みーくんに好きだと言われた。俺のことで頭をいっぱいにして、悩んでほしいと言われた。横浜に出かけたあの日からまさに、風太は四六時中みーくんのことを考えている。横浜では先輩に出くわして、酷いことだって言われたのに。
「あー、風太まーたニヤけてる」
「えっ!」
「やらしいことでも考えてんだろー!」
「なっ、違うし!」
「どうだかなー。最近ずっとじゃん」
「それな」
「だから違うってばあ!」
学校の友人たちからは、毎日こんな調子でからかわれている。やらしいことではないが、ニヤけていることは否定できない。
顔が熱いのを感じながら、弁当を食べる昼休み。スマートフォンがメッセージの着信を報せる。みーくんからだ。さっそくアプリを開く。
<今日も放課後遅くまでかかりそう。ふーちゃんにずっと会えてなくてしんどい>
ああ、やばい。どう頑張っても唇がむにゅむにゅと緩んでしまう。風太は箸を置き、両手で顔を覆った。
みーくんの学校はもうすぐ体育祭で、仲のいい友だちに懇願され実行委員会に入ったそうだ。引っ越してきたばかりのみーくんに、それくらい仲のいい人がいて嬉しいけれど。毎日忙しそうにしていて、あの横浜の日から一度も会えていない。その分、メッセージのやり取りは増えた。毎日おはようから始まって、おやすみまで何往復もする。会いたい、寂しいと毎日伝えてくれる。おやすみのメッセージには、必ず“好き”と書いてある。好意を隠さなくなったみーくんの言動は甘い、とびっきり。
みーくんをきっと好きなんだろうな、と思う。風太だってたくさん会いたいし、ずっと胸は甘酸っぱいし、顔はニヤけるし。じゃあなぜまだ、オレも好きだよと言えないでいるのか。そこに思考が至るといつも、『やっぱりなんか違ったかも』と先輩の声がリフレインする。みーくんのおかげで、もう吹っ切れて元気になれたのに。みーくんを疑う気持ちはひとつもないのに。フラれた日の記憶は、しぶとく疼くらしかった。
緩んでいたはずの顔がいつの間にか強張っていたことに気づいて、小さく頭を振る。
<オレもみーくんに会いたいよ。準備頑張ってね!>
返信して、“頑張れ!”と書いてあるスタンプも添えて。バッグから小さなケースを取り出す。入っているのは一対のピアスだ。学校では外しているみーくんにもらった風太のものと、預かっているみーくんのもの。窓から射しこむ陽の光が赤い石に反射して、無意識に指が伸びるのはみーくんに上書きされたピアスホール。ああ、早くみーくんに会いたい。
6月のとある日。今日は朝から雨が降っていて、午後になっても窓には雨粒がたれている。あさってはみーくんの高校の体育祭本番の日で、予報は晴れになっているけれど。この時期はどうしても、急に天気が崩れることもあるから心配だ。てるてる坊主でも作ってみようかな。そんなことを考えていたら、6限目の数学の授業中、ポケットに入れているスマートフォンが震えた。先生の目を盗みこっそり確認すれば、みーくんからのメッセージが届いていた。
<今そっちに向かってる>
「えっ!」
「ん? どうした時枝」
まずい、授業中なのに大きな声を出してしまった。黒板に向かっていた先生が、怪訝そうにこちらを振り返る。
「あ、いえ! えーっと、難しいところが分かったのでつい声が出ました」
「そうか。それは次のテストが楽しみだな」
「あー、はは、そっすね」
周りの友人たちも笑っているが、どうにか切り抜けられた、のだろうか。肝が冷えたが、先生はすぐにまた板書を始めたのでほっとする。同じ失敗はしないように、と決心しながら、もう一度メッセージを確認して返信する。
<どういうこと?>
<今日5限だった。体育祭の準備も室内でできることはもう全部終わったからなし>
<マジか。会えるってこと?>
<そう。めっちゃ嬉しい>
そのメッセージの後に、キャラクターがはしゃいでいるスタンプが送られてきた。
