「北口先輩!」
昇降口で名前を呼ばれて俺は後ろを振り向いた。振り向いた先には少し息をみだしている一つ下の後輩、栗原圭祐がいた。イケメンだけれど普段は表情が固い。でも話してみると意外と気さくで笑顔が可愛い。かっこよさと可愛さを持つ、まさに無敵の男。
「おっす、栗原。お前も今帰り?」
「はい。先輩がいるのを見て走ってきちゃいました」
小さな子犬のような瞳で俺の方を見てくる。栗沢は俺よりも身長が高い。けれど腰を曲げて相手を見る仕草が可愛いとわかっているようで時々やってくるのだ。
わかっていてもキュンとするものは、キュンとする。今日もこいつの後輩力にメロメロだ。
「相変わらずお前はかわいー後輩だな」
「俺はかっこいいと思って欲しいんですけど」
「そんなふうに不貞腐れているのもかわいーな」
「変なこと言わないでください!」
不服だと言わんばかりに反抗してくる。少し頬を膨らませている様子がまた可愛い。わざとやってくるのか、それとも無自覚なのか。
早まる鼓動を誤魔化すように、俺はひらひらと手を振った。
「はいはい」
「あしらわないでくださいよ」
「わかってるって、拗ねんなよ」
「拗ねてないですよ!」
本格的にへそを曲げてしまったようで栗原は靴を履き替えた後俺のことを待たずに昇降口を出ていってしまう。短くてストレートな髪が体の動きと連動して揺れる。まるで少女漫画のワンシーンのよう。
俺は早足でその背中を追いかけた。
「ごめんって」
「本当に思ってるんですか」
「本当に思ってる。からかいすぎたな」
「......じゃあ、許してあげます」
「今日はお前の好きそうなカフェにでも行こうか」
「カフェ......!」
「そうそう、駅前に新しくオープンしたみたいでさ。パンケーキが絶品らしい」
「早く行きましょう! 俺たちをパンケーキが待っています!」
さっきのしおらしい態度はどこへやら。足取りが軽くなり、俺の手を掴んできた。
俺よりも大きな男の人の手だ。普段の態度は弟みたいで可愛いのに、ふとした瞬間に一歳しか変わらない男の人なんだよなと実感させられる。鼓動が早くなって落ち着かない。
栗原は前を向いていて俺の表情を見ることはできない。それをいいことに俺の頬はのぼせ上がっていることだろう。
俺はこの可愛い後輩に恋しているのだ。
......
「んー! おいしい」
「それはよかった」
栗原は頬を緩ませて幸せそうにパンケーキを頬張っている。クールな外見とは裏腹に甘いもの大好きなスイーツ男子。そんなところも可愛い。
対して俺はカフェオレとスコーンを注文した。甘いものは少し苦手で、甘ったるい感じが舌に残る感じが好きじゃない。
栗原の幸せそうな顔を見ていると日頃リサーチを欠かさなくてよかったと実感する。ネットで調べる他にもクラスの女子たちに聞き込みをして常に情報をアップデートしているのだ。
「連れてきてくれてありがとうございます、先輩。......ちなみにどうやってこの場所を知ったんですか?」
「えーと、ネットを見てたら記事になってってたまたま知ったって感じかな」
「そうなんですね。俺も情報収集しないとなー。美味しいものを食べ損ねちゃう」
「そしたらまた俺が教えてやるから」
「嬉しいです!」
栗原からの質問に肝が冷えた。本当はお前と放課後を一緒に過ごすために情報収取は欠かしていません、だなんて言えるはずもない。もしバレてしまったらこの関係は終わってしまうだろうから。
「あれ、先輩どうしたんです。ぼーっとして」
「あ、いやなんでもない」
すると栗原は俺の額に手を当ててきた。向かい合って座っているが腕の長い栗原には関係のないことらしい。
スマートにこんなことをしてくるなんて。中身までイケメンかよ。
「本当だ。熱はないみたいですね」
「だから言っただろ」
「先輩のなんでもないは信用できないですからね」
「ごめんって」
栗原が言っているのはきっとあの時のことだ。
一年前、俺が二年生で栗原が一年生だった時のこと。その日は放課後に委員会活動があって俺は美化委員会に所属していた。朝から体調が悪かった俺は全身に力が入らず、頭もぼーっとした状態だった。
いつも通りの委員会ならあまり時間も取られずに早く帰れるはず。そう思って参加していた。しかしその日に限って委員会での決めごとが多く、早く帰ることはできなかった。
なんとかやり過ごして、委員会が終わった後も俺は席から立ち上がることができなかった。他の生徒たちが委員会室から出ていくなか、一人の生徒が俺に話しかけてきた。
『あのすみません。体調大丈夫ですか』
その生徒が栗原だった。栗原圭祐という名前は俺たちの学年でも有名だった。今年行われた入学式の時に一つ下の学年にとんでもないイケメンが入っていたと一時期話題になっていたから。
『大丈夫です。お構いなく』
話題の中心の人に保健室に連れてってもらえませんか、なんていうのは気が引ける。
