お前の幸せを保証してやれない。
その言葉がずっと頭にこびりついている。
ずっとずっと頭を侵して、囚われ続けている。これからもずっと、永遠に。その言葉を刻んだまま、僕はまた這いつくばるんだ。
◇
「好きです。付き合ってください」
オレンジにピンク、そして淡い青。様々な色たちが交錯しては溶けていく、ある教室の中。その色に染まるように、それぞれの思いも交錯していた。
成琉は頭を下げ続ける。
震えた声で発したその言葉はもう、放課後の喧騒にすっかり溶けていき、静寂が包み込んでいた。
微かに震える指先が向いているのは、クラスメイトである心奈だ。肩の上でパッツリ切り揃えられたボブカットが彼女の活発さをよく表していた。
「え……っと」
一世一代の告白から数秒後。
驚いたようにその双眸を見開いた心奈が、徐に唇を開く。
「栖原くん、だっけ。どうしたの、急に」
「──だから、好きなんだ、吉澤のことが。付き合ってほしい」
まさか二度目の告白をすることになるとは。けれど、一筋縄ではいかないことは重々わかっていた。
そのわけは明白。成琉は心奈と話をしたことが数回しかないのだから。
一回目は入学式初日に、落としてしまったハンカチを届けてくれたとき。二回目は、英語のグループワークで共通の話題に花を咲かせたとき。
そして、今が三回目だ。
心奈が困惑するのも無理もない。
心奈はクラスの中心的人物であり、彼女の周りには華のある人間が集っているのだから。
対して成琉は、教室の隅で、息を殺すように日々を過ごしている。唯一の娯楽と言えば、誰にも見せられないようなポエムを綴っていることだろうか。
そんな成琉は、纏う空気も薄い。
けれど、彼女と付き合いたい。その気持ちだけは惑うことなく、本物だった。
それは成琉の震える指先が、声が、証明している。
もう一度頭を下げる成琉を見て、心奈が小さく息を吐く。
断られるかもしれない。
そんな予感が、成琉の心臓を突き刺してゆく。
焦がれていた彼女の動作一つ一つが、この瞬間だけは槍と化して。
「──いいよ」
「え?」
けれど、そんな教室の静寂を裂くように、透き通った声が通った。負の色など微塵もない、綺麗な声だった。
成琉は情けない声を発する。
「だから、いいよ。栖原くんはドッキリとかしないでしょ? それに、私も栖原くんのこと、好きになりたい。栖原くんと話してみたかったの」
コテンと、心奈の首が揺れる。
その反動で、ボブカットが靡いて、心奈は小さく笑みを浮かべた。
さすが、端正な顔立ちの持ち主だ。
そんな表情を見てしまったら、成琉の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。オレンジ色よりも、濃く、熱く。
「本当に?」
「うん、本当だよ」
まさか了承を得られるなんて。
信じられなくて、成琉は何度も心奈に問いかける。しかし、依然、心奈はその瞳に笑みを溜めたまま。
何度も言わせないでよ、と言うように心奈は成琉の肩に手を置いた。
心奈の温もりが広がって、じわじわと熱を帯び出す。
「じゃ、じゃあ。よろしく」
こういう場合、どう言葉を紡ぐべきなのか、成琉は分からない。恋愛とは無縁の影で生きてきたのだから。
辿々しい声が、心音と吐息だけが混じり合う教室に溶けていく。
視線だって合わせることも出来ず、ただ成琉は机の木目調に手を這わせていた。
「うん。これからよろしくね。栖原くん!」
それからは、もういつもの心奈だった。
じゃあ、まずは……と呟く心奈が取り出したのは、スマホ。
手慣れたように成琉の通学カバンに沈んでいたスマホを手繰り寄せて、淡々と連絡先を交換していく。
「よし、これでオッケー!」
「あ、ありがとう」
「うん。じゃあ、また連絡するね」
スマホを両手で抱えて、心奈はまた嬉しそうに首を揺らす。
「う、うん。連絡、待ってる」
何十回も頭の中でシミュレーションして、ようやく成琉の唇から溢れた言葉。その言葉は呆気なくも、心奈の小さな頷きだけで散っていった。
「バイバイ、栖原くん」
「また」
