんな母親の気持ちも分かってしまうから。成琉は喉に這い上がって来た言葉を、ゆっくりと沈めていく。
「あのさ、お願いがあって」
「うん」
冷蔵庫に卵のパックを押し入れながら、母親の首が小さく揺れた。
成琉は小さく息を吸って、志路のことを話した。
一体いつ頃から話していたのかはもう、覚えていない。
ただ覚えているのは、成琉の震える指先と声だけだった。
何に怯えているのだろうか。恐怖など微塵も感じていないはずなのに、自然と昂った感情が熱い水となって溢れてきた。
そうしているうちに、憎しみも湧いて来たのだろう。手のひらに爪が食い込んでいた。
その刹那。
成琉は深く息を吸う。
ああ。そういえば。
どうして忘れていたのだろか。
母親は身を粉にして働いている。だから息子である成琉のことだって、把握しきれていない。
どこのクラスに所属してるのか、委員会は行っているのだろうか、担任は誰なのか。
だからもちろん、母親が志路という名を知っているはずがなかった。
それなのに、母親は言ったのだ。
成琉が盗聴器のことを誤魔化しながら告げた次の瞬間だった。
辿々しい声で、予想外のことを口にした。
「まさか、成琉の担任の先生って、志路先生じゃないわよね?」
と。
なんだか外が騒がしい。
次々とクラスメイトが廊下に出ていく。けれど、成琉は席を立ち上がろうとはしなかった。
そんなことにも気づいていはいなかった。
成琉の表情は冷徹で、その瞳に光を宿していない。
成琉の席は夏の強い日差しが差し込んでいるのに、成琉だけがその影にいるようだった。纏う空気が、ただ黒い。
眉間に皺が寄っていて、成琉の周りには負のオーラが漂っていた。ただ小さなノート帳を見て、誰も近づけさせない。
次第にその指先にも力が加わって、ノート帳に線を残していく。
やはり昨日も眠りにつくことはできず、目の下に浮かんだ隈がより一層、負のオーラを強くしていた。
それは、そのはず。
成琉の意識は、ただ一つにしか存在していない。
そんなホームルーム前の、朝のことだった。
「おい! 栖原! お前……!」
うるさい。
そんな声量で、誰かが成琉を呼んだ。焦ったような、憤りを含んでいるような、そんな声だった。
けれど、その声の主は、成琉も知っている。
そんな風に成琉を呼ぶなんて、一人しかいない。
「……なに?」
黒く染まった声で返答した。
「なにじゃねぇよ! 廊下に、張り出されてるんだ! お前のことが! 葉琉さんのこととか、お前の母ちゃんの写真とか。あと……お前が万引きしてるところとか!」
頭から冷水を被せられたように、血の気が引いていく。全身が凍てつくように、動きを止めた。
「なん、て?」
「見た方が早い! ほら!」
朔は、なにを言っているのだろう。
葉琉のこと?
母さんのこと?
俺が万引きしているところ?
けれどその言葉の意味は、考えるまでもなく成琉の視界に飛び込んできた。
廊下の掲示板だった。
その周りには成琉のクラスメイトだけでなく他クラスの生徒まで集い、何かを囲んでいる。そこにはどこか冷めたような、敬遠するような瞳があった。
そんな人の間隙を縫って、その光景を見る。
「ほらっ! これ、どういうことだよ? なんで、栖原の情報がっ!」
「……は?」
足の力が抜けて、へたりと地面へ落ちていく。
そこには、成琉の情報が張り出されていた。
成琉だけじゃない。
成琉の家族の情報まで張り出されていたのだ。
母親が飲食店で、客から暴力を振るわれている場面。その拳を拒んだであろう腕を、また掴まれている写真だ。
普段穏やかな顔を浮かべているその顔は、痛そうに苦しそうに歪んでいた。
頭を思い切り殴られたような衝撃が走る。
眩暈がした。
不意にあの時の光景と重なる。
成琉は無意識に唇を噛んでいた。
まるで世界から酸素が消えてしまったかのように、息が乱れる。
視界も滲んでいく。
けれどそれだけじゃない。
幸せだった頃。四人家族で写っている写真も、丁寧に載せられていた。両親に囲まれて笑う成琉たちは、普通の家族だった。
そして最も衝撃的だったことは、成琉がコンビニのおにぎりをリュックに詰め込んでいる写真があることだ。
「……え? これって、万引きじゃない?」
「栖原くんが、万引きしてたってこと?」
喧騒が成琉を掴んで離さない。
ザワザワと耳障りな声たちが、逃げ場をなくしていく。
「……志路だ」
「え?」
そんな喧騒にすぐに溶けてしまうような声で、成琉が呟いた。その瞳は、まるで志路と似た色で縁取られていた。
「志路だ……っ。こんなの、志路に決まってる!」
「は? お、おい!」
成琉はそう言うと、囲んでいた人を押し倒して走っていく。
そうだ。
こんなことができるのは、あいつしかいない。
バレたのか?
