「あー、マジで何やってんの?」

その呆れ声に私が僅かに目を開ければ、夜だったはずの空はほんの少しだけ明るい。

(ああ、また寝てたのか)

(あや)、聞いてんの?」

「聞いてない」

「聞こえてんじゃん。玄関先で寝んな」

健斗(けんと)に関係ないじゃん」

昨日の夜は金曜ということもあり、馴染みの店でたらふく飲んだ。

ここ数ヶ月は特に自称社畜を堂々と名乗れるほどにひたすら働き、金曜の夜は本当に何も考えたくなくて、辛うじて家に帰る体力と理性だけを残してとにかく飲んでいる。

「ほら。掴まって」

「てか、健斗がなんでこんな時間にいるの?」

酒がだいぶ残ってても、健斗のことを考えられる余地を残している脳みそに心底嫌気がさしてくる。

「んー、彼女が風邪引いてたから看病してた」

「最後まで看病しなよ。まだ夜じゃん」

「彩も寝るなら家で寝ろ。こんな寒いのに」

健斗が当たり前のように自分の着ているコートを脱ぐと私にかけた。

健斗と私は同じ屋根の下に住んでいるが、血は繋がっていない。10年前、私の父と健斗の母が再婚してから血の繋がらない姉弟になったから。

2個下で、まだ中学3年生だった健斗を初めて見た時の第一印象は、色白で綺麗な顔をした女の子みたいだなって思ったのを酔いの醒めない(もや)のかかった頭で思い出す。

「さっきの話。なんで?」

優衣(ゆい)が俺に移したらいけないからって……式も近いし」

「……飲みすぎてんのに、またお腹ふくれた」

「そりゃどうも」

優衣さんとは先々月の顔合わせで初めて会った。
小柄で笑顔が印象的な可愛い子だった。

背が高く、いたって平凡な顔をした私とは正反対。つまり私は健斗にとって全くタイプじゃないってことだ。

私はとりあえず重たい上半身をなんとか起こす。

「彼女には私の酒癖のこと黙っててよ」

「ばーか。言えるかよ」

健斗が呆れながらも僅かに口角を上げる。

それは私の言葉に笑ったのではなくて、きっと彼女のことを思い出したから。

健斗は優衣さんと結婚する。健斗が好きなのは優衣さん。わかっているのに私のコンプレックスのひとつである小さな胸はズキンと痛む。

(あーあ。いいかげんにしたい) 

もう健斗のことなんて1ミリも考えたくなんてないのに。ふわふわと想いも考えもまとまらないのに頭の中は真っ白にならない。いっそ雪みたいに真っ白になって溶けてしまえばラクなのに。

いつからだろう。

振り返れば、私の今まで生きていた時間の中で健斗のことを考えてる時間は多かった。考えても仕方ないのに。想っても叶わないのに。

終わりにしたい。恋の始まりは見つけられるのに恋の終わりはどうやって皆、見つけてるんだろうか。

健斗が玄関扉を開けてから私の脇を抱えるようにして立ち上がらせる。私は健斗に迷惑かけられないと足を踏ん張るが、思った以上に動かなくて健斗に体を預けるので精一杯だ。

「おもっ」

「うっさい」

いつもならダウンライトがついている家の中は真っ暗だ。

「暗……」

「母さんたち、旅行行ってるから」

「え? そうだっけ?」

「結婚10周年旅行って言ってたじゃん。てか酔っ払いに話しても無駄だな」

「聞いてますけど」

「そ。LINE見てないと思うけど、明後日お土産買って帰ってくるってさ」

(じゃあいま健斗と二人きりなんだ)

そんなことがふと頭に浮かぶ。

別に嬉しいとも思わないけど勿論嫌じゃない。
でも虚しい。苦しい。
隣にいるのに手が届かない。
手を伸ばしちゃいけない。

年頃の男女が部屋に二人きり。そして女は酔い潰れていて長年の想いを告白する。そして二人は気持ちを確かめ合い結ばれる。
そんなの漫画かドラマの話。

「もうすぐ俺も家出んだし、酒やめたら?」

「無理。飲まなきゃやってらんない」

「マジで姉貴は酒癖どうにかしないと、いき遅れるよ?」

「関係ないでしょ」

現実はこんなもんだ。健斗は私を彩と呼んだり姉貴と呼んだりするが健斗にとってそれに意味はない。

健斗にとって私は姉。

そして私にとって健斗は弟。
それでいい。それが一番いい。

星の数ほどいる男の中でどうして私は健斗に恋したんだろう。

健斗が2階への階段を登り切ると半開きだった私の部屋の扉を足で開ける。  

「はい、彩の部屋着いた」

健斗が私をベッドに寝かせるとベッド脇に私の鞄を置く。そして慣れた手つきで私のスマホを操作する。ロックの解除は私の誕生日。

「明日何時に起きる?」

「13時」

「寝過ぎ。11時にセットしとく。昼飯作るから」

「じゃあ聞かないでよ」

いつだって酒に酔った私を介抱してくれるのは健斗だ。でも一度もお礼は言えてない。

どうして素直にありがとうって、あの子みたいに可愛く笑って言えないかな。

私の口から出てくるのは見た目同様、あの子とは正反対のトゲトゲした言葉だらけだ。


(あーあ。ほんと健斗いなくなったらどうしよう)

「え?」

驚いた健斗の表情を見て、私の酔いも一気に冷めてくる。

(いま……もしかして口に出てた?)