だから、大丈夫だと伝わるように少しだけ笑みを浮かべて返答した。
『そうですか。でも顔色悪いんで早く帰ったほうがいいですよ』
栗原が委員会室を出ていった後は俺一人が残った。重い腰を上げてなんとか立ち上がった。その瞬間、世界が反転したかのように回った。どこに立っているのかわからなくなり、床に倒れ込む。思っていた以上に体調が悪かったらしい。
立ち上がって保健室に行かないと。そう思っても熱を持った体は言うことを聞いてくれない。そんな時だった。
『先輩、大丈夫ですか!』
栗原が引き返してきてくれたのだ。熱でぼやけている聴覚が、焦ったような声を拾う。
『大丈夫......じゃない』
『すみません、持ち上げますよ』
そう言って栗原は俺の体の下に手を入れて抱きかかえてくれた。意識が朦朧としていて思い出せないが、目撃した友人によるとお姫様抱っこをされていたらしい。どうして覚えていないんだよ、俺。
結局俺はインフフルエンザと診断され五日間学校に行くことはできなかった。
その後、助けてくれたお礼に何かできないかと栗原に質問しに行った。初めは必要ないと拒んだものの、少し考えた後に
『それじゃあ、この店について来てくれませんか』
と言われた。お礼ができると思った俺は二つ返事で了承した。
そこで連れて来られたのが、可愛いキャラクターがモチーフのカフェだった。
キラキラ、ふわふわでラブリーな世界観。何かの間違いかと思い、栗原の表情を伺った。彼は目を輝かせており、間違いではないのだと思った。
店の中に入ってからも、栗原は終始そわそわしており相当来たかった店なんだなと思った。特に注文したスイーツが来た時には真剣に写真を撮りまくっていたのを覚えている。
普段の表情があまり変わらず、少し硬い印象はどこへやら。嬉しそうに頬を赤くしている姿に心を奪われた。
『栗原はこの店に相当来たかったんだな』
『おかしいって笑いますか』
『いいや。ちょっと驚いたけど、イケメンが嬉しそうにしているのを見るのは気分がいい』
俺の返答を聞いた栗原は、なんですかそれ、と笑った。
子犬のような弾ける笑顔が可愛くて、頭から離れなくなった。
この時が俺が栗原に恋した瞬間だと思う。この笑顔を見るためになんでもしてやりたい。この人のそばでずっと見ていたい。そう思ったんだ。
「先輩、せーんぱい」
栗原は俺の意識を確認するみたいに目の前で手を振った。
「ああ、どうした」
「もう、ぼーっとしてどうしたんですか」
「いや、今日も栗原は可愛いなと思って」
「先輩はまたそう言うこと言う!」
俺また拗ねちゃいますよ、とそっぽをむいた。そんな態度がまた可愛いと思わせるのを栗原は気づいているのだろうか。
出会った初期の頃と比べるとだいぶ印象が異なる。
「冗談、かっこいいよ栗原は」
「とってつけたような感じが気に食わないいですけど、今日はこの辺で許して上げますよ」
「そりゃどーも」
栗原はいつの間にはスイーツを平らげていて、俺も頼んだスコーンがもう少しで食べ終わりそうだ。日が傾いて空が暗くなってきている。帰るにはきりがいい時間。
「そろそろ帰るか」
「えー、もっと先輩と一緒にいたいです」
拗ねたような声を出す。子どもが公園で、まだ帰らないと親に駄々を捏ねている様子を想起させる。
「でももう暗いし、明日も学校だろ帰らないと」
「先輩、なんだか先生みたい」
「変なこと言うな。俺とはまた放課後、カフェに来れるだろ。今日はここまで」
「また、一緒に来てくれるんですか」
「? うん、俺はそのつもりだったけど」
栗原は違かったのだろうか。
「ふーん、ならいいです」
俺の回答を聞いた栗原は少し頬を赤くした。そんな表情もできるのか。可愛すぎる。
その後、会計を済ませてカフェを出た後も栗原は上機嫌で歩いていた。
......
「な、北口。お前って二年の栗原と仲良いって本当?」
昼休み、購買で買ってきた惣菜パンを頬張っている最中にクラスメイトの佐々木が聞いてきた。彼はクラスの中で陽キャな生徒で、少し距離感が近い。今も俺の肩に手をのせている。
「仲良いけど、それがどうしたの」
「一生のお願いなんだけどさ、栗原のこと紹介してくれない?」
「どうして?」
「今度合コンするんだけどさ、女子のメンツが集まらなくて。栗原ってイケメンだろ。それに彼女もいないらしいし。だから女子を合コンに呼ぶためにも来てくんないかなって」
確かに栗原に彼女がいるって話は聞いたことがない。でも、合コンか。行ってほしくないのが本音だ。けれどそれは俺の事情で栗原はどう思うかわからない。断って変に気があると思われてしまうことは避けたいところ。
「じゃあ、俺から本人に聞いておくよ」
「マジ!? サンキューいい答え期待してる!」
答えを出すのは俺じゃないんだけどな。
栗原はこの提案にどんな答えを出すのだろう。断ってくれたらいいな、なんて意地の悪いことを思った。
......