母親に話したのが、バレたのか?
まだどこかに盗聴器でもついていたのか?
全身に鳥肌が立って、一向に引かない。けれどそんなことは、もう何だって良かった。気がつけば、成琉は憎悪に染まった体で、廊下を駆け出していた。
「遅かったな」
「志路っ!」
五階。
階段を一気に駆け上がったからか、成琉の息は激しく乱れていた。
それでも乾いた喉の奥から志路の名前が漏れ出た。
成琉の後ろに続いて、朔の足音も響き渡る。
勢いよくその扉を開けたからか、床の埃が舞う。煩わしいほどに明るい光の筋が、その埃を浮き立たせていた。
朔はそんな光景に眉を顰める。
「おお、こえぇ」
けれど、そんな二人に睨まれていても志路は怯まない。むしろどこか娯楽を嗜むかのような不気味な笑顔を浮かべている。
何が、怖いだ。
志路が、お前が一番怖いだろ。
成琉は思わず拳を作った。
爪が突き刺さって痛い。けれど、何とか残る理性でそれを振り翳すのだけは耐えていた。
けれど、あの光景を思い出すとそんな努力も儚く散ってしまった。
「何で! あの写真!」
「よく撮れてたろ? お前の母親が殴られてるところも、お前が万引きしているところも全部。苦労したんだからな。お前の母ちゃんに盗聴器仕掛けんの」
「っ」
ニヤリと笑って、成琉たちを見下ろす。
成琉は短く息を吸った。
心臓がヒヤリと凍てついたみたいだ。
恐怖で足が掬われる。
絶望と失望と憤りの狭間に立たされた成琉は、言葉を紡ぐことすらできないままでいた。
そんな成琉に変わって朔が言葉を発する。
「何でこんなことするんすか。成琉だけに。ありもしない嘘ばっか並べて、こいつを苦しめて。先生よく言ってますよね。生徒の幸せを願ってるって。その結果がこれですか?」
成琉とは違って落ち着いた声が響く。
けれどその声には、成琉以上の憎悪が含まれていた。どこまでも低く地を這う怪物のように、志路の体を纏っていく。
そんな朔を煩わしそうに志路は一瞥した。
「だってお前──。桜庭葉琉の弟だろ?」
「──何っ、で……」
けれどそんな落ち着いた声も、この衝撃には抗えなかったみたいだ。
素っ頓狂な声が響く。
その先には、種明かしのマジシャンみたいに、片方の口角だけをあげて見下ろしている志路がいた。
成琉の握った拳が震える。
「……やっぱりっ! お前が……っ」
志路を見上げた成琉の瞳は、一筋の光も宿していなかった。
志路がどんな瞳をしていたか、どんな声で話していたか。その細かな情報を一つ一つ。
朔は成琉を疑うどころか、最後まで耳を傾けていた。
盗聴器のことは朔も想像していなかったようで、文面からでも憤りや驚きが現れていた。
だって朔にも盗聴器が付けられていたのだから。
成琉とは違って通学カバンではなく、制服の胸ポケットについてあったらしい。
あの日の昼休み。成琉と朔は通学カバンを持っていなかった。
となれば考えられるのは、制服。
そして探したら案の定だったというわけなのだ。
大抵のことはすぐ受け入れられる朔でも、流石に信じられなかったのだろう。
その短いメッセージには動揺が滲み出ていた。
その日から、二人の共同戦線は始まった。
このことが志路に悟られないように、未だ朔の胸ポケットには盗聴器が入っている。
そして、成琉たちは盗聴している証拠を炙り出すことにした。
志路に直接問い詰めても、またのらりくらりかわされるだろう。教師は生徒の言うことなんか聞いてくれないから。
だから成琉たちは、直接志路をつけた。
