頷いたみーくんは、風太の手を取った。それだけでも胸は忙しく音を鳴らすし、きゅうっと熱い感覚が体中へと走る。
 少し急ぎ足のみーくんに連れられるままに、自分の教室へと入る。クラスメイトたちはすでに全員帰ったか、部活に行ったようだ。

「ふーちゃんの席どこ?」
「窓側の前から3番目」
「じゃあ座って」
「うん」

 自分の席に座ると、みーくんは黒板の前に立った。風太をじっくりと見つめ、その次は教室の後ろに立つ。

「ふーちゃんは前見てて。後ろ姿見たい」
「後ろ姿? いいけど……みーくんなにしてるの?」
「んー? ふーちゃんはここでいつも勉強したり、昼飯食べたりしてるんだなあって。想像してる」
「えー、なんかハズい……」

 後ろ姿に満足したのか、みーくんは風太の元へと戻ってきた。隣に立ち、再び風太の手を取る。ああ、まただ。握られている手がドキドキして、甘く鼓動を打っている。

「ふーちゃん、急に来て無理言ったのに、ここまで連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして。楽しかった?」
「うん。だって俺……」
「…………? みーくん?」
「ねえふーちゃん。宿題、覚えてる?」
「宿題……うん、覚えてるよ」

 みーくんがその場にしゃがんだ。こっちを向いてと言うように、制服をつまんで引かれる。風太は促されるまま、体を横向きにする。

「答え分かった? 俺もう結構ヒント言ってるつもりだけど」
「えっと……」

 みーくんに出された宿題のことは、ずっと頭の中にあった。みーくんはなぜ、たった15歳で実家を出るという大きな決断をしてまで、神奈川の高校を受験したのか。もしかして、と導いた答えはあるにはある。けれどそれは、あまりに自惚れている気がして口にできなかった。自分を追いかけてきたんじゃないか、だなんて。

「分かんない」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「ふーちゃんが想像してるのできっと合ってるよ」
「いや、でも」
「お願い、ふーちゃんに言ってほしい」

 いつの間にか繋ぐ手は両手になっていて、みーくんは懇願するように風太の膝に額を当てた。ああ、なんだかもう、自分の感情はどうでもよくなってきた。いや、恥ずかしいことに変わりはないけれど、それよりもみーくんのお願いにただただ応えたい。
 風太はずるずると椅子から下りる。ここにはふたりしかいないけれど、もっと近くにいきたかった。みーくんの顔がすごく近い。顔がさらに火照ってくる。

「ふーちゃん?」
「これ言うの、自惚れてるみたいですごく恥ずかしいんだけど」
「うん」
「違ったら違ったで、もっと恥ずかしいんだけど」
「うん」
「みーくんが神奈川にひとりで出てきたのは、オレ、が、いるから?」

 心臓が耳元にあるみたいだ。うるさいくらい速い自分の心音が聞こえる。みーくんの顔を見ていられなくて、視線を床に逃がす。けれどみーくんはそれを許してくれなかった。

「ふーちゃん、こっち向いて」
「うう、無理」
「お願い」
「っ、オレみーくんのお願いに弱いんだってえ」

 おずおずと視線だけを上げる。そこにはみーくんの、微笑む顔があった。まるで心が滲み出たかのような、淡い赤に染まった嬉しそうな頬。ああ、やっぱり好きだな。つい先ほど、赤くなった自分のことを誰にも見せたくない、と言ったみーくんの気持ちがよく分かる。

「ふーちゃん、大正解。はなまるだね」
「はなまる?」
「小さい頃、俺を褒める時にふーちゃんがよく言ってくれてたヤツ」
「確かにそんなこと言ってたっけ」
「うん。ねえふーちゃん、俺、ふーちゃんを追いかけて神奈川に来た。ふーちゃんが引っ越した時から、こうするって決めてたんだ」
「引っ越した時って、みーくんまだ幼稚園生だったのに?」
「そうだよ」

 みーくんの真剣な瞳が、まっすぐに風太へと注がれる。

「みーくん……」

 風太の目に、じわりと涙が浮かび始める。だって、よく分かる。引っ越した経験が風太にもあるからこそ、それがどれだけの勇気がいることだったか。友だちとは離ればなれ、慣れない土地でまた1から全てを築き上げなくてはならない。風太は親の転勤で不可抗力だったけれど、みーくんは自らそれを選んだ。風太のことをただただ追いかけて。並大抵の決意ではできることじゃない。