「え? 先輩今なんて言ったんです?」
「だから、お前を合コンに誘いたいって奴がいるって話。佐々木って言うんだけど」
「ああ、あの陽キャな先輩ですね」
放課後、いつものようにスイーツを食べている栗原に合コンについて話した。場所はこの前行った駅前のカフェだ。栗原はこのカフェを気に入ったらしく、最近はいつもここに食べに来る。
俺の急な話に栗原は驚いているようだ。
「合コンには先輩も行くんですか?」
「俺? 俺は行かないけど」
まず、誘われていないし。俺が好きなのは栗原だしな。でもそんなこと口が裂けても言えない。
「じゃあ、俺も......」
そう言いかけた時、少し悩むようにして栗原が口を閉ざした。
"行かない" って言って欲しい。けれどそれは俺のわがままだ。好きなのも俺の一方的な気持ちで、きっと栗原にとっては迷惑なものでしかない。
「行ってみましょうかね」
沈黙の末、栗原が答えた。その答えを聞いて俺も胸がズキっと痛んだ。心臓が絞られているみたいに苦しい。でもこの気持ちはバレてはいけない。
「わかった。伝えておくよ」
俺は栗原の顔を見ることができなかった。
「......佐々木先輩、北口先輩と距離近いんだよな。釘を刺しておかないと」
「ん? なんか言った?」
小さな声で何か呟いた気がしたけれど、栗原が合コンに行くショックで聞き取れなかった。
「なんでもないですよ。さ、ケーキ食べちゃいましょ」
少し誤魔化されたような気がしないでもないが、本人がなんでもないと言っているし詮索するのは野暮なことだろう。
そして後日、栗原が合コンに行くことを佐々木に伝えると飛び上がるようにして喜んでいた。
対して俺の気分は鬱々としていた。だって、好きな人が合コンに行くんだぞ。まあ、その手助けをしたのは俺なんだけど。考えれば考えるはど落ち込んでいく無限ループ。
「はーあ」
俺のため息は誰に拾われるわけもなく溶けていった。
......
合コンが行われた次の日、俺と栗原は例のごとくカフェに来ていた。今日は俺も甘めのスイーツを注文した。ストレスには甘いもの。普段は甘さ控えめのものを頼むけど、今回は特別だ。
相変わらず栗原は美味しそうにスイーツを頬張っている。その様子は可愛いけれど、ちょっとは俺の気持ちを考えろよな、とも思ってしまう。純粋な顔が今は少し憎らしい。
合コンはどうだったのだろうか。もしかして彼女ができたとか、そうじゃなくても気になる人ができたとか、そんなことがあるかもしれない。もし彼女ができていたとしたらどうしよう。何日間か寝込む自信がある。
「どうしたんですか、先輩」
「いやー、この間の合コンどうだったのかなーって」
どうして素直に聞いているんだよ、俺。
「ああ、別に何もありませんでしたよ。普通に飯食って終わりです」
「彼女とか、気になる人とかはできなかったのか?」
「はい。俺はもっと頼りがいがあって、甘やかしてくれる人がタイプなんで」
「へー。栗原のそう言う話初めて聞いた」
彼女も気になる人もできていない。その話を聞いて俺は内心ガッツポーズをしていた。
「先輩は?」
「え?」
「先輩は好きな人いるんですか?」
栗原はいつの間にはスイーツを食べる手を止めて、まっすぐに俺の方を見ていた。
その目は俺の心の内側まで見透かしてきそう。
「いやーいないよ」
「本当に?」
「本当、本当」
お前相手に言えるわけないだろ。もしいるなんて、口に出してしまったら、隠し通せる自信がない。
「じゃあ、好きなタイプは?」
「タイプ?」
「そう。俺も言ったんだから逃げるのはなしにしてくださいね」
そう言われてしまっては、言わないわけにはいかなかった。
「かっこよくて、笑顔が素敵な人かな」
正直に答えてしまった。けれどこの情報だけで栗原が好きだとバレるはずはない。
「へー、かっこいい人がいいんだ。女の人でいるのは珍しいかもしれないですね」
「だよなー、そのおかげで好きな人ほとんどできたことないし」
物心着く頃には自分の恋愛対象が同性であると気づいていた俺は意図的に人を好きにならないようにしていた。
きっと好きになってもその恋が実ることはないから。
一度目の恋は苦い経験だ。その恋でひどく傷ついた俺は、もう誰にも恋はしないと心に誓った。
でも、栗原に出会ってしまった。栗原に出会わなければ俺は誰かに恋する幸せをもう一度味わうことはなかったかもしれない。
「好きな人いたことあるんですね」
「そ、そりゃあるよ。栗原だってあるだろ」
「まあ、それはありますけど」
「だろ! これだからモテ男は」
「あ、先輩口元」
そう言って栗原は俺の口元についていたクリームを指ですくった。そしてペロリと舐めとる。
「な、何して......!」
好きな人からの接触に動揺が隠せない。しかも俺の頬についていたクリーム食べたし。
「付いていたので。先輩が頼んでいたチョコケーキも美味しいですね。今度来た時はそれを注文しようかな」
余裕たっぷりに返答する。俺の心臓はこんなにも忙しなく動いていると言うのに。栗原圭祐、恐ろしいやつだ。