胸がきゅうと痛むような、甘い疼きが風太を襲う。自分に会えることを、こんなに喜んでくれている。気をつけないと、今度はうめき声が出てしまいそうだ。
<終わったらいつもの駅まで行くよ>
<大丈夫、ふーちゃんは学校にいて>
そわそわと落ち着かないまま、6限目を終えた。帰りのホームルーム中にはもうほとんど椅子から腰が浮いていて、先生が「じゃあまた明日」と言い切るより先に走り出した。
「どしたん風太ー」
「ちょっと用事ー!」
友人の声に、背中を向けたまま返す。一秒でも早くみーくんに会いたい。
靴を履いて外に飛び出て、そうだった、雨が降っているのだったと傘を取りに引き返して、校門までを走り抜ける。
「っ、みーくん!」
そこには本当に、みーくんが立っていた。名前を呼んだら、大きな傘から綺麗な瞳が覗く。
「ふーちゃん」
風太の名前を呼んだみーくんは、少し息を吸って力が抜けたように微笑んだ。それからほんの数メートルの距離を駆けてくる。
「久しぶり。すげー会いたかった」
「みーくん……」
水たまりを踏んだのだろう靴先と、スラックスの裾が濡れている。連日遅くまで学校に残って、くたくたになっていたのを知っている。こんなところまで来なくてもこっちから行ったのにとか、早く帰って今日くらい休んだらとか、言いたいことはたくさんあるけれど。風太の胸だって会えた喜びにいっぱいで、
「オレも……オレもみーくんに会いたかった」
なんて言葉が溢れてきた。正直なところ、半べそだ。
「あ……急いで出てきちゃったから、バッグとか全部教室だ。今持ってくる」
「ふーちゃん」
「ん?」
急いで校舎へ引き返そうとした風太の手を、みーくんが引き止める。
「俺も一緒に行っていい?」
「え? 中に? いや、絶対怒られるよ」
「うん。でもふーちゃんと、学校の中歩いてみたい」
「みーくん……」
みーくんの瞳があまりに真剣に光っていて、風太は拒むことができない。しばらく考えて、風太の手を握っているみーくんの手をもう片手できゅっと握った。
「ちょっと待っててくれる?」
一旦教室に戻り、ジャージを持ってきた。外にある体育倉庫が開いていたので、ふたりでそこに駆けこむ。
他校の制服だとすぐにバレてしまうだろうけれど、指定のジャージを着ていればごまかせると考えた。雨で濡れてしまったから着替えた、とでも言えばいい。もしも気づかれたら、その時はその時だ。みーくんの願いを叶えたい。
「どう? 着替えられた?」
「うん、見て。どう?」
風太は背を向けていたが、みーくんの言葉に振り返る。
「おお、なんか良い!」
「ここの生徒っぽい?」
「ぽい! サイズは平気?」
「ちょっとちっちゃいけど平気」
「みーくんデカくなったもんなあ。昔はちっちゃくて可愛かったのに、いつ追い越されたんだろ」
会えずにいた数年が、みーくんの成長に表れている。寂しくも思うけれど、気を取り直す。小学校すら一緒に通えなかった。同じ学校の生徒になれるなんて、こんなチャンスはきっと二度とない。
「よし、じゃあどこ行きたい?」
「ふーちゃんの教室」
「分かった。大丈夫だと思うけど、みーくんはオレの後ろ歩いてね。ちょっと俯きがちで!」
「はーい、時枝センパイ」
昇降口まで、ふたりでひとつの傘に入って走る。ちょうど帰るところの友人がいたので、
「なあ、ちょっと上履き貸してくんない?」
と声をかけた。
「上履きを? 別にいいけど、どした?」
「あー……コイツ後輩なんだけど、さっき自分の汚しちゃったらしくて」
「へえ。明日までに乾くといいな。ほら」
「サンキュ! 今度ジュース奢る!」
「すみません、あざす」
みーくんが小さく会釈をすると、気にすんなと言って友人はみーくんの肩をポンと叩いていった。気のいい友人で助かった。