「親に聞いてもふーちゃんがどこの高校かは分からなくて、当てずっぽうで選ぶしかなかった。入学してすぐ、学校中探したよ。でもふーちゃんはどこにもいなかった。間違ったんだなって落ちこんだけど、それからは色んな駅に行った。学校は違ったけど、ふーちゃんは絶対にこの神奈川にいるんだから、もう一回出逢えるはずだって。諦めるつもりはさらさらなかった」
「そんなに、オレのこと……」
「うん、好きだよ。大好き。ずっと、ふーちゃんだけ」
「……っ」

 ゆっくりと、額同士が重なった。みーくんがそっと頭を揺らすから、ふたりの前髪が混ざり合う。

「今日はふーちゃんと同じ学校の生徒になれたみたいで、マジで最高」
「……うん」
「ここにいると、同級生にもなれたみたいでテンション上がる。ふーちゃんの隣で勉強したり、一緒に弁当食ったりすんの」
「うん、いいね」
「ねえ、ふーちゃん。さっき、俺はふーちゃんのって言ったの、本心だよ」
「みーくん……」
「俺の恋心も、憧れとか尊敬とかそういうのも全部、ふーちゃんのものだよ。だから、俺自身のことも、ふーちゃんのものにしてほしい」
「オレの、みーくん?」
「うん。ふーちゃんの彼氏になりたい。それ以外、俺なんにもいらないんだ」

 窓から日差しが入ってきて、みーくんを照らし始める。雨が上がったのだろうか。光に包まれるみーくんは、すごく綺麗で。ああ、なにを躊躇っていたんだろう。失恋の傷なんて、先輩の尖った言葉なんてもうどうでもいい。心に置いておくなら、みーくんの笑顔や体温や、甘い香りがする言葉がいい。
 膜を張っていた涙がついに溢れ、けれどそれが頬に落ちる前にみーくんの指がさらっていく。どうしたの、と慌てているやわらかな心を、自分こそが包んであげたい。みーくんを好きだからだ。

「ねえみーくん。オレも、みーくんの……彼氏になりたい」
「っ、ふーちゃん……」

 目を見開いているみーくんの頬に、そっと両手を添える。大胆なことをしているなあと自分で思うけれど、触れずにはいられなかった。

「好きだよ、大好き」
「うわあ……はは、やば」

 風太の肩に額を擦りつけて、みーくんがぎゅっと抱きついてくる。
 それを受け止めるこの腕はもう、幼なじみとしてでも、慰めてくれる人へのお礼でもない。恋人としての抱擁なのだと思うと、なんだか叫びだしたくなる。くすぐったくて離れたいような、二度と離れたくないような不思議な心地だ。

「俺、何回フラれても絶対諦めるつもりなかった」
「うん」
「ふーちゃんを誰にも渡したくないって思ってた。絶対に好きになってもらうって、ずっとそれしか考えてなかった」
「うん」
「マジで俺の彼氏? ふーちゃんが? はは、やっと叶った。すげー嬉しい」
「みーくん」
「んー?」

 抱きしめる腕を少し解いて見つめ合う。みーくんの瞳がキラキラと輝いている。

「こんなところまで追いかけてきてくれてありがとう。ひとりで不安だったよね」
「ふーちゃん……」
「好きになってくれてありがとう。あの日あの駅で見つけてくれて、寄り添ってくれて……あーもう、なんか全部! みーくんの全部が、ここにいてくれることが嬉しい。ありがとう」

 いよいよ鼻をすすったみーくんが、またぎゅっと抱きついてきた。

「ふーちゃんのせいで泣けてきちゃった」
「オレも。おそろいだね」
「じゃあいいか」
「うん、嬉し涙だし」
「だね」

 泣きながら笑って、見つめ合ってはまた抱きしめて囁きあう。ずっとこうしていたいけれど、そろそろこの時間もお開きにしなければならない。

「そろそろ帰ろっか」
「う……もうちょっとおまけしてよ、時枝センパイ」
「オレ、みーくんにセンパイって呼ばれんの結構好きなんだよね」
「マジ? じゃあ……時枝センパイお願い、もうちょっとここにいよ?」
「ちょっ! だからー、みーくんのお願いは駄目だってばあ!」
「はは、ふーちゃん可愛い」