「それじゃあ、また学校で会いましょうね」
「おう、またな」
俺たちは、駅前で解散をした。俺はそのまま徒歩で家に帰る。
二人きりでのカフェ楽しかったな。思い出すだけで表情が崩れてしまいそう。
「ふふ」
「ずいぶんとご機嫌だな。満」
この声には聞き覚えがあった。栗原よりも声が低くて、少し乱暴な口調の持ち主。
そして俺のトラウマを作った人。
「古川......」
「何怯えた顔してんだよ。それに古川じゃなくて那津、だろ?」
そして古川は俺に近づき、肩を組んで引き寄せた。
「久しぶりじゃん、元気にしてた?」
「......まあまあだよ」
声が震えないように、平然を装う。
「ふーん。俺さっき見ちゃったんだよねイケメンくんと楽しそうに歩いているところ。あれ、今の彼氏?」
そう、俺の耳元でささやいた。
「ち、違う!」
俺は古川の胸を押して離れた。古川は一瞬驚いた顔をして、ニヤリと笑った。
「じゃあ、片思いってわけね」
この顔はいけない。子どもが珍しいおもちゃを見つけたような好奇心が抑えられないというような顔。
俺はかつてこの表情が彼らしくて好きだった。でも、それは間違いだったんだ。
「俺がバラしてあげようか? 満はお前のことが好きらしいよって」
「やめて......」
中学生の頃のトラウマが蘇ってくる。
かつて俺は好奇心旺盛で素直な古川に恋していた。中学2年生の時、古川から告白された時は夢のように嬉しかった。
同じ気持ちでいてくれたんだって、舞い上がっていた。その告白が、単なる好奇心によるものだったなんて気づきもしなかった。
それがわかったのは中学3年生の春、
『なあ、古川って北口と付き合ってるって本当?』
『あー、マジマジ。俺から告った』
『マジで? でも、北口って男じゃん? それでも本気なんだ』
『いや、本気なわけないじゃん。告ったのは単なる好奇心。あっちだって本気じゃないって』
放課後、一緒に帰ろうと古川の教室に行った時に偶然聞いてしまった。肩にかけていたスクールバッグが床に落ちる。その音に気がついた古川たちが、教室から廊下に出てきた。
震える声で俺は尋ねた。
『那津、今のって......』
『あー聞いてたのか』
古川は面倒くさそうに頭をかいた。
『あれは本心。でも満もだろ? 男相手に本気になるわけないじゃん』
心無い言葉に、胸が傷みつけられる。
当時俺は本気で古川が好きだった。でも、遊びだったんだ。
『うわ、泣いてる。俺が悪いみたいじゃん』
それが決定的な一言だった。床に落ちたスクールバッグを拾ってその場から走って逃げ出した。
痛い、痛い、痛い。涙が溢れて止まらなかった。
俺は本気で好きだった。でも古川は違ったんだ。......遊びだったんだ。男相手に本気になるわけないんだって。
それから俺は誰かに恋することを諦めた。あんなに傷ついて苦しい思いをするくらいなら、もう恋はしないって。
「なんか返事しろよ」
「お願いやめて」
それしか言えなかった。
怖いよ、助けて。......栗原。
「あなた、先輩に何してるんですか」
幻聴が聞こえたかと思った。だって栗原はもう電車に乗っているはず。
「お、さっき満と一緒にいたイケメンくん」
「あなた、いったい先輩に何をしたんですか」
古川と会話をしながら俺の手を引いて、背中に隠してくれる。
「普通に世間話?」
「普通に話していて人はこんなに怯えませんよ」
「へー、いいセコムじゃん。じゃあもう遊べないかー。俺もういくわ、またな満」
興味がなくなったように、そのまま古川は去っていった。全身に入っていた力が抜けていく。
「先輩、危ない!」
倒れそうになった俺を栗原が抱き止めてくれる。
こんな状況で触れられて嬉しいなんて、きっとどうかしている。
「ごめん、ごめん大丈夫」
安心させるためにはにかんで見せる。すると俺の表情を見た栗原は悲しそうに眉を下げた。
「大丈夫じゃないですよ、俺の前では無理しないで」
その言葉を聞いてせきを切ったかのように涙が止まらなくなる。俺の様子を見て栗原は人気のない場所に移動し、俺のことを休ませてくれた。
落ち着いた後、俺は全てを打ち明けた。こんな状況を見られて隠しておく方がおかしい。
幻滅されてしまっただろうか。慕っている先輩が男を好きになるなんて、やっぱりおかしいと思うかな。
栗原の方を見れない。
「そんなの、先輩は悪くないですよ」
「え......」
「相手の気持ちをもてあそぶ人が悪いんです」
そう言って栗原は俺を抱きしめた。柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。制服越しに伝わる体温が俺を安心させてくれた。
幸せで、ずっと続いてほしいと願ってしまう。
「俺が、先輩を守ります。全部、全部」
力強い言葉が心を励ましてくれる。
その言葉は先輩への情が作り出しているものだろうと思うけれど。
将来栗原と結ばれる人は幸せだろうな。
......
