「ここ、か」

空にはすっかり月が浮かんで、夜の帳に閉じ込められたような闇が広がっていた。
けれど、成琉が目をやる先は、ただ眩しかった。
ピンクと赤と、白い光と。見ているだけで頭痛のするような色のコントラストだ。
こんなところに、本当に心奈は来るのだろうか。
成琉はそのホテルの入り口が見えるような位置へ、そっと移動する。街路樹の影に沿うように、身を潜めた。
その間も、ホテルは喧騒に包まれていた。指先を絡め合う男女に、酔っ払いの集団。
鼻をつくような猛烈な匂いが、左から右へと過ぎてゆく。
そんな中、成琉は息を潜め続けた。
──来ないでくれ。
祈るように、手を合わせ続ける。初夏の夜と言っても、気温は低いわけではない。梅雨の拭いきれなかった湿っぽい空気が、頬を撫でていく。合わせた手のひらにも汗が滲み出していた。
まるでスローモーションのように過ぎてゆく人の影。
次第に喉の水分も消えていき。
カラカラになった喉を潤そうと、ふと視線を右に向けた時だった。
耳に入り込む、高く、甘い響き。
成琉の体は硬直したように、動きを止めた。
嫌な予感がした。

「ええー? そうなんですかぁー?」

耳に入るのも煩わしい、甘い声。この場のどの音よりも、糖度は高く、不快な声。成琉の全身に鳥肌が伝ってゆく。
それも、仕方がない。
だって成琉は以前にもその声を聞いたことがあったのだから。つい、数時間前の、あのオレンジ色に染まった教室で。

「よ、吉澤」

蚊の鳴くような声が、街の喧騒に消えてゆく。
成琉の視線はホテルに入ろうとする、心奈を捉えていた。
教室の時とは、全く違う。
ストレートだったボブカットは、緩やかにウェーブしていて。目元は、誰だかわからないくらいに、輝いていた。

「なん、で……っ」

思わず口元を強く抑える。
そうでもしないと、何かが溢れてしまいそうだったのだ。
甘い声を出し続けるその唇は、真っ赤に染まっていて。吐き気がした。
それも、そうだろう。
全て、志路の言うとおり。志路の言うことが正しいように、成琉の願いは儚く散っていたのだ。
心奈の細く、白い腕は、知らない男の腕に巻きつかれていた。
明らかに、年上の、汚らしい男の腕に。
父親とは言い逃れ出来ないほどに、口角は上がっていて、その瞳には下心が溢れんばかりに漂っていた。
けれど心奈は嫌がる素振りを見せない。
寧ろ嬉しそうに、その真っ赤な唇で弧を描くのだ。
本当に……そうだったんだ。
成琉の視界は真っ暗になった。地面にへたりと座り込む。
脳裏には、心奈の優しげな笑顔が浮かんできた。辿々しい声でしか会話ができない成琉にも、耳を傾けてくれた心奈。
天真爛漫で、純粋で、天然水のように透明で。
けれど、そんな姿はどこにもない。
濁った泥水の中にいるみたいだ。
──気持ち悪い。
志路も、男も、心奈も。全て、気持ち悪い。
心がこの夜のように黒く、染まっていく。
成琉は立ち上がって、ただ走った。
過ぎ去っていく景色が、一本の細い線と化すまで、全力で腕を振った。
足が痛い。
肺が痛い。
上手く空気が吸えない。
それなのに、口の中には錆びた鉄の匂いが充満していって。
けれど、それでもよかった。あの声を、匂いを、赤い唇を、忘れられるのであれば。
けれどどこまで地面を蹴っても、夜から抜け出そうとしても、頭から抜けてくれない。
どこまでも駆ける成琉に付き纏う、ナニカのように。