未だ自身に起こっている状況を汲み取れきれていない成琉。
微かに甘い匂いが淡く残る教室で、一人立ち尽くしていた。心奈が去っていった、白く不気味に光る扉を見つめる。
「成功、ってことでいいんだよな?」
辿々しく告げるその声からも、戸惑いが滲み出ていた。けれど、時間が過ぎるごとに、現実味を帯びていく。
スマホに表示された『ここな』という文字が、成琉の心臓を高鳴らせた。
やった。
やったんだ、俺は。
次第に固まっていた筋肉もほぐれてゆき、成琉の顔には微笑が浮かんでいる。すっかり影の伸びた教室で、成琉は小さく拳を握った。
そして机上に置いてあった通学カバンを肩にかける。
興奮の冷めない心持ちで、心奈が消えていったその扉へと手を伸ばしたときだった。
「──おい」
「っ」
低く、唸るような声。
と同時に、扉が勢いよく開く音がした。
柔らかい光で満ちていた教室が、途端に黒い影に染められたようで、成琉の肩が跳ね上がる。
当たり前だ。誰もいない放課後。まだ冷めない熱。そんな世界に、突然誰かが割り込んできたのだから。
ゆっくりと成琉は振り返る。
「──志路、先生」
教室前方の扉で、腕を組んで仁王立ちしていたのは志路だった。
志路は、成琉や心奈の担任の教師である。そして成琉たちの生物の授業を受け持っていて、何かと関わりの多い教師だった。
明らかに萎んでいく成琉の笑み。
それも当たり前だった。
成琉は志路が苦手なのだ。まだ若いのに、その顔にはこびりつくようにシミが点在していて、常に薄汚れた白衣を身に纏っている。一言で言えば清潔感が欠けているのだ。
しかし、それだけならまだ良い。
成琉が何より苦手なのは、志路の仕草だ。
志路は、生徒を見ながら角張った黒い眼鏡の奥で、ニヤリと笑みを溜めるのだ。それが気持ち悪くて仕方がない。
だが、そんな気持ち悪さをクラスメイトは誰一人として知らない。
優しくて最高の教師だと、クラスメイトたちはそう思っている。
それが、何より解せないのだ。
本当は、こんなにも気持ちが悪いのに。
「あからさまに嫌な顔すんなよな」
肩を落とした成琉を一瞥して、そう渇いた笑いをこぼす志路。
その動きに合わせるように、小さなシミも揺れる。目線を合わせたくなくて、成琉は咄嗟に机に焦点を置いた。
──台無しだ。
ふと成琉は思った。火照っていた頬をこんな形で冷やされるなんて。成琉の頬は氷水に漬けたように青く、黒く染まっている。
「──すみません。で、何の用ですか。俺はもう帰りますけど」
この場に長くいたくない。
そう思った成琉は、矢継ぎ早に捲し立て、志路に背を向けようとした。けれど、志路の低い声は、再び成琉に纏わりつく。
「んな、怒んなって」
「……」
「あのなぁ、俺は、早く帰れって催促しにきたわけじゃねぇよ。それよりも大事なことだ。お前の幸せに関わるからな」
扉に消えようとする成琉を引き留めたのは、そんな言葉。
その言葉を聞いた瞬間、成琉の全身が一気に粟立つ。体が微かに震えて、まるで得体の知れない何かが身体中を這うように。
「な、何ですか、幸せって。先生に関係ないですよね」
まさか、告白を見られていた?
恥ずかしいセリフを聞かれていた?
そんな妄想が広がっていく。ただ、気持ち悪かった。選ぶ言葉や、声のトーン。その全てが、生温かい風となって身体中を撫でていく。
「関係ないって、辛辣だなぁ。俺はこんなにもお前たちの幸せを願ってやってるのに」
黙り込んだまま口を開こうとしない成琉に、志路は湿っぽいため息を吐き出す。
成琉に返答を求めるのは、諦めたのだろう。薄汚れた白衣を正して、黒縁の眼鏡をくいと持ち上げる。
仕切り直しとでも言うように、コホンと一つ咳払いをした。
「──まあ、いいか。栖原、よく聞け。お前、吉澤心奈と付き合うのはやめろ」
「は?」
志路の声にも負けないほどに黒く染まった、冷徹な声が発せられる。
思わず志路の方を振り向く。
ただ、意味が分からなかった。
けれどその意味を理解した瞬間、沸々と怒りが湧いてくる。握った拳が小刻みに震えた。
付き合うのはやめろ?