 同じ高校の生徒に、本当になれたわけではないけれど。やっぱり手放してしまうのが惜しくて、ふたりでそんな風にじゃれ合った。


 体育倉庫へ急いでみーくんの着替えを済ませ、学校の外へと出た。止んだ雨が太陽の光を反射する道を歩く。口の中には、みーくんがくれたりんご味の飴が甘酸っぱく転がっている。

「あ、みーくん待って。ピアスつけたい」
「え。もしかして毎日してくれてんの?」
「うん。朝学校に着くまでもしてるし、外出たらすぐする」
「マジか。ねえふーちゃん、俺につけさせて」

 ピアスが入っているケースを、ニヤけた顔をするみーくんに手渡す。言われるがままにそうしたけれど、みーくんに触れられるのは、あの日と今日では意味が違う。さっきあんなにくっついていたのに、妙に緊張してしまう。

「よし、できた」
「ありがとう。はは、なんか照れるね」
「照れる?」
「うん。その、彼氏になったみーくんにつけてもらうのは、これが初めてだし。オレの耳、もっとみーくんのものになったって感じする」
「っ、ちょ、ふーちゃん……」
「え?」
「キュン死しそう」

 顔を覆う大きな手の隙間から、みーくんの赤い顔が見える。可愛い、すごく。まじまじと眺めていると、みーくんはひとつ咳払いをした。

「ねえふーちゃん」
「ん?」

 風太の名前を呼んで、ピアスのケースを振ってみせる。

「これ、俺まだつけらんないかな」
「うーん、もうちょっと待ったほうがいいと思う」
「そっか。俺の耳も早くふーちゃんのものにしてほしいのに」

 心底がっかりしたというように、みーくんは肩を落とす。本当に好きでいてくれているのだと、みーくんの一挙手一投足が教えてくれる。それを見ていると、風太の胸に切ない感情が積もり始めた。

「ふーちゃん? どうした? なんかしんどそう」
「んー……オレの初恋も、みーくんにだったらよかったなって。はは、そんなこと言ってもしょうがないんだけどね」

 こればっかりはどうにもならない。傷ばかりで終わったものでも、確かに自分は恋をしていた。みーくんのそばにずっといられたら違ったのだろうか。

「ねえふーちゃん、こっち見て」
「ん?」

 ここは外で、風太の学校の人もたまに通り過ぎていくのに。そんなことはどうでもよさそうに、みーくんは風太の手を取った。とは言え風太も、この手を離す気にはなれない。

「俺も本当は、ふーちゃんの初恋になりたかった。中学上がる時に出てきてたら違ったかなとか、すげー考えた。でも……さっきさ、俺自身もふーちゃんのものにしてって言ったじゃん?」
「うん」
「だから、俺の初恋はふーちゃんにとっても初恋だよ」
「え?」
「俺の片想いは、ふーちゃんにしか叶えられなかった。だから、俺の初恋はふたりのものじゃない? はは、こじつけすぎる? だったら……」

 みーくんは腰をかがめて、風太の耳元に口を近づけてきた。みーくんの吐息がかかって、風太は思わずみーくんのシャツにしがみつく。

「俺をふーちゃんの最後の恋にしてよ。俺、それがいちばん欲しい。もう絶対に、離さないから」

 そう言ったみーくんは、風太の耳に光るピアスを唇で挟んだ。

「んっ」

 風太の肩がぴくんと跳ねる。胸の鼓動は今まででいちばん速い、倒れてしまいそうだ。

「ふーちゃん、大好き」

 ピアスをくわえたまま、みーくんはそう言う。

「……っ」

 あんなに可愛かった幼なじみは、とんでもないイケメンになって風太の前に現れた。深い傷は見えなくなるほどその愛情で包まれ、ふーちゃんのものにして、なんて言って全てを風太に差し出してしまう。ああ、心の容量では足りないくらいの想いが注がれたら、涙になるらしい。

「みーくん、こっち」
「ん?」

 鼻をすすり、みーくんのシャツをくんと引いて、風太はかかとを上げる。

「オレだって、全部あげるよ。もちろん、最後の恋も。みーくん、大好き」

 ささやいて、みーくんの頬にそっとくちづける。
 これから何度だっていくらだって、みーくんにこの想いを伝えたい。自分がもらっているように、みーくんの心も満たしたい。それこそ、溢れるくらい。

「は!? ふーちゃん!? ちょ、うわー」
「嫌だった?」
「ううん、最高だった」

 みーくんの顔がまた真っ赤に染まった。勇気を振り絞った頬へのキスは、伝える一歩を踏み出せたようだ。