去年は世界中で猛威を奮った感染症のため、庭の紫陽花が一番綺麗なこの時期、残念ながら店を閉めていた。
 ここは紫陽花cafe。
 両側に青系と白い紫陽花植えられた飛び石のアプローチを抜けると、今井和人の祖父母の持ち物だった古民家がある。

 和人はここで半分趣味のcafe兼、海外客を見込んでついでに民泊申請を出すところまで考えていたのだが、両方コケて長い自粛生活を経て他でのアルバイト生活に逆戻りしていた。

 まだ大学に通っている身で片手間にはじめようとした矢先だったし、祖父母の家をそのまま使おうとしていたので傷は浅かったとはいえ。

 去年プレオープンの予約を入れようとしてくれた、主に大学のサークルの仲間たちなどには平謝りしてそれなりに大変だったのだ。

 今年はもう民泊は諦めて、cafe一本でやっていこうと先週店を再オープンしたばかりだった。
 幸い昨年はそこそこ時間をかけて通学していた大学も、リモート授業のことも多くてcafeメニューの開発にも余念がなかったのだ。やる気も十分だ。

 この街は大した名物はなかったのだけど、数年前にヒットした、小説原作のドラマがここを舞台にして、ドラマのロケ地に使われた。

 それ以後ドラマで使われた川べりや古刹の寺なんかに若い女性がちらほらくるようになった。しかしもてなそうにも店も少なく。

 寺によって川原を歩いて帰るだけだと申し訳がないと、駅長と駅前郵便局の局長である母の友人たちに頼まれてできたのがcafe開店の動機だった。町おこしとまでは行かないが休憩できる場所の一つとしてあったらいいなあという感じだ。

 なんでもその小説にでてくる主人公が憧れた男性の実家のイメージが、花に囲まれた古民家である和人の祖父母の家に似ていると、ファンにSNSでつぶやかれていたらしい。

 たぶん作者がこっそりモデルにしたのではないかというのだ。

 そんなことも手伝って、都心に住む親にも人が住まないと家も荒れるからついでに住めば?
といわれ大学2年の半ばから一人ここに住み着いている。

 今日は一日雨が続いて少し肌寒い感じだ。
 土曜ということもあり、開店直後から寺経由で流れてきたお客さんがひっきりなしだ。

 お客さんは涼し気な麻のマスク姿で来る人、ぴったりしたウレタンマスクでくる人と様々だ。
マスクをして接客するのももう違和感はない。

 飲み物や食べ物をお出ししてから、お客さんが初めてマスクを取るということも多くて、常連さんでも頭の中ではマスク姿が浮かぶほどだ。

「お待たせしました。紫陽花レアチーズです」

 真っ白なチーズケーキの上に青や紫、そして赤のゼリーを散りばめ、更に寒天で固めた自信作だ。

 ゼリーも色の変わる紫陽花のようなバタフライピーやハイビスカスなどハーブティー由来のジュースを混ぜてつくった。

 添えられているハイビスカスティーは冷えていて半分グレープフルーツジュースで割っている。
色の鮮やかさは減ってしまうが、酸味と甘みのバランスが取れて飲みやすい。
 母の行きつけだった店のオーナー考案の爽やかなアレンジだった。

 食事前にマスクを外して、輝く笑顔を見せてくれるお客さんにとても元気をもらえる。

 若くて綺麗な人も多いし、なんとなく好意を寄せてくれるのを感じるときもあるが、残念ながらそれには応えられない。和人の性的嗜好はどちらかといえば男性の方に傾いているからだ。

 今日も閉店が近くなってから、あのっと控えめに二人連れの女性客から声をかけられた。

「今井さん、大学に通っていて、まだ学生さんなんですよね? cafeしながらなんて大変ですね」

「平日は母の友人がきて手伝ってくださっているので大丈夫なんですが、土日基本どこにも出かけないでここに缶詰ですね」

 ガラスコップを拭く手元をとめて、目元で微笑んだ。

 この家は母の生家なので学生時代の友人たちで結婚後も周囲に住んでいる人もいる。
その中で料理と菓子づくりが趣味の優しい美恵子さんが平日の10時から16時までお店をやってくれている。
 主婦なので土日は家にいられると都合がいいらしい。
 若い頃とった調理師の免許も持っているし、先に食品衛生管理者の講習にも出てくれた。防火管理者は和人がとったが、支えてもらって本当にありがたい。
 和人の料理の師匠にもなってくれた人だ。

「それじゃあ彼女さんとデートする暇ないですね?」

 和人はゆるく頭を振って手元に目線を戻した。

「いや、彼女いないから。いても土日出かけられないような男とは付き合えないっていわれちゃいますよ」

 彼女どころか高校からこのかた、まともに付き合った人もいない。
 そういう関係になった年上の人もいたけれど、なんとなく身体の興味のほうが先行しての出会って、2.3回で別れてしまうのを繰り返した時期もあった。それが虚しくなって今はそういうことはしていない。ポジティブに捉えて、いつか運命の相手が現れたときに全力投球できるからいいや、と思うのだ。

 女性客はその言葉を良い方にとったのか悪い方にとったのかはわからないが、笑顔で店をあとにした。

店には和人のほかは甘いレモネードと食事代わりになる、自家製バターと地域のブランドハムの載ったパンケーキを注文した若い男性が残った。

 大きな黒い擦り切れ気味のバックパック、ファストブランドっぽいデニムに、それだけはセレクトショップで買ったような真新しい水色のチェックのシャツを着ていた。

 マスクを外したところは見そびれてしまった。
 いつの間にか食べ終わっていたらしくて、またピッタリ系黒マスクをした姿にもどっていた。
 高校生かそれでもいいところまだ学生さんだろうなといった感じだ。

 彼は庭側の席に座っていたので、紫陽花の他に美恵子さんと造園業を営む旦那さんが持ってきて植えてくれた、黄色くて雌しべが絹糸のように艶めいて長い美容柳や、水色と紫が混ざったような背の高いアガパンサス。
 そして黄緑がかった白のアナベルという紫陽花が咲いた初夏の庭が、雨に濡れる様をじっと眺めて静かに座っていた。