どうしてそんなプライバシーなことに踏み込まれなければいけないのだろうか。そんなことを言われる筋合いは全くない。
それなのに、まるで自分が正義だと言うような面構えの志路に吐き気がした。
けれど、それよりも。
「覗いてたんですか? 勝手に? 生徒のプライバシーを?」
気持ち悪さを通り越して、成琉は純粋に怒りの含んだ声を発していた。
沸々と、泡が這い上がるように、怒りが滲み出る。
何故、数分前の出来事を知っているのだろうか。
そんなもの、覗いていたとしか考えられない。
「誤解すんなよ。別に覗いてたわけじゃない。たまたま耳に入っただけだ」
志路はそんな成琉の怒りを冷静に押さえつける。
「じゃあ、何ですか。というか、どうして先生にそんなことを言われないといけないんですか。僕と、吉澤の問題です。関わらないでください」
「お前の幸せのためだ。お前のためだ。だから吉澤とは別れろ」
ああ、まただ。
成琉は行き場のない怒りと吐き気を吐き出すように、大きく息を吐いた。
何を言っているのだ、この人は。
けれど、そう発する志路の顔は、本気だった。
狂っている。
そう思ってしまうくらいに、志路は何かに取り憑かれたような瞳をしていた。こっちをじっと見つめて、片方の口角を上げて。
成琉の大嫌いな、あの表情を。
それに、お前の幸せのため、と言う言葉。
志路は普段の授業でもその言葉を連呼していた。
「……あっそうですか」
そんな志路とは正反対に、成琉はぶっきらぼうに冷たい矢を放つ。
何を言っても無駄だと思ったのだ。
ただソリが合わない人間だとして、処理しようと。
だって成琉は、誰に何を言われようとも、心奈と別れるつもりはない。それに志路の言うことを素直に聞くなんて、馬鹿のやることだと一蹴した。
そして、成琉は体の向きを戻す。
窓の外のオレンジ色はすっかり色味を失い、教室には薄暗い光だけが漂っていた。そんな酸素の薄いこの場所から、早く去りたくて、扉へと足を動かした時だった。
「ホテルだ」
「──は?」
二度目の悪態をつく。
ホテルが、何だ。
流石に愛想も尽きて、成琉は志路を睨んだ。
けれど、それは束の間。次の瞬間、志路は思いもよらない爆弾を落とした。平坦な抑揚のない声で、それはそれは大きな爆弾を。
「吉澤は、今晩、ホテルに行く。ただのホテルじゃない。ラブホだ」
「え?」
「誰と行くと思う? アプリで知り合った知らねぇおっさんだよ」
「……何、言ってるんですか? なわけないですか。揶揄うのもいい加減にしてください!」
成琉のことなんて気にも留めず、スラスラと言葉を紡いでいく。
こればっかりは、もう我慢の範疇に留めて置けなかった。
その言葉を遮るように、成琉は声を荒げた。事実と異なることを他人に告げるなんて。それも教師である人間が。
心奈の信用にも関わる。
知らない男とホテルに行くなんて、あり得ない。そんな犯罪臭が漂うことを心奈がするはずがない。
氷のように冷たい視線を志路に浴びせる。
「こえー。けど、残念。お前は信じたくねぇと思うけどな、これはガチだ。気になるならホテルの住所教えてやるから、行ってこいよ。だから俺は、お前のためだって言ってんだ。いい加減気づけよ」
呆れたように、成琉を見下ろす志路。
その瞳は相変わらず黒くて、醜くて。
けれどその言葉は、他の言葉と違って、痛いほどに真っ直ぐ成琉に刺さった。嘘を吐いているようには、思えなかった。
けれど、だからと言って、その言葉を鵜呑みにすることは出来ない。
心奈の柔らかい笑顔を思い浮かべる。
そんなことに関わっているような人の笑みではなかった。温かくて明るくて、朝露のように透き通った瞳を持っていて。
だから成琉の心は、こんなにも揺れ動く。
けれど……成琉は言葉に詰まる。
志路の話す言葉全てを否定するには、あまりにも心奈のことを知らない。
「それは真実なんですか? あなたの思い違いなんじゃないですか。だって吉澤ですよ。あいつは初対面の奴にも優しい人です。パパ活なんてしない」
「たった三回しか喋ったことのないやつが、決めつけんなよ」
「……っ」
「疑うなら自分の目で確かめてこい」
痛いところを突かれて、成琉は思わず口を噤んだ。
志路の言うことは、あまりにも正論だ。
すぐに否定なんて出来なかった。そんな自分自身に嫌悪を抱いた。
「……どこですか?」
