田原先生には小指がない。
左手の小指、第二関節から先が完全に失われていて、不自然に盛り上がっている。
「このクラスの担任になります、田原和久です。教科は数学です。
この指は大学生のときに事故で失いました」
春のやわらかな陽気が差し込む四月。
先生は始業式のあと、まるで天気の話をするかのように説明した。
はじめは少しざわついたけれど、二学期になる頃には田原先生の失われた小指は日常の風景の一部となっていた。
「まずtanθの定義を思い出してみましょう。対辺分の隣辺が……」
田原先生はいつものように物腰やわらかな口調で教科書を読み上げる。
「せんせーねむいですー!」
一番前の席に座ったムードメイカーの山口君が手をあげて申告すると、クラス中からくすくす笑い声があがった。
田原先生は強く叱ることがないからこんな風に生徒からからかわれる。案の定先生は「困りましたねぇ」と怒ることなく苦笑した。
「あと少しですから頑張ってください」
「はぁい」
「ほら、楽しい答え合わせですよ。
点と点が繋がる瞬間が一番楽しいですからね」
「ここは38ページの公式を使って、」と先生は言葉を続けていく。
私の席は教室の後ろの扉の一番近く。視線を気にせず、こっそりとスマホを取り出すには絶好の場所だった。
机の影でスマホを見て、SNSを開く。
「雨やばい…><」
4832いいね。
昨晩あげた投稿は今朝より500近く「いいね」が増えている。
唇に人差し指をあてて甘えたようなポーズと、通販で買った肩だしニット。胸のラインが強調できる服をわざわざ選んだ甲斐があった。
数字が今この瞬間にも増えていて、心臓が小さく跳ねた。
スクロールをすると「かわいい」「天使」「すき」と好意的なリプライが並んでいた。快感の震えが背中に走り、思わず口角が上がる。
現実の教室では誰も話しかけない私に、こんなにも熱い視線が注がれている。
「佐藤さん」
ぎくりと慌ててスマホの画面を消す。振り向いたそこには田原先生が立っていた。
「感心しないなぁ。授業中にスマホなんて」
「あ、す、すみません。祖母の調子が悪くて、母からの連絡がないか、気になっちゃって」
「不安なのは分かりますが、授業中ですからね」
たしなめるような口調に私は頷いて、スマホを机の奥深くにしまいこんだ。
田原先生は授業を再開し、教壇の方へと向かっていく。私は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、背筋をぴんと伸ばした。
クラスの中での佐藤麗華は良い子じゃないといけない。
目立たないけど、できる子。
先生たちからの信頼も厚い、いい子。
あぁでも今この瞬間、新しいリプライがついているかもしれない。そう思うと早く授業が終わって欲しかった。
授業が終わって、塾へ行って、晩ご飯を食べて、ようやく待ちに待った一人の時間がやってくる。今日は父が仕事で遅くなり、母は具合が悪くてもう眠ってしまった。
チャンスがやってきたと私は浴槽へと向かう。
お湯が抜かれた浴槽に座りながら、SNSのタイムラインを見つめた。
レイ@裏アカJK
@rayray__xxx
画面の中の私は、学校にいる私と違う。フォロワー2万人。DMは既読すらつけきれないほど溜まっている。「かわいい」「天使」「癒し」そんな言葉が私を埋め尽くす。学校での私なんて、ただのカモフラージュだ。
浴槽に座り、パジャマ姿でわずかに唇を開いて、ぼんやりした表情を作る。髪は少しだけ乱して、でも可愛く見えるように計算して。上からスマホを構えて、谷間をつくるようにぐっと腕を寄せる。
「うまく撮れた!」
厚めの唇も、くっきりとした谷間のラインも、画面に完璧に収まっている。
お風呂場から出て、部屋に戻り、ベッドに寝転びながら加工アプリを開く。
肌を白く、顔の輪郭をスリムに、全てを理想通りに仕上げていく。
もう夜も更けて、時計は既に12時を回っている。
でもSNSの反応を見たり、写真を撮ったり、加工をしたりするのが楽しくて仕方がない。
「今日も学校つかれた~お風呂はいろ♡」
渾身の一枚を載せて眠りにつく。
明日の朝に届いているであろう大量の反応にドキドキしながら。
朝六時に目覚ましが鳴る。
寝不足でまぶたは重かったけど、昨日投稿した写真を思い出してすぐに目が覚めた。
スマホを手に取ってSNSを開けば、夜中に来た通知が100件を超えていた。
「今日もえろい!」
「マジで癒やし」
「一緒に入りたい♡」
知らない誰かからの愛情表現が、画面の中で踊っている。
良い気分でスクロールしていたのに、一つのリプライで手が止まった。
「承認欲求強すぎてキモすぎ。世も末だな」
頭の中にカッと熱が走る。真っ先にブロックする。
(良い気分だったのに!)
