プロローグ
「ほら見て!あそこあそこ!お星様が光ってるよ!ピカピカしてキレイだねー!」
「ほんとだね。でも他の星はあんまり光ってないね、なんでだろう?」
「そうだね…。みんなピカピカ光ったほうがもっともーっと、お空がキレイになるのにね!でも、あのお星様はあさひくんみたい!」
「どうしてぼくみたいなの?」
「だって、あさひくんはいつもニコニコしてて、明るくて、琴葉を元気にしてくれるもん!だから、あのお星様ねそっくりだなぁって思ったの!」
「それなら琴葉ちゃんのほうがあのお星様みたいだとぼくは思うよ!」
「そうかなぁ?でもありがと!」
……なんで私の名前、知ってるんだろう。 ……この会話は何?私の記憶?
……あさひ、くん?誰だろう、私、聞いたことあるような気がする。どこかで会ったことがあるような気がする。でも分かんない、思い出せない。
お星様?私とあさひくんって子は、空を、星空を見てるの?でもなんで?
私そんなの知らない。記憶にない。これは何かの夢だ。
…でも、いつも車椅子に乗っていた子、息苦しそうだった子。なのにいつも笑顔で明るくて、大丈夫って強がってた子。その子があさひくんかは分かんない。
あぁ…思い出したいのに思い出せれない。
「ぼくは帰るから、またね」
「うん!琴葉、寂しがりやだから、ひとりにしないでね!ずっーと一緒!それと、また明日、絶対会おうね!約束だよ!」
そう、約束した。絶対って言ったのに、誰も来なかったのを覚えてる。一人薄暗い夜空の下、月明かりが私を照らすだけだった。夜風が吹きつけて、スリッパだった私の指先は冷たかった。
またねと何度も言う男の子の声が頭の中でリピートされる。優しくて温かくて、元気になる声。どこか懐かしい。
声は聞こえるのに顔にモヤがかかって見えない。
雑音が頭に響く、耳がキーンとする。
頭がズキズキしてきた。
痛い、痛い…。苦しい。
——。
誰かが私を呼んでる…?誰…?お母さん?中野先生?
——ね。—んね。
ごめんね。
第一話 春の光、開く扉
「琴葉ちゃん!大丈夫?」
「…のせん…い。中野、先生…」
「そうよ。珍しく琴葉ちゃんの病室からナースコールが鳴ったから、様子を見に来てみたら、声かけても反応しないし、それにうなされてたのよ。悪い夢でも見たの?」
「いや、そういうわけじゃ…」
私の部屋からナースコース…。私、ナースコールなんて鳴らしてない。枕元に置いてたから、間違えて押しちゃったかな。
ぐわんと乱れ、ボヤける視界。
熱があるのか、目がまわる。クラクラして、先生が二人いるように見える。耳鳴りが頭を割るように響く。またいつもの…。
「ハァハァ…くる、しい。気分わるい…」
「ほら、全然大丈夫じゃないじゃない!顔色が良くないし、熱っぽいわ。横になって、今他の先生呼んでくるから」
「すみません…迷惑ばっかりかけて…」
「それを言わないって約束したでしょ?仕方ないんだから、謝らないで」
「…先生」
「どうかしたの?何か欲しいのがあるなら持ってくるけど」
「さっき、私が、寝てる時、謝り、ましたか?」
「ん?何?」
「…やっぱり、なんでもないです」
私がそう言うと中野先生は「そう、何か不安なことがあるなら教えてね」と優しく微笑み、病室の扉を閉めた。
あの男の子の声、私の記憶の中にいたあさひくんって子に似てた。でも彼の声はどこか悲しそうで、泣きそうで、悔しそうな声だった。
何かを失ったた絶望感、何かを奪われた無念さ。そんなものが感じられた。
でもやっぱり
「気のせい、だよね…幻聴かも、しれないし…」
いつものやつのせいだ、そう思い込んで私は夜が明けるのを待つために、深い眠りについた。
春は好きだ。桜が満開に咲いて、春の景色を彩らせ、儚く散っても、桃色の絨毯が足元を輝かせるから。春の陽気が心地よくて、心が晴れやかになるから。ウグイスやスズメの歌声が愛おしいから。
でも春は嫌いだ。一年間、自分の役割を果たし、頑張った印の通知表が渡されるはずなのに、自分の分だけいつもないから。いつも出席数よりも、欠席数のほうが多いのに嫌気がさすから。自分だけ他の人と違う日常しか送れないから。
幼い頃から気管支喘息を患っている。普通の喘息との違いが分かんなかった私は薬を飲めばすぐに治ると思ってた。こんなのただの風邪か何かだと思った。なのに入退院を繰り返してばかり。治ったと思ったらまた発作が起きて入院。痛い治療も泣かないで、苦くて不味い薬も嫌がらずに飲んて、頑張ったのに治らなくて。