そんな自分自身の嫌悪を晴らすためにも、成琉には行く選択肢しか残されていなかった。吐き捨てるように、志路に問いかける。
志路は勝ち誇ったように、またあの気持ち悪い笑みを浮かべた。まるで志路の手のひらの上で転がされているみたいで、成琉の背筋に怖気が走ったのは言うまでもない。
「ちゃんと見てこいよ」
そう言うと、志路は白衣の胸ポケットからシワシワの紙切れを取り出した。ペンを右手に持ち、スラスラと文字を投影していく。
その白い紙に写し出したのは、間違いなくどこかの住所だった。ホテルの名前があまりにも生々しくて、思わず視線を逸らす。
まるでスパイにでもなったようだと、成琉はため息を吐いた。
風が吹けばひらりと飛んでしまいそうな紙切れが、重りのようにのしかかる。
少なくとも、心奈を信じきれていないことが、さらに成琉の心臓を痛みつけていた。
「嘘だったら、俺は先生を軽蔑しますから」
「はいはい」
成琉に紙を手渡すと、煩わしそうに身を翻した。用が済んだのか、ひらひらと手を振って、教室から去っていく。
僅かに残る、薬品の匂いが、頭に染みてゆく。
成琉はまた、立ち尽くしていた。
成琉の中で色んな色が葛藤して、黒く染めている。
けれど、やることは一つしかない。
成琉は自分の頬をペチンと叩いた。志路を否定するためにも、確かめなくてはならない。
成琉は手のひらに力を込めた。爪が肉に食い込むように、強く。シワのついていた紙切れがさらに、くしゃくしゃに丸められた。
その言葉がずっと頭にこびりついている。
ずっとずっと頭を侵して、囚われ続けている。これからもずっと、永遠に。その言葉を刻んだまま、僕はまた這いつくばるんだ。
◇
「好きです。付き合ってください」
オレンジにピンク、そして淡い青。様々な色たちが交錯しては溶けていく、ある教室の中。その色に染まるように、それぞれの思いも交錯していた。
成琉は頭を下げ続ける。
震えた声で発したその言葉はもう、放課後の喧騒にすっかり溶けていき、静寂が包み込んでいた。
微かに震える指先が向いているのは、クラスメイトである心奈だ。肩の上でパッツリ切り揃えられたボブカットが彼女の活発さをよく表していた。
「え……っと」
一世一代の告白から数秒後。
驚いたようにその双眸を見開いた心奈が、徐に唇を開く。
「栖原くん、だっけ。どうしたの、急に」
「──だから、好きなんだ、吉澤のことが。付き合ってほしい」
まさか二度目の告白をすることになるとは。けれど、一筋縄ではいかないことは重々わかっていた。
そのわけは明白。成琉は心奈と話をしたことが数回しかないのだから。
一回目は入学式初日に、落としてしまったハンカチを届けてくれたとき。二回目は、英語のグループワークで共通の話題に花を咲かせたとき。
そして、今が三回目だ。
心奈が困惑するのも無理もない。
心奈はクラスの中心的人物であり、彼女の周りには華のある人間が集っているのだから。
対して成琉は、教室の隅で、息を殺すように日々を過ごしている。唯一の娯楽と言えば、誰にも見せられないようなポエムを綴っていることだろうか。
そんな成琉は、纏う空気も薄い。
けれど、彼女と付き合いたい。その気持ちだけは惑うことなく、本物だった。
それは成琉の震える指先が、声が、証明している。
もう一度頭を下げる成琉を見て、心奈が小さく息を吐く。
断られるかもしれない。
そんな予感が、成琉の心臓を突き刺してゆく。
焦がれていた彼女の動作一つ一つが、この瞬間だけは槍と化して。
「──いいよ」
「え?」
けれど、そんな教室の静寂を裂くように、透き通った声が通った。負の色など微塵もない、綺麗な声だった。
成琉は情けない声を発する。
「だから、いいよ。栖原くんはドッキリとかしないでしょ? それに、私も栖原くんのこと、好きになりたい。栖原くんと話してみたかったの」
コテンと、心奈の首が揺れる。
その反動で、ボブカットが靡いて、心奈は小さく笑みを浮かべた。
さすが、端正な顔立ちの持ち主だ。
そんな表情を見てしまったら、成琉の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。オレンジ色よりも、濃く、熱く。
「本当に?」
「うん、本当だよ」
まさか了承を得られるなんて。