さっきみたリプライを記憶から振り払うようにして、どんどんスクロールしていく。嫌なリプライもあったけど、大半は私への好意的な反応だ。
支度を始める前に、まずは「朝活」の投稿。
「おはよう また学校か〜」
投稿する。数秒で「いいね」が付き始める。スクロールで更新を何度か繰り返し、数字が増えていく様子をニマニマと見つめる。
画像がついてないから反応は微妙だろうけど、私と少しでも話したいフォロワーが必死になっているところを想像すると良い気分だった。
スマホを置いて鏡の前で制服に着替える。
スカートは膝下。黒縁メガネをかけて、黒髪を三つ編みにする。
どっからどう見ても優等生な佐藤麗華のできあがりだ。
「麗華、おはよう」
リビングへ向かうと母の声が聞こえた。
食卓に向かうと、父はコーヒーを飲みながら新聞を読み、母は忙しなく朝食の支度をしていた。家族が集まるこの空間が息苦しい。
「今日はテストの結果が返ってくるのよね?」
母の口調は優しいけど、どこか圧を感じる。心配いらない。学年順位は下がっていないはずだ。
「うん、頑張ったから大丈夫」
そう答えながら、スマホを確認する。昨日の投稿には既に4000いいねがついていた。
家を出発して、電車に乗り、学校へ向かう。駅から学校まで早足で歩いて、下駄箱で上履きに履き替える。「おはよー」とあちこちから聞こえる挨拶を聞きながら、2-1の教室へと向かう。
扉をあけると、数人のクラスメイトがこちらを見たけど、すぐにふいっと支線を逸らした。
別にいじめらているわけではない。ただ私に興味がないだけだ。
私もそれを分かっているので、気配を消して一番後ろの椅子に座り、参考書を開いた。
近くに座るギャルグループの話し声が波のように押し寄せてくる。
「『ネオパニ』がやっと地下からあがってきたんだよ!」
「それってすごいん?」
「すごいってもんじゃないよ! 地下アイドルで終わる子なんていっぱいいるんだから!」
きゃんきゃんと神経質な犬のように騒いでいる。
うるさいなぁと思いながら私は参考書の文字を追いかける。
「地下アイドルなんて病んでる子ばっかだし!」
「あ、なんか前に見た! ファンに粘着されて自殺しちゃった子いたよね!」
勉強の集中ができなくて、さらに体がうずうずとしてきた。たまらずスマホを取り出す。
SNSを開けば、昨日の投稿は5000いいねまで伸びていた。やった!と口角があがる。
そのとき後ろの扉が勢いよく開いたので、びくっと体が跳ねた。
授業中はこの席が好きだけど、休憩時間はどうも落ち着かない。
私はスマホを持ってトイレへと駆け込んだ。
一番奥の個室に駆け込み、ドアをロックする。ここなら誰にも邪魔されない。誰にも見られない。現実の「佐藤麗華」から解放される、束の間の逃げ場所。
スマホの画面には、知らない誰かからの温かい言葉が並んでいる。教室では決して向けられることのない、熱のこもった反応の数々。私はその言葉を、渇いた砂漠で水を求めるように貪るように読み続けた。
(教室ではあまり見ないようにしないと)
(レイのアカウントは一度バレそうになったんだから)
私がレイとしてアカウントを作ったのは高一のはじめだった。
地味で、帰りも塾へ行く私に友達なんかできなくて、母親も口うるさくて、鬱々としていたとき、「SNSの闇」とテレビで放映されているのを見たのだ。
そのうちの一つが「裏アカ女子」だった。
女の子がえっちな写真を載せ、男性が交流を求めてリプライやDMを送る。
すごい世界だと思った。自分には関係ないと思った。
「SNSの反応ばかり気にしちゃ駄目ですよね。
リアルの人間関係をもっと大切にしないといけないなって思います」
私と同い年くらいのタレントが特集に対してコメントを残す。
黒く大きな目と白い肌、鼻も高くて、唇はつやつやしている。華奢で清楚で、とてもかわいらしい女の子。最近、芸能活動を続けながら有名大学に合格したことがニュースになっていた。