指に収まる数、一年に八回、学校に行けたら良い方。と言っても保健室登校。
結局、入学式も、運動会も遠足も、修学旅行も、何一つも参加できなかった。卒業証書だって…貰えても嬉しくなかった。まともに通えてないのに、勉強もできてないのに、終了しますって言われても何が嬉しいんだ。親友と言える子も普通の友達と言える子もいない、病院の先生以外の人を先生と言ったことがないまま、私の小学校生活は終わった。
普通の高校生として学校に通えたらどれだけ幸せか。
友達を作って、お母さんが作ってくれる愛情たっぷりのお弁当を食べて、勉強を一生懸命頑張って、時には悔しいこともあったら、仲間が助けてくれる。部活の大会やコンクールに出場する緊張感を味わえる貴重な経験。
一年に一回、いや一生に一回しかないのに、私は何をしてるんだろう。
ほとんどの時間が、病院のベッドで何も考えずに過ごしている。みんなが学校に行っている時間は手術をする時だってある。痛い思いばかりしてる。
本当に羨ましいなぁといつも思う。景色を眺めるのが好きだから、ほとんど毎朝、いわゆる通勤時間帯は小学生や学生さんたちが学校に向かっているのを見つめている。
「羨ましいなぁ…」
「何が羨ましいの〜?」
「わっ!ちょっと中野先生、脅かさないでくださいよー!」
窓の外を見ながらポツリと呟いた、はずの独り言がまさか中野先生に聞かれていたとは…。
中野先生とは私が初めて入院した時から、お世話をしてくれている担当医的な人だ。優しくて、親しみやすくて、面白い。私からするとお母さんが仕事で毎日はお見舞いに来れないので二代目のお母さんみたいな人だ。
「体調は大分良くなったね。それで?何が羨ましいの?」
「そりゃー、学校に行けないことですよー!私が病弱なのが悪いけど、セイラー服、いや、今はブレザーも多いけど…それ来て学校に行って、友達と喋ったりお弁当食べたり、部活したり、一回でもいいから最高の青春を味わってみたいなぁって思って…憧れってやつでまぁ…私には一生無理ですよねぇ」
こんな日常しか送れない自分に悔しくなって、力無しに笑って見せた。高校生がこんなことで泣くのはおかしいから我慢して、無理して笑ったけど多分、引きつってたと思う。
そう、私には青春を味わうことができる日が来るなんて
「じゃあ琴葉ちゃんも院内学級に通ってみる?最近できたばっかりだけど」
「院内…学級」
「そう、院内学級。琴葉ちゃんの言ってる高校ならではの青春が味わえるかどうかは分かんないけど、ケガとか病気で、入院してる子のための学級で、琴葉ちゃんみたいに長期間入院して学校に通いたくても中々通えない子と学習が遅れて困っちゃうっ子を中心とした指導をしてくれる先生がいるの。琴葉ちゃんの場合は部屋に来て個別で教えてくれるかもね」
夢、見てるの?今のは聞き間違いじゃないよね?普通はお母さんや中野先生が学校から貰ってきたプリントを一緒に解いてくれたり、スマホに入れた学習アプリを使って勉強している。
最近できたのは知ってるけど、これ以上あまり迷惑をかけたくないから、言えずに言えていた…。
「行ってみたい…」
初めて本音を言った。初めてお願いをした。でもやっぱり怒られるかな、迷惑かな、高校は義務教育じゃないし勉強しなくてもいい。お金の無駄になるよね。私なんかが院内学級に行くなんて…。
「じゃあ、看護師長に言っとこうか。お母さんにも私から話しておくから、琴葉ちゃんは何も心配しなくていいからね」
「ありがとう、ございます」
「何かあったらすぐ呼んでね」
よかったのかな。やっぱりやめときますって言っとけばよかったかな。でも口が勝手に動いて、脳と心が勝手に思いを打ち明けようって言って。
…まだ間に合う、今なら動けるから中野先生を探しに…
——言いに行く必要なんてないよ。やりたいことはやりたいってちゃんと言わないとダメ。子供は、大人に少しぐらい迷惑かけていいんだよ。琴葉ちゃん
「誰!?誰かいるの?」
急に大声を上げてしまったせいで、咳き込んでしまう。あたりを見回すと同時に左手に持つ点滴スタンドがカラカラと音を立てる。点滴バッグに入った液体が左右にゆらゆら揺れる。
「何…誰がいるんでしょ…?」
嘘じゃない。今、誰かが喋った。これは聞き間違いなんかじゃない。勘違いじゃない。確かにはっきり聞こえた。でも病室は私一人しかいない個室。さっき中野先生が出て以来、誰も出入りしてない。ましてやこの病院にはベランダがない。
一体誰が…。
「もしかして…」
また私の記憶?あさひくんって子と私の会話の一部が思い出されたの?
