目が覚めたらベッドの上だった。
やたら固くて慣れない背中に違和感を覚え、つーんと鼻をつく薬品の匂いと見知らぬ天井に顔をしかめた。

晶斗(あきと)…っ」

「晶斗!大丈夫か!?」

なんだ…?

名前を呼んでいる。
心配そうな表情で、何度も何度も問いかける。

………。
声を出そうにも上手く口が動かない。何も言えずに口をパクパクする俺に「何も言わなくていいから!」と手を握った。
そう言われても、どうしても聞きたいことがあった。この手を握りしめていいものかどうかも迷った。

だって初めて見る人たちが知らない名前を呼びながら覗き込むように自分の顔を見ていたから。

「先生、晶斗が目を覚ましました!」

たぶん、ここは病院だ。それはわかる。
だけど、どうしてここにいるんだ?
嫌に体がだるい。重くて起き上がる気力がない。
どうしたんだ、俺… 

病院ってことは何かあったんだよな。
だけど生まれてこの方病気なんかしたことない健康優良児…
だったと思う。
そうだった…、よな?え、違うのか?


というか、俺って一体誰なんだー…?


****


倉木晶斗(くらきあきと)、高校2年生。
身長171センチ、体重56キロ。
6月15日生まれのふたご座、A型。

それが俺、らしい。

好きなものも嫌いなものもわからない。そもそも自分が何にもわからない。

あの日、俺に向かって発せられた言葉は…


“記憶喪失”


だった。


****

「おはよう、クラちゃん!」

「おはよう、えっと…」

天気がいい春の日、こうして毎朝家までやって来る。名前は確か、香崎漣(こうさきれん)

「“コウちゃん”」

「えー、ぎこちないなぁ。もっと軽い感じでいいよ!」

ポンポンと俺の背中を叩いた。
香崎漣いわく、中学校からの友人で今も同じ高校に通っているらしい。さらにクラスも同じで、毎日一緒に登校もしていたんだとか。

「あ、あぁ…ごめん」

「謝んないでよ、早く行こ!遅刻しちゃうから!」

俺の母親だという人にも挨拶をして、歩き出した。

あの日…ベッドで目覚めた日、初めて見る人たちは“両親”だった。
そう言われても何も浮かぶ感情はなく、目の前で涙を流すその人たちに俺はただじぃっと見ることしか出来なかった。
それでも生きる本能ってやつは備わっているらしく、必死に名前を呼ぶ彼らに「ごめん…」とだけ呟いた。

あれから俺は何度“ごめん”と言っただろうか。

「クラちゃん、宿題やってきた?」

「うん、やったけど…全然わからなかった」

これも記憶障害の後遺症なのかと思ったけど、香崎漣に言わせれば“クラちゃんは元々そんなもんだった”と。
いっそのこと記憶障害のせいにして、全部忘れたフリでもしてやろうかと思った。

「宿題はあとで俺が教えてあげるよ」

「うん、ありがとう」

ちなみに香崎漣はそこそこ勉強が出来る。よく教えてもらうけど、わかりやすくて勉強も捗る。
昔からこんな感じだった?という俺の問いかけには“どーだか”と笑って答えていた。違うのかな、結構その時間はしっくり来ているつもりだったけど何かが嚙み合わないんだ。

「あ、そうだこれ」

「?」

ごそごそとスクールバッグから香崎漣が取り出したのは袋タイプのキャンディだった。有無を言わず差し出してくるものだから、わけもわからず手を出して受け取った。

「さくらんぼのキャンディ!」

「うん、ありがとう…?」

見たところによるとどこでも売ってそうな普通のパッケージ、袋を開ければ小袋に分けられたキャンディがいくつか梱包されたこれと言って変わったところはなさそうなキャンディだった。

「これクラちゃん好きだったじゃん」

「…そうなんだ」

へぇ、まぁ普通においしそうだけど。だけど記憶のない俺にはこれがどんな味だったのか思い出せない。
ふーん、さくらんぼが好きだったのか。なんか意外だな、レモンとかグレープとか王道派に対してさくらんぼってちょっとキャンディ界でもコアな…

「味覚って記憶戻りやすいって言うから、昨日見付けたから買ってみたんだ」

香崎漣はそこそこいい奴でもある。へらっと笑いながら俺の背中をポンッと叩いて、その表情からは倉木晶斗のことを大切に思ってたんだろうなということが伝わる。

「それよりどう?学校は慣れた?」

「うん、…まぁ」

「1ヶ月だもんね。これから球技大会とか合唱コンクールとかあるし、去年も同じことやってるわけだからさ!思い出すといいな!」

「うん、そう思う」

早いもので俺が"倉木晶斗"になって1ヶ月経った。
記憶障害以外は特に問題がないと言われ、すぐに退院できた。

学校へ戻るのは家での生活に慣れてからの方がいいという母親に対して、友達と多く話すことで刺激になって記憶が戻るかもしれないという父親の意見が尊重され早々と学校へは復帰することになった。毎日家まで迎えに来てくれる“コウちゃん”もいるからって。
"友達"は優しくしてくれる。よく話しかけてくれるし、誘ってくれるし…でもどこか他人行儀で気を遣っているのが目に見えてわかった。
もう1年以上ここにいるはずなのに、まるで転校してきたみたいだった。