塾が終わり、母親からの小言が終わった夜9時30分。
冷め切ったご飯を前に、一人でそのコメントを聞いていた。
気づけば私は、アカウントを開設していた。
露出多めな写真を載せたのがよかったのか、反応はどんどん大きくなっていった。
「かわいい」「すき」画面の向こう側の誰かが、私の存在を認めてくれる。いいねと反応を示してくれる。
毎日毎日、写真を撮って、加工して、投稿して、反応もらって、喜んで、不安になって、幸せで、また投稿して。
現実よりよっぽど『生きてる』感じがした。
しかし一度、自撮りした写真の後ろに、鏡が置いてあったのを気づかずに投稿してしまった。
そこには学校のスカートが映り込んでいて、すぐさまリプライで飛んできた。
慌てて投稿を消したけど「陽南高校?」と、私が通う高校名がリプライで来ていたのにはぞっとした。それからは自分だとバレてしまったのではと気が気じゃなくて、アカウントを見れない日々が続いていた。
しかし一ヶ月経っても周りに変化はなかった。
クラスメイトの話を盗み聞きしても「レイ」の名前なんて出ていなかったし、私に向かって「レイですか?」と尋ねてくる人もいなかった。
当たり前だと気づく。
私が載せているのは胸や足で、顔は載せていない。載せても輪郭や唇くらいだ。しかも面影がないくらい加工している。
スカートが鏡に映ってしまったのは不覚だったけど、それ以外の投稿ではそんなヘマはしていない。
アカウントを消すことも考えた。
しかし私は一万人のフォロワーを捨てることはできなかった。
そしてアカウントを再開し、今ではフォロワーは二万人までにのぼっている。
スマホの時計を見てはっとする。気づけば朝会がはじまる2分前までに迫っていた。
慌ててトイレを飛び出て、席に座ったと同時にチャイムが鳴った。田原先生が挨拶と共に朝会をはじめる。
「明日は三者面談がありますので──」
筆箱についた青い月のキーホルダーをいじりながら、先生の言葉にどんよりと気持ちが重くなる。
成績は申し分ないし特に何も言われないだろう。
問題は「交友関係」とか日頃の生活を言われたときの場合だ。
余計なこと言わなきゃいいけどと思いながら、田原先生の欠けた小指をじっと見つめていた。
学校が終わって塾の帰り、私はコンビニに立ち寄る。
そしてアイスコーナーである商品を探していた。
(あ、あった!)
「パンダアイス」という棒アイスだ。バニラにチョコチップが入ったアイスで、おいしいとSNSで話題になっていたのだ。
ただ私は食べたいから買ったわけではない。
このアイスを咥えてエロい写真を自撮りしたいから買ったのだ。
(最近は反応が鈍いし……)
高一のときと比べて反応はだんだん鈍くなっている。
昔は写真をアップすれば5000いいねなんて軽く超えたのに、今では露出がないと超えることがない。同じようにJKで露出しているアカウントでは10000いいねをもらっている人だっているのに。
フォロワーは2万人いるはずなのに、どうして全員いいねをつけてくれないのだろうと憤りを感じながら、アイスを持ってレジまで歩いて行く。
そのとき思いがけない人物に声をかけられた。
「佐藤さん」
「た……田原、先生」
「こんな時間まで塾ですか?」
「は、はい」
「えらいですね」
目を細めてにっこりと笑う。
先生が手に持っているのはコンビニ弁当。
左手にはもちろん小指がなくて、当たり前なのだがコンビニで見ると何だか変な感じがした。
「あぁそのアイス、今流行ってますよね」
「そ、そうなんですか? パンダが好きだから買ってみたんですけど」
あくまで流行りなど追っていないアピールをしておく。
すると先生は「そうですか」と相づちをうった。
はやくこの場から去りたかった私は頭を軽く下げて、先生の脇を通り抜ける。
「帰り道、気をつけて」と言う田原先生の言葉が、何故だかとてもイライラした。
(コンビニで会うなんて……!!)