けれど、どんなに探っても、ボロを見つけようとしても、一向に証拠が出ることはなかった。
これも全て志路の思惑通りかもしれない。そんな不安は途端に大きなしこりとなって、成琉たちに降り注いでいた。
二人は疲弊の色が現れ始めた。
ばれてはならない。
けれど、証拠を探し出さないといけない。
その重圧が、まるで重りのように肩にのしかかっている。
志路はいつだって優しい教師の仮面を貼り付けていて、その仮面を外で外すことなんてない。
成琉は血が滲むほど、下唇を噛んだ。
口の中に錆びた鉄の匂いが広がって、思わず顔を顰める。
そんな成琉の様子に朔が、言いづらそうにその唇を開いた。
「なあ。やっぱ、親に話そうぜ。あいつ、尻尾ださねぇもん。このままじゃ証拠掴めないままで終わる。志路に見下されたままでいいのかよ」
「……」
「俺だって、悔しいよ。あんなクソ野郎を追い詰めることすら出来ねぇの」
「……ああ」
頭上から降り注ぐ焼けてしまうほどの熱。アスファルトに反射する太陽の熱。それらが、ジリジリと、でも確実に二人の頬を焼いていた。
初夏だった世界は、もう夏色に染まっていた。
二人に影を与える大木には、茶色の蝉の抜け殻がしがみついていて。成長したそれが煩く鳴いていた。
もうすぐ夏休みに入る。
そうなってしまったらもう、証拠だって入手しずらい。
焦る朔の気持ちも分かってしまうから、成琉は口篭った。
「お前はさ、辛いだろうけど。やっぱ俺たちだけじゃ無理だ、大人とやり合うなんてさ。だから、少しでも。このままだと……葉琉さんみたいに」
「っ」
そこまで言うと、朔は口を噤んだ。
分かっていた。
もう自分たちだけでは、どうにもならないと言うことを。どんなに恐怖に打ち勝ったとしても、成琉はどこまでもちっぽけだったのだ。
この数日間。それをどこまでも痛感させられた。まるで心臓を射る矢のように深く刺さっている。
分かっていたからこそ、その言葉が痛かった。
あの時をきっかけに、母親は毎日パート三昧。
時給の低い定食屋で働いていて、どんなに働いても生活が豊かになることはない。毎日三食食べることが精一杯で、他のことに手をつける余裕もない。
日々濃くなっていく、目の下の黒い影。
増えていく、シワ。
汚れていく、指先。
そんな母親を見ると、殴られたように頭が痛くなった。
だから成琉は決めていた。
母親にだけは迷惑をかけないと。
けれど……それ以上に朔の言葉が、成琉の肩を揺らしていく。過去の黒い記憶を掘り起こさせる。
「……分かった。協力を得られるかどうかは分からない、けど」
「ありがとう、栖原」
そう成琉が告げると朔はほっとしたように顔を綻ばせた。
チクタクと虚しい音を奏でては消えていく、時計の針。
そんな時計を眺めながら、成琉はため息を吐いた。傍らに置いてあるその棚に目をやる。そこにはたくさんの写真が飾られていた。どれも、掛け替えのないもの。
不思議と視界が滲んだ。
写真の中の指が幾重にも重なり出して、成琉は思わず天井を仰いだ。
嘲笑するように乾いた笑みをこぼす。
すっかり堕ちてしまったな。
あの日から全て。
あんなに澄み切っていた手はこんなにも汚れてしまってる。真っ直ぐ純粋な瞳はもうここにはいない。
憎悪と嫌悪と、負の感情にすっかり覆われて。
こうなったのは紛れもなく、あの日からだろう。
だからこそ、あいつを、二度と同じ犠牲を増やさないためにも、暴かなければならない。
そう、いつの間にか手のひらに沈んでしまった爪痕を眺めていた時。
鍵穴に何かが差し込まれる音がした。