****


「クラ!球技大会クラは何に出る?俺は野球かな!」

授業後のホームルーム、来月行われる球技大会の話し合い。黒板にはバレー、テニス、野球の文字が並ぶ。そこに名前を書いて、出場種目が決まった人から帰っていい…
ってことなんだけど、俺の運動神経ってどうなんだろう?
部活には入ってないみたいだし、だけど出来ないって気もしていない。未知数だ。
うーんと考え込む俺に“何に出る?”と聞いて来たクラスメイトの山咲(やまざき)が、ハッとした顔で両手を前に出した。

「あ、やっぱいい!いいや!」

ブンブンと両手を左右に振り、焦った様子で俺から視線を逸らした。まだ何も答えてないのに、答える前にその場から去って行ってしまった。

「………。」

せっかく考えてみたのに無駄になった。
少し考え込んだだけなのに、もう少し待ってくれてもいいじゃないか。
なんて思いながらすぐに別の輪に入って行く山咲の後姿を見ていた。

ざわざわと賑やかな教室で、俺の周りだけがやたら静かに感じる。普通にしてるつもりなんだけどな。
机の横に掛けたリュックを手に取り背負った。はぁっと息を吐いて、教室のドアに手をかけた。

「クラちゃん!もう帰んの?球技大会は!?出場種目まだ決まって…っ」

「コウちゃんがテキトーに決めといてくれたらいいよ」

「え、でも」

「俺どーせ出られないから」

激しい運動はよくない、まだ退院してきたばかりだから。そう両親に言われていた。
だから体育も休みがちで、それで…さっきも山咲が俺の話も聞かずになかったことにしたんだ。気まずく思ったから。

「人数合わせでいいからテキトーに名前書いといてくれる?」

「…うん、クラちゃんがそう言うなら」

「ありがと、…ごめんね」

ごめんって便利な言葉だな。
どんな時もこの言葉を言えばその場が収まるんだから。それ以上は誰も何も言ってこない。

なるべくクラスメイトたちの声を聞かないよう制服のポケットからイヤホンを取り出し、一切振り返らず廊下を早足で歩いた。


****


春、ぽかぽかとした陽気の日が増えて来た。
近くのコンビニで棒付きのアイスを買って、そのまま通り沿いにあった公園へ向かった。
この辺で有名だと言う大きな木の公園、その木の下でベンチに座りながらソーダ味のアイスバーをかじった。

なんとなく、すぐには家に帰りたくなくて。

無駄に広いこの公園にはグラウンドがあって、小学生たちがサッカーをしている。わーきゃー言いながらみんな楽しそうに… 

外れそうになった右耳のワイヤレスイヤホンをクイッと直した。
イヤホンから流れているのは知らない洋楽、これはなんて曲なんだ?俺のスマホに入ってた曲なんだから俺が好きだった曲なんだろうけど、洋楽ばっかで何言ってるかもわからない。

でもそれが今の俺にはちょうどよかった。

何を言っているかわからない。
何のことを歌ってるのかわからない。
何も考えないで聞くことができたから。

「…はぁ」

ごろんっとベンチに背中を倒した。目を閉じる。

このままもう一度眠りたい。
出来ることなら、このまま… 

目覚めなくてもいいから。

「あーぁ、寝たままアイス食べたらいけないんだ!」

「!?」

イヤホンをしていても聞こえて来た声にビクッと体を揺らし、思わず起き上がった。甲高い明らかに女の子の声だったから。

「……っ」

落としそうになったアイスを持ち直し、外したイヤホンをポケットにしまった。声の聞こえた方に視線を向けるとベンチの横で膝を抱えて俺の方をじーっと見ていた。

長く伸びた黒い髪に真っ白なワンピース、それに負けないぐらい真っ白な肌をしていた。
たぶん俺と変わらないぐらいの歳、だから高校生…?

一切表情を変えずじーっと何も言わず見つめるから、俺も同じようにじーっと見つめ返して…

「いや、何だよっ!!」

俺のが先にギブアップした。それもわりと早く。

「え?」

なのにキョトンとして小鳥みたいな声を出すから、もう一度俺が聞き返すことになった。

「…何かようですか?すみません、僕以前の記憶がないんです」

さっきのはよくなかった。つい勢い任せに声を荒立ててしまったけど、彼女は“倉木晶斗”の知り合いかもしれないんだ。もう少し慎重に聞いた方がよかった。
なのに彼女には一ミリも伝わってなかったらしい。

「えー、何その言い方!」

「……。」

なんだコイツ?
こっちが歩み寄ったのに笑って返して来やがったぞ。すぅーっと深呼吸して、もう一度聞き返す。
うん、さっきのは聞こえてなかったことにしよう。

「初めまして、こんにちは。あなたは倉木晶斗とどんな関係ですか?」

「……。」

今度は黙った。さっきまで笑ってたのに、一瞬にして無の顔になった。
それはどーゆう意味なんだ?俺に何があってその顔なんだ!?
もういいやと思って、溶けかけのアイスを大口でかじった。

「私に言ってるの…?」

マジで何言ってるんだ、他に誰に言ってると思うんだよっ。

不思議ちゃんと呼ばれる人種なんだろうか、それともクラスで浮いてて友達いないから話しかけて来たとかなのかなー…
相手するのもめんどくさいなと思って残りのアイスを一気に頬張った。

「私が見えるの?」

ぅおーい、マジで不思議ちゃんかよ… 
怖っ 
もぐもぐと即飲み込んで立ち上がった。足元に置いてあったリュックを手に急ぎ足でその場から離れようと彼女に背を向けた。
その時だった。

ひゅんっ 

サッカーボールが俺の右目を過った。それもすごい勢いで。
やばい、これは当たる…!