 今の時期でもこの店は17時半には締めることにしている。
 一応観光名所である寺の山門は四時半にしまるから、流れてきた客がきても一時間程度は休めるからだ。

 そのまま店のキッチンを使って自分の夕食のかんたんな下ごしらえもしてしまう。
今日はキーマカレーだった。

 もう時間は17時25分。
 追い出すのは可哀想だが、和人は席を立つと、カリモクという家具屋の出しているモスグリーンのビンテージソファーに腰を掛けた青年の食器を片付けた。

 青年は会釈をする。するとぐーっとお腹の音がなったのが聞こえた。

 マスク越しにもわかるほど彼が狼狽えたのがわかる。
 わたわたとした動きと腕から伸びる肌のつやつや具合、それに長いまつげのけむる瞳の綺麗さに青年というより少年めいたものを感じた。

「あ、あの。カレーの匂いがあまりに美味しそうで……」

 彼は消え入りそうな声でつぶやいた。
 和人は笑って応じる。

「ああ。ごめん。自分用に夕飯用のキーマカレー作ってたんだ」

 遠慮がちで消え入りそうな頼りない声。きっと年下なきがして随分と砕けた口調になってしまった。

「食べたい?」


 彼はこくんと素直にうなずいた。

「まってて、店閉めてくるから」

 看板をしまおうと踵を返す和人に、青年は声をかける。

「あの! あの…… 急なんですが今晩民泊お願いすることってできますか?  以前、先行予約してたんですが……」

 ややあって、和人はある心当たりを思い出す。

「あ、ああ。もしかして君、ミント、くん?」

 青年は何度もこくこくと頷き、目元がニッコリと微笑んだ。

「覚えていてくださったんですね」

「そっか、よかった。君だけ連絡が取れなくなっててそのうち連絡くれるかな?とか思っててそのままにして、ごめんなさい」

 それは和人がSNS上でこのカフェや今後民泊もしていきたいといった内容を発信していたとき、民泊を希望する人がどれくらいいるのか募った中にいた名前だった。

 ほとんどが大学のサークルつながりの面々がグループで数人泊まりたいという軽い予約を取り付けていく中、一人で泊まりたいと書き込んでくれたのがミントと名乗る人だった。

 地方在住の学生で、例の小説に憧れていたというのでてっきり女の子なのかと思っていた。

「ところでお名前は?」

「蔵田民人です。あの…… 民に人でミント」

「ああ、あれ本名だったんだ。俺も和むに人って書いて和人。人つながりだね」

「あの、すみません、急なんですが今日泊まることはできますか?」

 ミントは椅子から腰を浮かして、必死の様子で訴えてきた。

「ごめんな。結局民泊はやらないことにしたんだ。cafeも再開してまだたいしてたってないし、俺来年には試験受けて、役所勤務狙いだから俺がこのカフェするのも今だけかもしれないし」
 するとマスク越しでもよくわかるほど口元が大きく動いたのがわかった。

「えっ! 俺…… ずっとここが出来上がってきてお店が開店するのずっと楽しみにしてきて……
でもあの感染症が流行って、カフェできなくなって。自粛とかもあってこれなくて……」

「そっか。やっと来てくれたのにごめんな」

 うつむく柔らかそうな黒髪が、実家で買っている犬を思わせてなんだかかわいそうになってしまった。

「ミントくん。でも今日は友達として泊まっていかないか? 約束を反故したお詫びも兼ねて。もちろん無料でいいよ。冷凍しておこうと思って、カレーもたくさん作ったし。ご飯もつくよ」

 こくこくこくこく。
 水飲み鳥の、ように何度も何度も首を縦に振るミントの姿が可愛くなって。知らずと和人も微笑んでいた。

「じゃあ看板しまってくるから、待ってて」




『雨のあとに』という、小説がある。
主人公と後に夫となる恋人の10年間の日々の物語で、ドラマ化もされているし、コミカライズもされた。

 民人はこの話が大好きで、どの媒体も何度も見返していた。

 原作者がモデルとした街は当時住んでいた街からはとても遠かったので、その町の役所の発信する情報から川辺に住んでいる人のSNS、舞台の一つになった寺のサイトも、何度も見た。
 ファンの噂によると、主人公が恋する男性の生家にはモデルがあるとのことだった。
 その家の持ち主が孫に代わり、Cafeをやるかもしれないというツィートから、ついに現れたお孫さんがCafeを開店のさせようと日々発信するSNSまでたどりついた。

 写真が投稿されるため、いつかここに行きたいと民人は胸を踊らせていた。

 それよりも民人をドキドキさせたのは、たまに登場するオーナーになる予定のお孫さんの写真だった。

 最初はイメージづくりのためにモデルさんでも雇ったのかと思っていたがすごいイケメンで、ドラマ版の役者よりずっと、民人の中で『雨上がりのあとで』で主人公が恋する圭介さんのイメージにぴったりだったのだ。

 心の中でリアル圭介さんと何度も呼びかけていた。
 そう。民人の初恋の相手は小説に出てくるこの穏やかな大人の男性。圭介さんだった。

 物語の中の圭介さんは、主人公より4つ年上で、いつも優しく導き助けてくれるスーパー格好いい男性だった。

 少年だった民人はこんな人実際はいないだろうし、いても男の自分など相手にしてもくれないだろうと思っていて、憧れ半分切なさ半分で読んでいた。でもまあ、物語に浸る分には誰にも迷惑かけないし、と自分を慰めた。

 同じような理由をつけて、和人のことも勝手に憧れて、いつも更新を楽しみにしていた。

 やがてCafeを開店させる日程とフォロワー限定先行民泊希望者を募ったので民人は喜び勇んで応募したのだ。
 その頃には都内の専門学校に上京して、cafeのある町までは、実家よりは近くなっていると考えたからだ。春が待ち遠しくて。どんな格好で行こうかとか思いを巡らせていた。

 だが、世界的に感染症が流行ってcafeも民泊もできなくなってしまったし、民人も置かれている状況が厳しくなりそれどころではなくなってしまったのだ。

しかし今、憧れの場所に憧れの人がいて民人にカレーをよそってくれている。

 閉店作業を手伝ってきびきび民人が働いたおかげで、いつもより早めに店をきれいにすることができたと和人は喜んだ。
 民人は調理と製菓の専門学校の、2年目の学生だ。アルバイトも年齢にしては多くこなしてきたので、それくらい朝飯前なのだ。