覚えはないけど、言ってることは正しいと思う。何も間違ってないと思う。
「そうだよね、私はもう高校生だけど、まだ子供、少しぐらい迷惑かけてもいいよね。やりたいことはやりたいって言わないとダメだね…」
あの子が言ったことを信じて、体をくるっと半回転させた。そのままベッドに戻り、グッと背伸びしてもう一度布団に入る。
「…誰か分かんないけど、気づかせてくれてありがとう…」
——。
誰もいない、小さな病室に私の独り言が微かに響いた。
桜が優しく揺れながら、窓から暖かい春の光が差してくる。朝起きたばかりなのにもう眠たくなってしまう。もう一度寝てしまおうか。別に寝ても怒られないが、今日は特別な日。
「院内学級手続きの日、そう言えばお母さん泣いてたなぁ」
そう、号泣してた。お母さんには申し訳ないけど、面白いぐらい泣いてた。赤子の面倒を見てるんじゃないかと勘違いするぐらい。
ただ、私がわがままを言ってくれたことが嬉しくて泣いたらしいのだが。
「ちょっとびっくりしたなぁ…ってあれ?向こうの病棟、誰かいる。誰だろう」
桜が綺麗だったので、外を眺めていると、自分のいる病棟から十五〜二十メートルぐらい離れている向かいの病棟で、部屋も自分と同じぐらいの場所にあるところから、点滴スタンドを持った男の子がこちらを見つめていた。
「何か言ってる?聞こえないなぁ。一応ここ病院だし大声出すのも、他の患者さんに迷惑が…そうだ!」
脳内の豆電気がピカーんと光り、ピカーんと音が鳴った。私の口角とテンションもきゅっと上がる。
自分しか開けられない、からくり箱から小さなミッドナイトブルー色の鍵を取り出し、小棚を開ける。色んな文房具や暇つぶしグッズの中から大きめのスケッチブックと黒の油性マーカーを抱え、ベットテーブルに置いた。
「えーっと、なんて書こう…。まずは名前から聞くべき?いや、まずは何か書くものがあるか聞かないと、会話ができない」
大きく太く書いたメッセージを向かいの男の子に向かって見せた。
目を凝らして、じっくりとスケッチブックを見た男の子は、なんとなく私のしようとしたことを理解したのか、部屋の奥に消えていった。
男の子は案外早く戻ってきて、今度は私がさっきしたことを真似て、何か書いてくれている。
はじめまして、きみの名前は?
短い言葉だったけど、すごく嬉しさが込み上げてきた。初めて会う人と文字を、言葉を交わすってこんなに楽しいの?こんなに心がワクワクするの?
宮澤琴葉、みやざわことは
特に珍しい名前ではないから、読めるとは思うが、礼儀?としてふりがなをつけて、スケッチブックを男の子に見せる。
いい名前だね
この人はすごく優しい人だろう。私だったらもう一度名前を聞き返して終わりだろう。そもそも言葉を交わさなくても分かる、文字からしてもう優しい。
それに初めていい名前だと言われた。嬉しいし、なんだか照れ臭いって、喜んでる場合じゃない。相手を待たせてる。
あなたの名前は?
瀬川旭
旭、これはなんて読むの?