「おいっ」

さすがにこれはマズい、あの不思議ちゃんがこのボールを避けられるとも思えなかった。
だけどそのボールは俺の想像だにしない形で彼女には当たらなかった。というかすり抜けた。

平気な顔して、表情を変えない彼女をするりとすり抜けた。

すり、抜け、た………

「…っ!!?」

目の前の光景に言葉が出て来ないまま、どすんっと尻もちを着くように後ろに倒れた。

な、なんだ今のは… 
なんでにこにこ笑ってるんだ?
それも俺を見ながら… 

君は一体…?

「すみませーん!大丈夫ですか~?」

小学生たちが集まって来た。
未だ声が出ない俺を見て、どんどん小学生が集まって来る。
でもみんな“俺”の周りに集まって来た。

「大丈夫ですか?」

「あぁ、…うん」

囲むように俺の周りに、あたかもそれ以外“見えていない”ように。開いた口も目も塞がらない、だけどこれはサッカーボールが飛んできた驚きではない。
目の前の彼女が、集まって来た小学生たちと重なって見えているからだった。

「…っ」

何なんだ、何で…っ 
追い付かない頭はただただ彼女を見ることしか出来なかった。また彼女も俺を見ていた。

「あのー…、どっか変なとこ打ちました?」

ぼけっとした顔で一点を見つめる俺が小学生たちには不審に思えただろう、当たったわけでもないのに異常なほどにボールの軌道に驚いてる奴なんだから。
小学生たちには彼女よりも俺の方がやばい奴だ。

「ううんっ、全然!ちょっと…ビックリして!もう大丈夫だから!」

慌てて立ち上がった。これ以上不審な動きを見せたら変質者として通報されかねない、パパっとお尻の砂を払いリュックを手にしてじゃあ!っと走り出した。
とにかく早く逃げるように、あれは見間違いだ、錯覚だ。

疲れてるんだ、俺。
慣れない生活に、きっと!
だから変なもん見ちゃったんだ!ほんの一瞬の春のなんちゃら現象的なやつだよ…!

公園の並木道を走り抜けようと、リュックを背負い直した。

「あ、イヤホン落とした!」

「え?」

ポケットに入れていたイヤホンが落ちたのかと思って立ち止まった。ポケットに手を入れながら振り返りイヤホンを確認する前に飛び込んできたのはさっきの彼女…がふわふわと浮いていた。

「うわぁぁぁぁーーーーー!!!」

紛れもなく、ハッキリと。何度だって目に映る。

「あ、やっぱり私のこと見えてるんだ?」

背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪に透き通るぐらい真っ白な肌、大きな瞳で俺のことを見ている。

「………っ」

だけど、ここで認めるわけにはいかない。認めたくない。
頭に過ったひとつのことがあるけど、決してそんなことは言いたくない。

口にしたくない…!
それじゃ今度は変質者を経て、不思議ちゃんだ…!

「霊感あるタイプ?」

「言うなよっ!!」

首をかしげながら訊ねる彼女に条件反射で言い放ってしまった。首筋にポタリと汗が流れる、ひやっとする嫌な汗だ。
血の気が引いて蒼くなっていく俺になぜか彼女はにこりと笑った。その姿はどこか懐かしく、こんな真っ白な彼女なのに暖かく感じた。

「もう帰っちゃうの?」

「…帰ります」

「そっか」

「……。」

彼女の頭から足の先まで、さらにはくっきりと表情までわかるのに…
なぜそれは俺にしか見えていないんだろう。

俺は彼女の言うように霊感あるタイプだったのか?

それも今の俺にはわからない。
だけど、もうそんなことはよくて。

落ちたイヤホンを拾ってそのまま方向を変え彼女に背を向けた。その言葉に返す言葉はなく、別にもう会うつもりもないが、このことはこれで本当に今の今で終わりにして今度こそ春のなんちゃら体験で片付けるんだ。
夏じゃないけど、お盆が近いわけじゃないけど、そんなことだってあるに違いない…はずだ。

手に持ったイヤホンをそのまま耳に付けようと近づけると、未だ知らない洋楽が流れたいた。まぁいい、このまま聞いて…

「じゃあまた明日ね!」

ざわっと風が揺れた。それは俺の胸騒ぎか何かか。

「……!」

もう一度彼女の方を向くと、もうそこには誰もいなかった。ただ並木通りの木々が揺れるだけだった。
なんだ…、今の。

「……。」

静かにイヤホンを耳に着けた。
なのにずっと消えない。

“また明日ね!”