 むしろいつもよりずっと早い時間に夕飯にありつける。
 一人暮らしの民人はまかない付きのアルバイトをしていたが、去年は自粛でお店の経営が悪化し、出ることができなくなった。
 その後は流行りのデリバリーの仕事などをしたりしていたが、疲れ果てて家に帰ると夕飯を食べそこなって寝てしまっていることも多かった。


 お店の中でそのまま食事を取るのかと思っていたら、違っていた。
 SNSでは知り得なかった立入禁止の居住空間へ廊下の先を通って回る。
キシキシいう飴色の廊下にワクワクして廊下を曲がった。

 勝手口がまた別にあり、その横には古い時代の映画に出てくるような小さな台所が店のキッチンとは別にあった。
こちらは店よりは雑然として生活感か漂っている。

「男の一人暮らしって感じだろ。がっかりした?」

 民人は首を振って否定する。味気ない一人暮らし用で、野菜を刻むにも机を使わないといけないような自分の一人暮らしの部屋に比べたら天国のようだ。

 民人も和人もこうして人と食卓を囲むのも久しぶりだった。

 小さな小瓶にお店のテーブルと同じように小さな花が飾られていて、木目は大きめの使い込んだテーブルは座面の赤い椅子4脚で囲まれている。そこに向かい合って座った。

 台所は店と違ってレトロな雰囲気で、この茶の間だったという部屋までは改装され床がひと続きになっている。

 小さな乳白色のペンダントタイプのランプシェードが一つ下がっただけの台所。
 蛍光灯の明かりになれた身には、薄暗く感じたが、雨の夕暮れ時の静けさが相まってただの台所とダイニングなのに非日常的だ。そう感じたのは自分が小説の中に入り込んだような気持ちになったからなのか。


「じゃあ、食べようか」

 そういって和人がゆったりした仕草でマスクを外す。
 写真の通りの男前な顔が今日初めて民人の前に晒された。

 少し日に焼けた顔。お店の近くの山にはボルダリングをできる崖があって、最近ではそれを嗜む人の聖地になっている。和人も、たまに友人と連れ立って山に入ったりする。
 とSNSの知識を受け売りにしてまじまじと端正な男っぽい顔に釘付けになってしまった。

「どうしたの?」

 精悍な顔立ちの割に優しげな声色の和人に促され、民人もマスクを外した。

 今度は和人がまじまじと見る番だった。
 民人の顔をマスク越しにみていたとき、切れ長の末広二重の大きな瞳だなと気にはなっていたのだが、マスクを外すと通った鼻筋に程よく広角の上がった口元。健康的だが色白で小作りな顔といい、和人のタイプど真ん中だったからだ。

(なんということだ。むちゃくちゃタイプだ)
 タイプすぎて、今まで何か失礼な言動を取らなかっただろうかものすごい勢いで自分の行いを振り返るほどだった。

 今度は民人が不思議そうに小首をかしげる番だった。

(……ぐはっ、その仕草も可愛らしすぎる!)

 マスクをする人が多い昨今、
 マスク+画像加工ソフト+プリクラ写真とどれも素顔でなくてだいぶたってから知った素顔で愕然…… という話もよく聞くがこれはまるで逆のパターンだった。

「いただきます」

 今どきクラシカルな仕草で手を合わせて、そろそろと匙をカレーに差し入れるのも、そのあと熱さでこくこく水を飲む白い喉元も気になってしょうがないのだ。

「このキーマカレー、市販のルーだけじゃないですね?」

「流石調理師の卵、わかるの?]

「はい。このスパイスの配合も、こっちの生姜のお漬物も、コリアンダーのチャツネも本当に美味しいです!!」

 ニッコリと微笑んだ大きな瞳は、甘さをたたえ、懐っこく変化し本当に可愛かった。

「このカレーは俺の母の友人で、美恵子さんっていって平日の昼間この店手伝ってくれてる人が、作ったレシピで…… ごめん俺喋りすぎ?」

「いえ、嬉しいです。ずっと、今井さんと話してみたかったから」

「和人でいいよ。たぶん、年近いし」

「じゃあ、俺のこともミントって呼んでください」

「あ!」

 思い立った和人は立ち上がり冷蔵庫に向かった。 

「これ、飲んでみて」
「これは……」

「夏向きのミントチャイ。カレーに合うだろ?
夏に新商品で出そうと思っていたのだけど、これだけだとクイクイ行けてしまうからどうしたものかなあと」

「さっき頂いたパンケーキ。こってりと脂肪分の高い生クリームだったので、それを添えたシフォンケーキとかに合いそうですね」

「そうか! それもいいな」

「シフォンケーキならマンゴーとかオレンジとか夏場は良さそうですね」

 大きな目を半月に細め、夢見るように民人はいった。食べることが大好きなのかもしれない。

 その幸福そうな顔も好ましかった。

 二人で向かい合って色々話しながら食事をするのは思っているよりずっと楽しくて。
 食事が終わったあとはこちらに気を使ってかマスクをしてしまった民人を残念に思いながら二人はそのまま一時間ほど取り込めのない話をしていた。

そのあと急な階段を手すりを捕まりながら上がり、2階の一番奥にある民泊用に使おうとした部屋に民人をつれていった。

「すごく綺麗なお部屋ですね」

「ちょっと女のコ向きな部屋だけどな。ここ、ドラマの聖地って言われてるから女子一人でも泊まりやすいようにしてみた」

 枕元のランプシェードは紫陽花の花を模したモザイクガラスでできていた。
 これは器用な父が趣味で作ったものだ。
 窓の外は日が暮れて見えづらくなったが、例の寺はあっちで、河原はあっちと指差した。