家に帰って夕ご飯を食べた後、私はベッドに寝転びながら歯ぎしりしそうになった。
コンビニで先生に会ったことがイライラして仕方がない。何であんな場所にいるのと怒りをぶつけたくなる。
このあとはアイスを咥えて自撮りをする予定だったのに、水を差された気分だ。
(どうしよう、今日はやめる?)
先生にパンダアイスを買っているところを見られている。
レイのアカウントに載せたらバレてしまうかもしれない。
そこまで考えて、SNSの検索欄で「パンダアイス」と入力して調べてみる。
すると次々と購入報告が出てきた。
「パンダアイス買った!超おいしい!!」
「マジでパンダアイスうまい♡」
「パンダアイスの濃厚なバニラとチョコチップの軽い食感が癖になる」
投稿日時を見れば一分に何十件も投稿されている。
なんだと脱力する。
これほど買われているのだ。レイが投稿したところで私だと特定されるわけがない。
ほっと安心し、駆け足で部屋を出て、冷凍庫からアイスを取り出した。
リビングにいた母が「アイス? こんな時間に?」と聞いてきたので、うんざりとしながら答える。
「うん、ちょっと勉強したら小腹すいちゃって」
そう言ったら母は「あらそう」とスマホのパズルゲームに目を落とした。かわいいキャラクターが大集合している癒やし系のパズルゲームを、母は5年ほどやっている。
私には勉強しろというくせに、母が何か勉強しているところを私は一度も見たことがなかった。
アイスを手に部屋に戻って、私は袋を破いた。
そして白い壁の前で座って、アイスを咥え、スマホを斜めに構える。
溶けちゃう前に撮らなければいけないので枚数は限られている。3個くらい買えばよかったと少し後悔したが、なんとか満足いく写真がとれた。
「これは反応もらえそう!」
加工した写真を見て、私は口角をあげる。
アイスを頬張り、鎖骨や谷間も見えた中々エロい写真が撮れた。
気分が高揚するのを感じながら加工アプリを開く。
「パンダアイス♡すっごくおいしい♡♡」
男性が反応したくなるような文面を書き、加工した写真を投稿して、私はベッドに潜り込んだ。
「やった……! もう5000超えてる……!!」
次の日、私はスマホを見て大喜びしていた。
夜中に投稿して反応が5000を超えるのは初めてだ。リプライの数も段違いだ。
これなら初めての10000いいねも叶うかもしれない。
胸が躍るのを感じながらリビングへ向かうと、いつもと同じ朝だった。
父はぶすっとした顔で新聞を読んでいて、母は相変わらず忙しなく朝ご飯を運んでいた。私は椅子に座り、「いただきます」と手を合わせた。
「麗華、今日は三者面談よね?」
「うん」
「楽しみだわ、なんて言われるのかしら」
母は誇らしげな声で言う。
300人以上いる学年で、私の順位は一桁台だ。そりゃ褒められるに決まっているだろう。
だけど頑張ったのは私であって母ではない。なぜそんな自慢げなのか理解ができない。
父は私なんかに興味がないのか新聞をじっと見つめている。
相変わらず息が詰まる朝食だったが、今朝見た反応の多さを考えると少しだけ気持ちが楽になった。
*
「麗華さんはトップクラスの成績です」
放課後、2-1の教室で母は満足そうに頷いた。
いつもよりめかしこんだ服装と、鮮やかなリップ。お出かけする友達もいないし、気合いいれておしゃれしたんだろうなと内心冷ややかな気持ちになる。
今日は十組の親御さんと三者面談をするらしい。
トップバッターだったら時間を理由に切り上げることができるが、残念ながら最後の組だった。出席番号順でもないし、どんな順番で決めたのだろうとため息をつきそうになった。
私が不安に思っていた交友関係の話も出ず、始終穏やかな雰囲気で終わった。
母は久々に家族以外の人と話すのが嬉しいのか、世間話をだらだらと話している。今すぐにでも切り上げたかったが、あとでネチネチ言われるのが嫌で、気配を消して時間が過ぎるのを待つことにした。