あさひだよ
うそ…。あの夢に出てきた子と一緒の名前。でもそんな偶然あるわけがない。ただ名前が一緒なだけであって苗字が一緒かどうかは分からない。夢に出てきたこの名前が瀬川ではなかった。あさひも漢字で二文字だった、ような…気がするだけかもしれない。
それにしても一瞬、心臓がドクンッと跳ねて、全身の血流れ星が一気に加速した。
どうして驚いてるの?
なんでもないよ
ほんとはなんでもなくなかったけど。この空気を壊しそうだったから聞くのはやめた。
旭君は何歳?
十六歳、高一だよ。琴葉ちゃんは?
私も一緒高一!歳は私の方が一つしただけど、旭君、大人っぽいから高三ぐらいかと思ったよー!同い年なんてびっくり!
同じ年齢の子が同じ病院に入院していることについつい興奮し、長ったらしいメッセージになってしまった。文字も小さく見にくいだろうと思い、書き直そうとしたとき。
双眼鏡を手にし、私の手に持つスケッチブックを眺める旭君の姿が懐かしいと思った。
この光景、見たことある。
これは勘違いではない。私の記憶に、細胞に、はっきり残ってる。今でも忘れられない。懐かしい、大切な思い出。
おーい、大丈夫?ボーッとしてない?
大丈夫!考え事してた!
余計な心配をかけてしまって申し訳ないと頭を上下をペコペコ下げると、納得するようにうんうんと頷きながら気にしないでと手を左右にふってくれる旭君。
色々ごめんね…
大丈夫。今から時間ある?
あるけど…どうしたの?
会おうよ、実際に。僕がそっち行くから
実際に…?
琴葉ちゃんが嫌なら、やめよう
会ってみたい!
じゃあ、琴葉ちゃんの病棟の屋上集合で
窓越しに見える旭君は、ニコッと笑顔を見せて、カーテンを閉めた。
「なんだか冒険が始まったみたい…」
突然起こった出来事に思わず笑みが溢れる。
私、景色を見るのが好きでよかった。あの時桜を眺めてよかった。旭君に気づいてよかった。
今日は色んなよかったを探せる。
ゆっくりゆっくり歩き始めて、自分の部屋から飛び出した。
これからも変わらないはずだった病院生活に、新しい扉が一つ開かれた気がする。
「ほら見て!あそこあそこ!お星様が光ってるよ!ピカピカしてキレイだねー!」
「ほんとだね。でも他の星はあんまり光ってないね、なんでだろう?」
「そうだね…。みんなピカピカ光ったほうがもっともーっと、お空がキレイになるのにね!でも、あのお星様はあさひくんみたい!」
「どうしてぼくみたいなの?」
「だって、あさひくんはいつもニコニコしてて、明るくて、琴葉を元気にしてくれるもん!だから、あのお星様ねそっくりだなぁって思ったの!」
「それなら琴葉ちゃんのほうがあのお星様みたいだとぼくは思うよ!」
「そうかなぁ?でもありがと!」
……なんで私の名前、知ってるんだろう。 ……この会話は何?私の記憶?
……あさひ、くん?誰だろう、私、聞いたことあるような気がする。どこかで会ったことがあるような気がする。でも分かんない、思い出せない。
お星様?私とあさひくんって子は、空を、星空を見てるの?でもなんで?
私そんなの知らない。記憶にない。これは何かの夢だ。
…でも、いつも車椅子に乗っていた子、息苦しそうだった子。なのにいつも笑顔で明るくて、大丈夫って強がってた子。その子があさひくんかは分かんない。
あぁ…思い出したいのに思い出せれない。
「ぼくは帰るから、またね」
「うん!琴葉、寂しがりやだから、ひとりにしないでね!ずっーと一緒!それと、また明日、絶対会おうね!約束だよ!」
そう、約束した。絶対って言ったのに、誰も来なかったのを覚えてる。一人薄暗い夜空の下、月明かりが私を照らすだけだった。夜風が吹きつけて、スリッパだった私の指先は冷たかった。
またねと何度も言う男の子の声が頭の中でリピートされる。優しくて温かくて、元気になる声。どこか懐かしい。
声は聞こえるのに顔にモヤがかかって見えない。
雑音が頭に響く、耳がキーンとする。
頭がズキズキしてきた。
痛い、痛い…。苦しい。
——。
誰かが私を呼んでる…?誰…?お母さん?中野先生?