知らない洋楽が流れているはずの耳の中にこびりついていた。


****


「晶斗、おかえり」

「…ただいま」

家のドアを開けるとふわーっと美味しそうな香りが漂って来た。エプロンを着けた母親が玄関まで出て来た。

「今日はいつもより遅かったわね。どこか言ってたの?」

「うん…、友達と遊んでた」

何か言われるのもあれだと思い、思わず嘘をついた。心配させまいとテキトーに言い放った一言だったつもりが母親はその言葉に隠しきれない喜びを見せた。上機嫌にワンオクターブ高い声で“よかったわね”なんて言いながら。
またひとつ自分を繕ってしまったようで息がこもった。

「今日はハンバーグよ、好きだったでしょ」

「うん…、たぶん」

美味しいという感情はあるが、それが好きだったという感情はない。美味しいと好きは別物だ。
だけど、美味しいから好きなわけで… 
母親の“美味しい?”には“美味しいよ”と返した。

夕飯を食べ終え、お風呂から出て来ると父親が仕事から帰って来ていた。ハンバーグを食べながら、俺の顔を見て毎日の日課を消化する。

「晶斗、今日は学校はどうだった?」

「うん、…いつも通り」

「そうか」

それを聞くと満足するのかゴクゴクとコップに注いだビールを流し込む。
この時間が俺は一番嫌いだ。まるで義務のように毎日同じセリフばかり、だけどそれに対して俺も同じことばかりで息が詰まる。

「お父さん、今日は晶斗お友達と遊んで来たの。ね、晶斗」

「なんだ、そうなのか。通りでいつもよりいい顔してるな」

別に両親が嫌なわけじゃない。良くしてくれるし、いつでも俺のことを気にかけてくれる。それはわかってる。
だけど思うように話せない。

俺という人間はどこにあるんだろう。


****


目を閉じれば暗闇がやって来るけど、明けない夜はない。また今日も1日が始まる。

しっくり来ない部屋でのそのそと体を起こし、パジャマから制服に着替える。
1階に行くとテーブルにはトーストと目玉焼きと牛乳が用意され、席に着いて静かに食べ始める。テレビからは毎日何かしらのニュースが流れている。

だけど俺の知りたいことは何一つなくて。
一番知りたいことは今もわからない。

「晶斗、早く食べちゃいなさいよ。コウちゃん来るわよ」

「あ、あぁ…うん」

口いっぱいに詰めたトーストを牛乳で流し込んだ。食べ終えた食器を乱雑に流し台に置いて、慌ててリュックを背負って家を出た。
いつもの時間に香崎漣は“おはよう”と手を振ってやって来る。

「球技大会、クラちゃんも野球にしといたよ!野球なら補欠もあるし、守備さえしなきゃ他のと比べて運動量も少ないし」

「うん、ありがとう」

「あとクラちゃん足早いから!」

「へぇ、そうなんだ」

学校までは歩いて10分もかからない。
香崎漣のトークを聞いてたまに相槌をつく、時には愛想笑いしてみたりそんな感じで学校まで歩く。香崎連の途切れない会話はずっと楽しそうだ。

「ほら、去年さぁ!打つのは苦手だけどバントで走ればイケるって、一緒にやったじゃん?」

「うん」

「一生懸命バントの練習してたらみんなに打つ練習しろよ!って怒られてさ~…」

でも時折、曇った表情を見せる。
たぶん思い出すんだ、俺が思い出せないことを。

「で、当日俺ら以外もバントする流れみたいなのできて、あれ勝つことよりウケ狙いだかったもんね!散々ホームラン宣言とかして振りに振ってさ!」

「ふーん…」

想像してみてもそれがおもしろいのかよくわからなかったけど、きっと香崎漣の中では楽しかった思い出なんだと思う。

「今年はどうする?作戦会議する?」

「…うん、そうだね」

「今年はマジでホームラン打っちゃう!?絶対去年の俺ら知ってる奴らからしたら一泡吹かせると思うんだけど!」

「あー、いいんじゃない?」

学校に着いた。下駄箱に向かって、スニーカーを上靴を変えた。
香崎漣は鼻の穴を膨らませ、下駄箱の上靴よりも俺の方を見ていた。

「でしょでしょ!じゃあ今日の午後…!」

「あ、でもあんまり激しい運動はあれだから」

わかっててそんな言い方してしまった。このあとどんな顔をするのかわかっていて。

「俺はコウちゃんのこと応援してるよ」

にこっと微笑んで。
こう答えれば香崎漣が何て言うかもわかっていたから。

「そっか、そうだよね…じゃあテキトーに楽しもうか!」

必要以上近付くのは疲れる。
俺のない影を常に追われている気がして。
どこにいても、上手く息ができない。
これも記憶を失った後遺症なんだろうか。

だから今日もあの公園に来てしまうんだ。
1人で、何も考えずベンチで寝転がり空を見る。
この時間だけが忘れている俺の全部を忘れられる時間。

「…いい天気だな」

今日も小学生たちが元気に走り回っている。その声を聞きながらリュックを枕にして目を閉じて寝返りを打とうとした時、カサッという乾いた音が気になった。その心当たりある音に起き上がって、リュックのファスナーを開けた。
それは昨日香崎漣にもらった“さくらんぼキャンディ”だ。