田原先生は腕時計に目を落として言った。
「あ、そろそろ時間ですね」
「あら、すみません。私ばかりペラペラと」
「いえいえ」
やっと終わるとほっと胸をなで下ろしたのも束の間、田原先生が「あ」と思い出したように言った。
「麗華さんだけ残っていただいてもよろしいですか?」
「何か麗華が……?」
「いえいえ、こないだのテストの答えについて聞きたいことがありまして」
何のことだろうかと私は眉根を寄せたが、田原先生は穏やかな顔を崩さない。
母は「まぁそうですか」と言って、私に尋ねた。
「麗華、どうする? お母さん待ってようか?」
「いいよ、今日も塾だし」
「そう?」
母は頷いて、もう一度先生に会釈をして教室を出て行った。先生と二人きりになる。
窓の外は夕日で真っ赤に染まっていて、何だか不吉な予感がした。
先生は口を開く。
「お祖母様、一年前に亡くなっているそうですね」
「?」
「あぁ、前にスマホを注意したときに『祖母が心配で』と言っていたものですから」
嘘がバレたと言葉が出なくなるが、なんとか平静を装う。
母と先生の会話をほとんど聞いていなかったので、祖母の話が出たことに全く気づいていなかった。
ただ祖母の話が嘘だと分かって何が問題なのだろうと先生を睨みつける。しかし先生は穏やかな笑みを浮かべるだけだった。
「SNSは楽しいですか?」
「……何のことですか」
「このアカウント、あなたのものですよね?」
先生が差し出したスマホに映っていたのは紛れもない「レイ」のアカウントだった。
ひゅっと息が詰まる。誤魔化さなくてはと頭の中では分かっているのに、言葉が石のように固まって出てこない。
「その反応を見ると本当みたいですね」
スマホを引き寄せ、何の感情ものせずに田原先生は言った。
私はうつむいて、ドッドッと鳴る心臓を感じながら尋ねた。
自分でも戸惑ってしまうくらい声が震えた。
「な、なにか、私、という、証拠が?」
「……きっかけは一年前の投稿でした。
このアカウントの正体が学校の生徒ではないか?と少し噂になったんです」
「陽南高校じゃない?」というリプライを思い出す。
だがあのスカートだけで私だと判別するのは不可能だ。この高校には500人近くの女子生徒がいるのだから。
「まぁ他の画像からは個人を特定できず、そのときは『様子見』と教員の中でも意見が一致しました。でも私はずっと追っていたんですよ」
ぞわりとした。何のためにという言葉と、どうやってという言葉が頭の中で混ざり合う。
投稿する前には個人が特定されるものが写ってないか、入念にチェックした。少しでも不安材料があれば加工で消していたはずだ。バレることなんてないはず。
先生は私の問いに答えるように説明をしはじめた。
「たとえば二週間前に載せたこの画像ですが」
先生は再びスマホを差し出す。
「雨やばい…><」と書かれた投稿だ。
羞恥が一気に襲ってきて吐きそうになった。
「この日は局地的なゲリラ豪雨が起きた日でした。投稿日時と豪雨が起きた時間から、アカウントの人が北区か板橋区に住んでいるところまで絞り込めました」
悲鳴をあげそうになる。
「次に」と先生は授業をしているときの口調で続ける。
「佐藤さん、『BLUE MooN』というバンドが好きですね?」
「な、なぜそれを」
尋ねれば、先生は私の筆箱のキーホルダーをとんとんと指したのではっとする。
青い月のキーホルダー。これは私の大好きなバンド「BLUE MooN」の結成20周年を記念して販売されたキーホルダーだ。
「レイのフォローリストを見ると『BLUE MooN』のメンバー全員をフォローしている。最新アルバムの発売日には、『届いた!』って投稿してましたよね」
その通りだとぞっとする。
「BLUE MooN」は20年も続くバンドだ。ファンだって山のようにいる。
アルバムの購入報告をしたところでバレないと思っていたのに。
