昼休みでガヤガヤした二年クラスの廊下に、ひとり上靴の色が違う生徒がいた。
その生徒は、昼食を終えた生徒たちの行き来があるため開け放してある二年生の教室の戸口から室内をのぞく。
「暦いるー?」
「雪下ー。扇谷先輩―」
三年の扇谷冬留が二年クラスを訪ねてくることはすっかり日常の風景になっているため、男子生徒は驚くこともなく当然のようにそう呼んだ。
教室の戸口にいた男子生徒に呼ばれた雪下暦は、ん? と顔をあげる。昼食後友達と集まっていたので、行って来ると断ってから席を立った。
「冬留先輩」
冬留は男子生徒に礼を言って廊下側に身を引いた。暦も廊下に出る。
冬留は同年代では背丈が高い方で、細身だがひょろりとしているわけではなく年相応にしっかりしている。
暦は色々と平均値。身長も成績も運動も。
冬留はこちらが元気になりそうな笑顔を見せる。
「昨日もらったレシピ最高だったわ」
「もう作ったんですか?」
「そらもう。弟も妹も母さんも暦が教えてくれるやつのファンだから、新作もらったらすぐ作らないと怒られるくらい」
「そう言ってもらえて嬉しいですけど、私のもネットとかで拾ってくるやつですから」
「じゃあ暦は美味いの見つけるのが上手いんだな」
「お役に立ててるようならよかったです。でも先輩、部活ももう引退して、受験ですよね? おうちで勉強できてますか?」
「志望校合格範囲内、出た。てか、俺がお菓子作ったらその分弟妹が家のことやるようになってくれたんだ。その間勉強できるから、すげー助かってる」
「お菓子を報酬にしてるわけですか」
「そうそう。その礼言いに来た」
「だったらまた部活に顔出してくれたときでもよかったのに」
「いやー……今、料理部結構な人数いるだろ。みんなの部長の暦を独り占めしたら悪い気がして」
「私そんなんじゃないですよ?」
「そんなん以上だよ。じゃ、また来る」
「それよか勉強頑張ってください」
「はいはい」
頑としてそこは譲らない暦に、冬留は苦笑いを浮かべて踵を返した。
暦が自分の席に戻ると、先ほどまで一緒に話していた二人の友達が身を乗り出してきた。
「暦、今日はどうしたの? 扇谷先輩」
「いつもの報告。美味しかったって」
「すっごいマメに来るよね」
「まあ、先輩も引退したし、私が部長だから気になるんじゃないかな?」
暦は愛想笑いを浮かべて返す。
暦と冬留は、料理部の先輩後輩という関係だ。
最初の――二人だけだった、料理部の。
友人二人はぽわっと浮足立った顔になる。
「いいなあ、扇谷先輩みたいなイケメンに気に入られて可愛がられるの」
「あの見た目の扇谷先輩が、スポーツ系の部活じゃなくて料理部ってのがまた」
「あ、あはは……」
なんだか友達二人はときめいているが、暦は素直にはうなずけなかった。
なぜなら冬留が料理部だったのは、暦が餌付けしてしまったからだ。
+++
「ごめん、受け取れない」
そう言われたのは、一年前の夏休みのあと。
中学一年生だった暦は、調理実習で作ったクッキーを同級生の男子に渡そうとしていた。
けれど、返ってきた返事はそれで。
そうだよね、いきなりごめん。そう言って、暦は愛想笑いを浮かべてその場を離れた。
そして帰り道、学校から家の途中にある公園のベンチでひとりうなだれていた。
「……はあ……」
出るのはため息。心の中にはたくさんの言葉が渦巻いていたが、どれも口には出なかった。
出さなかった、というよりは、口に出したら泣いてしまうそうで口をつぐんでいた。
「おねーちゃんどしたの? だいじょうぶ?」
うつむいて自分の足元ばかり見ていると、幼い子どもの声がした。
視界の端に、小さな靴が二人分入っている。
「え……」
そっと顔をあげると、目がくりくりとした可愛い男の子と女の子が、手をつないで暦のことを見ていた。
男の子は小学校低学年くらい、女の子は幼稚園くらいに見える。
「あたまいたいの? おなかいたい?」
男の子の方がそう暦に問いかけてくる。暦はいきなり現れた子どもたちに少し驚いたが、ここは公園なので、自分以外がいてもおかしくはないことに気づく。
「あはは、大丈夫ですよ。心配かけちゃってごめんね?」
「そうなの?」
「うん。ちょっと考え事してただけなんです」
「そうなんだあ。おにいちゃんもいっつも考え事してるよ」
