みーくんが頷いてくれて助かった。早足でモールを出る。幸い、先輩も追ってくることはなさそうだ。建物沿いに進んで、あまり人通りのない物陰で立ち止まる。

「……っ」
「センパイ?」

 ああ、どうしよう。必死で我慢したのに、いつの間にか涙が出ていたようだ。すぐには止まりそうにない。みーくんを引っ張ってきたのは自分なのに、これでは振り向けない。

「センパイ。ぎゅってしてもいい?」

 けれど、みーくんにはお見通しだったみたいだ。

「っ、うん」

 詰まった息でどうにか答えると、みーくんは風太の前に立った。頭をそっと胸元に引き寄せられ、抱きしめられる。風太も大きな背中へと、腕を回した。

「みーくん、ごめんっ」
「んー? なにもごめんなんてことないよ」
「だって、いやじゃん、あんなん言われんの」
「まあ確かに、センパイにあんな酷いこと言われてすげー腹立ったけど」
「オレはいいんだよ。でもオレといたせいで、みーくんまで。だから、ほんと、ごめん」

 みーくんにしがみつきながら、風太はまたいっそう泣いてしまった。みーくんのかっこいいシャツが濡れて悪いなと思うのに、止められない。そのくらい、ひどい顔をしているのに。

「ね、こっち向いて」

 と言って、みーくんの両手にびしょびしょの顔が包まれてしまった。

「へっ」

 そのまま、優しい力で上を向かせられる。これじゃあ、隠したいのに隠せない。

「みーくん、見ないでよお。オレ、顔ぐしゃぐしゃ」
「平気だよ。あのさ、このまま聞いて」
「…………? うん」
「まず、時枝センパイは酷いこと言われてもいい、なんてことないから」
「……えっと?」
「あんな風に言われることに絶対慣れないで、お願い。分かったらお返事」
「っ、はい!」
「うん、上手。それから……」

 みーくんの両手の親指が、風太の下まぶたをなぞる。スローな手つきが大事だって言ってくれているみたいで、またじんわりと目が熱くなる。

「あの人がしたことを、センパイが謝んないでよ。元カレって関係だとしても、あっち側にセンパイが立ってるみたいですげー寂しい。俺のほうにいてよ。酷かったなって、ムカつくよなって、俺と一緒に怒ってくれるのがいい」
「みーくん……うん、うん、分かった。ありがとう」
「はは、また泣けてきちゃった?」
「だって、みーくんが優しいからあ……」
「じゃあ責任持って、俺が拭くね」
「しばらく止まんないよ?」
「うん、いくらでもどうぞ」


 ひとしきり泣いて、みーくんはそんな風太に根気強く付き合ってくれて。人心地ついてから、海沿いまで歩いてベンチに腰を下ろした。

「みーくんの前でオレ、泣いてばっかだね」
「まあ、確かにそうかもね」
「本当はさ、今日はフラれた話はしないで、ただ楽しめたらいいなって思ってたんだ。でも結局こうなっちゃった。ねえ、みーくん」
「ん?」

 正面の海を眺めていても、みーくんがこちらを向いてくれたのが分かる。

「オレ、もう忘れたい」
「忘れる?」
「うん。忘れられるかな。フラれてショックだったし、いっぱい泣いたけど。もう本当に、この気持ちを終わりにしたい」
「…………」
「まあ、どうしても残っちゃうんだけどね。ほら、このピアスの穴とか。でも……忘れたいよ」