「明日朝早起きできたら散策してみようか」

 男相手にこんなことを言うのは変かな? と思ったが友達同士でもそのくらい言うだろうと思い直した。

「ありがとうございます」
 民人は後頭部が見えるほど律儀に深々と頭を下げた。

 風呂を先に入るかあとに入るかで揉めた後、一緒にはいるか?とむしろ誘ったらびっくりしたように固辞されて逆に凹んだ和人であった。

「ミントくん、酒のんでも平気な年?」
「はい、4月に20になりました」
「お、2つ下か」

 風呂から上がって二人は自室には行かずに一階の和室で涼むことにした。

明日の着替えと下着は持っていた民人だが、寝間着は持っていなかったので、比較的新しいTシャツと短パンを和人が貸した。

 本人の趣味で白Tにしたが、断じて透けすけラッキースケベを狙ったわけではない厚みはあるやつだと、誰とはなしに心の中で言い訳した。

 180センチある和人のTシャツは、170センチそこそこで細身の民人がきると肩など余ってしまってそれがやけに可愛らしく見える。

(彼シャツってやつだな。興奮するやつの気持ち分かったわ)

 カフェのある部屋の位置からはコの字になっているのでさっき眺めていた庭を別の角度から見ることができる。

 こちらはカフェが洋風であるのに対して、廊下に面したガラス戸をあけ、障子を開くとたたみの部屋だった。
 廊下に雨が少し吹き込んでしまうが、冷たい空気が気持ちよくて開けてたままにしてしまう。後でしっかり吹き取ろうと思った。

 畳の部屋には立派で重く古いちゃぶ台がぽつんとおかれ、綺麗なレース編みの刺繍カバーがついた座布団が2つある。このレースは母の他の友人の趣味の品でとても手が込んでいる。

「このちゃぶ台は元々そう祖父母夫婦のつかっていたやつ。台所の前の茶の間も畳じゃなくて洋間にしちゃってからとりあえずしまってあったのだしてきて、たまに勉強に使ってる」

 その、ちゃぶ台に透明に白い雪のような模様が走る綺麗な器にもられた桃とメロン。

 同じ柄のガラスのコップ。
 果実系のチューハイ、重たいガラス製のレトロなピッチャーに沢山氷も入れてあった。

「この家はひいひいじいちゃんが建てたらしいんだけど、さっきの台所まで続いてる茶の間は、ばあちゃんのためにじいちゃんが洋間に改装したらしいよ。元々文化住宅って和洋折衷の建物を模してたらしいから、あのカフェのあるところは昔から洋間。テラスだったとこが入口」

 確かにこの建物はあの有名なアニメの姉妹が住んでいる家を思わせる和洋折衷のおしゃれな作りだ。

 和人は筋走った男らしい腕で器を掴み、そこにフルーツポンチの要領で果実のチューハイを注いでくれる。
 そこにフルーツアイスの丸い玉をポンポンといれた。

「はい。大人のフルーツポンチ」

 目を輝かせて民人は受け取って、品の良い小さな桜色の唇に、桃と掬って舐めとるように運ぶ。

 こんなに清純な感じなのに、何故かその仕草はエロく感じて自分の降って湧いた下心に少し申し訳なく思った。

「美味しいです。よく冷えていて少し甘みが落ちますが、ほかが甘いのでむしろ爽やかです」

 冷やしすぎた果物の甘さが感じにくくなっているようだ。なるほどなと思った。

 美味しそうに、しかも綺麗に食べる民人の顔はいくらでも見ていられそうだ。
視線に気づき、上目遣い風に和人をみる。

「あ、がっついてしまって。すみません」

「いや、違うよ。美味しそうに食べるなあと思って。自粛からこの方、あんまり外で食べることも減ったし、宅飲みもスマホの画面越しだったりしてて……。やっぱりこうして人の隣で飲み食いするのはいいな。相手の呼吸とか体温が伝わる感じだ」

「人の印象は、言語は2割以下とかいいますもんね」

 残りは8割はノンバーバルなのだ。
 出会った相手のことを表現するとして、人は結局雰囲気で伝えている。

 だとしたら自分にとっての民人は好印象でしかない。濡髪も、潤んだ明るい茶色の瞳も、自分の短パンから伸びる体毛の少なめの白い脚も好みだが。

 相手もそう思ってくれるのだろうか。
 たまに民人は恥ずかしそうに頬に朱を刷かせ、上目遣いにこちらをみてくる。

(俺の事ちょっとはいいと思ってくれてる? そんな顔されたら勘違いしちゃいそうだよ)

 冷たい湿気を吹くんだ風が二人の間を吹き抜けた。
 民人は雨脚が衰えない庭の方をみていった。

「夏に、風鈴、飾ったら似合いそう」

「だな。一人、ダイクロ硝子の作家さん知ってるから、その人が作った風鈴、買って吊るしてみようかな。夏になったら一緒に選んでくれる?」

 試すように目線を合わせた。またも恥ずかしそうな可愛らしい表情をして民人は長いまつげを伏せた。

「あの、俺…… 多分ここには来れなくなるから」
「え! なんで?」

 思ったより大きな声を出してしまって、民人は驚いて丸い赤い玉のついた匙を器のなかにカチンと落としてしまった。

(いかん、落ち着け和人)

 和人は説得するように自分自身に言い聞かせる。

 始まりかけた恋が急に遠ざかりそうで焦るのはわかるが、相手は自分に、興味がないかもしれんし。

そもそも男は範疇外と考えていいだろう。それを今晩泊めてくれる男に、急にがっつかれたらどうだ? 自分なら怖い。そんな自問自答を頭の中で繰り返す。

「恥ずかしいんですが…… ここに来るのも交通費やっと捻出してこれたというか…… アルバイトしててもかつかつで……今都内で親に一人暮らしさせてもらっているんですけど、お金がかかりすぎるので…… 夏休み前に引っ越して、あと一年で卒業だし実家から2時間近くかけていた通うようにいわれているんです。そうするとバイトと通学に時間を取られてここには来られなくなるかなあと。あ、卒業したら休みの日とかにはこられるかも、です」

 和人の理想とも言うべき笑うとへにゃっと目尻が下がり、人懐っこくなる笑顔で民人はいい、少し溶けて小さくなったアイスを一つすくってぱくっと食べた。

(いいこと思いついた!)