ガチャ
遠慮がちに音を立てて開かれる扉。
「母さん。おかえりなさい」
「え? まだ起きてたの?」
大きなエコバックを抱えて、汚れ切った衣服を纏っているのは母親だ。
いつもと違うその風景に目を見開いた。
「うん。話したいことがあってさ。ちょっと夜更かし」
「……そっか。ごめんね、母さんすぐに帰れなくて。ちょっと客同士が揉めちゃって。お酒入ると人って怖いよね」
申し訳なさそうに八の字に歪む眉毛。
母親は、いつもそうだ。
自分を犠牲にして自分が悪いような言い方をして。自分は平気だと言い聞かせるように、ペラペラと饒舌になって。
それが気に入らなかった。
けれど、そんな母親の気持ちも分かってしまうから。成琉は喉に這い上がって来た言葉を、ゆっくりと沈めていく。
「あのさ、お願いがあって」
「うん」
冷蔵庫に卵のパックを押し入れながら、母親の首が小さく揺れた。
成琉は小さく息を吸って、志路のことを話した。
一体いつ頃から話していたのかはもう、覚えていない。
ただ覚えているのは、成琉の震える指先と声だけだった。
何に怯えているのだろうか。恐怖など微塵も感じていないはずなのに、自然と昂った感情が熱い水となって溢れてきた。
そうしているうちに、憎しみも湧いて来たのだろう。手のひらに爪が食い込んでいた。
その刹那。
成琉は深く息を吸う。
ああ。そういえば。
どうして忘れていたのだろか。
母親は身を粉にして働いている。だから息子である成琉のことだって、把握しきれていない。
どこのクラスに所属してるのか、委員会は行っているのだろうか、担任は誰なのか。
だからもちろん、母親が志路という名を知っているはずがなかった。
それなのに、母親は言ったのだ。
成琉が盗聴器のことを誤魔化しながら告げた次の瞬間だった。
辿々しい声で、予想外のことを口にした。
「まさか、成琉の担任の先生って、志路先生じゃないわよね?」
と。
なんだか外が騒がしい。
次々とクラスメイトが廊下に出ていく。けれど、成琉は席を立ち上がろうとはしなかった。
そんなことにも気づいていはいなかった。
成琉の表情は冷徹で、その瞳に光を宿していない。
成琉の席は夏の強い日差しが差し込んでいるのに、成琉だけがその影にいるようだった。纏う空気が、ただ黒い。
眉間に皺が寄っていて、成琉の周りには負のオーラが漂っていた。ただ小さなノート帳を見て、誰も近づけさせない。
次第にその指先にも力が加わって、ノート帳に線を残していく。
やはり昨日も眠りにつくことはできず、目の下に浮かんだ隈がより一層、負のオーラを強くしていた。
それは、そのはず。
成琉の意識は、ただ一つにしか存在していない。
そんなホームルーム前の、朝のことだった。
「おい! 栖原! お前……!」
うるさい。
そんな声量で、誰かが成琉を呼んだ。焦ったような、憤りを含んでいるような、そんな声だった。
けれど、その声の主は、成琉も知っている。
そんな風に成琉を呼ぶなんて、一人しかいない。
「……なに?」
黒く染まった声で返答した。
「なにじゃねぇよ! 廊下に、張り出されてるんだ! お前のことが! 葉琉さんのこととか、お前の母ちゃんの写真とか。あと……お前が万引きしてるところとか!」
頭から冷水を被せられたように、血の気が引いていく。全身が凍てつくように、動きを止めた。
「なん、て?」
「見た方が早い! ほら!」
朔は、なにを言っているのだろう。
葉琉のこと?
母さんのこと?
俺が万引きしているところ?