 失恋だけでも傷があったのに、今日はあんな風に違う痛みも帯びてしまった。できることなら、この耳だって元に戻せたらいいのに。

「じゃあ、俺が忘れさせてあげる」
「え?」

 みーくんはパンツのポケットからなにかを取り出して、こちらに近づいてきた。手にあるのは、さっき買ったばかりのピアスだ。

「両耳用のを選んでもらったのは、片っぽもらってほしかったからなんだよね」
「え? え、オレに?」
「うん。半分こしよ? 俺がつけてもいい? ここに」

 みーくんの指が、風太の左耳に触れる。もらっちゃっていいのかな、と確かに躊躇はあるのに。この穴をみーくんのもので埋めてもらえると思うと、抗えない魅力を感じた。

「……ん、お願いします」
「じゃあこれ、外すね」

 丁寧な手つきで、そこにずっとあったファーストピアスをみーくんが取り外す。

「どうする? これもう見たくないなら、俺が処分する」
「要らない。捨ててほしいです」
「分かった」

 外したピアスをポケットの中に乱雑に放って、みーくんは深呼吸をした。強く光る瞳が、風太へとまっすぐ注がれる。

「今からここに、新しいピアスつけるよ」

 みーくんがピアスを摘んでみせる。シルバーのフープ型で、赤い石が光っている。みーくんみたいでやっぱり綺麗だ。風太はこくんと頷く。

「この穴に俺につけられるんだって、ちゃんと意識して?」
「うん、分かった」
「じゃあ、入れるよ」

 ポストの先端が、風太の耳にツンと当たった。風太は思わず、みーくんのシャツを握る。みーくんのあたたかい指先で、心臓に触れられたみたいだ。

「怖い?」
「ううん、怖くないよ。怖くないけど、なんでだろう、すごくドキドキする」
「うん、俺も。じゃあ、続き」
「うん」

 みーくんはとてもゆっくりと、風太のピアスホールにポストを刺していった。だからだろうか、通っていくのがよく分かる。一ミリ進む度に、心拍が上がるみたいだ。

「ここ」
「ん?」
「センパイのここ、もう俺のものね」
「みーくんの?」
「そう。ん、入った」

 後ろからキャッチで留めて、みーくんのスマホのカメラで鏡代わりに見せてくれた。みーくんに似合うからと選んだピアスが、自分の耳でキラキラしている。なんだかちょっと照れくさい。

「ピアスの思い出、今日で更新できたらいいなって。このピアス見た時とか、なにもつけてない時も。ここに俺がこのピアスつけたってこと、いちばんに思い出してよ」
「みーくんのものって、そういう……うん。みーくんに似合うって思って選んだピアスだし、つけてもらったのめっちゃドキドキしたし。もう絶対、みーくんとのことがいちばんだよ」
「ん、よかった」
「みーくん、本当に優しいよね。オレ、すげー落ちこんじゃったのに。もう元気になった」
「はは、やった。でもさ、元気になるだけじゃ駄目だよね」
「え?」

 みーくんはそう言って、片膝をベンチの上に乗せた。もっと距離を詰めて、両手を差し出してくる。

「手、繋いでもいい?」
「うん、いいけど……」

 みーくんの手に手を重ねる。指先をきゅっと握られて、風太の心臓は甘い音で跳ねた。

「忘れさせてあげる、って言ったよね。頭の中、もっと俺のことでいっぱいにしてほしい」
「え? っと?」
「俺の秘密、聞いてもらっていい?」
「秘密?」
「うん。時枝センパイ。ううん、ふーちゃん」
「え? その呼び方……」

 そう言えば、あの騒動で忘れていたけれど。先輩と対峙していた時も、みーくんはそう言いかけた気がする。“ふーちゃん”と。

「うん。分かる?」

 久しぶりにそんな風に呼ばれた。本当にすごく久しぶりだ。だって風太のことをそう呼ぶのは、この世界にたったひとりしかいないから。
 神奈川に越してくる時に別れたきりの、幼なじみのみーくん。あの子だけが、風太のことをふーちゃんと呼んで慕ってくれていた。フラれた日に大泣きしていたら声をかけてくれた目の前の彼に、「みーくんだよ」と名乗られた時も思い出したっけ。
 まさか、いやでも。“ふーちゃんと呼んでくれるみーくん”なんて存在が、ふたりもいるはずがなくて。

「え、え? みーくんは、幼なじみのみーくん……ってこと?」
「改めて久しぶりだね、ふーちゃん。一ノ瀬(いちのせ)深尋(みひろ)だよ。覚えててくれて、ほっとした」
「っ、うそ〜……」

 一ノ瀬深尋。そうだ、小さな頃の自分は“みひろ”という名を上手く言えなくて、みーくんと呼び始めたのだった。そうしたらみーくんが、ふーちゃんと呼んでくれて。一文字目を伸ばすのがおそろいだねって、喜んだのも覚えている。
 へなへなと力が抜け、風太はベンチにもたれかかる。ああでも、脱力しているのもなんだかもったいない。すぐに体を起こして、風太からもみーくんの手を握り返す。

「いつオレがオレって分かった!? 自己紹介した時!?」
「ううん。駅で泣いてるの発見した時」
「え、え〜……くそカッコ悪い再会だったんじゃん」
「そんなことない」
「うそだあ、だから本当は知り合いだってこと、内緒にしたんじゃないの? こんなヤツが幼なじみなの恥ずかしいって」
「そんなわけないじゃん。ただちょっと、色々考えたのと……全然気づいてくれなくて意地になってたのもある」
「う……それはごめんなさい、言い訳もありません……でもほんと、ちっちゃい頃のみーくんのこと可愛い弟みたいに思ってたから。こんなかっこよくなってるとかびっくり」
「今の俺ってかっこいいんだ?」
「うん、めっちゃイケメン」
「ふうん。そっか」

 頬を少し赤らめて、みーくんは目を逸らした。ああ、こういうところは可愛いままだ。そんなこと言ったら拗ねてしまうかも知れないけれど。
 みーくんの正体に自分で気づけなかったことが、心底悔やまれる。それならばせめて、今のみーくんのことはできるだけ取り零したくない。