健斗が真面目な顔をして私のベッドに腰掛ける。

「あのさー……」

なんとなく聞く勇気のない言葉を想像して心臓が駆け足になる。

「いま彩、だいぶ酔ってるよね?」

「……あー、うん。もし……らしくないコト言ってても明日には忘れてるから」

「だろうね……じゃあ俺もらしくないコト言っとこうかな」

健斗は長い足を組むと唇を湿らせた。
健斗が話を始めるときにするクセで、形のいい唇が僅かに濡れる様がいつからか色っぽいと思うようになった。

「俺さ、彩が姉貴になってくれて良かったなって思ってる……」

「うん……」

一つ屋根の下で男女が二人きり……さっき頭に描いたシチュエーションが不意に蘇ってきて私は変な汗までかいてくる。


「この10年……彩がいたから救われた部分大きかったなって。いつもくだらない話で笑わせてくれたり、死んだ父親の話も彩だから話せた」

私の両親は母親の浮気から離婚になったのだが、健斗のところは違う。

健斗の実の父親は病気で、健斗が5歳の頃に亡くなったのだ。

だから再婚当初、健斗はあまり笑わない頑なな印象で、そんな健斗の笑った顔がみたくて私は暇さえあれば健斗に話しかけた。

くだらない話やちょっとクスッと笑えるような、そんな記憶に残らない、どうでもいい話が多かったように思うけど。

「いっつも話しかけてくれて嬉しかったよ。俺はすごく」

「ふうん」

「死んだ父さんのこと話せたの彩だけだったし、和哉(かずや)さんのことなかなか父親って思えなくて父さんって呼べなくて……悩んでたとき、別に名前呼びでいいじゃんって言ってくれて、なんかほっとしたし……姉貴っていいなって」

健斗がそんな風に思ってくれていたことに嬉しくて胸がいっぱいになる。これからも姉として健斗の心の中にいられるならそれで十分だ。

「って聞いてます?」

「うん……そっかそっか」

もっとまともな返事がしたいのに、心の大切な部分を見られたくなくて、見透かされそうで健斗とろくに目も合わせられない自分がやっばり大キライだ。


「ま。彩にとっては暇つぶしだったのかもだけどな」

「……まあね」

いま思えば、初めて会った時から健斗のもつ内面的な何かに惹かれていたのかもしれないし、その綺麗な顔に一目惚れしていたのかもしれない。
またはただ単に世話焼きな性分の私に弟ができたことが嬉しかっただけだったのかもしれない。

今となってはどこからどうとか曖昧でわからなくて、ただわかるのは私が健斗が好きな気持ちだけ。

ただ好き。
どうしようもなく。
理由もなく。

心がただ求めてしまう。
その心を望んでしまう。 

一人きりの夜には決まって恋しいと泣いて駄々をこねたくなる。


「彩には……幸せになって欲しいって心から願ってる」

「…………」

それは無理な話でしょ。

だって私は当分この10年分の想いを抱えたまま、これからも健斗の姉貴として振る舞っていかなきゃいけないから。でも──。

「……ありがとう」

私はようやく言葉にできた5文字に、なんだかほっとして、目の奥が熱くなる。

「はい、これ使って」

「え?」

私はいつのまにか自身の頬に伝っていた涙に気づく。

「……ごめ、ほんと飲み過ぎだよね」

「まぁ、そんな《《姉貴》》も好きだけどね」

ほんと狡いなぁ。好きっていうなら、そこは彩だろ、なんて思いながらも健斗の優しさに胸が痛くなる。

──好きだよ。健斗が誰よりも。

今なら言えるかな。でも言えば雪のように溶けてしまう。何もかもがなくなってしまう。

雪のような恋は溶けて涙に変わってしまう。

だから好きだけど、きっと誰よりも健斗がキライ。

だってこれからも一生、私の中からいなくなったりしないから。 

私にこれからも姉という枷を負わせ続けるから。 

「なんかごめん。彩寝たいのに話すぎた、ゆっくり休んで」

「うん……」


私が健斗の言う通りにベッドに潜り布団を肩までかけるのを見ながら、健斗がベッドから立ち上がる。

そして部屋の扉の前で健斗が私の方に振り返った。

「最後に……一個言い忘れたけどさ。来世はもう彩が姉貴じゃなくてもいいわ」

「どういう意味?」

「……そのまんまの意味」

「どうせ酔って手のかかる姉ですよ」

「そーゆうこと」

健斗がケラケラ笑うと背を向けて部屋をあとにした。

そして静寂が訪れたひとりきりの部屋の中に、カーテンの隙間から夜明けの光が一筋入ってくる。

「あ……」

私は手に握りしめたままのハンカチをみて小さく声を上げた。

もういまから随分前に『健斗が誰からもバレンタイン貰えなかったら可哀想だから』と私が勝手に理由付けして市販のチョコと一緒に渡した、ブルーのハンカチだ。

ハンカチには私が三日徹夜した雪だるまの刺繍がついている。

「……下手くそなのに……まだ使ってんじゃん……」

あの頃は上手くできたと思っていたが、輪郭があやふやな歪な雪だるまがにっこり笑っている。

家族と恋の境界線がわからなくなってから、ただ健斗の笑った顔が見たくて一生懸命だった。

すぐに溶けて消えてしまう雪のように、叶うことがない恋心を大事に抱えて佇む雪だるまは、まるで私みたいだ。

それでもこの恋を私はこれからもずっと手放せないんだろう。

いつか新しい恋を見つけても、その度にこの恋を振り返る。この恋を忘れられない。


雪のように儚く、触れたら消えるこの初恋を。





2025.1.17 遊野煌

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