「味覚は記憶が戻りやすいんだっけ…?」

何の変哲もないどこにでもあるパッケージのこのキャンディにそんな力あるとは思えない。
よっぽどこのさくらんぼキャンディに思い入れがない限り思い出せることなんて…
そう思いつつも、袋を開けて小袋に分けられたうちの1つ取り出した。そのまま小袋も開け、口に放り込んだ。
口に入れた瞬間、広がるさくらんぼの甘酸っぱさに脳が刺激される。

わーっとなるような光とまるで走馬灯のように呼び起こされる記憶…

「なんてあるわけねぇか」

はぁっと息を吐いて、もう一度リュックを枕にした。
これで本当に思い出せたらよかったのに。
だけどただのさくらんぼのキャンディ、そんな魔法みたいな効果あるはずなくて。

「…普通にうまいけど」

もう一度目を閉じて、そのままぽかぽか陽気に包まれながら静かに意識を沈めて行こうと思った。
口の中でゆっくり溶けていく、ふわっと香るさくらんぼと共に。
あぁもう少しで世界が消える…

「アメ食べながら寝ちゃいけないってお母さんに言われなかったの?」

聞き覚えのある声にパチっと目を開けた。
その瞬間、彼女と目が合った。仰向けにして眠る俺の上を覗く様にぷかぷか浮いている彼女と。

「!?」

彼女の長い髪が俺の顔にかかりそうでかからない、ただ透き通って重なった。
さすがにもう昨日みたく大声を出す気にはなれなかった。たぶんこれも後遺症だ、見えるようになっちゃったんだ。

「…俺に何か用?」

その問いかけに彼女は何も言わずにこりと微笑んだ。ひんやり冷たい風が吹いた。

遠くから小学生たちのわーわーと叫ぶ声が聞こえる。パスだなんだ、今日もサッカーをして盛り上がってる。
そのグラウンド隅っこに植えられた大きな木の下で、こんな出会いもあるんだなと思いながら体を起こしベンチに座り直した。

「…座れば」

「え、いいの?」

「まぁ座る必要なんてないかもしれないけど」

「ありがとう!」

ふわっと静かに冷たい風が吹く、表情豊かな彼女とはそれがどうにも似つかわしくなかった。

「君は…」

この後の言葉には少し迷った。
口にしてもいいものかどうか、明らかに女子高生の格好をしている彼女に現実を突きつけてもいいのか…口ごもる俺に彼女が笑った。

「私死んじゃったの」

にひっと歯を出して。
可愛く笑う彼女だと、不謹慎にも思ってしまった。

「…記憶あるの?死んだ時の」

「あるよ、全部」

「そうゆう…ものなの?」

「さぁ、そうなんじゃない?私も死ぬの初めてだからよくわからないけど」

「………そうか」

死んだらその瞬間の出来事も、生前の記憶もすべてなくなるものだと勝手に思っていた。それは生きてる人間が作った固定概念に過ぎなくて、この世に彷徨っているのは思い出せないから故に縛られ存在してるわけじゃないのか。

「じゃあここで何してるの?」

「あなたは?」

「え?」

「あなたは何してるの?」

「いや、俺が聞いたんだけど…」

舌の上で転がしていたさくらんぼキャンディが溶けてなくなった。
ぐーっと顔を上げ、空を見る。今日は雲一つない青空で清々しいほどにキレイなスカイブルーだった。

「…何もしてない」

これが俺の彼女への答えだった。実際本当に何もしていない、ただぼーっとこの時間が過ぎるのを待っているだけ。

「それって楽しい?」

「楽しく見えてる?」

「全然」

「正直だね、君」

ピタッと両膝を合わせ、頬杖をつきながらじーっと俺のを見てる。わかっていながらも視線を合わせる気にはならなかった。

この時間だけが忘れている俺の全部を忘れられる時間、だけど決して俺を満たしてくれる時間ではない。
上手く息が出来ない詰まりそうになる毎日の中で唯一まともに空気が吸えるというだけで、そんな感情持ったこともない。

いわばただ時間が過ぎるのを待つ時間ー…

「じゃあ楽しいことしない?」

「は?」

「駅前のクレープ食べいに行こう!」

「はぁ!?」

あまりにうるさい要望に無理矢理駅まで連れて来られた。
所詮俺以外には見えない物体、無視するということだってもちろんできたがなぜかそんな気にはなれなくて嫌々ながらも彼女の後をついて駅前のクレープ屋さんにやってきた。ズラーっと出来た行列に即帰りたくはなったが。

「これこれ!超おいしそうだよね!何がいい?やっぱ王道のチョコバナナ!?レアチーズケーキもいいな!」

そんなこと一切気にせず彼女は前に出されたメニューの書かれた看板に夢中だった。

「めっちゃくちゃ並んでるじゃねぇかよ!」

「そうだよ、知らなかった?ほら、早く並んで!」

「絶対1時間はかかるのに本当に並ぶつもりか!?」

さぁ早くと言わんばかりに彼女がこっちこっちと手招きをした。

「おい…っ」

言い掛けたところでハッとした。果てしなく続く行列につい気を取られ忘れてしまっていたのだ。
あたかも普通に会話をしていたけど、彼女が見えているのは俺しかいないことを。