ピピピッ
机上で震え出す目覚まし時計を、重い腕で止める。

「はあ」

結局、一睡もできなかった。
そう、成琉はぼやける視界を擦った。窓から差し込むのは、煩わしいほどに明るい光の筋。
狭い部屋はそんな柔らかな光に満ちているのに、成琉だけが影の中にいるような、そんな感覚に陥っていた。
あの光景がいつだって、鮮明に浮かんでくるのだ。
眠りにつくことも出来ずに、成琉はただ一人、夜明けを待っていた。
心奈に会ってどんな顔をすればいいかも分からなかった。
『よろしくね』
そうスタンプとともに来たメッセージも未読のままだ。ホテルから帰ったその指先で文字を打っているのかと思うと、気持ち悪くて仕方がない。
スマホを触るのも憚られて、ただ夜の帳を見つめていた。
そのせいか、成琉の目の下には薄黒い隈が浮かんでいる。
一つため息をついて、成琉は体を起こした。布団から抜け出すと、澄んだ空気が足に纏わりつく。

「……おはよう」

成琉が住んでいるのは、小さなアパートだ。
母と成琉だけの二人暮らしの生活。その生活は、裕福とは言えない。母親のパート代だけで生活しているのだから、無理もない。
けれど、数年前までは成琉だって、何不自由なく暮らしていた。
あの瞬間は、今でも鮮明に脳裏に浮かぶ。
積み上げてきた積み木が一瞬にして崩れるような、そんな感覚だった。
そのあと両親が離婚して、成琉は母親についてきた。成琉にとってどちらに着いていくのかは悩ましい問題であったが、母親一人残すのは気が引けたのだ。
床に這いつくばるような姿勢で、嗚咽を漏らしていた母親を思い出す。
もしも母親と離れてしまったら、またぽっくりといなくなってしまうような気がしたのだ。
後悔に苛まれて生きるのは、一つだけでいい。
けれど、生活は貧窮していて。
壁も薄く、隣人の声は丸聞こえ。
母親は朝から晩まで働いて、基本的に家にはいない。
小さく呟いた挨拶の声だって、隣人の会話に溶けていく。
虚しい朝の始まりだった。
楽しそうに笑う隣人の声を掻き消すように、成琉はテレビのリモコンを手に取った。

「修学旅行中の高校生が、奈良県の山の中から死んだ状態で見つかったあの事件からはや五年ですね。あれから方針も変わってきていて──」
「──ははっ」

ああ、最悪だ。
テレビの画面からすぐに目を離した。
こんな酷い朝にぴったりな内容だ。
嘲笑するように乾いた笑いをこぼす。
もう見ていられなくて、成琉は目眩のする頭を抑えつけながら、キッチンへ向かった。
いつの間にかきつく握られていた手のひらを開くと、爪の跡がくっきり沈んでいた。
ヒリヒリと感じる痛みも、全て、いつも通り。
けれど、今日は違う。
しなければならないことが、行かなければならない所がある。
成琉は思い切り自分の頬を叩いた。
俺は、俺のやるべきことを全うしろ。
校舎の五階、階段を上がった先を進んでいくと見える、生物準備室。そこに奴はいるんだから。
そう、眠気がのしかかる瞼を持ち上げながら、成琉は冷蔵庫の扉を開けた。

やるべきこと。
それだけに集中さえすれば、学校生活は何不自由なく過ぎ去っていった。なるべく心奈を視界に入れないようにして、黙々とノートにペンを走らせるだけでいいのだから。
けれど不意に耳に入る声までは防げない。
今日もまた、心奈の声が一際鼓膜に入ってくる。
まるで、昨日成琉が見たことは全て夢だったのではないかと思うほど、いつも通りの優しい声音。
あの光景は見間違いだと、切り捨てたくなる心を必死に捨てる。
視界に入れないように。
考えないように。
そうした行動が実を結んだのだろうか。

「今日のお前、なんか変だな。吉澤のこと、目で追ってない」

不可解な表情を浮かべながら、泊朔(とまりさく)がそう聞いてきたのだ。
朔は、中学校からの面識で、成琉の唯一の友人とも言える。心奈と同じく、成琉と正反対の立ち位置にいる、クラスの中心的な存在である。
朔が話せば、クラスメイトたちは朔を囲んで。
朔が黙れば、クラスメイトたちも口を噤む。
そんな朔は成琉のことを気に入っているらしく、よく成琉の机にくるのだ。肩を組んだり、お弁当を横で食べたり。
そんな朔のことを煩わしそうにする成琉だが、内心では頼りにしていた。
朔は、情報通なのだ。
本人曰く、生徒のことや先生のゴシップなら全て握っているらしい。
顔の広いやつの特権だ。
いつも通り、その腕を払い除けながら成琉はため息をついた。