信じられなくて、成琉は何度も心奈に問いかける。しかし、依然、心奈はその瞳に笑みを溜めたまま。
何度も言わせないでよ、と言うように心奈は成琉の肩に手を置いた。
心奈の温もりが広がって、じわじわと熱を帯び出す。
「じゃ、じゃあ。よろしく」
こういう場合、どう言葉を紡ぐべきなのか、成琉は分からない。恋愛とは無縁の影で生きてきたのだから。
辿々しい声が、心音と吐息だけが混じり合う教室に溶けていく。
視線だって合わせることも出来ず、ただ成琉は机の木目調に手を這わせていた。
「うん。これからよろしくね。栖原くん!」
それからは、もういつもの心奈だった。
じゃあ、まずは……と呟く心奈が取り出したのは、スマホ。
手慣れたように成琉の通学カバンに沈んでいたスマホを手繰り寄せて、淡々と連絡先を交換していく。
「よし、これでオッケー!」
「あ、ありがとう」
「うん。じゃあ、また連絡するね」
スマホを両手で抱えて、心奈はまた嬉しそうに首を揺らす。
「う、うん。連絡、待ってる」
何十回も頭の中でシミュレーションして、ようやく成琉の唇から溢れた言葉。その言葉は呆気なくも、心奈の小さな頷きだけで散っていった。
「バイバイ、栖原くん」
「また」
未だ自身に起こっている状況を汲み取れきれていない成琉。
微かに甘い匂いが淡く残る教室で、一人立ち尽くしていた。心奈が去っていった、白く不気味に光る扉を見つめる。
「成功、ってことでいいんだよな?」
辿々しく告げるその声からも、戸惑いが滲み出ていた。けれど、時間が過ぎるごとに、現実味を帯びていく。
スマホに表示された『ここな』という文字が、成琉の心臓を高鳴らせた。
やった。
やったんだ、俺は。
次第に固まっていた筋肉もほぐれてゆき、成琉の顔には微笑が浮かんでいる。すっかり影の伸びた教室で、成琉は小さく拳を握った。
そして机上に置いてあった通学カバンを肩にかける。
興奮の冷めない心持ちで、心奈が消えていったその扉へと手を伸ばしたときだった。
「──おい」
「っ」
低く、唸るような声。
と同時に、扉が勢いよく開く音がした。
柔らかい光で満ちていた教室が、途端に黒い影に染められたようで、成琉の肩が跳ね上がる。
当たり前だ。誰もいない放課後。まだ冷めない熱。そんな世界に、突然誰かが割り込んできたのだから。
ゆっくりと成琉は振り返る。
「──志路、先生」
教室前方の扉で、腕を組んで仁王立ちしていたのは志路だった。
志路は、成琉や心奈の担任の教師である。そして成琉たちの生物の授業を受け持っていて、何かと関わりの多い教師だった。
明らかに萎んでいく成琉の笑み。
それも当たり前だった。
成琉は志路が苦手なのだ。まだ若いのに、その顔にはこびりつくようにシミが点在していて、常に薄汚れた白衣を身に纏っている。一言で言えば清潔感が欠けているのだ。
しかし、それだけならまだ良い。
成琉が何より苦手なのは、志路の仕草だ。
志路は、生徒を見ながら角張った黒い眼鏡の奥で、ニヤリと笑みを溜めるのだ。それが気持ち悪くて仕方がない。
だが、そんな気持ち悪さをクラスメイトは誰一人として知らない。
優しくて最高の教師だと、クラスメイトたちはそう思っている。
それが、何より解せないのだ。
本当は、こんなにも気持ちが悪いのに。
「あからさまに嫌な顔すんなよな」
肩を落とした成琉を一瞥して、そう渇いた笑いをこぼす志路。
その動きに合わせるように、小さなシミも揺れる。目線を合わせたくなくて、成琉は咄嗟に机に焦点を置いた。
──台無しだ。
ふと成琉は思った。火照っていた頬をこんな形で冷やされるなんて。成琉の頬は氷水に漬けたように青く、黒く染まっている。
「──すみません。で、何の用ですか。俺はもう帰りますけど」
この場に長くいたくない。
そう思った成琉は、矢継ぎ早に捲し立て、志路に背を向けようとした。けれど、志路の低い声は、再び成琉に纏わりつく。
「んな、怒んなって」
「……」
「あのなぁ、俺は、早く帰れって催促しにきたわけじゃねぇよ。それよりも大事なことだ。お前の幸せに関わるからな」
扉に消えようとする成琉を引き留めたのは、そんな言葉。
その言葉を聞いた瞬間、成琉の全身が一気に粟立つ。体が微かに震えて、まるで得体の知れない何かが身体中を這うように。
「な、何ですか、幸せって。先生に関係ないですよね」
まさか、告白を見られていた?