「それなら、ここで暮らさないか?」
「え……」

 和人の黒黒と美しい目の力の、真剣さが伝わる眼差しに、民人は小説の中の圭介が美和にプロポーズする場面がオーバーラップして胸がリアルにキュンとしてしまった。

 そして思わずこくこくと、頷いてしまう。
 
「よし、これを食ったらこれからのことを話そう」

 和人はきっぱりとそう言って、まるで茶漬けでも食べるようにサラサラとフルーツポンチを飲み干した。

「あの、願ってもない話ですけど…… 俺ばかりメリットがあって…… なんにも貢献できないというか」

「ああ、家賃はもちろんもらうよ。でも土日にここを手伝ってくれたら格安にしとく。飯もまかないってことで。材料費折半で交代で作るならお互い食費も浮くだろ? 土日、俺も試験勉強したり、自由時間できると嬉しいな。
ここからなら新宿まで一時間ででられるし。実家よりは近いよ」

 本当はメリットのほうがでかいと和人思う。
 自分好みの容姿で、製菓も習う調理師の卵。
 先程の片付けをしたときのお互いの間合いのとりやすさ、そしてこの柔和な笑顔。

「 この店で君みたいなこと一緒にいられたら幸せだなって、そう思ったんだ」
「……」

 ストレートな口説き文句に、民人が大きな目を見張った。

(ちゃんと話そう。ちゃんと伝えよう。俺の事)

 そもそもこの家を和人が好きな理由の一つ。
 これを話しておこうと思う。そして、自分の性的嗜好のことも。話さないで彼をここにこさせるのはフェアじゃないと思ったのだ。

「この家は母がインコの家って呼んでたんだ。祖父母がコザクラインコ飼ってたからなんだけど、祖父母もそう祖父母も、すごい仲良し夫婦だったから。コザクラインコは番に対してすごく愛情深いんだ」

 仲睦まじい夫婦が二世帯暮らした家。そう思うと更にこの家への憧れがまし、愛おしく感じる民人だ。

「でも俺の祖母は60代で亡くなってしまって、……祖父も3年前に亡くなったよ。
一人は寂しそうで、俺はたまにここに遊びに来てた」

 子供の頃、崖上りや川遊びはいつだって祖父いっしょだった。
 民人も祖父母が近くに住んでいるので気持ちはよくわかった。

「うちの母さんは一人娘だし、相続も大変だからここを取り壊すかってなったんだけど……
俺はどうしても嫌で。学校出てからもここ住んで、ちゃんと働いて手入れもし続けるからってここに住まわせてもらうことになったんだ」

「そうだったんですね……」

 民人は正直、この家の中で実際に暮らしてきた人がどんな人生だったかまで考えずにいた。
小説と違うのは当たり前だけど、それにしてもcafeの素敵さとか、和人の格好良さとか上辺だけのことばかりに気を取られて、思考が我がらお子様だなあと思った。

「いつか俺も、祖父母たちにみたいに、ラブバードって言われるくらい大切な人とここで暮らしたいと思ってた」

 つきんっと民人の胸が傷んだ。
それはそうだ。和人ほど格好いい人だし、こうして面倒見が良くて優しくしてくれる人ならば、きっと彼女さんなんてすぐできだろうし、今たまたまいないだけ…… 
 さっきの女性たちとの会話をこっそり聞いていた民人である。

「今井さんなら、きっとすぐ結婚して家族ができて、子供が生まれて、ここで楽しく暮らしていくのがわかります」

 すると和人は少し困ったような顔をして、わらいながらいった。

「そうだな。家族はほしい。インコみたいに、番になったらずっと相手を大切にして仲よく暮らしたい。……でも子供はできないかな。俺は男の人が好きだから。ミントくんに言っておかないとフェアじゃないだろ? ひいた?」

 またも形の良い大きな目がひたっと民人の目を捉え、こちらの答えを試すように視線を絡めとられた。こんなに真っ直ぐにみつめられたらドキドキして身動きがとれなくなる。

 しかし自分も告白をせねばと頭の中でもう一人の自分がせきたてた。

「あ、あの…… 俺も…… 」

 この一言に和人は格好悪くも生唾を飲み込んでしまった。

「俺も?」

「俺、『雨上がりの後に』が好きで、それで、あの……。和人さんが好きで……」

「え!」

「あ、え! いい間違った。リアル圭介さんが好きで…… つまりあの、和人さんが好きってことになる? あ、なんかわけわからなくなってきた!」

 二人ともそれほど酒が強い方ではなくて、顔を赤くしてわたわたしてしまった。

 見ればフルーツミックス味、美味しそうと思い買ってきたチューハイだけど、アルコール度数が高い、9パーセントのものだったようだ。
 普段3パーセントのしか飲まない民人は、いつの間にか強かに酔ってしまっていた。

「あの、あれ、あの」

 和人も普段5パーセントのチューハイ一本でほろ酔いになれるため、気がいささか大きくなってちゃぶ台に置かれた民人の手をぎゅっと握ってしまった。

 職人の繊細な手で、ごつごつというよりむしろもっちりしていた。

「お、俺の番になってくれ!」

 いつか好きな人ができたら言おうと思っていたセリフを叫んでしまった。

「番? えっ、あっ…… 俺なんかでいいの? あの、俺」

「じいちゃんがいってた。ばあちゃんとあったときは晴れた空から雷が落ちたみたいな突然の衝撃だったって。その日からじいちゃんは、ばあちゃん一筋だ。ひいじいちゃんもそうだ。ばあちゃんとは親戚筋だったけど、小さい頃からばあちゃん一筋で押せ押せで結婚した。うちは一途で電撃的に惚れやすい家系だ。今までこんな気になったことはないから俺には無理かと思ってたけど」

 小説の無口ながら要所でいいことを言う圭介さんと違って、和人はとても言葉を尽くす人だとわかった。
 だけどそれで幻滅したわけではない。
が、少し勢いに負けて膝を崩して身体が引けてしまった。

「あ、ごめん。なんか話、遮っちゃって。俺、こういうとこがあって…… 欠点だってわかってるんだけど、すまん」

 握った手は離さずに更に残っていた2本目の缶をそのままあおった。

「あの、俺…… 雨上がりの後にって話。この家がモデルかもって」

「そういわれてみたいだね」

 手を、引くわけにも行かず、もじもじしてしまう民人だ。
 自慢ではないがこの年まで誰とも付き合ったこともなければ手を握ったことも握られたことも親ぐらいしかない。

 昨日までは小さなスマホの画面越しにしか存在を確かめられなかった、仄かなあこがれの人からこんな急激に接近されて。

 ドキドキよりも緊張と、とまどいのほうが勝っていま人生のピークかもしれないのに楽しむよりもパニックになる。

「あの、俺、男が好きかって言われると判らなくて。誰とも付き合ったことなくて……」

 別に誰かと付き合っていたというのも嫌じゃないが、なんとなく興奮してしまった和人だ。

「雨上がりの後にの圭介さんが好きで…… 憧れてて。多分俺の初恋で…… 勝手にSNSみて、和人さんのこと、リアル圭介さんとか呼んでた…… 勝手に思い込みの中でこんな人かなとか想像して勝手に好きになってて……」