「別に。そもそも目で追ってないし」
「嘘つけ。だってお前は普段から二つのことしかしねぇじゃん。吉澤見てるか、ポエム書くしか」
「っ! おい!」

揶揄うように目を細める朔。
そんな朔の肩を叩いた。
他人に知られるなんて、恥ずかしさで死んでしまいそうだ。
ポエムを書いているのは、ただの掃き溜めに過ぎない。誰にも話せない激情を書き連ねているだけ。
成琉は胸ポケットに手を当てる。
入っているのは、小さなノート。成琉の兄がもう書かなくなった日記帳であり、ノートを買うお金すらない成琉は、その余りのページを使っていた。
それが、成琉にとって全てだった。

「はは、悪かったって」

眉を顰めて朔を睨んでも、依然としてその笑顔は失われない。けれど、朔はそういう奴なのだ。

「次言ったら怒るから」
「こえー」

そう睨むと、朔は嘘っぽく肩を震わせながら、踵を返す。
成琉はまた、何度目か分からないため息を吐いた。
けれど、朔は成琉にとって素を出せる数少ない人間だった。あの時以来、成琉がどんなに拒んでも、隣にいてくれるのだから。
そうやって惰性でまた授業を受ける。
今日は生物の授業がないから、まだいい。
心奈の声を聞くだけで吐き気を催すのに、志路の纏わりつくような声を聞けるわけがなかった。
そうしていくうちに、あっという間に放課後はやってくる。
時間がこのまま止まればいい。
そんな願いとは裏腹に、教室にはオレンジ色の光が差し込んだ。
そんな光に背中を叩かれるように、成琉は重い腰をあげた。
校舎の五階。生徒はあまり使用しないその階に、生物実験室がある。
どこか空気さえ澱んでいる気がする。
けれど、成琉は身を汚す覚悟で、生物実験室の扉を開けた。

「志路先生。いますよね?」

真っ白で、湿っぽくて、埃っぽい部屋だ。
生物実験室なのに、机の上にはたくさんのコンピューターが頭を並ばせていて、無機質な所が不気味に感じさせる。
その隣には、何かの錠剤が束になって置かれていた。
そしてそんなところに、志路はいた。

「来たか。ちょうど来ると思ってたんだよ、栖原」

まるで勝ち誇ったような笑顔を浮かべる志路。
成琉が来ることを知っていたかのように、くるりと椅子を回転させる。
昨日といい、その全てが気持ち悪い。成琉はなるべく志路と距離をとって、冷たい声を浴びせた。

「単刀直入に言います。先生はなぜ、吉澤があそこに来ると知っていたんですか」

そうだ。
志路は、なぜ知っていた。
重要な秘密と言っても過言ではない、あのことを。
学校での心奈は優等生だ。積極的で、誰からも慕われて、高校生の模範のような存在。
失言という線も考えられない。

「お前も馬鹿じゃねぇんだな」
「はぐらかさないでください」

困る様子など一切見せずに、志路はハハッと頭を掻いた。けれど、どんなに口角が上がっていたってそのメガネの奥では笑っていない。

「そんなん、答えるわけねぇだろ」
「──それは、どうしてですか。何か言えない理由でも?」
「お前に答えるメリットがねぇからだよ」

……確かにそうだ。
成琉は口を噤んだ。
確かに成琉に知っている理由を話したって、志路には何のメリットもない。

「そんな睨んだって、言わねぇよ。それより、吉澤と別れたか? お前の幸せのために言ってやってんだ。ちゃんと別れろよ」

勝ち誇ったように、そう志路は微笑を浮かべる。
けれど、昨日のようにその言葉を、成琉は簡単に否定することができなかった。
だって、確かに昨日、心奈はホテルに入っていった。見ず知らずの男と。
そんな人と付き合ったって、成琉は幸せになんてなれない。
それは、成琉にも理解できてしまうから。
何も抗う言葉が浮かんでこなかった。