恥ずかしいセリフを聞かれていた?
そんな妄想が広がっていく。ただ、気持ち悪かった。選ぶ言葉や、声のトーン。その全てが、生温かい風となって身体中を撫でていく。
「関係ないって、辛辣だなぁ。俺はこんなにもお前たちの幸せを願ってやってるのに」
黙り込んだまま口を開こうとしない成琉に、志路は湿っぽいため息を吐き出す。
成琉に返答を求めるのは、諦めたのだろう。薄汚れた白衣を正して、黒縁の眼鏡をくいと持ち上げる。
仕切り直しとでも言うように、コホンと一つ咳払いをした。
「──まあ、いいか。栖原、よく聞け。お前、吉澤心奈と付き合うのはやめろ」
「は?」
志路の声にも負けないほどに黒く染まった、冷徹な声が発せられる。
思わず志路の方を振り向く。
ただ、意味が分からなかった。
けれどその意味を理解した瞬間、沸々と怒りが湧いてくる。握った拳が小刻みに震えた。
付き合うのはやめろ?
どうしてそんなプライバシーなことに踏み込まれなければいけないのだろうか。そんなことを言われる筋合いは全くない。
それなのに、まるで自分が正義だと言うような面構えの志路に吐き気がした。
けれど、それよりも。
「覗いてたんですか? 勝手に? 生徒のプライバシーを?」
気持ち悪さを通り越して、成琉は純粋に怒りの含んだ声を発していた。
沸々と、泡が這い上がるように、怒りが滲み出る。
何故、数分前の出来事を知っているのだろうか。
そんなもの、覗いていたとしか考えられない。
「誤解すんなよ。別に覗いてたわけじゃない。たまたま耳に入っただけだ」
志路はそんな成琉の怒りを冷静に押さえつける。
「じゃあ、何ですか。というか、どうして先生にそんなことを言われないといけないんですか。僕と、吉澤の問題です。関わらないでください」
「お前の幸せのためだ。お前のためだ。だから吉澤とは別れろ」
ああ、まただ。
成琉は行き場のない怒りと吐き気を吐き出すように、大きく息を吐いた。
何を言っているのだ、この人は。
けれど、そう発する志路の顔は、本気だった。
狂っている。
そう思ってしまうくらいに、志路は何かに取り憑かれたような瞳をしていた。こっちをじっと見つめて、片方の口角を上げて。
成琉の大嫌いな、あの表情を。
それに、お前の幸せのため、と言う言葉。
志路は普段の授業でもその言葉を連呼していた。
「……あっそうですか」
そんな志路とは正反対に、成琉はぶっきらぼうに冷たい矢を放つ。
何を言っても無駄だと思ったのだ。
ただソリが合わない人間だとして、処理しようと。
だって成琉は、誰に何を言われようとも、心奈と別れるつもりはない。それに志路の言うことを素直に聞くなんて、馬鹿のやることだと一蹴した。
そして、成琉は体の向きを戻す。
窓の外のオレンジ色はすっかり色味を失い、教室には薄暗い光だけが漂っていた。そんな酸素の薄いこの場所から、早く去りたくて、扉へと足を動かした時だった。
「ホテルだ」
「──は?」
二度目の悪態をつく。
ホテルが、何だ。
流石に愛想も尽きて、成琉は志路を睨んだ。
けれど、それは束の間。次の瞬間、志路は思いもよらない爆弾を落とした。平坦な抑揚のない声で、それはそれは大きな爆弾を。
「吉澤は、今晩、ホテルに行く。ただのホテルじゃない。ラブホだ」
「え?」
「誰と行くと思う? アプリで知り合った知らねぇおっさんだよ」