——ね。—んね。
ごめんね。
第一話 春の光、開く扉
「琴葉ちゃん!大丈夫?」
「…のせん…い。中野、先生…」
「そうよ。珍しく琴葉ちゃんの病室からナースコールが鳴ったから、様子を見に来てみたら、声かけても反応しないし、それにうなされてたのよ。悪い夢でも見たの?」
「いや、そういうわけじゃ…」
私の部屋からナースコース…。私、ナースコールなんて鳴らしてない。枕元に置いてたから、間違えて押しちゃったかな。
ぐわんと乱れ、ボヤける視界。
熱があるのか、目がまわる。クラクラして、先生が二人いるように見える。耳鳴りが頭を割るように響く。またいつもの…。
「ハァハァ…くる、しい。気分わるい…」
「ほら、全然大丈夫じゃないじゃない!顔色が良くないし、熱っぽいわ。横になって、今他の先生呼んでくるから」
「すみません…迷惑ばっかりかけて…」
「それを言わないって約束したでしょ?仕方ないんだから、謝らないで」
「…先生」
「どうかしたの?何か欲しいのがあるなら持ってくるけど」
「さっき、私が、寝てる時、謝り、ましたか?」
「ん?何?」
「…やっぱり、なんでもないです」
私がそう言うと中野先生は「そう、何か不安なことがあるなら教えてね」と優しく微笑み、病室の扉を閉めた。
あの男の子の声、私の記憶の中にいたあさひくんって子に似てた。でも彼の声はどこか悲しそうで、泣きそうで、悔しそうな声だった。
何かを失ったた絶望感、何かを奪われた無念さ。そんなものが感じられた。
でもやっぱり
「気のせい、だよね…幻聴かも、しれないし…」
いつものやつのせいだ、そう思い込んで私は夜が明けるのを待つために、深い眠りについた。
春は好きだ。桜が満開に咲いて、春の景色を彩らせ、儚く散っても、桃色の絨毯が足元を輝かせるから。春の陽気が心地よくて、心が晴れやかになるから。ウグイスやスズメの歌声が愛おしいから。
でも春は嫌いだ。一年間、自分の役割を果たし、頑張った印の通知表が渡されるはずなのに、自分の分だけいつもないから。いつも出席数よりも、欠席数のほうが多いのに嫌気がさすから。自分だけ他の人と違う日常しか送れないから。
幼い頃から気管支喘息を患っている。普通の喘息との違いが分かんなかった私は薬を飲めばすぐに治ると思ってた。こんなのただの風邪か何かだと思った。なのに入退院を繰り返してばかり。治ったと思ったらまた発作が起きて入院。痛い治療も泣かないで、苦くて不味い薬も嫌がらずに飲んて、頑張ったのに治らなくて。
指に収まる数、一年に八回、学校に行けたら良い方。と言っても保健室登校。
結局、入学式も、運動会も遠足も、修学旅行も、何一つも参加できなかった。卒業証書だって…貰えても嬉しくなかった。まともに通えてないのに、勉強もできてないのに、終了しますって言われても何が嬉しいんだ。親友と言える子も普通の友達と言える子もいない、病院の先生以外の人を先生と言ったことがないまま、私の小学校生活は終わった。
普通の高校生として学校に通えたらどれだけ幸せか。
友達を作って、お母さんが作ってくれる愛情たっぷりのお弁当を食べて、勉強を一生懸命頑張って、時には悔しいこともあったら、仲間が助けてくれる。部活の大会やコンクールに出場する緊張感を味わえる貴重な経験。
一年に一回、いや一生に一回しかないのに、私は何をしてるんだろう。
ほとんどの時間が、病院のベッドで何も考えずに過ごしている。みんなが学校に行っている時間は手術をする時だってある。痛い思いばかりしてる。