それから数日、栗原との関係は特に変化していない。
あんな失態を晒してしまって恥ずかしいと思ったが、北口はさほど気にしていない様子だった。
「すみません、北口先輩ですか?」
昼休み、廊下を歩いていると一人の女子生徒に呼び止められた。うちの学年では見慣れない顔だ。
「そうですけど......」
「ああよかった! あの、栗原くんのことなんですけど」
女子生徒は先日あった合コンに参加していて、栗原のことを好きになったらしい。仲をつめていきたいけれど話しかける勇気がないそうだ。そこで栗原と仲がいいと言われている俺に声をかけたと言うわけ。
佐々木といい、この女子生徒といい俺は栗原の窓口かよ。
そんなこと口に出せるわけもなくそのまま了承してしまった。周りの目を気にして安請け負してしまう。
俺の役目は栗原と女子生徒が一緒に遊びに行けるように手配することだ。
「気が重いなあ」
放課後一人で廊下を歩きながらつぶやく。
俺と栗原は仲はいい方だとは思うけれど、そこまで踏み込んだような関係ではない。仲のいい先輩と後輩で、その域を出ていないのだ。
ここまで後輩にお願いばかりしている先輩はどうなのだろう。良心が訴えかけてくる。
おまけに俺は栗原のことが好きなのだ。誰かとの橋渡しをするたびに胸が締め付けられる。
「あれ、せんぱーい」
正面から栗原が歩いてきた。普段の固い表情をふんわりと柔らかくさせて、こちらに近寄ってきた。知る限りこの表情は俺にしか見せない。好きな人からの特別を感じて優越感に浸る。
「先輩も今帰りですか?」
「そう、今から帰るところ」
「じゃあさ、今日もカフェに行きませんか。いいお店見つけたんですよ」
「あーいいな」
行こうと返事をしようとした時、さっきの女子生徒との会話を思い出した。
そうだ俺には栗原と女子生徒が遊びに行けるように手をうつ役目があるんだった。
「それ今度の週末に行くのでもいいか?」
「? 大丈夫ですけど、何かあるんですか」
「うん。ちょっとな」
栗原は不思議そうに首を傾げていた。そうだそれでいい。もしも二人が付き合ってくれたら俺も嬉しい。好きな人の幸せが俺の幸せなんだから。俺の恋は叶わないだろうけど、でも栗原が笑っていてくれるならそれでいい。
この前、カフェで言っていたじゃないか。栗原は頼れて甘えられる人が好きだって。そんな人にいつか巡り会えたらいいよな。
そして結婚して俺はそこに友人代表として参列する。友達として栗原の人生の中に存在できたら、いいな。
「どーしたんですか。悲しそうな顔してる」
「......なんでもねえよ」
「なんでもなくないですよ」
「気にすんな」
「えーでも、気になるしー」
そう言って栗原は俺の頬を両手で挟んだ。手から栗原の熱が伝わってくる。頬が紅潮して熱を持ち出す。落ち込んでいた気持ちが嘘みたいだ。
「あはは、先輩顔真っ赤ですよ」
「うるさい、恥ずかしいんだからしょうがないだろ」
「可愛いですね、先輩」
「からかうな」
「いつも俺がやられているので仕返しです」
「ごめんごめん、悪かったよ」
「別に、俺は嫌じゃないからいいです」
「変な奴だな、栗原は」
カフェではあんなにすねていたのに、本当は満更でもないとか可愛いかよ。
そう思ったら、ふっと吹き出してしまった。
「......先輩、やっと笑った」
嬉しいような、ほっとしたような声で栗原は言った。大切なものを扱うみたいに俺の頬を撫でる。
こんなことされたら勘違いしそうになる。栗原にも俺を好きになって欲しいと言いたくなってしまう。
「じゃ、週末楽しみにしてますね」
嬉しそうにしながら、栗原は帰っていった。
......
週末、俺は自分の部屋でベッドに寝転がっていた。カフェには行っていない。あの後、女子生徒と連絡をとって栗原が言っていたカフェに行くように伝えた。
ベッドの上に寝転がって天井を眺める。カフェに行くことは栗原から提案してくれた。けれど俺はその気持ちを踏みにじった。
今頃、栗原は怒っているだろうか。いや、どうしようもない先輩だと呆れて、女子生徒とカフェでの時間を楽しんでいるのかもしれない。
スマホの電源は切ってある。万が一栗原から連絡が来た時に無視する勇気が俺にはなかった。
両手で顔を覆う。どうしよう。俺は今後どんな顔して栗原に会えばいいんだ。自分勝手な思いに心底呆れる。
......
週明け、俺は身を小さくしながら学校へ向かった。校舎に入ったらダッシュをして教室の中に滑り込む。教室にさえ入れば栗原がきたとしても大丈夫。他クラスの生徒は入ってこれない仕組みだから。
なるべくクラスからは出ないようにしよう。そうは言っても、栗原自身が教室にやってきてしまえばもうどうしようもないわけで、
「北口先輩、栗原です」
栗原が昼休みに三年生の俺のクラスまでやってきた。顔を合わせたくなくて、とっさに隠れる。まだ栗原には教室の中に俺がいることはバレていない。
「おーい北口、二年の栗原が呼んでる」
佐々木黙って! そう思っても時すでに遅し。俺が教室にいることが栗原にバレてしまった。
「北口先輩、今お時間よろしいですね?」
心なしか目が全く笑っていない。
「......はい」
それ以外に俺に与えられた答えはなかった。
......
