その日、屋上に着いたのはいつもより1時間以上遅れてのこと。先輩は煙草を吸わずに、屋上につけられた柵の上に肘をついて下を眺めていた。その足元には綺麗に並べられた厚底の靴。




 「死のうとしてたんスか」




 「来ないうちに死んじゃおうと思ったのに」




 「それはタイミングが悪かったスね」





 先輩は振り返らない。僕が彼女に好意を伝えてからまだ1日しか経っていなかった。今日もサテン生地のリボンつけられた髪が揺れる。昨日よりも、少しだけ風が荒く強い。





 夏が終わるのか、蝉の声が聞こえない。




 並べられた靴とさっき吐いた台詞とは裏腹に先輩はなにもしない。ただぼんやりと下を眺め続ける。「……意外と恐いんだね」なんてボソリと呟かれた声はよく耳を澄ませないと聞こえなかった。





 「……死にたくないんなら、死のうとしないでくださいよ」




 煽ってみる。ほんの好奇心。好奇心は人を殺す、なんてよく言ったものだ。




 「わたしは苦しいから死ぬフリをして生きてることを喜んでるだけだったのかもしれない」




 「じゃあ、死なないんですか?」




 「怖くなった、って言ったら笑う?」





 笑わないですよ。でも、少しだけ寂しいです。なんて声に出さずに、僕は先輩の背中に笑ってみせる。ため息を吐いて、振り返った先輩は、はじめて僕を睨んでいた。




 「……結局、人間なんて他人の深淵を覗いた気になって満足してるだけ。本当の水底には興味がないんでしょ? 死にたがりで、煙草を吸う先輩が物珍しかったからきみもわたしにかまうだけでしょ?」




 先輩は怒っているみたいだった。




 「なのに、なんできみは最後の最後までわたしの心を引っ掻き回すの? わたしの生きがいに勝手にならないでよ。やめて、わたしはわたし自身でしか救えないんだから」





 「……そのまま正直に、僕を生きがいにしてもいいんスよ。僕は先輩が好きなんですから」





 やっぱり僕は詐欺師みたいだ。厚底を脱いだ先輩は小さくて、子どもみたいだった。少しあやせば、すぐに絆されてしまうような。





 「……きみって物好きだよね」





 「仕方がないですよ、好きなんですから」





 なんて、あと一歩。きっと先輩なら堕ちてきてくれるはず……。




 「……ねえ、きみはわたしよりも早く死んだりしないよね?」




 彼女の声が震える。ピンクブラウンのアイシャドウが瞼にこすれて、よれていた。




 「きみが初めてだった。わたしをわたしとして見てくれたのは。だから、またおいでよ。きみが来る日は死なないって約束するから」




 そんな言葉が先輩の口から紡がれる。僕はため息を吐いた。きっと、本当に彼女は死ぬ気がないのだ。死ぬために生きているようでいて、生きるために生きる理由を探して見当たらなかったせいで、死ぬしかないのだと思っていた。そんなところだろう。




 「……またこの時間に来ますよ。先輩が屋上にいるのなら。僕は先輩が好きなんですから」




 笑ってみせる、あの時の先輩と同じように。大丈夫、きっともう先輩は死なない。あと、一年くらいは。だって僕がここに毎日ちゃんと来るから。僕が来る限り、先輩は死なない。




 どんなに煙草を吸って、僕に毒を吐き愚痴を聞かせても……あと一年は一緒にいられる。




 今はそれだけで良かった。



 僕の肺はあと一年しか持たない。なんて医者から告げられた時から、ずっとこの日を待っていた。きっと先輩は知らない、僕の深淵を。




 だけど、少しだけ。貼り付けていたような笑みではなくぎこちなく笑う彼女を見ていると、心が踊った。だれも先輩の素の笑顔だって、知らないのだから。僕だけが知っている先輩。





 それだけでよかった、今は。




 吸っていないはずなのに、ほんのりと甘い煙草の香りがする先輩にそっと近寄る。僕が彼女の前に跪き、厚底の靴を足元に差し出すと先輩はすんなりと足をいれた。





 靴の中で先輩の背伸びしたつまさきを、僕は愛をこめて手のひらでゆっくりと踏んづけてみる。頭の上からクスリと笑う声が聞こえた。今は、少しだけ息がしやすいような気がした。