それじゃあと、風太の教室を目指す。2年の教室は3階にある。昇降口そばの階段を上がればすぐなのだが、廊下の先から教師が歩いてきた。
「ん? 時枝、お前……」
「は、はい!」
風太の担任だ。先生は風太を目に止めて、一歩後ろにいるみーくんにも視線を走らせた。その表情が、訝しげに歪む。まさか、みーくんがこの学校の生徒じゃないと気づかれてしまったのだろうか。思わず緊張が走り、背筋が伸びる。
「さっき俺の挨拶終わる前に走って出てったのに、まだ残ってたのか」
「あ、あー、はい。はは、えっと、バッグとかまだ全部教室に置いてて」
「忘れてったのか?」
「そんな感じっす」
「慌てすぎだろ」
「あはは、本当ですよね」
「今度こそ忘れずにな。雨降ってるし、慌てると転ぶかもしれないから気をつけるんだぞ」
「はーい」
先生はそう言って、もう一度みーくんを見た後に職員室のほうへ歩いていった。
この高校には何百人も生徒がいるが、全員を覚えていたりするのだろうか。とりあえず、なにも聞かれずに済んで助かった。
「バレたかと思ってびびったー……」
「俺も。だいぶ緊張した」
「だよね」
みーくんと小声で安堵を共有する。悪いことをすすんでしたいわけじゃないけれど、みーくんとちょっといけない秘密を共有するのは、なんだか浮かれてしまう。顔を見合わせたらなんだかおかしくなって、笑い合うのがくすぐったい。
「あれ、風太さっき帰ったんじゃなかった?」
「ちょっと忘れ物ー!」
「時枝ちょうどよかった! 今日の夜オンゲーやれる?」
「んー、できそうだったら連絡する!」
3階へと階段を上がる間、風太は何人もに声をかけられた。クラスメイト、昨年同じクラスだった友人、友人を介して知り合った人など。人と話すのも遊ぶのも大好きだけれど、今だけはみーくんとのまたとない時間を満喫したい。もうすぐ教室に到着する。階段を上がるという些細なことでも、一歩一歩が貴重な瞬間だ。
「ねえみーくん、やっぱり後ろじゃなくて隣で歩こう?」
もう先生に出くわすこともないだろう。せっかくだから一緒に歩きたい。そう考えてみーくんの腕に手をかけ、隣に並んだ時だった。
「あ、時枝がイケメン連れてるー」
「マジだ」
「え?」
上から降りてきた、クラスメイトの女子ふたりに声をかけられた。第一声からみーくんに言及されたのは初めてだ。
「何組の人?」
「あー……えっと、みーくんは一年だよ」
「一年かあ。どうりで見たことないと思った」
「ここまでのイケメン、一回でも見たら普通忘れないもんね」
「てかなに、時枝みーくんて呼んでんだ? かわいいー」
「めっちゃ仲良しじゃん」
「あ、うん。仲良し、かも」
ふたりの会話はリズミカルで、いつもそのテンポに乗せられてしまう。けれど仲が良いと言われるのには照れてしまって、ドギマギとした返事をしてしまった。
「ねえねえ、みーくんなにか部活やってる?」
「えっ……」
「…………? 時枝どしたー?」
一瞬、なにが起きたのか分からなかった。けれど、目の前のクラスメイトが「みーくん」と呼んだのだと理解した瞬間、目がくらむような感覚がした。
みーくんと呼ぶのはオレだけがいい。はっきりとそんな感情が胸を渦巻いている。
身勝手な願望だと分かっている。そんなことを言ったら、彼女たちと険悪な仲になってしまうかもしれない。だけどどうしても譲りたくない。風太は勇気を振り絞って口を開く。
「あ、あのさ! その、みーくんのこと……」
けれどそこまで言った時、みーくんが一歩前へと出た。
「俺は一ノ瀬深尋っていいます。みーくんって呼ぶの、もう絶対にやめてください。俺のことそう呼んでいいの、ふーちゃんだけなんで」
「みーくん……」
みーくんは鋭い目つきで彼女たちを見据えていた。自分の言いたいことを言ってくれた、その横顔に風太は思わず見惚れたが。ふたりの反応が恐ろしくなる。みーくんがふたりに会うのはこれっきりかもしれないけれど、みーくんが悪く思われるのは嫌だ。