「週末のあれはなんだったんですか?」
壁に追い詰められながら問いかけられる。尋問に等しいと思った。こんなに怖い雰囲気を纏った栗原を俺は見たことがない。
「ごめん、なさい」
「誤って欲しいわけじゃないんです。どうしてカフェに来たのが先輩じゃなくて菊池だったのかって聞いてるんですよ」
菊池とはあの女子生徒の名前だ。
栗原から本当の話以外はいらないという圧を感じる。
「栗原との仲を取り持ってほしいと言われて、その手助けをした」
息を呑む音が頭上から聞こえた。
「......そうだったんですね」
感情を失ったような声に俺は思わず顔を上げた。
歪んだ悲しげな表情を栗原はしていた。俺が驚くと、栗原は慌てて顔を隠した。
「すみません」
「俺こそごめん。これからはしないから」
「......」
栗原は黙ったままだ。
「.....ねえ先輩ってかっこよくて、笑顔が素敵な人がタイプなんですよね。......佐々木先輩も笑顔が素敵ですよね。それにこの前、駅前であった人も、人懐っこそうでしたし」
「佐々木? 確かにそう思うけど」
陽キャだし、教室でもよく笑っているような気がする。古川はさておき。
「もしかして俺が邪魔になったから、菊池とくっつけようとしたんですか」
「は? 何言って」
「俺が嫌になったならちゃんと言ってください」
俺の肩に添えられた手に力が込められる。一体なんの話だ。この話に佐々木は関係ないはず。
俺を見つめる表情にいつものような笑顔はない。強張っていて、瞳が冷めている。初めて栗原のことを怖いと思ってしまった。
「痛い」
その言葉に反応した栗原はパッと肩から手を離した。
「先輩、ごめんなさい。......俺、当分二人で会うのはきついです」
「え......」
栗原は、悲しげな表情をしていた。俺はそのまま言葉を紡ぐことができなかった。
栗原は俺に背を向けて歩いていく。
なんてことをしてしまったんだろう。呆れられてしまうかもしれない。けれど、悲しませてしまうことまで想像できていなかった。栗原がすねて、俺が謝って、はい仲直り。そうなるだろうと慢心していた。
取り返しのつかないことをした。好きな人を傷つけてしまった。
へなへなとその場に座り込む。予鈴が鳴るまで俺はその場から動けなかった。
あれから一週間が経った。栗原とは会っていない。
連絡が来ることもなければ、姿を見かける事さえないのだ。きっと俺を避けているのだろう。
俺が原因で距離を置かれているわけだから、こちらから接触することもできない。この時間がもどかしい。
「おーい、北口。最近元気なくね?」
机の横を見ると、不思議そうな顔をした佐々木が俺の顔をのぞいていた。
「佐々木、余計なお世話だよ」
「あの後輩くんが来ないことが原因だったりする?」
沈黙は了承と同じとはよく言ったもので、佐々木は事態を察したようだ。普段はおちゃらけているけれど、察しがいいところがたくさんの人を引きつける魅了につながっているのだろう。
「なーにがあったかは知らんけどさ、栗原とは超仲良いだろ。謝ったら許してくれるんじゃねえの」
「そんなことない。実際今は、相手から距離を置かれているんだし」
「えーマジ!? 合コンの時栗原は北口と超仲良い感じ出してたよ」
「え?」
想像もしていなかった回答だ。栗原はそう言うことを積極的にするタイプではないと思っていたから。
佐々木は少し難しい顔をして、モノマネを交えながら答えてくれた。
「北口先輩とは、よくカフェに行く仲なんです、俺のこと可愛がってくれてて、とかを笑顔全開で言うんだぜ。栗原ってあんまり笑わないイメージだったんだけど、北口のこととなると違うのな。後帰り際に、俺は先輩にしか興味ない、それに先輩は俺のなんで、て耳打ちされたし」
あの時の栗原の様子は恐ろしかったと佐々木は肩を震わせた。
俺はそんなの知らない。対外的に見れば俺と栗原は仲のいい先輩と後輩で、それ以上でもそれ以下でもない。ずっとそう思ってきた。
ちょっと周りの人と俺に接する態度が違くても、慕われているからの一言で心を落ち着かせた。そうしないと栗原も俺のことが好きなんじゃないかって錯覚しそうになるから。優しい声も表情も、俺のこと気遣ってくれることも、全部全部好きだって言いそうになってしまうから。
でも栗原がそう思っていなかったとしたら?
「......俺、行かなきゃ」
行くってどこに!? という佐々木の声を無視して俺は栗原がいる2年生の教室へ向かった。
逃げてちゃ駄目だ。栗原から来てくれるのを待つんじゃなくて俺から聞かなくちゃ。
栗原は今何を考えている? 俺のことをどう思っているの。
栗原の教室へ向かっている途中、空き教室に誰かがいるのが見えた。一瞬見えた背丈格好には見覚えがあった。
「栗原......?」
間違いない、栗原だ。
でも、どうしてここにいるんだろう。じっと見つめていると栗原の他に女子生徒が一人いるのが見えた。菊池さんだ。
二人の間には独特な雰囲気が漂っていて他の人を寄せつけない様子。嫌な予感だ。
菊池さんが栗原との距離を縮めていく。そうして栗原に抱きついた。
やめてよ、触らないで。どうしようもない気持ちが溢れてくる。そう思う資格すら、俺は持っていないのに止められない。こんな自分勝手な気持ち、知りたくなかった。
呆然と見つめていると、栗原と目があった。驚いたように少し眉が上がる。けれどすぐに目が逸らされた。そして栗原は菊池さんの背中に手を回した。
......無視された。
俺はその光景を見ていることができなかった。くるりと後ろを向いて歩いてきた道を戻る。俺はとんだ思い違いをしていたみたいだ。
......
翌日、俺は学校を休んだ。空き教室での光景が忘れられない。
栗原と菊池さんはどうやら両思いだったらしい。栗原に呼び出された日の昼休み。きっと栗原から直接菊池さんにアピールしたかったのに俺が横槍を入れたせいで怒っていたのだろう。
佐々木から聞いた、合コンで栗原が俺の話を楽しそうにしていたと言うのはただ先輩として俺を慕っていたからなんだ。
もしかしたら栗原も俺のことを好きなのかもしれないと思い上がっていた自分が恥ずかしい。
スマホの通知が鳴り続けている。今回ばかりは電源を切る気力もなかった。
もし重要な連絡だったらまずいよな。そう思って画面を開いてみると、栗原からの着信がほとんどだった。
from 栗原
:先輩今日学校休んだんですね
:体調悪いんですか
:少しでも元気があれば、返信してくれたら嬉しいです
:返信ないですけど、本当に大丈夫ですか
栗原は俺の両親が共働きで夜遅くまで家に帰ってこないことを知っている。
俺が体調不良で休んでいると思って連絡をしてきているんだろう。
そんな優しさでさえ、今は苦しい。
from 北口
:大丈夫、心配かけてごめんな
メッセージを送るとすぐに既読がついた。
from 栗原
:俺、先輩の家に行きます
「え!?」
大丈夫だと言ったのに俺の家に来るという。
来なくていいと連絡をしても一向に既読がつく気配がない。
俺は急いで身支度を整えた。学校に行かないので髪もボサボサで毛玉だらけのスウェットを着ていたから。
好きな人の前では少しでもいい自分でいたい。失恋したというのに諦めの悪い自分にため息が出た。
......