男の子の方が、指で眉間にシワを作りながら言う。
「おにいちゃんがいるんですか?」
「うん! ぼくの友達が、カッコいいって言ってる! ね、はるか」
「うん。おにいちゃん、かっこいいよ」
あまりに素直に兄を褒める二人に、暦は思わず微笑んだ。
「自慢のお兄ちゃんなんですね」
「うん! あ、おにいちゃん! こっちだよー」
「秋斗(あきと)、春佳(はるか)もう二人だけで先行くなって……うん?」
小走りでやってきた『おにいちゃん』は、暦と同じ中学の制服姿。
暦の姿を認めるなり声をかけてきた。
「あ、もしかして二人の事つかまえててくれた? ありがと。同じ学校だよな?」
「はいっ。一年の雪下暦です。別に誘拐犯とか怪しい者じゃないので――」
ベンチから立ち上がった暦が慌てて顔と両手をぶんぶん振ると、『お兄ちゃん』がふっと笑った。
「そんなこと疑ってないよ、安心して。俺、扇谷冬留ね。二年。弟の秋斗と、妹の春佳。ほら、ご挨拶は?」
「はじめまして。おうぎやあきとです」
「……はるかです……」
「はじめまして。ゆきしたこよみ、っていいます」
「こよみちゃん!」
「……こよみちゃん……」
名前を知った秋斗が嬉しそうに言うと、春佳も控えめな声ながら『こよみちゃん』と呼んできた。
なんだか暦の胸の中がほかほかしてきた。
「よろしくお願いします。秋斗くん、春佳ちゃん」
暦が膝を折って、秋斗、春佳と目線を合わせて言うと、頭の上から声が降ってきた。
「雪下さん、俺は?」
「あ……扇谷先輩」
冬留が不満そうな顔で言ってきたので暦が立ち上がりながら口にすれば、にっと笑った。
「冬留でいいよ。俺部活入ってないから、先輩後輩ってあんま関りないから」
その言葉に、あれ? と思う暦。
暦たちの通う公立中学では、部活に入ることは絶対だったはず。
何か理由があるのかな? と頭の隅で考えながら口を開く。
「……冬留先輩?」
「うん。雪下さん、誰かと待ち合わせとか?」
「いえ、ちょっと考え事してただけで――」
ぐう~、と、誰かのお腹が鳴った音がした。
直後、すっと春佳が秋斗の影に隠れたので、恥ずかしかったのだと暦もわかった。
「春佳ちゃん、よかったら食べますか?」
暦はそう言って、カバンから小さな包みを取り出す。
え、と反応したのは冬留だ。
「キレイな包装だけど、誰かにもらったやつじゃないの?」
どきり、と暦は一瞬固まってしまった。
しかしすぐに笑顔を張り付ける。
「いえ、今日の調理実習で作ったんです。その……あげる人もいないので……。春佳ちゃん、クッキー食べられる?」
「た、たべて、いいの……?」
春佳が驚いた顔で、けれど嬉しそうに言った。
もちろん、と暦はうなずき包みを開けて春佳に差し出す。
「いただきます……、お、おいしいですっ」
遠慮がちな手つきで食べた春佳が、ぱっと顔を明るくさせた。
暦は素直に嬉しくなってしまう。
「こよみちゃん、僕も食べたい」
「秋斗くんもどうぞ」
今度は秋斗が一枚手に取ってぱくりと食べた。
「おいしい……!」
「本当? 嬉しい」
「あっ、はるか食べ過ぎ!」
いつの間にか春佳が全部食べてしまっていて、包みの中は空になっていた。
「ぼく一個しか食べてないのに~」
秋斗が抗議の声をあげるも、春佳はもぐもぐと口を動かしている。
その様子に、暦は思い出した。
「冬留先輩、一瞬、一瞬でいいのでここで待っていてもらえませんか?」
「? うん」
「ではっ」
そう言って暦は駆け足で公園を出た。
そして一分も経たないうちに袋を手に戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
「家です。ちょうど公園の目の前なんで。秋斗くん、もうクッキーはなかったんですけど、よかったらこれ食べてください」
「えっ、なになに?」
「マフィンです。家で作ったのなんですけど、三個ありますから、みんなで分けてください」
「いいのっ? あ、こよみちゃんのは?」
「私は作ったときに食べてるから大丈夫ですよ」
そう言うと、秋斗は嬉しそうな顔で袋を受け取った。
「雪下さん、そんなにもらっちゃっていいの? さすがにもらいすぎてる……」
心配そうに言ってきた冬留へ顔を向ける暦。