「……何、言ってるんですか? なわけないですか。揶揄うのもいい加減にしてください!」
成琉のことなんて気にも留めず、スラスラと言葉を紡いでいく。
こればっかりは、もう我慢の範疇に留めて置けなかった。
その言葉を遮るように、成琉は声を荒げた。事実と異なることを他人に告げるなんて。それも教師である人間が。
心奈の信用にも関わる。
知らない男とホテルに行くなんて、あり得ない。そんな犯罪臭が漂うことを心奈がするはずがない。
氷のように冷たい視線を志路に浴びせる。
「こえー。けど、残念。お前は信じたくねぇと思うけどな、これはガチだ。気になるならホテルの住所教えてやるから、行ってこいよ。だから俺は、お前のためだって言ってんだ。いい加減気づけよ」
呆れたように、成琉を見下ろす志路。
その瞳は相変わらず黒くて、醜くて。
けれどその言葉は、他の言葉と違って、痛いほどに真っ直ぐ成琉に刺さった。嘘を吐いているようには、思えなかった。
けれど、だからと言って、その言葉を鵜呑みにすることは出来ない。
心奈の柔らかい笑顔を思い浮かべる。
そんなことに関わっているような人の笑みではなかった。温かくて明るくて、朝露のように透き通った瞳を持っていて。
だから成琉の心は、こんなにも揺れ動く。
けれど……成琉は言葉に詰まる。
志路の話す言葉全てを否定するには、あまりにも心奈のことを知らない。
「それは真実なんですか? あなたの思い違いなんじゃないですか。だって吉澤ですよ。あいつは初対面の奴にも優しい人です。パパ活なんてしない」
「たった三回しか喋ったことのないやつが、決めつけんなよ」
「……っ」
「疑うなら自分の目で確かめてこい」
痛いところを突かれて、成琉は思わず口を噤んだ。
志路の言うことは、あまりにも正論だ。
すぐに否定なんて出来なかった。そんな自分自身に嫌悪を抱いた。
「……どこですか?」
そんな自分自身の嫌悪を晴らすためにも、成琉には行く選択肢しか残されていなかった。吐き捨てるように、志路に問いかける。
志路は勝ち誇ったように、またあの気持ち悪い笑みを浮かべた。まるで志路の手のひらの上で転がされているみたいで、成琉の背筋に怖気が走ったのは言うまでもない。
「ちゃんと見てこいよ」
そう言うと、志路は白衣の胸ポケットからシワシワの紙切れを取り出した。ペンを右手に持ち、スラスラと文字を投影していく。
その白い紙に写し出したのは、間違いなくどこかの住所だった。ホテルの名前があまりにも生々しくて、思わず視線を逸らす。
まるでスパイにでもなったようだと、成琉はため息を吐いた。
風が吹けばひらりと飛んでしまいそうな紙切れが、重りのようにのしかかる。
少なくとも、心奈を信じきれていないことが、さらに成琉の心臓を痛みつけていた。
「嘘だったら、俺は先生を軽蔑しますから」
「はいはい」
成琉に紙を手渡すと、煩わしそうに身を翻した。用が済んだのか、ひらひらと手を振って、教室から去っていく。
僅かに残る、薬品の匂いが、頭に染みてゆく。
成琉はまた、立ち尽くしていた。
成琉の中で色んな色が葛藤して、黒く染めている。
けれど、やることは一つしかない。
成琉は自分の頬をペチンと叩いた。志路を否定するためにも、確かめなくてはならない。
成琉は手のひらに力を込めた。爪が肉に食い込むように、強く。シワのついていた紙切れがさらに、くしゃくしゃに丸められた。