しばらくしてから本当に栗原が俺の家にやってきた。玄関で話すのも気が引けるのでリビングに上がってもらっている。
何とも言えない雰囲気に俺は怖気付いていた。
何を言われるんだろう。わざわざ来たのはただ俺の体調不良を案じてのことだけではないだろうから。
「先輩、体調大丈夫ですか」
栗原が先に口を開いた。
「大丈夫、心配すんな」
そもそも、体調不良で休んだんじゃないし。
「それじゃあ、俺と目を合わせてくれませんか」
なんとなく目を合わせないようにしていたのがバレていたらしい。昨日の空き教室での様子を見てしまったのと、栗原に失恋したので目が合わせづらくなってしまっていた。
怖気付いてどうする。緊張で暴れる心臓をできるだけ抑える。
「ほ、ほら、目を合わせたぞ」
「......うん、久しぶりに先輩の顔を見れて嬉しいです」
いつもの栗原の声だ。一緒にカフェに行って何でもない話をする時と同じ柔らかい声。ほんの少しの期間、聞かなかっただけなのに胸があたたかくなる。
俺の臆病な心をほぐしてくれる。振り返ってみれば栗原はいつも俺に寄り添ってくれた。
「.....この間は勝手にキレて、距離置きたいだなんて言ってすみませんでした」
栗原は正座をして頭を下げた。まさかそこまでするとは。
「ちょ、そう言うのいいって! 俺も悪かった部分あったと思うし」
「......それも事実かもしれないですけど、俺が悪いのは事実なんで」
申し訳なさそうに、顔を青くして栗原は言った。太ももの上に置かれた拳はキツく握りしめられ、爪が食い込んでいる。
そして何かに怯えるように少し震えていた。
「......うん」
変に誤魔化しちゃ駄目だ。昼休みに栗原に連れ出されて壁に追い詰められた時に怖いと思ったことは本当だから。
「でも、大丈夫だよ」
俺は膝をついて、正座をしている栗原の前に座った。キツく握りしめられた拳をゆっくりとほぐしていく。
固く閉じられた心をほぐしていくみたいに。これは栗原が俺にしてくれたことだ。
「先輩......」
「俺も悪かったよ。約束を勝手に破られるなんていい気がするもんじゃないしな」
大丈夫だと示すみたいに口角を上げると、栗原が泣きそうな表情をした。
けれどグッと我慢をして、ここからが本題というように、栗原が言った。
「先輩はこれから俺がいうことを信じてくれますか」
「信じるも何も、可愛い後輩の話はいつもちゃんと聞いてる」
「そうじゃなくて......先輩と後輩の関係じゃなくて、俺と北口先輩個人として考えて欲しいんです」
どんな話が栗原の口から出てくるのだろう。栗原は決意が固まったと言うような表情をしている。
俺は心臓の音を大きくさせながら栗原の言葉を待っている。
「俺、先輩が好きです」
俺と手を繋いだまま栗原は言った。まるで一世一代の告白をするかのように頬を赤く染めながら。
「へっ!?」
想定外すぎる言葉にすっとんきょうな声が出た。
お前が好きなのは菊池さんのはずだろ。空き教室で抱き合っているのも見た。
「栗原は、俺のこと好きじゃないだろ」
「どうしてそんなこと思うんですか」
「だって昨日空き教室で菊池さんと」
抱き合っていたじゃないか。
喉の奥からぐっと何かが迫り上がってくる。堪えるようにして拳を握る。
さっきから頭が混乱している。どうしようもなく胸が痛い。
「やっぱりあれは先輩だったんですね。俺は抱きしめたんじゃなくて、俺の体から離したんですよ」
「......そうなの?」
気の抜けたような俺の声を聞いて、柔らかく栗原が微笑む。
「そうです。あの後、俺は他に好きな人がいるから付き合えないって言いましたし」
「マジ?」
「マジ、です」
俺の思い違いだったらしい。恥ずかしくて死にそう。
「さて、誤解は解けましたね」
ここからが本題というように栗原は真剣な顔つきになる。
「先輩は俺のことをどう思ってますか。俺は先輩のことが恋愛的な意味で好きです」
真っ直ぐな告白だ。夢みたいな言葉だ。俺はずっと選ばれないと思っていた。
臆病な俺の心に、すっと入り込んで暖かく包んでくれる。可愛いという言葉でかっこよさにモザイクをかけた。直視していたら、態度でバレてしまうかもしれないから。
でもこれからは隠す必要はないんだ。
自然と一粒の涙が溢れた。
「......俺も、栗原が好き」
「じゃあ俺たち両思いってことでいいですか?」
そう言う栗原の声は喜びで震えているように思えた。ふんわりとした、俺を甘やかすみたいな笑みを浮かべている。
「うん」
「素直な先輩、可愛い」
そう言って栗原は俺を抱きしめてくれた。全身で感じる体温は暖かくて、俺を包んでくれる腕は力強い。ああ、大好きだなって心が叫んでいる。
「ねえ、先輩」
「うん?」
「俺、先輩の部屋に行きたいな」
「え、なんで」
「もしかしたら先輩のご両親が帰ってきちゃうかもしれないじゃないですか。それじゃあ、安心していちゃつけないですよ」
「いちゃつくって......!」
「先輩は嫌ですか?」
子犬のような瞳発動。ずるい、わかってやっているのが余計に。これがあざと可愛いというやつか。