「……先生に幸せなんて決めつけられたくありません」

志路はきっと口を割らない。
このままこの場所にいたら、志路のペースに流されてしまう。そう感じた成琉は、この空気の澱んだ場所から一刻も早く抜け出したかった。
ぶっきらぼうに言い放って、志路に背中を向けた、その時だった。
志路が何かを思い出したかのように、短く息を吸う。その吸う音でさえ、成琉の肌を粟立たせる。

「ああ、あと一つ言っておくことがある」
「何ですか」

また何か、生徒のゴシップでも告げるのだろうか。何かを含んだような言い方に、成琉の頬が強張った。
あんな眠れない夜を過ごすのはもうごめんだ。
成琉は振り返らずに、返答する。

「俺は、お前ら生徒の情報なら何でも知ってる。何でも、だ。それが教師の務めだからな。栖原。お前のことだって、何でも知ってる。やってるワルイことも、秘密も、全部。だから、何か知りたいことがあったら俺に言えよ。お前の幸せのためなら、叶えてやる。でもこれは俺と栖原だけの秘密な」
「……っ」

悲鳴にも近いような声が漏れ出る。
気持ち悪い。
なんだ、それ。
生徒の情報を全て知っているなんて、そんなことあるはずがない。
気持ち悪い。
口を開けば、幸せを連呼することも、全部、全部。
成琉の全身が小さく震え、その数秒後。鳥肌が全身を覆った。その全てを拒否するかのように、生物実験室から飛び出した。
全身が志路を拒否する。
成琉は底のない泥沼に足を入れてしまったのかもしれない。そう、逃げるように生物実験質から走り去った。頬に掠る風が妙に生温かくて、何かが胃から溢れ出しそうだった。

そこからだろうか。
僅かに成琉の学校生活が、黒く染まり始めたのは。
そう、一つ。たった一つボタンを掛け違えただけなのに、まるで全てが狂ってしまったように。
心奈と話せなくなった。
心奈の行動一つ一つを目に焼き付けるように追っていた成琉は、視界に入れることさえ苦しくなったのだ。
それはきっと、あの日から。
けれど、成琉と心奈はまだ、恋人同士。
学校で会話をしない、メールでのやり取りだけの恋人だ。周りに知られるのが気恥ずかしいと言う理由で、クラスメイトたちには知らさないように言っている。
けれど、それでよかった。
メールなら直接話さなくても、声を聞かなくても、探れるから。
心奈もそんな現状に満足しているらしい。
メールでは他愛のない話をするだけ。今日あった出来事とか、好きなものとか。相手のことを知らない二人に相応しい会話内容だった。
けれど、やはり心奈は夜に既読がつくことが遅かった。
昼間ならどんな時間帯でもすぐに既読が付くのに。夜になった途端、プツンと通信が途切れる。
メールでさえも億劫になっているのは言うまでもなかった。けれどそんな気持ちを悟られないように、成琉は返答をする。
けれど、この人までは騙せないらしい。

「やっぱ、お前変だよ。なんかあった? この間、教室に一人で残ってた時も変だったけど、今はそれ以上つうか」

昼休み。
静寂だった四限とは違い、教室は喧騒に包まれていて。逃げ出すように、教室を飛び出した成琉。
いつものように人通りのない中庭のベンチに座った。
初夏の湿った空気が纏う中、中庭は風が通るから気持ちが良い。僅かに冷たいそよ風が頬を撫でていく。
だから好きだった。
けれど、今日はそこに一人、やってきた。
トコトコと安直に成琉をつけて。
ビニール袋から乱雑にコッペパンを取り出して、頬張る奴が。

「別に変じゃない。ちょっと色々あっただけ」

成琉はそう朔を横目で一瞥すると、空を仰いだ。
この間、と言うのは成琉が心奈に告白した時だろう。あの時は緊張で言動がぎこちなかったと思う。
けれど、それ以上だなんて。
成琉は、お弁当の蓋を開けながらふうと息を吐く。