本当に羨ましいなぁといつも思う。景色を眺めるのが好きだから、ほとんど毎朝、いわゆる通勤時間帯は小学生や学生さんたちが学校に向かっているのを見つめている。
「羨ましいなぁ…」
「何が羨ましいの〜?」
「わっ!ちょっと中野先生、脅かさないでくださいよー!」
窓の外を見ながらポツリと呟いた、はずの独り言がまさか中野先生に聞かれていたとは…。
中野先生とは私が初めて入院した時から、お世話をしてくれている担当医的な人だ。優しくて、親しみやすくて、面白い。私からするとお母さんが仕事で毎日はお見舞いに来れないので二代目のお母さんみたいな人だ。
「体調は大分良くなったね。それで?何が羨ましいの?」
「そりゃー、学校に行けないことですよー!私が病弱なのが悪いけど、セイラー服、いや、今はブレザーも多いけど…それ来て学校に行って、友達と喋ったりお弁当食べたり、部活したり、一回でもいいから最高の青春を味わってみたいなぁって思って…憧れってやつでまぁ…私には一生無理ですよねぇ」
こんな日常しか送れない自分に悔しくなって、力無しに笑って見せた。高校生がこんなことで泣くのはおかしいから我慢して、無理して笑ったけど多分、引きつってたと思う。
そう、私には青春を味わうことができる日が来るなんて
「じゃあ琴葉ちゃんも院内学級に通ってみる?最近できたばっかりだけど」
「院内…学級」
「そう、院内学級。琴葉ちゃんの言ってる高校ならではの青春が味わえるかどうかは分かんないけど、ケガとか病気で、入院してる子のための学級で、琴葉ちゃんみたいに長期間入院して学校に通いたくても中々通えない子と学習が遅れて困っちゃうっ子を中心とした指導をしてくれる先生がいるの。琴葉ちゃんの場合は部屋に来て個別で教えてくれるかもね」
夢、見てるの?今のは聞き間違いじゃないよね?普通はお母さんや中野先生が学校から貰ってきたプリントを一緒に解いてくれたり、スマホに入れた学習アプリを使って勉強している。
最近できたのは知ってるけど、これ以上あまり迷惑をかけたくないから、言えずに言えていた…。
「行ってみたい…」
初めて本音を言った。初めてお願いをした。でもやっぱり怒られるかな、迷惑かな、高校は義務教育じゃないし勉強しなくてもいい。お金の無駄になるよね。私なんかが院内学級に行くなんて…。
「じゃあ、看護師長に言っとこうか。お母さんにも私から話しておくから、琴葉ちゃんは何も心配しなくていいからね」
「ありがとう、ございます」
「何かあったらすぐ呼んでね」
よかったのかな。やっぱりやめときますって言っとけばよかったかな。でも口が勝手に動いて、脳と心が勝手に思いを打ち明けようって言って。
…まだ間に合う、今なら動けるから中野先生を探しに…
——言いに行く必要なんてないよ。やりたいことはやりたいってちゃんと言わないとダメ。子供は、大人に少しぐらい迷惑かけていいんだよ。琴葉ちゃん
「誰!?誰かいるの?」
急に大声を上げてしまったせいで、咳き込んでしまう。あたりを見回すと同時に左手に持つ点滴スタンドがカラカラと音を立てる。点滴バッグに入った液体が左右にゆらゆら揺れる。
「何…誰がいるんでしょ…?」
嘘じゃない。今、誰かが喋った。これは聞き間違いなんかじゃない。勘違いじゃない。確かにはっきり聞こえた。でも病室は私一人しかいない個室。さっき中野先生が出て以来、誰も出入りしてない。ましてやこの病院にはベランダがない。
一体誰が…。
「もしかして…」
また私の記憶?あさひくんって子と私の会話の一部が思い出されたの?