「わかった、いいよ」
「よかった嬉しいです」
俺の部屋に入って、ベッドの上に座る。すると栗原に抱きしめられた。
「やっとこうして抱きしめられる」
耳元でささやくように言った。栗原が纏う柑橘系の香りがすぐ近くにある。俺たち以外がいない空間なんだと自覚した。
(これまずくないか)
好きな人と二人きりな状況にようやく危機感を感じた。
でも、緊張がバレないようにいつものように話す。
「やっとってなんだよ」
「俺ずっと我慢していたんです。先輩絶対に俺のこと好きなのに全然言ってくれないから」
顔がカッと熱くなった。隠しきれていると思っていたのにうまく行っていなかったのか。恥ずすぎる。
「言ってくれればよかったのに」
「だって、先輩の方から言って欲しかったんですもん。それに俺あんなにアピールしてたのに」
気持ちが伝わるように態度で示したり、カフェに行こうと誘ったり、わざと合コンに行ったり、いろんな話が出るわ出るわ。
「先輩は鈍感ですからね、なんとなくわかってましたけど。合コンに誘われた時にはちょっと傷つきました。でもその後の菊池との件で先輩を悲しませてしまったのでお互い様ですね」
最後の方には拗ねたように口にしていた。
「それはごめん」
「いいんです、こうして先輩と両思いになれたので。......先輩好きですよ」
甘さを含んだ目が俺を見つめる。距離が近くて栗原の瞳に俺が映り込んでいることがわかった。
「俺も好きだ」
体が自然と動いて、栗原の頬にキスをする。
すると栗原は一瞬固まった後じわじわと顔を桃色に染めた。
「不意打ちはずるいです」
「ごめん、自然と動いてた。栗原って結構俺のこと好きだよな」
「そりゃそうですよ! 俺が先輩のこと好きなの自覚してもらわないと」
そして栗原は俺の頭に手を滑りこませて、甘いキスをした。今度は唇に、そっと。
「お返しです」
ただ一瞬触れるだけ。
それなのにむず痒くて、どうしようもない気持ちにさせられる。
嬉しさが込み上げてくる。
「唇にキス、初めてした」
「え? 初めて?」
「うん」
「うわーマジですか」
それならもっとロマンチックなところでやりたかった、と栗原が項垂れる。少し不憫だ。
なんだか恥ずかしくて、こくりと頷く。
「......めっちゃ、大事にします」
「お願いします」
俺の話を聞いてさらに嬉しそうな様子の栗原にまた抱きしめられる。俺も栗原の背中に手を回して腕にぎゅっと力を込めた。
この恋はきっと叶わないと思っていた。
そんな夢みたいな現実が目の前に広がっている。
「ずっと一緒にいましょうね」
囁かれた言葉を聞いて胸が跳ねる。執着じみたその言葉が、嬉しい。
俺はこれから栗原の甘さにとけていくみたいだ。
......
side 栗原
俺は一つ年上の北口満先輩が好きだ。
先輩は覚えていないかもしれないけれど、俺たちは俺が中三で先輩が高一の時に一度出会っている。当然だ。初めて会った時の俺は受験のストレスで太っていたし、見た目にも気を使っていなかったからわからないのも当然だ。
受験生だった俺は、毎日寝不足でその日も体調が悪かった。けれど第一志望の高校のオープンスクールにどうしても行きたかったから体調不良に気づかないふりをしてオープンスクールに向かった。
その道中で案の定具合が悪くなった俺は道端にうずくまってしまった。道を行き交う人たちが俺をジロジロと見てくる。早く立ち上がらないといけないのにその気力が残っていない。
『大丈夫ですか』
そんな中で話しかけてくれたのが先輩だった。俺の第一志望の制服を身にまとった人はすごく頼もしく思えた。近くの病院まで連れて行ってくれて、診察できるまで大丈夫だと励ましてくれた。
あの先輩がいる高校に絶対に入学したい。決意がより固まったのがあの時だったと思う。
受験をして結果は見事合格。入学までの約一ヶ月は運動と自分磨きに勤しんだ。元々の見た目は悪くない方だったから垢抜けは無事成功した。
入学して先輩と委員会で一緒になって、変な話だけど運命だと思った。
先輩は甘いものが得意ではないのに俺に付き合ってカフェに一緒に来てくれた。勝手にデートをしているみたいだと思っていた。
わかりやすくて、優しくて、鈍感な先輩。そんなところも好きだ。おかげで俺に好意を持ってくれていることにもすぐ気がついた。
だから先輩を慕う人も多くて、その人たちが先輩に近づかないように動くのが大変だった。
気持ちが暴走して先輩を傷つけてしまった時、もう終わったと思った。
全部守るって誓ったのに、きっと嫌われてしまったと。
そんな時佐々木先輩から連絡が来た。佐々木先輩は特に北口先輩と距離が近くて苦手だった。でも、仲良くしないと北口先輩に態度が悪かったなんて言われてしまっては困るから愛想は良く接した。
メッセージの内容は、北口先輩が体調不良で休んでいる、俺との関係を気にしていたっぽから連絡してやってほしい、とのことだった。
そのメッセージを見てまだ諦めなくてもいいと思えた。過去に佐々木先輩と連絡先を交換していた自分に感謝。
俺は北口先輩に恋をしている。この気持ちをちゃんと伝えに行こう。