「いや。それだけじゃない気がするんだよな」
「はあ?」

けれど朔は、成琉を疑うような眼差しで見続ける。まるで全てを見透かされているようで、成琉の心臓がドクンとなった。
けれど、成琉にもどうすればいいかなんて、分からなかった。
この全身を覆い続ける不鮮明な空気が、しこりのように成琉の体を占めていて。
正直、疲れていた。
眠れない夜を過ごすことも。窓から漏れ出る人の気配を感じることも。
誰かに監視されているような気がして、体が休まらない。

「そっかー。まあ栖原がそう言うならしゃあないけど……」
「──志路」

もう限界だったのかもしれない。
気がつけば、ポロリとその名を口にしていた。
そうだ。
全てはあいつのせいだ。
あいつがいなかったら成琉は、全て上手くやれていた。心奈との会話だってスムーズに行えていただろうし、目的だって果たせていたかもしれない。

「志路? ああ、あいつ? 今日一段と白衣汚くて笑ったわ。で、志路がどうした?」

小さく笑みをこぼす朔。
相変わらず人をよく見ているようだ。そんな朔なら分かってくれるかもしれない。僅かな期待が膨らむ。

「気持ち悪くない? 全部」
「……何、急に。お前、志路となんかあった? まあ俺も、何か抱えてそうだなとは思ってたけど。口開けば幸せとか言うじゃん。知らねぇよってな」

ああ、どうして朔はこんなにも欲しい言葉をくれるのだろう。
思わず視界が滲んだ。
安心すると、人間とは口が緩んでいくらしい。
スラスラとあの日の出来事を述べていた。口に出すだけでも吐き気がする、あの日からのことを全て。

「──それに、生徒の情報を全部知ってるとか言ってたんだ。お前のことも、全部知ってるって。生物実験室なのにパソコンしかないところも気持ち悪いし。あいつが通るだけで吐き気がして」

成琉にしては、あまりにも饒舌だった。
箸を動かすこともせずに、ただ頭にこびりついている光景を蘇らせる。
心奈のことは伏せ、事実を淡々と述べた。
朔はコッペパンを頬張りながら耳を傾けていた。

「生徒の執着は凄いんだろうなって思ってたけど。それは流石にキモい。生徒に言うことじゃねぇしな」

ペットボトルに口をつけながら、眉を顰める朔。

「だから、何かヤバいことでもやってんじゃないのかって。生徒の情報全部知ってるなんて、あり得ないし。泊、何か知らない?」
「うーん」

成琉がそう告げると、朔は考えるそぶりをした。
朔にしては珍しく、顎に手を当てて長い時間考えていた。
記憶を辿っているのだろうか。
こんなにも成琉と距離が近いと忘れがちだが、朔は情報通である。朔の周りには、情報源がいくらでも湧いているのだ。

「教師まではなぁー。ちょっと専門外かも」
「……そうだよな」

期待通りにいかなかったその返答に、成琉は落胆する。
何か情報を知っていれば、その情報を片手に志路の秘密を暴き出せるかもしれない、と思ったのに。

「あ!」

その時、まるで何かを思い出したように、朔が指を突き立てた。
くいと持ち上げられた眉と、見開いた双眸に期待を寄せてしまうのは、もはや抗えない反射だった。

「な、なに」
「そういや、先輩から聞いたんだけど。あいつ今年からこの学校来たらしくてさ。俺ら一年だからわかんねぇけど。で、あいつが来る前に、変な噂が広まったらしくて……」
「どんな?」

成琉はカラカラになった喉を唾液で潤す。
ポリポリと頭をかく朔とは対照的に、成琉は固唾を飲んで見つめていた。

「前の学校でやらかした先生が来るって。で、謹慎させられてたんだけど。みたいな? 噂で聞くには、生徒のいじめを見て見ぬふりをして、死なせた、とか。まあ、そんな壮大なことがあるわけないんだけどな」
「……」