けれどその言葉の意味は、考えるまでもなく成琉の視界に飛び込んできた。
廊下の掲示板だった。
その周りには成琉のクラスメイトだけでなく他クラスの生徒まで集い、何かを囲んでいる。そこにはどこか冷めたような、敬遠するような瞳があった。
そんな人の間隙を縫って、その光景を見る。
「ほらっ! これ、どういうことだよ? なんで、栖原の情報がっ!」
「……は?」
足の力が抜けて、へたりと地面へ落ちていく。
そこには、成琉の情報が張り出されていた。
成琉だけじゃない。
成琉の家族の情報まで張り出されていたのだ。
母親が飲食店で、客から暴力を振るわれている場面。その拳を拒んだであろう腕を、また掴まれている写真だ。
普段穏やかな顔を浮かべているその顔は、痛そうに苦しそうに歪んでいた。
頭を思い切り殴られたような衝撃が走る。
眩暈がした。
不意にあの時の光景と重なる。
成琉は無意識に唇を噛んでいた。
まるで世界から酸素が消えてしまったかのように、息が乱れる。
視界も滲んでいく。
けれどそれだけじゃない。
幸せだった頃。四人家族で写っている写真も、丁寧に載せられていた。両親に囲まれて笑う成琉たちは、普通の家族だった。
そして最も衝撃的だったことは、成琉がコンビニのおにぎりをリュックに詰め込んでいる写真があることだ。
「……え? これって、万引きじゃない?」
「栖原くんが、万引きしてたってこと?」
喧騒が成琉を掴んで離さない。
ザワザワと耳障りな声たちが、逃げ場をなくしていく。
「……志路だ」
「え?」
そんな喧騒にすぐに溶けてしまうような声で、成琉が呟いた。その瞳は、まるで志路と似た色で縁取られていた。
「志路だ……っ。こんなの、志路に決まってる!」
「は? お、おい!」
成琉はそう言うと、囲んでいた人を押し倒して走っていく。
そうだ。
こんなことができるのは、あいつしかいない。
バレたのか?
母親に話したのが、バレたのか?
まだどこかに盗聴器でもついていたのか?
全身に鳥肌が立って、一向に引かない。けれどそんなことは、もう何だって良かった。気がつけば、成琉は憎悪に染まった体で、廊下を駆け出していた。
「遅かったな」
「志路っ!」
五階。
階段を一気に駆け上がったからか、成琉の息は激しく乱れていた。
それでも乾いた喉の奥から志路の名前が漏れ出た。
成琉の後ろに続いて、朔の足音も響き渡る。
勢いよくその扉を開けたからか、床の埃が舞う。煩わしいほどに明るい光の筋が、その埃を浮き立たせていた。
朔はそんな光景に眉を顰める。
「おお、こえぇ」
けれど、そんな二人に睨まれていても志路は怯まない。むしろどこか娯楽を嗜むかのような不気味な笑顔を浮かべている。
何が、怖いだ。
志路が、お前が一番怖いだろ。
成琉は思わず拳を作った。
爪が突き刺さって痛い。けれど、何とか残る理性でそれを振り翳すのだけは耐えていた。
けれど、あの光景を思い出すとそんな努力も儚く散ってしまった。
「何で! あの写真!」
「よく撮れてたろ? お前の母親が殴られてるところも、お前が万引きしているところも全部。苦労したんだからな。お前の母ちゃんに盗聴器仕掛けんの」
「っ」
ニヤリと笑って、成琉たちを見下ろす。
成琉は短く息を吸った。
心臓がヒヤリと凍てついたみたいだ。
恐怖で足が掬われる。
絶望と失望と憤りの狭間に立たされた成琉は、言葉を紡ぐことすらできないままでいた。
そんな成琉に変わって朔が言葉を発する。
「何でこんなことするんすか。成琉だけに。ありもしない嘘ばっか並べて、こいつを苦しめて。先生よく言ってますよね。生徒の幸せを願ってるって。その結果がこれですか?」
成琉とは違って落ち着いた声が響く。
けれどその声には、成琉以上の憎悪が含まれていた。どこまでも低く地を這う怪物のように、志路の体を纏っていく。
そんな朔を煩わしそうに志路は一瞥した。
「だってお前──。桜庭葉琉の弟だろ?」
「──何っ、で……」
けれどそんな落ち着いた声も、この衝撃には抗えなかったみたいだ。
素っ頓狂な声が響く。
その先には、種明かしのマジシャンみたいに、片方の口角だけをあげて見下ろしている志路がいた。
成琉の握った拳が震える。
「……やっぱりっ! お前が……っ」
志路を見上げた成琉の瞳は、一筋の光も宿していなかった。