自分だってみーくんを守りたい、風太ももう一歩前に出たのだが。
「えっ! なになに!? 時枝のこと、ふーちゃんって呼んでんの!?」
「めっちゃ可愛いじゃん!」
ふたりから想像とは随分と違う、テンションの高い声が上がった。みーくんはと言えば、眉間をぐっと寄せて険しい顔になっている。
「おい、ふーちゃんって呼ぶのマジでやめろ」
もはや敬語も消え去ってしまった。
「うんうん、分かってるってさすがに。ね?」
「もちろーん。お互いだけがいいってことでしょ、そう呼び合うのが」
けれどみーくんの態度に、ふたりはなんの文句もないようだ。むしろ頷きながら、好意的な反応を返している。
「そうっす。俺はふーちゃんのなんで」
「っ、みーくん!?」
「え、なにそれどういう意味? めっちゃ気になるんだけど」
「呼び方の話? それとも一ノ瀬くん自身の話? どうなん時枝」
ふたりの視線が勢いよく風太へと向けられる。するとみーくんは、風太を守るかのように腕を出す。
「俺はなに聞かれてもいいっすけど、ふーちゃんを困らせるのはやめてください」
「うわー……なんか胸キュンしちゃった」
「分かる。なんだろ、このそっと見守っておきたい感じ」
「時枝、大事にしなよ。こんなに慕ってくれる子、なかなかいないよ」
「……ん、そうだね」
「はは、真っ赤じゃん。言われなくても分かってるって感じか」
それじゃあ末永く仲良くね、なんて言いながらふたりは階段を下りていった。風太は顔を上げられない。まだまだ赤みが引いてない自覚があるからだ。
「ふーちゃん」
「うう、待って……」
「待ってあげたいけど、その顔他の人に見せたくない」
「そんなひどい顔してる?」
「違う、可愛い顔」
「可愛い!?」
「そう、めっちゃ可愛い。独り占めしたいから早く行こ」
「もー、もっと赤くなんじゃん……」
「はは。ねえふーちゃん、教室は右? 左? 何組?」
「……3組。左です」
「了解」
「わっ」
「あー、風太まーたニヤけてる」
「えっ!」
「やらしいことでも考えてんだろー!」
「なっ、違うし!」
「どうだかなー。最近ずっとじゃん」
「それな」
「だから違うってばあ!」
学校の友人たちからは、毎日こんな調子でからかわれている。やらしいことではないが、ニヤけていることは否定できない。
顔が熱いのを感じながら、弁当を食べる昼休み。スマートフォンがメッセージの着信を報せる。みーくんからだ。さっそくアプリを開く。
<今日も放課後遅くまでかかりそう。ふーちゃんにずっと会えてなくてしんどい>
ああ、やばい。どう頑張っても唇がむにゅむにゅと緩んでしまう。風太は箸を置き、両手で顔を覆った。
みーくんの学校はもうすぐ体育祭で、仲のいい友だちに懇願され実行委員会に入ったそうだ。引っ越してきたばかりのみーくんに、それくらい仲のいい人がいて嬉しいけれど。毎日忙しそうにしていて、あの横浜の日から一度も会えていない。その分、メッセージのやり取りは増えた。毎日おはようから始まって、おやすみまで何往復もする。会いたい、寂しいと毎日伝えてくれる。おやすみのメッセージには、必ず“好き”と書いてある。好意を隠さなくなったみーくんの言動は甘い、とびっきり。
みーくんをきっと好きなんだろうな、と思う。風太だってたくさん会いたいし、ずっと胸は甘酸っぱいし、顔はニヤけるし。じゃあなぜまだ、オレも好きだよと言えないでいるのか。そこに思考が至るといつも、『やっぱりなんか違ったかも』と先輩の声がリフレインする。みーくんのおかげで、もう吹っ切れて元気になれたのに。みーくんを疑う気持ちはひとつもないのに。フラれた日の記憶は、しぶとく疼くらしかった。
緩んでいたはずの顔がいつの間にか強張っていたことに気づいて、小さく頭を振る。