朔は乾いた笑いをこぼす。まるで冗談を言うように軽く、ケラケラと。
けれど、成琉はその笑いに同調することができなかった。
気がつけば眉に皺を溜め、箸が折れてしまいそうなほど力を込める。
いじめ。
死なせた。
噂と言うには、あまりにも現実的だった。そんな噂など、簡単に立つものではないのに。
もしも、それが本当に志路なのだとしたら。
握った拳が小刻みに震え出す。
生徒のプライバシーまで侵害しているのに、さらに、いじめを見過ごしにした?
そんな奴が本当に教師なんてやっていいのだろうか。
確かめないと。そんな歪んだ正義感が次第に顕になる。
成琉はこの類に関して、嫌な記憶があったのだ。
体の中の内臓も含めた全てが、喉を這い上がって口から溢れそうになった記憶だ。立ち直ってなんかいない。

「泊」
「ん?」
「俺、そのこと確認しに行ってくる。直接、本人に」

そう告げると、朔は驚いたように目を見開いた。
僅かに上がっていた口角が、どんどん下がっていく。
その刹那、ゴホッと咳き込む朔。
激しい咳をした朔は、急いでペットボトルに口を寄せる。成琉は激しく動く朔の喉仏を見ていた。

「っは、はあ? いや、これは噂なんだって。嘘に決まってるだろ。誰かが面白おかしく広めただけだ」
「──嘘ならそれで済む。でももし本当なら、あいつは本当に教師失格だ」

こうなったらもう、成琉は止められなかった。
成琉自身でも制御できないほどの激情だ。
特に教師となると、あの記憶が引っ張り出されるから。それは、長い付き合いである朔も知っていた。何かを言おうとしたが、朔は諦めたように動きを止めた。

「まあ、それはそうだけどさ。俺は止めたからな? 相手は志路だぞ? 逆鱗に触れても知んないからな」
「うん。分かってる」

成琉だって、あんな澱んだ空気が充満したところには行きたくない。
けれど得体の知れない正義感からなのだろうか。それが、成琉を突き動かしていた。
六限終わりの放課後。
油断していた時に、爆弾を落としてやるんだ。
あの時志路がそうしたように。
──けれど、そんな成琉の意気込みは五限目にすっかり失われたのだった。
五限目は、志路の受け持つ生物。
生物は苦手科目だったこともあり、そして担当教師が志路だと言うこともあり、成琉は真面目に授業なんて受けていなかった。
胸ポケットに丁寧にしまわれた日記帳を取り出し、緩やかに動く空模様を眺めていた。
そして自分を落ち着かせるように、教科書の上で気持ちを綴る。
そんな時だった。
頭上に、志路の湿っぽい声が降りかかった。

「栖原。放課後、生物実験室に来い。話したいことがある」

淡々と、業務連絡のように放たれた言葉。
その言葉に、斜め前に座っていた朔も振り返る。
まさか志路の方から声が掛かるなんて思っても見なかった成琉は、素っ頓狂な声を漏らした。
あの日以来、志路と視線が交わることすらなかったのに。
今更何の用だ。
けれど、その言葉は奥にしまって、ゆっくりと首を縦に振った。
成琉だって用事があった。ちょうどいい。


「内緒だって言ったよな?」
「はい?」

あっという間に時間は過ぎ去って、成琉はまた五階に来ていた。
窓から差し込む光が、生物実験室の埃を反射している。相変わらず、澱んだ空気が漂うその空間で、唸るような声を出したのは志路だ。
その顔には、いつものような微笑は浮かんでいない。
成琉の背筋に怖気が走った。

「とぼけんなよ。俺が生徒のことなら何でも知ってるって。内緒だって言ったよな? なのに、よく泊に話したな」
「……っ」

まるで許さない、そう訴えられているようだった。その槍のような鋭い視線が、成琉の体に刺さっていく。
けれど、そんなこと今はどうだって良かった。
成琉はまた全身に鳥肌が走った。
志路を問い詰めようなど、そんなことはもうすっかり頭から抜け落ちていた。
ただ、言葉も紡げず唖然とする。
どうして、知っている。
朔に話したことを、どうして。
そう震える成琉を横目に、志路はようやく普段の微笑を浮かべ始める。本当に全て志路の手のひらの中で転がされているみたいな感覚に陥った。