「ねぇあの人、1人で喋ってない?」
「え、怖っ」
「自分に向けて喋ってんのかな?」
「独り言にしては大きいよね」
「えー、やばー」

気付けば視線的となり、いろんなところから聞こえるざわつきに冷や汗がつーっと流れた。
しまった、やってしまった… 
彼女は俺には視え過ぎるんだ。

ボンっと熱くなった顔を隠すように下を向き、そのまま方向転換し勢いよく走り出した。一刻も早くここから走り去りたいほど、顔が熱かった。

「ねぇ待ってよ!ねぇってば!!」

どれだけ走ってもあっという間に彼女は追いつく。俺と違って息切れも何の乱れもなく涼しい顔して隣を飛ぶように追ってきて、軽く俺を追い越した。

「待ってってば!」

「わぁっ」

スッと前に現れた彼女にドキッと心臓が響いた。
そりゃそうだ、これだけ勢いよく走ってるんだ。止められるわけがない。

やばい…っ!

急ブレーキをかけようとした足がもつれ、突っ込むように前のめりに転んだ。

「!」

もちろん彼女ことをスルリとすり抜けて。
それは不思議な感覚で、心臓がゾワゾワした。
だけど次の瞬間、物凄い音が鳴った時には全身がビターっと固い地面に打ち付けられていてそれどころじゃなかった。

「わ…、大丈夫?」

大丈夫じゃない。体中に痛みが走る。物理的に息が苦しい。

「動ける?」

動ける気力がない。動きたくもない。
もうなんだコレ。なんなんだコレは。
俺は一体何をしてるんだ。

「………。」

「ねぇっ」

諦めたように重たい体を起こした。随分走ったからか、周りには誰もいなくて見られていないことによかったと思った。パパッと地面に触れていた部分を払った。
帰ろう、やっぱり。ついてくるんじゃなかった、結局どこへ行っても一緒なんだ。

「ごめんね、急に私が飛び出しちゃったから!」

「……。」

「もう少し丁寧に呼び掛けたらよかったかな?でも全然止まってくれなかったから」

「…。」

俯いたまま歩き出した。彼女から視線を外すようにして。

「あ、待って!」

「もういい加減にしてくれ!!!」

こんな大声を出したのは初めてだった。俺には大声で叫んだ記憶なんてないから。

「…もうこれ以上俺につきまとわないで」

大声を出すってこんな感じなのか、へぇ悪くないな。
頭の片隅ではどこかいつも冷静で遠くから自分を見ているようだった、それが今初めて自分の感情に出会った気がした。

彼女を突き放したわりに自分の中ではスッキリしていて、いつものように制服のポケットからイヤホンを取り出そうと思った。

「事故に合った日だったの…っ!」

だけど、後ろからした彼女の声にピタッと手が止まった。

「クレープ食べに行こうねって約束して、じゃあ明日行こうって…、すっごい楽しみだった。何食べよっかって話したりして…っ」

痛みを叫んでるような悲しい声で必死に言葉を紡いでいるようだった。

「でもそのあとすぐ…、車が…っ」

記憶がないまま生きるのと記憶を持ったままこの世を彷徨うのでは、どっちが不幸だろう?

俺が毎日何も見えない暗闇で過ごしているように、彼女の未練も永遠に消せない闇の中だ。

どちらも変わらず不幸なんじゃないかな、それは。

「…君はクレープ食べたら満足するの?」

「…たぶん」

「たぶんて」

「じゃあ絶対!」

「テキトー過ぎない?いいけど…」

はぁっと息を吐いてポリポリと頭を掻いて歩き出した、もう一度あの駅前のクレープ屋さんまで。

「行くよ」

「え、いいの!?」

「その願い、俺にしか叶えられないでしょ」

彼女は“俺”に向かって言っていた。
だから付き合ってあげてもいいかもしれないって、思ったんだと思う。

自分でもこの透き通った彼女の言うことを聞く意味はよくわからなかったけど。

走ってきた道を戻るようにクレープ屋さんまで歩いた。歩いてる途中からでもわかった、遙か遠くに見えている最後尾と書かれたパネルが。
1時間で済むのかこれ…

「なんでここのクレープ人気なの?他のじゃダメなの?」

「ここのクレープね、ハートのチョコレートを上に乗せてくれるの!」

さっき見せた表情とは打って変わって、キラキラと瞳を輝かせ大きな口を開けて語るわりにはあまりに単調で思わず次の言葉を待ってしまった。だけどそれ以上何も出て来ないことに、目をぱちくりさせてしまった。

「…え、それだけ?」

「うん、それだけ!」

「それ…嬉しい?」

「すっごい嬉しい!」

「へぇ…」

この行列を見る限り、そう思ってる女の子は多いんだろう。それが差別化ってやつなだろうけど、それこれだけお店も繁盛すればチョコレートひとつ付けた甲斐だってある。

「…ダメ?」

「いいよ、君が嬉しいなら」

「そーゆうと思ったの!」

「君は俺の何なんだ!?」

キャッキャした女子高生たちが浮かれ気分でクレープ目指して並んでいる中、明らかに俺は浮いていたけど考えてみれば最初からそんなもんだった。
今更浮いているとか、そんなの気にするようなものじゃなかった。