「あとは……」と言葉を続けたので、まだあるのかと顔が青ざめる。
「今日も学校つかれた~誰か一緒にお風呂はいろ♡」
差し出されたスマホの写真。私が頑張ってつくった谷間が映っている。
写真が撮れたときはすごく嬉しかったのに、今はこの世で一番グロい写真に見えた。
「この浴槽の形と佐藤さんが住んでいるマンションの浴槽が一致していました」
「浴槽の形なんて、分かるはずが」
「分かりますよ、簡単に。マンションの口コミを見たら写真を載せている人もいますから。他にも12個ほどありますが聞きますか?」
絶句する。
ここまで証拠が揃ってしまえば言い逃れなどできない。
「内申点」やら「不祥事」やら色んな言葉が頭の中で回っていく。
アカウントがバレたことが恥ずかしくて、悔しくて、今すぐにでも消えてしまいたくなる。
すると先生はふっと笑みをこぼした。
「佐藤さん」
「はい」
「私の小指がなくなった本当の理由をお話ししましょう」
突然何を言い出すのだろうと思ったが、レイの話から離れて欲しい一心で私は頷いた。
先生は右手で失われた小指を指さしながら言った。
「実はね、切り落としたんです。自分で」
とんでもない事実を告白されて愕然とする。
先生は一度頷いてから、過去を話し始めた。
「昔、好きだった地下アイドルグループがいて、追っかけみたいなことをしていたんです。そこの星野みなみちゃんというアイドルが好きで好きで。
知っていますか?」
切り落とした小指の話からアイドルの話へと切り替わったせいで頭がついていけない。
とりあえず名前に関しては聞いたことがなかったので首を振った。
「そうですか」と先生は言葉を続ける。
「星野みなみちゃんが出るステージは全通して、チェキも全部買って、あとはスパチャも何万円も投げて。みなみちゃんからも認知されてたんです。
メンタルは弱いところがあったけど、何事にも頑張り屋さんで、見ているだけで応援したくなる子でした」
「はぁ……」
私は間抜けな相づちを返した。
「そんなある日、みなみちゃんの裏アカを見つけたんです。鍵アカでしたが」
「鍵アカだったら本人かなんて……」
「いえ、確実にみなみちゃんでした。
アカウント名はみなみちゃんの飼い猫の名前、idも『minami』をもじったもの、idだけで検索をかけたらみなみちゃんに関連する単語がたくさん拾えたので」
まるで数学の公式を教えるような口調で言う。
「みなみちゃんの熱烈なファンである僕はどうしてもそのアカウントを見たくなりました。佐藤さんならどうしますか?」
「どうするって、まずフォローリクエストを……」
「許可しますか? 見ず知らずのアカウントを?」
尋ねられて私は一瞬だけ逡巡し、首を横に振った。「そうでしょう」と先生は頷いて、とんでもないことを言った。
「だから僕はまず猫を買いました」
「ね、猫を……?」
「えぇ、かわいいですよ。ほら」
差し出されたスマホにはお腹を撫でられて満足そうな黒ぶちの白猫が映っている。
撫でている手の小指は欠けていて、田原先生の手だと分かった。
「『まめふく』って名前なんだけど、この子の画像をね、一日に何枚もあげたんです。毎日、毎日ね。ちょっとずつフォロワーも増えてきて、『かわいい』なんて言葉ももらって、そこそこ人気のアカウントになりました。
そしてアカウントの信頼を得たあとに、みなみちゃんの公式アカウントにいいねを押してみました。すると次の日、まめふくの写真にみなみちゃんからのいいねがついた。
それから何日も何日もいいねの応酬が続いて、ついにリプライを送り合う仲にまでなった」
「……」
「機が熟したと思いました。
それから数日後、みなみちゃんの裏アカにフォローリクエストを送ってみたところ……許可してくれたんです」
背中に嫌な汗が流れるのが分かった。
好きなアイドルの裏アカウントを見るためだけに猫を飼う先生の思考が全く理解できなかった。
「幸せの絶頂は許可されたそのときでした。