「通学カバンの、内ポケット」

そう、呟いたあと、志路は顎先で成琉の肩にかかっていた通学カバンを指した。
話とは関係のない単語に、成琉は眉を顰める。

「は?」
「いいから、見ろ」

また顎先を動かす志路の声は、それはまた有無を言わせないものだった。拒否権なんて最初からないように、成琉を操るように。
そんな様子の志路に、成琉は抗うことなんてできなかった。
大人しく、通学カバンを生物実験室の床に下ろす。大量に舞う埃と、散らばる短く太い髪の毛が目に入って、吐き気がした。
そして通学カバンのチャックを開けて、内ポケットに手を入れる。
ここには前に配っていたのをもらったティッシュくらいしか入っていないはず。けれど嫌な予感がした。
重い。
ティッシュだけの重りじゃない。
そう気がついた成琉は、内ポケットの下に手を突っ込んだ。
こんなの、知らない。
血の気が引くように、全身が冷たくなってゆく。
そこに入っていたのは、小さくて、冷たくて、黒くて、四角い──。

「盗聴器だ」
「……え?」

小さく赤い光が点滅した。
成琉の肩が跳ね上がった。
予想にもしていなかったそれを、地面へと投げ捨てる。破壊音を立てて、四角いそれは、志路の足元へ滑っていく。

「あーあ。壊れちゃったじゃねぇかよ」
「な、何だよ、これ」

成琉の声が震える。
まだ何一つ状況が飲み込めていなかった。どうして盗聴器が、成琉の通学カバンに入っているのか。
理解が追いつかない。
辿々しい声で、志路を見上げた。
威勢の良かった足も、今じゃもう恐怖で動かない。

「特別だ。放っておくと色んな奴に言いふらしそうだったからな。特別に教えてやるよ」

そう、壊れたそれを丁寧に掬い上げる。
メガネの底の瞳が、狂ったように黒くなっていた。

「俺は、俺の生徒にこれを仕掛けてる。教室にはカメラも設置してある。だから俺は、お前らのことなら何でもお見通しなんだよ」

……カメラ。
……盗聴器。
その単語に成琉の肌が震え出す。
まさか。そんなはずはない。
そう頭では否定するのに、揃えられたこの状況がそうはさせてくれなかった。
あれもこれも、全て見られていたってことか?
本当にプライバシーなんて、なかったってことか?
誰かに監視されているような、全身が浮き立つ感覚は、気のせいじゃなかったのか?
怖い。
気持ち悪い。
こんなことまでしていたなんて、信じられない。信じたくなかった。
けれど全ての辻褄が合ってしまう。
盗聴器を仕掛けていたから、心奈のホテルだって知っていたのだとしたら……?
不意に志路の机上のコンピューターに視線が移る。
まさか。
これも全て、そのための機器なのか?
理解が、追いつかない。
だってそんなの──。

「間違ってる! そんなの、おかしい。教師のすることじゃない。これはもう、犯罪だ!」

成琉は震える指先を抑えながら、声を荒げた。
もしこれが校外にでも広まったならば、志路は間違いなく責任を問われるだろう。それくらいのことをしたのだ。
けれど、志路は顔色一つさえ変えない。
涼しい顔をして、成琉の震える指先を見ていた。

「これは、犯罪なんかじゃねぇよ。俺は生徒のためにやっているんだ。これも俺の仕事だ。お前たちの幸せを守らないといけないんだからな」
「それがおかしいんだよ! 何だよさっきから。幸せ、幸せって。これはプライバシーの侵害だ。他のクラスメイトがこれを知ったらどう思う? 幸せにはならない。不幸になるだけだ!」

志路を慕っていたクラスメイトたちの顔を思い返す。
授業が分かりやすい、とか優しいとか、そんな上辺の顔だけで志路を好いている生徒はたくさんいる。
志路はいつだってメガネの奥底に、気持ち悪い笑みを溜めているのに。
けれど、志路のやっている行為はそんなクラスメイトたちを裏切る行為だ。恐怖という大きな種を植え付けるだけ。
成琉は叫んでいた。
けれど志路はその叫びにすら耳を傾けない。