そもそも記憶のない俺に、この現状をどうかと思う心情なんてないんだ。
何かが吹っ切れたような感覚になり、急に心が軽くなった。

不思議だった。
彼女を見ていると、なぜだか全部どうでもいいように思えて。
でもそれは悪いことじゃないと思えた。

「わぁ~~~~、可愛い~~~~~~!」

1時間と10分待ってやっと買うことが出来たクレープ、一番上にちょこんとピンクのハートのチョコレートが乗っけられている。
両手をきゅっと合わせるように握った彼女がまじまじといろんな方向から見ている。俺の周りをくるくる、なんなら一度すり抜けた。

「やっぱチョコバナナにして正解だよね!ピンクが映えるもんね!」

声高らかに、どれだけこのクレープに彼女が懸けてたのかはよくわかった。
しっかり目に焼き付けるように、じーっと夢中に見つめて…
俺の右手にやたらプレッシャーがかかって少しだけ緊張した。無意味に震えそうになる右手にグッと力を入れながら、彼女のを横目にクレープ屋から離れるように歩いた。

「これどうやって食べるの?」

「え、それは思いっきりガブっとかぶりつくように!」

「そうじゃなくて、君が!食べれる方法はないの?」

悲しい顔をさせたかったわけじゃないけど、わかりやすく眉をハの字にする彼女を見てこれは逆効果だったんじゃないかと思った。

「…ないんじゃない?私死んでるし」

笑いたくもない笑顔は、ただでさえひやっとする彼女が余計に冷たく感じる。
でもじゃあどうして俺に頼んだのか?どっちにしろ得られるものはないのに。

「あ、お墓は?お供えしたら食べられるとか!」

「そんなおとぎ話みたいな話ないよ、もちろん気持ちは届いてるよ。だけど実際に食べられるわけじゃないから」

くすっと笑われた。結構本気で言ったつもりだったのに。

「…じゃあどーすんのこれ?」

ただなんとなくここまで歩いて、気付けば目の前は海だった。港の方まで歩いて来てしまったらしい。

「キミが食べて」

「………。」

「私の代わりにキミが食べてくれない?」

ふわっと真っ白なスカートを風になびかせ、音もなく堤防の天端に立った。だからその下を歩いている俺は彼女を見上げることになった。

「いいけど、それ意味あんの?」

「あるよ!それ見て食べた気になれるよう想像するから!」

両手をグーにしてきゅっと握った。
彼女はコロコロと表情をよく変えた。この世のものではないくせに、誰より人間らしくて冷たいのに温かかった。

リュックを下ろして彼女の立つ隣に置いた。その上にクレープを置いて、空いた両手で堤防によじ登った。
海を見るように腰掛けると、同じように彼女が隣に座った。

「いただきます」

改めてクレープを手に持って、ガブっと大きな口でかぶりついた。ぎっしりと詰まったクリームは噛んだ力で横にはみ出て、口元にクリームがわんぱく少年のように付いた。

「どう?どんな感じ?」

付いたクリームを拭いながら、口の中を整理するように答えた。

「甘くて、クリームがすごくて、バナナが入って…それはあたりまえか。あとチョコレートも甘くて、えっと、…おいしい」

甚だ語彙力がなかった。
なんだこの見たまま言ってますみたいな感想は!その辺の子供でももっと上手く喋るだろ!

一気に恥ずかしくなった。
やばい、また顔が赤くなる。
絶対彼女も呆れて…っ、るだろうなと思ったのに俺の口元を見ながらずっとああでもないこうでもないと表情を変えていた。
マネするように口を動かして、ごくんっと飲み込むと彼女もごくんっと飲み込む仕草を見せた。

「おいしいね!」

「本当かよ!」

ふふふと笑って、風が吹いた。
絶対味なんて伝わらないし、ましてや俺の足らない言葉では何もわかるわけなかったのに、本当にクレープを楽しんだかのように笑った。

その姿に、思わず目が離せなかった。
そんな風に笑えるんだ。

透き通った彼女でも。

「ねぇねぇ、クレープかじってみてもいい?」

「いいけど、どうやって?」

「こうやって」

俺の返事を待つことなく、グッと近付いた。
突然近付いた距離に無駄にドキドキして、相手はそんなんじゃないのに目を逸らしたくなった。
右手に持つクレープに唇を添えてパクッと口を開け、一口。