 すると和人は太い眉を下げて、怒られた犬のような情けない顔になった。

「つまりは圭介さんと違うって幻滅した? 
今まで何度も言われたことある、おしゃべりのせいで残念イケメンって……」

 イケメンなとこは否定しないのか、とツッコミを入れたくなったが確かにイケメンだったのでやめておいた。

「いや、違うよ。……たくさんしゃべるのはそれだけ正しく理解してもらいたいって思っているからで、それって誠実ってことなのかなって。俺はそう思う」

「それはありがとう」

 急に握った手の指を絡めてきて、胸がさらに高まった。

「ミントくんも、いいやつだな」

 そういうと身を乗り出し軽い仕草でチュっとキスされた。

……マスクの越しに。

 ちなみに酒をあおった和人のマスクは顎にかけられていた。

「ま、マスクにしちゃ、だめだよ。表面汚いんだから」

「それ、誘ってるの?」

 丸いちゃぶ台をずりっとどかして、身を乗り出すところか前に覆い被さる近さに来て、くいっと民人のマスクを顎まで外した。

 驚いてわななく唇に、自分のそれをゆっくりと重ねる。

 ぴくっと動いた身体が可愛くて、そのまま押し倒してしまった。

 民人の唇は想像どおり柔らかくて、口内は果実の味がした。ぴちゃぴちゃと水音がするほど久しぶりのキスをがっついてしまう。

 小さく漏れる甘い声が脚の間を直撃してくる。
和人の膝は民人の足をさばくように割ひらいて、膝頭ですりすりと民人の股間を優しく刺激する。

 酔いがまわっているのか、中々芯を持たない民人の陰茎をハーフパンツを一気に引き下げて直接触ると、子犬が甘えるような泣く声をあげて乱れ、からがったシャツの裾からのぞく細い腰を見せつけるように身悶える。

 もっと感じさせたくて、白いTシャツをさらにまくりあげると、雨に冷たさを増した外気にふれて、鳥肌とともにふるっと小さな乳首がたっていた。

「だめぇ」

 甘すぎる声で否というけれど、全く否定には聞こえない。
 若い雄同士、そして気持ちのある同士。

 触られたらもう、たまらない。

 舌でぐりぐりと舐めとる左。利き手で器用に潰す右。
 どちらも気持ちよすぎて人から与えられる初めての刺激に民人は頭が真っ白になった。

 雨はいつの間にか雨脚を強めて、廊下をしとどに濡らしていく。

 ひんやりしてきた畳に、湯上がりの身体を冷やして震えだした民人が可哀想になり、
 和人は半起きの股間を隠しもせず立ち上がると華奢な民人を抱き上げた。

 そのまま濡れている暗い廊下を慎重に歩いて2階に上がる。
 かなりの重労働だが民人もぎゅうっと抱きついてくれたのでなんとかあがっていった。

 外の街頭の仄かな明かりのおかげでどうにか自室にたどり着き、こだわりの大きなベッドに民人を、ゆっくり大切におろした。
 すると民人はぎゅーっと抱きついたまま離れないのだ。

「どうした? 俺が怖いの?」

「こわ、こわい…… 」

 怖いのに、離れたくないなんてやはり酔っているのかもしれない。

 仕方なく民人が掴んだ和人の着ていたTシャツを手元に残してやり中身はそれを脱ぎ捨てて上半身裸になると冷たくなっていた民人の手足を引き寄せてやる。
 そして夏掛けのガーゼケットをかけて、その中に二人で丸くなった。

 冷たい脚を挟んでやると、少しずつ温もりが戻ってきた。
 その頃には少しずつ和人も鎮まり始めていたので、腕枕するように頭を腕に乗せさせ、逆の腕を背中に回して抱き止めた民人の温もりに、うつらうつらしてきた。

 雨音が静かに遠くで聞こえて、世界に二人だけしかちないような心地になる。
 腕の中で小さな寝息をたて始めた。

(雨、このまま降り続いてもいいな)

 その柔らかな呼吸音にも癒やされて、和人も眠りについてしまった。

 翌朝。

 民人は目覚めると見知らぬベッドに一人で寝ていた。
 前日まできつきつに、バイトを入れていたし、さらに楽しみで眠れなかった民人の昨晩は、酒が引金になって一気に睡魔に襲われたようだ。

 昨夜の記憶は少し曖昧でどこからが夢でどこまでが記憶なのか定かでない。
 しかし全てが夢かを相手に確認するにはあまりにも甘く淫らな記憶だった。

 学生らしい机や教科書、ノートPCなどが雑然と置かれた部屋の持ち主はここにはいないので、一階におりていく。

 降りて左の台所の方から音がしてきた。
 フライパンで油が跳ねる音も聞こえる。
 今日は朝から雨が上がり晴れていて、すこしずつ蒸し暑くなりそうだ。

「おはようございます」
「ああ、起きたか。おはよう」

 木の柱に取り付けられていたのは古めかしい鳩時計だった。時計は朝の7時過ぎをさしていた。
 鳩時計。テレビは見たことがあったが実物はじめてみた。

「昨日は、お世話かけたみたいで……」

「俺こそごめん…… ミントくん、どこまで覚えてるの?」

 黒のタンクトップに青いエプロンをつけ、筋肉気質な二の腕で軽々、鉄のフライパンを持ち上げる。目玉焼きをレタスとハムがすでに乗っていた皿にくっついた2個分を2つに分けてのせた。