「料理するの好きなんで、食べてくれる人がいるのは嬉しいことだから大丈夫ですよ。あ、アレルギーとかありました? 私たまごも小麦粉も使っちゃってるんですけど……」
「そういうのは大丈夫。でも本当、ありがとう雪下さん。俺だと菓子類は作ってやれないから……」
申し訳なさそうな顔をする冬留に暦は、しまった、出しゃばり過ぎたか、と焦った。
だが、秋斗と春佳の嬉しそうな声と笑顔がその雰囲気をかき消す。
「おにいちゃん! こよみちゃんのまふぃん美味しいよ!」
「おいしいです……」
弟妹の嬉しそうな様子を見た冬留は膝を折って二人の頭を撫でる。
「よかったな、二人とも。ちゃんと雪下さんにお礼言うんだよ?」
「ありがとございます! こよみちゃん」
「ありがと……ございます……」
ちょこんと頭を下げる秋斗と春佳。
小さいのに丁寧だなあ、と暦は感心した。
「気に入ってもらえてよかったです」
暦がそう言って再びしゃがむと、今度は冬留とも同じ目線になった。
「本当、ありがとう雪下さん」
「こちらこそです。ちょっと落ち込んでたので、二人に癒されました」
ほのぼのした空気につられて口からこぼれた言葉に、暦は自分でびっくりした。
言うつもりなんてなかったのに。それが顔にも出ていたのか、冬留が心配そうな顔で見てくる。
「何か……あったの?」
「い、いえ……特にはなにも」
暦はとにかく誤魔化さなくちゃと慌てて言うと、冬留が何か言う前に秋斗がずいっと顔を寄せてきた。
「こよみちゃん、ここ来たらまたこよみちゃんに会える?」
秋斗が期待の眼差しで言うので、暦は大きく瞬いたあと、にこりとほほ笑んだ。
「うん、また会いましょうね」
「いつ? 次いつ、いる?」
「えーっと、そうだねえ……」
暦は部活に入っているがゆるい部活なので、今くらいの時間に学校を出ていることは問題ない。
さすがに毎日とはいかないけれど。
「秋斗、兄ちゃんが学校で雪下さんと会える日訊いておくから、雪下さんがここにいられる日は、また俺と来よう?」
「うん!」
「……はるかは?」
元気よくうなずいた秋斗に、春佳が不満そうな声で言った。
「あ。雪下さんに会いに、秋斗と春佳と、兄ちゃんで来ような?」
「うん……!」
兄の訂正で納得した春佳がこくこくうなずく。
「こよみちゃん、ありがとう!」
「こよみちゃん……ありがと……」
マフィンの袋を二人で持った秋斗と春佳が嬉しそうに、恥ずかしそうに言うと、暦は笑顔になって手を振った。
そして翌日、移動教室のため友達と図書室棟に来ていた暦に、「おーい、雪下さんー」と声がかかった。
暦が振り返ると、渡り廊下のところに外から、ジャージ姿で手を振っている冬留がいた。
「え、暦知り合い? 先輩だよね」
「あー、うん、ちょっと。行って来るね」
「う、うん……」
突然、今まで関わったことのない上級生に呼ばれて、暦の友人は驚いていた。
だが暦自身も驚いていた。まさか声をかけられるとは思っていなかったが冬留は一人なので、暦は少しほっとしていた。
いきなり上級生何人もと話すのは緊張する。
「冬留先輩……?」
「見つかってよかったー。昨日はありがとな。もらったのすげー美味しかった」
「それはよかったです」
味に問題がなかったようで一安心する暦。
「そんでさ、雪下さんに頼みがあるんだけど……」
「なんですか?」
冬留は顔の前で両手を合わせて、拝むように言ってきた。
「昨日のお菓子の作り方……俺に教えてくんない?」
その頼み事は暦には意外だ、思わずきょとんとしてしまった。
「作り方、ですか?」
「そー。秋斗と春佳が昨日のクッキーとマフィン美味しかったからまた食べたいってせがんできて……」
ああ、そういうことか、と冬留の頼みに納得した。
弟妹のことは可愛がっているようだし、頼まれたら叶えたいのだろう。
「私、また作りますよ?」
「いや、ありがたいけどずっとそれに頼るわけにはいかないし、俺も料理は少しできるから、お菓子も作り方教えてもらえたらな~って思ったんだ、けど……」
どうかな? と困った猫みたいな顔で言って来る冬留を見て、暦はうっと喉を詰まらせた。
その表情は簡単に使わない方がいいと思う。
「いいですけど……レシピ渡すだけより、一緒に作った方がいいですか?」
「出来たら作るとこ見せてほしいかな」