覚えはないけど、言ってることは正しいと思う。何も間違ってないと思う。
「そうだよね、私はもう高校生だけど、まだ子供、少しぐらい迷惑かけてもいいよね。やりたいことはやりたいって言わないとダメだね…」
あの子が言ったことを信じて、体をくるっと半回転させた。そのままベッドに戻り、グッと背伸びしてもう一度布団に入る。
「…誰か分かんないけど、気づかせてくれてありがとう…」
——。
誰もいない、小さな病室に私の独り言が微かに響いた。
桜が優しく揺れながら、窓から暖かい春の光が差してくる。朝起きたばかりなのにもう眠たくなってしまう。もう一度寝てしまおうか。別に寝ても怒られないが、今日は特別な日。
「院内学級手続きの日、そう言えばお母さん泣いてたなぁ」
そう、号泣してた。お母さんには申し訳ないけど、面白いぐらい泣いてた。赤子の面倒を見てるんじゃないかと勘違いするぐらい。
ただ、私がわがままを言ってくれたことが嬉しくて泣いたらしいのだが。
「ちょっとびっくりしたなぁ…ってあれ?向こうの病棟、誰かいる。誰だろう」
桜が綺麗だったので、外を眺めていると、自分のいる病棟から十五〜二十メートルぐらい離れている向かいの病棟で、部屋も自分と同じぐらいの場所にあるところから、点滴スタンドを持った男の子がこちらを見つめていた。
「何か言ってる?聞こえないなぁ。一応ここ病院だし大声出すのも、他の患者さんに迷惑が…そうだ!」
脳内の豆電気がピカーんと光り、ピカーんと音が鳴った。私の口角とテンションもきゅっと上がる。
自分しか開けられない、からくり箱から小さなミッドナイトブルー色の鍵を取り出し、小棚を開ける。色んな文房具や暇つぶしグッズの中から大きめのスケッチブックと黒の油性マーカーを抱え、ベットテーブルに置いた。
「えーっと、なんて書こう…。まずは名前から聞くべき?いや、まずは何か書くものがあるか聞かないと、会話ができない」
大きく太く書いたメッセージを向かいの男の子に向かって見せた。
目を凝らして、じっくりとスケッチブックを見た男の子は、なんとなく私のしようとしたことを理解したのか、部屋の奥に消えていった。
男の子は案外早く戻ってきて、今度は私がさっきしたことを真似て、何か書いてくれている。
はじめまして、きみの名前は?
短い言葉だったけど、すごく嬉しさが込み上げてきた。初めて会う人と文字を、言葉を交わすってこんなに楽しいの?こんなに心がワクワクするの?
宮澤琴葉、みやざわことは
特に珍しい名前ではないから、読めるとは思うが、礼儀?としてふりがなをつけて、スケッチブックを男の子に見せる。
いい名前だね
この人はすごく優しい人だろう。私だったらもう一度名前を聞き返して終わりだろう。そもそも言葉を交わさなくても分かる、文字からしてもう優しい。
それに初めていい名前だと言われた。嬉しいし、なんだか照れ臭いって、喜んでる場合じゃない。相手を待たせてる。
あなたの名前は?
瀬川旭
旭、これはなんて読むの?
あさひだよ
うそ…。あの夢に出てきた子と一緒の名前。でもそんな偶然あるわけがない。ただ名前が一緒なだけであって苗字が一緒かどうかは分からない。夢に出てきたこの名前が瀬川ではなかった。あさひも漢字で二文字だった、ような…気がするだけかもしれない。
それにしても一瞬、心臓がドクンッと跳ねて、全身の血流れ星が一気に加速した。
どうして驚いてるの?
なんでもないよ
ほんとはなんでもなくなかったけど。この空気を壊しそうだったから聞くのはやめた。
旭君は何歳?
十六歳、高一だよ。琴葉ちゃんは?
私も一緒高一!歳は私の方が一つしただけど、旭君、大人っぽいから高三ぐらいかと思ったよー!同い年なんてびっくり!
同じ年齢の子が同じ病院に入院していることについつい興奮し、長ったらしいメッセージになってしまった。文字も小さく見にくいだろうと思い、書き直そうとしたとき。
双眼鏡を手にし、私の手に持つスケッチブックを眺める旭君の姿が懐かしいと思った。
この光景、見たことある。
これは勘違いではない。私の記憶に、細胞に、はっきり残ってる。今でも忘れられない。懐かしい、大切な思い出。
おーい、大丈夫?ボーッとしてない?
大丈夫!考え事してた!
余計な心配をかけてしまって申し訳ないと頭を上下をペコペコ下げると、納得するようにうんうんと頷きながら気にしないでと手を左右にふってくれる旭君。
色々ごめんね…
大丈夫。今から時間ある?
あるけど…どうしたの?
会おうよ、実際に。僕がそっち行くから
実際に…?
琴葉ちゃんが嫌なら、やめよう
会ってみたい!
じゃあ、琴葉ちゃんの病棟の屋上集合で
窓越しに見える旭君は、ニコッと笑顔を見せて、カーテンを閉めた。
「なんだか冒険が始まったみたい…」
突然起こった出来事に思わず笑みが溢れる。
私、景色を見るのが好きでよかった。あの時桜を眺めてよかった。旭君に気づいてよかった。
今日は色んなよかったを探せる。
ゆっくりゆっくり歩き始めて、自分の部屋から飛び出した。
これからも変わらないはずだった病院生活に、新しい扉が一つ開かれた気がする。