そのあと僕は地獄に突き落とされました」
「地獄?」
「その裏アカウントにはみなみちゃんと──彼氏との写真がたくさん載っていたんです」
先生は左手を机の上でぎゅっと握りしめた。
「許せなかったですね。僕が頑張って働いたお金で、自分は恋人と楽しくやっているのが。『彼氏なんていないよ』と握手会では何回も言っていたし、チェキを撮ったあとに『また来てね、絶対だよ』と小指を差し出してくれてたのに……憎くて憎くて復讐したくなった」
「ふ、復讐、したんですか」
この先生ならやりかねないと思って尋ねれば、先生は首を横に振った。
「復讐なんてしていないですよ。ただ僕はアカウントを一つ作って、写真を載せただけです」
「写真?」
「えぇ、裏アカからみなみちゃんがいる現在地は特定できましたからね。彼女がいる場所の何気ない風景を載せるアカウントを作ったんです」
「……」
「みなみちゃんのファンが集まる掲示板で、そのアカウントは噂になっていきました。アカウントを元にみなみちゃんの元へ押しかけるファンもいたみたいですね。
彼女も異変に気づいて裏アカを消してしまいましたが、そのあとも彼女の住居や実家周辺の景色を載せ続けました」
さらりと告白する田原先生にぞわりと全身の鳥肌がたった。
夕日はもう沈んでいて、廊下からは人の声など聞こえない。今すぐ逃げ出したいのに根が張ったように動かない。
「そして追いつめられたみなみちゃんは──自殺してしまった」
先日聞いたクラスメイトの話を思い出す。
「ファンに粘着されて自殺しちゃった子いたよね!」と語るクラスメイトの話を。
「小さなネットニュースに書かれたみなみちゃんの自殺の文章を見ながら、『あぁもう彼女とは約束できないんだ』と悟りました。
私は左手の小指を切り落とし、みなみちゃんへの供花に忍ばせました。彼女と約束できないなら、もう不要なものですから」
私は想像する。
家のキッチンでまな板の上に左手をのせて、まるで魚の頭を落とすように包丁を振り落とす先生の姿を。
「私のアカウントには非難の声が集まりましたが、私はただ風景の写真を載せていただけ。罪を問うにはあまりにも証拠がなかった」
「……」
「以上が、私が小指を失った理由です」
何も音が聞こえなかった。
下校時間のチャイムはとうに鳴り終わっていた。
生徒の声も外を走る車の音も何も聞こえない。自分の心臓の音だけが強く主張を続けていた。
私は震える声で問う。
「そ、その話をしたのは、なぜですか。このアカウントをやめさせるためですか?」
「ん? いえ、別にアカウントはやめなくても結構ですよ。
佐藤さんがやっていたことは褒められることではないかもしれませんが、別に犯罪行為というわけではないですから」
「じゃあ、なんで」
「小指の告白をしたのは、罪滅ぼしみたいなものです。
アカウントを特定されたのは気分がいいものではなかったでしょうから」
「そんなことで……!」
私はカッと頭に血が上るのが分かった。
先生の言う通り、レイのアカウントは今日消すしかない。私だとバレてしまったのだから。
(二年も写真を載せていたのに)
(私の唯一の場所だったのに)
(せめて「こんな危ないことをするのはやめなさい」と注意してくれれば、私も気持ちの落とし所がつけられたのに!)
怒りが体の中で渦巻いて、行き場所を失って、気持ち悪くなって小さくえずいた。やるせない気持ちで私は尋ねる。声には涙が滲んだ。
「じゃあ何で私のアカウントの話なんかしたんですか。放っておいてくれたらよかったのに!」
「そんなの決まっているでしょう」
田原先生はきょとんとして答えた。
授業のときと全く同じ、穏やかな口調だった。
「ただの答え合わせですよ」
私は愕然と田原先生の顔と欠けた小指を見た。
脳裏に浮かんだのは、山口君に言った言葉だった。
「ほら、楽しい答え合わせですよ。
点と点が繋がる瞬間が一番楽しいですからね」