「それで? あとは?」
「あとは? って?」
「さっきみーくん言ったじゃん。名乗らなかったのは、色々考えて、って」
「あー、それは……」

 そこで言葉を切って、みーくんは少し下唇を噛んだ。深呼吸を何度かして、なにかを決心するように大きく息を吐く。

「ふーちゃん、耳貸して」
「ん? なに?」

 近くには誰もいないのに、内緒話をしようとするみーくんはやっぱり可愛い。けれど、そんな余裕な態度で構えていられるのは終わりだと気づかされる。

「俺、ふーちゃんのこと、ずっと好きだった」
「……え?」
「ふーちゃんが引っ越してからも、毎日、毎日……大好きだったよ」
「え……え!?」

 耳元で、まるで脳内に直接注ぎこむかのように、みーくんはそんなことを言った。風太は思わず後ずさった。勢い余って、ベンチの手すりに腰をぶつけてしまった。
 やばい、顔が熱い。左腕で顔半分を隠せば、繋いでいた手が離れてしまったからか、みーくんが悲しそうな顔をする。ああ、そんな顔をさせたいわけじゃない。けれど、自分の感情だってどう扱ったらいいか分からなくて。せめてもと、もう片手の繋いだままの手に力をこめた。

「それってその、そういう意味、で?」

 みーくんは頷いて、風太の手の甲をそっと親指で撫でる。

「うん。ふーちゃんが俺の初恋」
「マジか……」
「うん、大マジ。だから、ふーちゃんのことやっと見つけたと思ったら、フラれたって泣いててすげーショックだった。でも……だったら俺に気づいてないことも利用して、一から出逢い直すのもありかなって。ふーちゃんが落ちこんでる時に、俺そんなこと考えてた。ふーちゃんの中での俺って、弟みたいなんだろうなって分かってたから、ひとりの男として見てほしかった。まあ、今正体明かしちゃったんだけどね」

 はは、と笑ってみせるのに、憂いと決意が入り混じったような横顔をしている。弟だと呼ぶには確かに躊躇してしまう、ただただひとりの男の顔だ。

「ねえ、ふーちゃん。アイツじゃなくてさ、俺のことで悩んでよ。『あーコイツ、オレのこと好きなのかー』って。頭ん中、俺だけでいっぱいにしてほしい。俺はずっと、ふーちゃんに出逢ってからずっと、そうだよ。もう絶対に誰にも、ううん、アイツにもふーちゃんの気持ち1ミリだって渡したくなかった」
「みーくん……」
「あー、ついに言っちゃったなー」

 みーくんは真上の空を仰いだ。横目でちらりとこっちを見て、指の節を口元に当てながら「あんまり見ないで。いや、嬉しいけど」と淡く笑う。そんな何気ない仕草ひとつでだって、風太の頭はもうみーくんでいっぱいだ。

「そうだ。ふーちゃん、手出して」
「ん? あ、ピアス」
「この穴がもう大丈夫になったら、ふーちゃんにつけてほしい。それまで持っててくれる?」
「うん、分かった。大事に持ってる」
「ありがと。じゃあふーちゃん、今度は口開けて」
「ん? なに?」
「はい、あーん」
「あーん……あ、飴だ」
「俺の告白も、味つきで覚えててほしいから」
「あ……」

 見上げると、みーくんは少しだけ唇を尖らせていた。先輩に告白された時、コーラ味の飴を食べていたと話したからか。あんな些細なことも覚えてくれていて、上書きしようとしてくれている。本当に好きでいてくれてるんだって、染み入るように思い知る。

「うん、絶対にちゃんと覚えてるよ。みーくんがくれた、りんご味だったって」
「うん」
「オレりんご味のものよく食べるから、しょっちゅう思い出しちゃうね」

 いや、それどころか四六時中、みーくんのことを考えてしまう気がしている。好きだと言われた、みーくんの声で、言葉で。それがずっと、体中を熱く駆け巡っている。


「みーくん」
「んー?」
「今日、すごく楽しかった。このピアスも、嬉しい。ありがとう」

 先輩と出くわすなんて思わなかったし、大泣きして恥ずかしいところを見せてしまったけれど。それでも今日の日を、楽しい一日だったと振り返られる。みーくんがいてくれるからだ。

「俺もすげー楽しかった。ふーちゃんとの初デート」
「えっ、デート!?」
「俺にとってはデートだよ。ふーちゃんのこと好きだし」
「…………」
「あ、照れてる」
「っ、照れてっ! る、けど〜!」
「ははっ、ふーちゃん可愛い」

 顔を両手で覆っているのに、みーくんが腰を曲げて覗いてきているのが分かる。ああもう、恥ずかしい。でもそれ以上に、弾む心に抗えない。

「ふっ、ははっ! もー! 見ないでよお」
「やだね、見る」
「はは! あー、久しぶりにこんな笑ったかも」
「楽しい?」
「うん、すごく」
「俺も。ねえふーちゃん、大好きだよ」
「っ、ん……」

 半袖から覗く肌を、やわらかい風が撫でる。みーくんは少し赤い顔で笑っていて、海の匂いと、口の中はりんご味。この瞬間を絶対に忘れない。