「お前には分かんないさ」
「……は?」
「俺は過去の過ちを生かして、こうすることを学んだんだ。俺が監視してたら、あの時だって信じられた。防げたはずだったんだ。だから、これは生徒を守るためなんだよ」

そう話す志路はまるで、何かに取り憑かれているようだった。
そのギョロッとした出目が、壊れた盗聴器だけを見つめている。まるで知らない人間と話しているようだった。
話が噛み合わない。
けれど、その時。
埃の被った床に乗せていた足の力が抜けた。冷たくなって、まるであの時のように足元を掬われるような感覚。
昼休みの時。
朔が呟いた言葉が反芻された。
初夏の晴れた日。湿った空気が纏う中、小さく吹くそよ風。
その風に髪が靡いて、青春映画と錯覚してしまいそうになるその時。朔は言ったのだった。

「──生徒のいじめを見て見ぬふりをして、死なせた」

ポツリと言葉が漏れ出る。

「は?」
「先生も知ってますよね? 俺らがその話をしたことを。先生は生徒のいじめを見て見ぬふりして死なせたってことですか?」

そんなわけない。
どんな燃え方をして広まった噂かどうかは、成琉には分からない。けれど、まさかと思ってしまったのだ。
成琉なりの、反抗だった。
ゆっくりと志路を見る。

「っ!」

そこにいたのは、成琉の知らない志路だった。
魚のように見開いた瞳が、虚空を見つめて、何を考えているのか分からない。みるみるうちに頭から熱が下がっていく。

「栖原」

低く、唸るような声。
何回も聞いているはずなのに、その表情のせいなのか体が硬直する。

「もう関わるな。これ以上詮索するなら、お前の幸せを保証してやれない」
「っ」

有無を言わせぬ声だった。
あれだけ幸せという言葉を連呼していたのに。志路が口にしたのは、成琉の幸せを諦めるとも捉えられる言葉だ。
急に、どうして。
成琉の全身が粟立ってゆく。残った僅かな理性だけで、足を立たせていた。

「帰れ。このことは誰にも話すなよ。話したら分かってるな」

この場で正しいことを言っているのは紛れもなく成琉だ。
それなのに成琉は志路の瞳に気圧されていた。
ただ情けなく、ゆっくりと首を振る。
思わず視界が滲んでいく。
志路の机上に置かれたコンピューターの輪郭がぼやけていって、成琉は思わず背中を向けた。
泣きたくなんて、ないのに。
こんなことで気圧されるなんて。目的のために動かないといけないのに。
どうして、体が動かない。
手が震える。
声にならない言葉たちが生まれては消えていった。
そんな学校からの帰り道。
吸い込んだ夏の匂いが、心臓に負荷をかける。
けれど、そんな焼かれるような熱い光が、成琉の原動力になっていた。
そして、ある場所の前で立ち止まった。
せせらぎが、成琉の耳朶を撫でていく。
そこは、小さな川が走っている河川敷だ。
その側では、小学生だろう子供たちが笑いを含んだ声で、走り回っていた。眩しくて思わず目を背けてしまう。
汚れてしまった自分とは違い、透き通るほどに純粋なそれを見ていられなかったのかもしれない。

「サイアクだ」

ポツリと呟いたその声は、喧騒に溶けてゆく。
ただ気持ち悪い感覚だけが、体に染み付いていた。
そして成琉は肩から通学カバンを下ろした。教科書が詰め込まれた重いそれを持ち上げて、そのまま川に放り投げた。
ジャプンッ、という音が響き渡る。
後悔は、なかった。
川の水が円を描いたと思うと、ゆっくり沈んでいく。成琉はただ、溢れ出す空気の泡を見ていた。
頬にかかった冷たい水滴を拭って、踵を返す。
これで、大丈夫だ。
そう身軽になった体を運んでいく。
成琉がこれからやらなければならないこと。
それは、志路を社会的に抹消することだ。