「おいしい」

「…わかんないだろ」

「わかるよ、甘くておいしい」

ぺろりと下を出していたずらに笑う、不覚にも“可愛い”そう心の隅っこで思ってしまった。

こんなどこの誰かどころか、ここの誰でもない彼女にこんなこと思うなんて…
だけど彼女の笑った顔に少し安心感を覚え始めていた。

はぁっと大きく息を吐いて、二口目のクレープを食べた。

「わ、間接キス♡」

両手を頬に当てて、ちょっといじらしく俺の方を見て来た。その言葉にはくだらないとわかっていながらも反応してしまって、別の意味で頬が赤くなった。

「違うだろ!食べてないんだから!」

「食べたもん、さっき見てたじゃん!」

「みっ見てたけど、口はついてないし!」

「なんでそんなムキになってるの?」

「別にムキになってなんか…っ」

俺ばかり焦っているようだった。
くすくすと笑う彼女の隣で残りのクレープを食べた。左半分がひやっとして冷たい。

だけど嫌じゃない。
それは居心地が良くて、初めてだった。
あの日から、もう少しこうしていたいって思ったのは。

最後の一口を頬張った。口の中、隅から隅まで甘ったるくて無理矢理詰め込むように飲み込んだ。

「ねぇ次は何が流行ると思う?」

「…ハンバーグがいいな」

「ハンバーグに流行りとかないし!それ今食べたいやつでしょ!」

喉が渇いたな、飲み物も買えばよかったかもしれない。ここから買いに行くのは自販機さえ遠くて少し億劫だった。

「でもハンバーグは流行るとしたら、食べ歩き出来るのがいいよね!串に差してとか、パンに挟んでとか!あ、それだとハンバーガーになっちゃうか。もう流行ってるよね」

右手の人差し指を顎に下に当てて、首をかしげながらうーんと唸り、長い独り言は終わりを知らないのかと思うほど続く。

「ご飯でもあるし…あ!じゃあハンバーグもクレープで巻いちゃう!?絶対おいしいよね!」

「……。」

「なんかクレープに巻きたいもの他にある?」

「もうハンバーグじゃなくなったじゃねぇかよ」

ジェットコースターのようにコロコロ変わる話題は彼女の表情と連動しているのか、見るたびに違う表情を見せ、一瞬で忘れ去られたハンバーグに思いがけず笑ってしまった。ははって、声まで出して。
ねぇ何がおもしろかったの?って、わかってなさそうにしながらも明るい表情にまた居心地がよくなってしまったんだ。

自然と自分の声も明るくなってしまうぐらいに、初めて笑えた気がしていた。

だけどすぐに現実は押し寄せてくる。
制服のズボンのポケットから小さな振動がした。
たぶん、携帯が鳴った。確認しなくても想像はつく、誰から何て送られてきたのか。
いつもなら帰宅している時間だったから。

「…どうしたの?」

一瞬で曇った俺の表情に気付いた彼女も表情を変えた。
なんて答えよう、いつもの俺なら“どうもしてないよ”って答えていたかもしれない。あの日からずっとそうして来たから。

「君といると楽だな」

「え?」

「俺、記憶がないんだ」

ひゅーっと風が吹いた。海のそばは風が増して体に当たる。

「もう1ヶ月以上前だけど、事故にあって…それまでの記憶が全部ないんだ」

「…そうんなんだ」

「だけど記憶がないって言っても俺の場合生活に困るものはなくて…食事や睡眠の意味はわかるし、学校が何かってことや、クレープだってハンバーグだってわかる。日常で不便なことはないんだ」

記憶喪失ってものは人それぞれで定義されるものはない。
その時の状況や損傷によって変わり、これと言って決められるものがない。

あればよかったのに。
何か違ったかもしれないのに。
そしたらこんな気持ちになることもなかったかもしれないのに。

「だけど俺の形成するものは何もわからない」

名前も性格も好きなものも嫌いなものも、母親とは仲良かったのか、父親のことはなんて呼んでいたのか、友達とはいつも何の話をしていたのか…

俺は一体どんな人間だったんだろう?

ぐるぐると頭の中で回る、寝ても覚めても同じ場所にいる。まるで箱に全てしまい込まれたように、永遠に閉じ込められたままそこからどこへも行けない。

「君は俺のことを知らないし、俺も君のことを知らない。だから何も考えなくていい」

記憶に触れられることなく、今の俺を見ながら未来を話す君に何か解放された気分でいた。

「いつも何か考えてるの?」

「…人間、生きる術ってやつは生まれながら備え持ってるからね」

傷付かないように、悲しい思いをさせないように、少しでも笑って見せていた。両親にも友達だという人にも、俺には何も感じないただ入り込んできた存在なのに。

そうすることで守っていたんだ、自分を。

だから疲れるんだ。家も学校も何をしてても。
いっそのこと目覚めなければよかったのに、何度そう思っただろうか。

彼女が歯を見せるように口角を斜め上にキュッと上げた。

「じゃあ私はキミにとっての特別だね!」

「は?」

「だって私の前では飾らない自分でいられるんでしょ!」

「いや、そこまでは言ってないけど」

優しく目を細め、陽だまりのように笑った。
太陽の光が海に照らされて、透明な彼女をキラキラと映し出している。
必要以上話さなくてもすべて彼女には伝わっているみたいで、すぅーっと体の力も抜けていくように思えた。

なんだろう、この感じ。
眩しい光に包まれて、彼女が笑えば胸の奥からきゅっと音がこぼれる。

久しぶりかもしれない、なぜだかそう思った。
初めてではなく、久しぶり。

こんな風に彼女だけを見つめたのは。

「ねぇ君、名前は?」

「私?フユ」

真っ白なワンピースを着た透明な君にピッタリの名前だった。