<オレもみーくんに会いたいよ。準備頑張ってね!>
返信して、“頑張れ!”と書いてあるスタンプも添えて。バッグから小さなケースを取り出す。入っているのは一対のピアスだ。学校では外しているみーくんにもらった風太のものと、預かっているみーくんのもの。窓から射しこむ陽の光が赤い石に反射して、無意識に指が伸びるのはみーくんに上書きされたピアスホール。ああ、早くみーくんに会いたい。
6月のとある日。今日は朝から雨が降っていて、午後になっても窓には雨粒がたれている。あさってはみーくんの高校の体育祭本番の日で、予報は晴れになっているけれど。この時期はどうしても、急に天気が崩れることもあるから心配だ。てるてる坊主でも作ってみようかな。そんなことを考えていたら、6限目の数学の授業中、ポケットに入れているスマートフォンが震えた。先生の目を盗みこっそり確認すれば、みーくんからのメッセージが届いていた。
<今そっちに向かってる>
「えっ!」
「ん? どうした時枝」
まずい、授業中なのに大きな声を出してしまった。黒板に向かっていた先生が、怪訝そうにこちらを振り返る。
「あ、いえ! えーっと、難しいところが分かったのでつい声が出ました」
「そうか。それは次のテストが楽しみだな」
「あー、はは、そっすね」
周りの友人たちも笑っているが、どうにか切り抜けられた、のだろうか。肝が冷えたが、先生はすぐにまた板書を始めたのでほっとする。同じ失敗はしないように、と決心しながら、もう一度メッセージを確認して返信する。
<どういうこと?>
<今日5限だった。体育祭の準備も室内でできることはもう全部終わったからなし>
<マジか。会えるってこと?>
<そう。めっちゃ嬉しい>
そのメッセージの後に、キャラクターがはしゃいでいるスタンプが送られてきた。
胸がきゅうと痛むような、甘い疼きが風太を襲う。自分に会えることを、こんなに喜んでくれている。気をつけないと、今度はうめき声が出てしまいそうだ。
<終わったらいつもの駅まで行くよ>
<大丈夫、ふーちゃんは学校にいて>
そわそわと落ち着かないまま、6限目を終えた。帰りのホームルーム中にはもうほとんど椅子から腰が浮いていて、先生が「じゃあまた明日」と言い切るより先に走り出した。
「どしたん風太ー」
「ちょっと用事ー!」
友人の声に、背中を向けたまま返す。一秒でも早くみーくんに会いたい。
靴を履いて外に飛び出て、そうだった、雨が降っているのだったと傘を取りに引き返して、校門までを走り抜ける。
「っ、みーくん!」
そこには本当に、みーくんが立っていた。名前を呼んだら、大きな傘から綺麗な瞳が覗く。
「ふーちゃん」
風太の名前を呼んだみーくんは、少し息を吸って力が抜けたように微笑んだ。それからほんの数メートルの距離を駆けてくる。
「久しぶり。すげー会いたかった」
「みーくん……」
水たまりを踏んだのだろう靴先と、スラックスの裾が濡れている。連日遅くまで学校に残って、くたくたになっていたのを知っている。こんなところまで来なくてもこっちから行ったのにとか、早く帰って今日くらい休んだらとか、言いたいことはたくさんあるけれど。風太の胸だって会えた喜びにいっぱいで、
「オレも……オレもみーくんに会いたかった」
なんて言葉が溢れてきた。正直なところ、半べそだ。
「あ……急いで出てきちゃったから、バッグとか全部教室だ。今持ってくる」
「ふーちゃん」
「ん?」
急いで校舎へ引き返そうとした風太の手を、みーくんが引き止める。
「俺も一緒に行っていい?」
「え? 中に? いや、絶対怒られるよ」
「うん。でもふーちゃんと、学校の中歩いてみたい」
「みーくん……」
みーくんの瞳があまりに真剣に光っていて、風太は拒むことができない。しばらく考えて、風太の手を握っているみーくんの手をもう片手できゅっと握った。