「なら放課後、家庭科室に来てもらえますか?」
「家庭科室? なんで?」
「私、ひとり料理部員なんです」
――そこから始まった、暦と冬留の二人料理部。
「そー、うち母子家庭でさ。秋斗は小一で、春佳は年中。まだ保育園の迎えがあんの。んでもうち部活絶対じゃん? だからガッコに言って部活は入らないでもよくしてもらったんだ。一年ん時の担任がいい人でさー」
「雪下さんまじで菓子上手すぎんだけど。春佳が、買ったやつよりうまいって」
「え、これにんじん入れてあんの? このパウンドケーキにんじん嫌いの秋斗がめっちゃ食べてたのに……。え、雪下さん神?」
――暦一人しかいなかった料理部に入部した冬留。
保育園に春佳の迎えがあるため毎日ではなく、本当に時間がある日にしか顔を出さなかったが、暦は楽しかった。
そんなある日。
「雪下さん、二年の先輩と付き合ってるの?」
「え?」
休み時間、友達はそれぞれ用事があって暦がひとりになったとき、あまり話したことのないクラスメイトの女子からそっと声をかけられた。
なんだか密談の雰囲気がある。
「私、彼氏いないけど……?」
暦が不思議に思って瞬きしながら答えると、相手は「え」と声を出した。
「そうなの? でも、放課後に先輩と二人でいる雪下さん見たからてっきり……」
その言い方で、暦は気づいた。
「放課後なら、部活の先輩かも」
「雪下さんの部活って……」
「料理部。この前、先輩がひとり入ってくれたの。部活の先輩後輩だから、付き合ってるとかはないよ」
暦が手を振って否定すれば、「そうなんだー」と答えて、「急にごめんね」と手をあげて離れていった。
特段嫌な感じもしなかったので、世間話程度の興味だったのだろう。
暦は、確かに二人きりでいると誤解させちゃうかなー、と少し考えた。
その日の放課後、春佳の迎えまでの少しの時間、冬留が料理部に来ていたのでそのことを話した。
「そんなこと言われたの?」
「はい……先輩にご迷惑をかけてはだめですから、否定しておきましたので安心してください」
暦はどん、とエプロンのかけられた胸を張って言い切った。
しかし冬留は微妙な顔をする。
「あ、あー……そっか。うん。面倒かけてごめんな?」
「いえ。そろそろ春佳ちゃんのお迎え行きますか?」
時計を見ると、いつも冬留が学校を出る時間が近い。
「あ、もうそんな時間か。今日もありがとね、雪下さん」
冬留は家庭科室からそのまま帰るので、いつもカバン一式は持って部活に来ていた。
暦は自分のバッグから袋を取り出す。
「これ持って行ってください。この前先輩が褒めてくれたから、野菜入ってるお菓子作るのにハマってまして」
「また新しいの作ってくれたの!? 絶対これも作り方教えて。あ――っと、雪下さん」
驚きと嬉しさの混じった顔の冬留は、途中で何か大事なことに気づいたように行動を止めた。
暦は冬留の見送りのためにエプロンをしまいつつ答える。
「なんですか?」
「その……今度、休みの日に会えない、かな……」
「休みの日、ですか?」
今までとは風向きの違う頼みに、疑問符を浮かべる。
「う、うん……ほら、最初に逢った時、秋斗と春佳がまた逢いたいって言ってたろ? あ、秋斗と春佳が、『こよみちゃんに会ってお菓子のお礼言いたい』って言ってて……」
なぜかすごく早口の冬留。
しかし秋斗と春佳と出逢った日のことは、暦も昨日のように思い返せる。
確かにあのとき『また会いましょう』と約束したけれど、冬留が暦と同じ料理部に入ったことでお菓子の受け渡しや作り方を教えていたため、直接会う話は出ていなかった。
「嬉しいですっ。この前の公園とかどうですか?」
「うん、ありがと! じゃ、また!」
「はい。秋斗くんと春佳ちゃんと会えるの、楽しみにしてますね」
二年生の昇降口まで出て見送った暦は、秋斗と春佳に申し訳なかった……と反省していた。
二人の方から会いたいと言ってくれたことは素直に嬉しかったけれど、自分からも冬留に言うべきだったと。
冬留が同じ部活に入ってくれたことが嬉しくて、冬留から二人の話を聞くだけで満足してしまっていた。
これからはもっと秋斗と春佳のことを冬留に訊いてみよう。そう決めた。
――そして土曜日。結果としてこの日、暦は冬留とデートすることになってしまう……。
END.