 その手慣れた仕草を見て、この人とずっとこうして暮らしていくのもいいかもしれないと思っている自分がいた。

「……マスクの上に、キスされた。汚いっていったのに。そしたらまたキスされた」

 甘えて咎めるような口調になってしまった。
 だって初めてのキスだったのだから。
 ギリギリ覚えていられて良かったというべきか、なんというべきか……。

 あのあと夜中に目を覚ました和人は一階のビショビショの廊下を掃除しながら頭を冷やして、戸締まりを終えると、また暖かな温もりのあるベッドに舞い戻りしあわせな気分で眠りについた。

 民人が一緒に暮らしてくれたらこれからずっとあんな気持ちを味わいながらも微睡めるのかもしれないと思うと嬉しくてたまらなくて、
 民人の髪を撫ぜたり頬にキスをしたりしてしまった。

「顔洗ってきて。風呂場の前のとこに、歯ブラシもあるから。そしたら朝飯食いながら話そう」

 赤い顔をした民人は頷き、昨日の夜とは打って変わってすっかりしゅっとしたイケメンに戻った和人を小憎らしく思った。

 自分ばかりが意識している気がして心はすっかり片思いの切なさに戻ってしまう。

 洗面台にはビニールがかかったままの客用らしいミントグリーンの歯ブラシが置かれていた。

 名前のせいかそれは民人の好きな色だった。

 台所と続いている茶の間に戻り、昨日と同じ位置に腰をかける。
 甘いクッキーが焼けるような匂いがしているとおもっていたら、なんと焼き立てのスコーンが皿の上に6つも置かれていた。

 民人は焼き菓子が大好きだ。生洋菓子もいいけど、ホームメイドでさっくり作ったマフィンやスコーンは大好物だ。

 目をキラキラさせたのがすぐにバレたようで、してやったりとニヤッとする顔は、少しかっこ悪くて、でもかっこいい和人だ。

 そこに昨日お店でも食べた生クリームから作った自家製バターを添えられ、もう、民人は天にも登る気持ちだった。トドメのアプリコットジャム!

 やっぱり男の心をつかむのは胃袋だよなあとお互いに思う。

 いただきますをして食べ始めた。

「で? いつこっちに越してくる?」

 和人の有無を言わさぬ先制攻撃がはじまった。
この人はなんだってこうせっかちなんだろうと思う。
 こんなにも色々恵まれているのにガツガツくるのを不思議に思うと、少し照れたような顔をして民人につぶやいた。

「なんか楽しそうだと思ったことは、どんどん実行しないと気がすまない質なんだよ。俺は昨晩、ミントくんとのこの夏の計画を色々思いついた。だからミントくんにとっては急に映るかも知らないけど、俺の中では昨日の夜から頭の中で何巡も回った熟考アイディアだ」

「なんだよそれ」

 そういうと民人は子どものような顔で口を大きく開けてケラケラと笑った。

「じゃあ試しに次はなにをするの」

「そうだな。このスコーン最高って言って、ミントくんが俺の頬にキスしてくれるとか?」

「なにそれ、エロおやじかよ。でもスコーン最高です。俺の作るご飯も今度食べさせたい」

 台所から少しだけやわらかな朝の日が少し射し込む茶の間で、二人で笑って向き合い。
 次に来るときはもう一緒に暮らしてみようと決めた朝だった。
 次に来るときは本当に一緒に暮らすことになった。

 夏休みに入った8月。民人は実家に大体の荷物を返し、最小限のいるものだけをインコの家に配送させたので、ほとんど身一つに近い格好で和人の元にやってきた。

 和人はカンカン照りの青空の下、以前と同じような軽装にマスク姿でやってきた民人の姿を見ると目を輝かせて紫陽花の葉が青々とした玄関を飛び出してきた。
 本当にきてくれるのかな?と待ち遠しかった日々に終止符が打たれたのだ。

 今日は夏休みとはいえ平日なのでお店は美恵子さんがとりしきっている。
緊張げに挨拶した民人を開店前の忙しい手を止めて快く歓迎してくれた。

「和人くん、こう見えておっちょこちょいだし、せっかちだし、色々見た目に助けられてそう見えない所多いけど助けてあげてね」

 まるでお母さんのようにそう言って、ちゃぶ台の部屋に座る民人に麦茶を差し出してくれた。

 隣では更に日にやけた和人が嬉しくてしょうがないと言う感じでニコニコと民人をながめている。

「ミントくんさあ、もうここに住むんだから、家の中ではマスク外していいよ。暑いし」

 そう言われてこれから家族になります、と言われているようでこそばゆい気持ちになった民人だ。

 昔はクーラー無しでも涼しかったこの家も、流石に暑くて今はクーラーをつけっぱなしだ。
 廊下の向こうのガラス戸には網戸がついていないからだ。

「あたしの車つかっていいから、買出し行ってきてね。モールいってミントくんの食器とか買ってあげなさいね」

 そういうとインディゴブルーの若々しいワンピース姿の美恵子さんはちゃっちゃと立ち上がってcafeの開店準備に戻っていった。

「リアルミントくんがいる」

 自分のようなものが来たくらいでものすごく嬉しそうにされてなんだか、恐縮してしまう。

 こちらこそ、リアル和人さんがいる。
 あの日からそれこそ毎日スマホでやり取りはしてきた。連絡が途絶えたらどうしようとなんだかそわそわしてやたらスマホを気にするから、ついに彼女ができたかと前のバイト先の先輩にも束縛強い彼女か?とからかわれるほどだった。

「少し涼んだら車出すから買出しいこう」

 山間の道を車で進み国道に出ると大きめのショッピングモールについた。

「ほんとモールは何でもあるよなあ」

 食器と食材の買い出しのはずがなんとなく服を見たり靴を見たりと、さながらデートっぽくなって来た。
 内心ガッツポーズをする和人だ。

 あらためてみると、身長こそそう高くはないが手足が長く頭の小さい民人は、スタイルが良くてなにを着させても似合いそうだ。

 なんとなく理想の服装とか自分では似合わないが好みの服装とかを選んではお互いに合わせてみたり。好みの店の傾向は似ているが、体格体型でお互いに似合うものが違うので色々試せて面白い。