「ちょっと待っててくれる?」
一旦教室に戻り、ジャージを持ってきた。外にある体育倉庫が開いていたので、ふたりでそこに駆けこむ。
他校の制服だとすぐにバレてしまうだろうけれど、指定のジャージを着ていればごまかせると考えた。雨で濡れてしまったから着替えた、とでも言えばいい。もしも気づかれたら、その時はその時だ。みーくんの願いを叶えたい。
「どう? 着替えられた?」
「うん、見て。どう?」
風太は背を向けていたが、みーくんの言葉に振り返る。
「おお、なんか良い!」
「ここの生徒っぽい?」
「ぽい! サイズは平気?」
「ちょっとちっちゃいけど平気」
「みーくんデカくなったもんなあ。昔はちっちゃくて可愛かったのに、いつ追い越されたんだろ」
会えずにいた数年が、みーくんの成長に表れている。寂しくも思うけれど、気を取り直す。小学校すら一緒に通えなかった。同じ学校の生徒になれるなんて、こんなチャンスはきっと二度とない。
「よし、じゃあどこ行きたい?」
「ふーちゃんの教室」
「分かった。大丈夫だと思うけど、みーくんはオレの後ろ歩いてね。ちょっと俯きがちで!」
「はーい、時枝センパイ」
昇降口まで、ふたりでひとつの傘に入って走る。ちょうど帰るところの友人がいたので、
「なあ、ちょっと上履き貸してくんない?」
と声をかけた。
「上履きを? 別にいいけど、どした?」
「あー……コイツ後輩なんだけど、さっき自分の汚しちゃったらしくて」
「へえ。明日までに乾くといいな。ほら」
「サンキュ! 今度ジュース奢る!」
「すみません、あざす」
みーくんが小さく会釈をすると、気にすんなと言って友人はみーくんの肩をポンと叩いていった。気のいい友人で助かった。
それじゃあと、風太の教室を目指す。2年の教室は3階にある。昇降口そばの階段を上がればすぐなのだが、廊下の先から教師が歩いてきた。
「ん? 時枝、お前……」
「は、はい!」
風太の担任だ。先生は風太を目に止めて、一歩後ろにいるみーくんにも視線を走らせた。その表情が、訝しげに歪む。まさか、みーくんがこの学校の生徒じゃないと気づかれてしまったのだろうか。思わず緊張が走り、背筋が伸びる。
「さっき俺の挨拶終わる前に走って出てったのに、まだ残ってたのか」
「あ、あー、はい。はは、えっと、バッグとかまだ全部教室に置いてて」
「忘れてったのか?」
「そんな感じっす」
「慌てすぎだろ」
「あはは、本当ですよね」
「今度こそ忘れずにな。雨降ってるし、慌てると転ぶかもしれないから気をつけるんだぞ」
「はーい」
先生はそう言って、もう一度みーくんを見た後に職員室のほうへ歩いていった。
この高校には何百人も生徒がいるが、全員を覚えていたりするのだろうか。とりあえず、なにも聞かれずに済んで助かった。
「バレたかと思ってびびったー……」
「俺も。だいぶ緊張した」
「だよね」
みーくんと小声で安堵を共有する。悪いことをすすんでしたいわけじゃないけれど、みーくんとちょっといけない秘密を共有するのは、なんだか浮かれてしまう。顔を見合わせたらなんだかおかしくなって、笑い合うのがくすぐったい。
「あれ、風太さっき帰ったんじゃなかった?」
「ちょっと忘れ物ー!」
「時枝ちょうどよかった! 今日の夜オンゲーやれる?」
「んー、できそうだったら連絡する!」
3階へと階段を上がる間、風太は何人もに声をかけられた。クラスメイト、昨年同じクラスだった友人、友人を介して知り合った人など。人と話すのも遊ぶのも大好きだけれど、今だけはみーくんとのまたとない時間を満喫したい。もうすぐ教室に到着する。階段を上がるという些細なことでも、一歩一歩が貴重な瞬間だ。
「ねえみーくん、やっぱり後ろじゃなくて隣で歩こう?」
もう先生に出くわすこともないだろう。せっかくだから一緒に歩きたい。そう考えてみーくんの腕に手をかけ、隣に並んだ時だった。
