「……先輩?」






 最初にすれ違った時は、気が付かなかった。いや、気が付けなかった。
 かわりに一瞬遅れて香った甘い香りの煙草と、すっかり鼻に染み付いてしまった柚子の匂いで彼が先輩だと判断できて、通り過ぎていく人並みの中から慌てて彼の手を掴んだ。






 「あーあ、やっちゃった。まさかこんなところで会うなんてね」







 喋り方はあの頃のまま、けれども先輩の容姿はすっかり変わってしまっていた。





 黒いスーツに、大きな薔薇がいくつも描かれたシャツ。明らかに耳が痛いと悲鳴をあげそうなほどつけられたピアス。怪しく膨らんだ、胸元の内ポケット。





 ふわふわと遊ばせていた濡れ羽色の前髪は、オールバックに纏められていて。可愛らしかった2重の瞳は鋭く細められ、その上に刻まれた眉間の皺は、圧のある眼光に拍車をかけていた。








 「今までどこに行ってたんですか」






 それでも物怖じせずに話せたのは、先輩があの頃と変わらないやさしい声色で、愛おしそうにわたしを眺めてくるからだった。






 散々、家を空けて連絡網もシャットダウンされてきたのに、やっぱり嫌いになれない。






 「あぁ、仕事(シゴト)してただけ。例の友達に紹介してもらった方の」






 「心配しました。久しぶりに機嫌が良かった日。急に、あんな風にいなくなるから」






 往来の真ん中ということも忘れて、先輩の胸元に縋りついて叫ぶ。わたしを幸せにする、と言った舌の根も乾かぬうちの逃亡はそう簡単に許せなかった。






 「あーあ。もしかして、俺嫌われちゃった?」







 「最低です。……幸せにしてくれるんじゃなかったんですか? わたしは今日もあなたのために会社に行ってお金を稼いでいるのに」







 「じゃあ、終わりにしよっか。若気の至りって名前の遊びは、今日限りで。ね?」







 なんで、ですか。そう声に出したかった言葉は、息になって消えていく。それはあまりにも別れの言葉が、突然過ぎたせい。