 民人は民人で、並んで歩くと和人はやはり格好いいし、過剰に意識しない程度に見て回る歩調が合うことに喜んでいた。

 マグカップもお揃いにしてみたり、先に郵送しておいた布団に合う新しい寝具を買ってみたり、新婚さんかよと思うほどだった。  

 少し疲れて昼休憩をしたのち、ふとペットショップもモール内にあるとわかった。

「コザクラインコ、本物見てみたい」

 そういえば和人がちいさいときにはもう、インコの家にインコはいなかったっけ。

 ペットショップの鳥獣小動物ゾーンはあまり広く、ハムスターやウサギ、フェレットなどの奥に鳥かごに入ったセキセイインコや十姉妹などがいた。

「あ、これこれ」

「すごい、鮮やかな色」

 かごの中を二人で覗き込むと、鮮やかなオリーブグリーンの羽に、顔と胸の部分が優しげな朱赤のインコと、それよりは少しインディゴブルーがかった淡い色合いの2羽が、寄り添って毛づくろいをし、仲睦まじくしている。

「ほんとうに仲良しなんだね」

 まじまじと見ている民人をみると、自分も民人のふわっとした黒髪に触れて整えてやりたいような気になった。

 頭の上に手をおいて、ぽんっとやる。
民人を振り向かせると、また浮かんだアイディアをはなした。

「飼おうか」

「え? 和人さん、また思いつきでそんなこと言って…… 鳥だって命なんだから責任が生まれるんだよ」

 眉をひそめて真面目な声を出す民人の口元はマスクに隠れて見えないが、多分とんがっているのかもしれない。

「いや、いつか飼いたいと思ってたし、この前裏の物置整理したら鳥かご出てきたし。でもまああれは古すぎるから新しいの買ったほうがいいな。母さんは子供の頃飼ってたらしいから飼い方教わろう。二人で世話すればきっと大丈夫だよ」

 その言葉に背中を押されて、民人はまたゲージに視線を戻した。

「……2羽ともかうの? 離したら可哀想だよね」

 店にいる間にも番になっていることはあるのだろうか。
 確かに1羽だけ離すのもなあという感じに止り木の上で寄り添っている。

 和人は即断即決でテキパキと店員さんを呼び、購入の手続きをしている。
 母親ぐらいの年の定員さんは鳥たちに愛情深げに話しかけていた。

「よかったねえ。ついに、おうちがきまったね」

「ちなみにどっちがオスですか?」

「多分こっちかな?」

 より鮮やかな緑の方を指差した。

「でも見た目でオスメスわかりにくいのよ。DNA鑑定すればわかるけど、オス同士でも疑似交尾したりするしね。卵産まなくて何年かしたらオス同士カップルだったってこともあるしね。コザクラインコは愛の鳥だから愛情があれば番になるわよ」

「……」

「ここではパートナーとみとめていても、飼育環境によっては人間の方をパートナーだと思ってヤキモチをやいて喧嘩になったりもするから、気をつけてあげてね」

 二人はその暫定番のコザクラインコカップルを迎えることにした。
 買ったばかりの枕カバーを上からふわっとかぶせてやって、助手席の民人ががっちり抱きしめてもつ。

 ここは正真正銘インコの家になった。

 紫陽花cafeにもどると美恵子さんが呆れた声を出し  た。

「手羽先買ってきてっていったのに!インコ買ってきたのこの子達は!」

 先に鳥を買ってしまったのでスーパーの方に寄れなくなってしまったのだ。
二人まとめて笑いながら怒られて、再び買い出しに戻った。

 夜、美恵子さんの旦那さんも一緒に、こちらの家で民人の歓迎会をしたあと、民人は風呂上がりにちゃぶ台の和室に物置から出してきたかつてのテレビ台のような台上に置かれた鳥かごの中を飽きずにみていた。

 スマホと、二回目の買い出しで買ったインコの飼い方の本をくびっぴきになってみている。

 缶チューハイ片手に隣にやってきた和人はそんな様子をからかった。

「あんまりピーチばっかりみるなよ。お前の事パートナーだと思ったら、チェリーが可哀想だろ」

 どちらかといえば和人がピーチにヤキモチをやいているかのようだ。鳥たちは人懐っこい顔で二人を見上げる。

 顔がより赤くて羽がオリーブグリーンのほうがピーチ。羽がインディゴブルーのほうがチェリー。ピーチフェイス、ブルーチェリーという品種の名前から名前をつけるというベタな命名をした。

「あ、これ。さっきやってたやつ。えさを口移しであげたりするやつ。求愛行動らしいよ」

「ふーん」

 言いながら、和人も民人の唇に鳥たちのように優しくバードキスをして啄んだ。

「人間と同じだな」

 二人は目を合わせ、笑いあった。

 2羽のコザクラインコカップルは家に迎えたあとも仲睦まじく暮らしていった。

 その後2年たっても卵は産まなかったのでオスカップルと判明したが、ずっと仲睦まじい姿と愛を周りに振りまいた。

※※※

 紫陽花cafeには名物が増えた。

 民人くんオリジナルのミントスペシャル
という夏らしい爽やかなメニューが増えた。

 ミントシフォンケーキは色合いもうっすらブルーキュラソーで色づけられて、チョコチップを砕いたものもたっぷりいれた。

 甘くてスーッとするミントシロップベースのアイシングがなされて、
 そこに爽やかなミントチャイもついている。
 
 それから晴れた日には廊下の立入禁止の立て札のすぐ後ろに、コザクラインコの番の鳥かごが置かれいて、鳥好きのお客さんはめざとくみつけると、このインコたちを密かに目当てにし、お店に足を運んでくれる。

 ドラマのロケ地周りのはずが、逆にこのcafeののんびりした雰囲気を好んでリピーターになってくれる人もすこしずつでてきたのだ。

 小鳥好きのハンドメイド作家さんにお願いされた小鳥のグッズを扱うレンタルボックスも設置されて、その中でもコザクラインコは特に人気商品でモチーフになっているピーチとチェリーはすっかりcafeの顔になった。

 紫陽花cafeのラブバードをみると恋が叶うとかなんだとかまたこの街のSNSで話題になっているらしい。

 しかし実際に店をおずれた人たちはラブバードってもしかして……と思うのだ。
 イケメン店主とたまに目を合わせはにかみながら厨房でテキパキと働く可愛い系店員の二人の仲睦まじく様子を見て、彼らのことも含めて紫陽花cafeのラブバードとよんでいるのだった。