「あ、時枝がイケメン連れてるー」
「マジだ」
「え?」
上から降りてきた、クラスメイトの女子ふたりに声をかけられた。第一声からみーくんに言及されたのは初めてだ。
「何組の人?」
「あー……えっと、みーくんは一年だよ」
「一年かあ。どうりで見たことないと思った」
「ここまでのイケメン、一回でも見たら普通忘れないもんね」
「てかなに、時枝みーくんて呼んでんだ? かわいいー」
「めっちゃ仲良しじゃん」
「あ、うん。仲良し、かも」
ふたりの会話はリズミカルで、いつもそのテンポに乗せられてしまう。けれど仲が良いと言われるのには照れてしまって、ドギマギとした返事をしてしまった。
「ねえねえ、みーくんなにか部活やってる?」
「えっ……」
「…………? 時枝どしたー?」
一瞬、なにが起きたのか分からなかった。けれど、目の前のクラスメイトが「みーくん」と呼んだのだと理解した瞬間、目がくらむような感覚がした。
みーくんと呼ぶのはオレだけがいい。はっきりとそんな感情が胸を渦巻いている。
身勝手な願望だと分かっている。そんなことを言ったら、彼女たちと険悪な仲になってしまうかもしれない。だけどどうしても譲りたくない。風太は勇気を振り絞って口を開く。
「あ、あのさ! その、みーくんのこと……」
けれどそこまで言った時、みーくんが一歩前へと出た。
「俺は一ノ瀬深尋っていいます。みーくんって呼ぶの、もう絶対にやめてください。俺のことそう呼んでいいの、ふーちゃんだけなんで」
「みーくん……」
みーくんは鋭い目つきで彼女たちを見据えていた。自分の言いたいことを言ってくれた、その横顔に風太は思わず見惚れたが。ふたりの反応が恐ろしくなる。みーくんがふたりに会うのはこれっきりかもしれないけれど、みーくんが悪く思われるのは嫌だ。
自分だってみーくんを守りたい、風太ももう一歩前に出たのだが。
「えっ! なになに!? 時枝のこと、ふーちゃんって呼んでんの!?」
「めっちゃ可愛いじゃん!」
ふたりから想像とは随分と違う、テンションの高い声が上がった。みーくんはと言えば、眉間をぐっと寄せて険しい顔になっている。
「おい、ふーちゃんって呼ぶのマジでやめろ」
もはや敬語も消え去ってしまった。
「うんうん、分かってるってさすがに。ね?」
「もちろーん。お互いだけがいいってことでしょ、そう呼び合うのが」
けれどみーくんの態度に、ふたりはなんの文句もないようだ。むしろ頷きながら、好意的な反応を返している。
「そうっす。俺はふーちゃんのなんで」
「っ、みーくん!?」
「え、なにそれどういう意味? めっちゃ気になるんだけど」
「呼び方の話? それとも一ノ瀬くん自身の話? どうなん時枝」
ふたりの視線が勢いよく風太へと向けられる。するとみーくんは、風太を守るかのように腕を出す。
「俺はなに聞かれてもいいっすけど、ふーちゃんを困らせるのはやめてください」
「うわー……なんか胸キュンしちゃった」
「分かる。なんだろ、このそっと見守っておきたい感じ」
「時枝、大事にしなよ。こんなに慕ってくれる子、なかなかいないよ」
「……ん、そうだね」
「はは、真っ赤じゃん。言われなくても分かってるって感じか」
それじゃあ末永く仲良くね、なんて言いながらふたりは階段を下りていった。風太は顔を上げられない。まだまだ赤みが引いてない自覚があるからだ。
「ふーちゃん」
「うう、待って……」
「待ってあげたいけど、その顔他の人に見せたくない」
「そんなひどい顔してる?」
「違う、可愛い顔」
「可愛い!?」
「そう、めっちゃ可愛い。独り占めしたいから早く行こ」
「もー、もっと赤くなんじゃん……」
「はは。ねえふーちゃん、教室は右? 左? 何組?」
「……3組。左です」
「了解」
「わっ」



