「ね、今日くらいは先輩になにか言いに行ったら?」
駅につくと、こちらを振り返るようにエスカレーターに乗ったサクが口を開いた。
「じゃあ、今日ホームに先輩がいたら」
なんてぽっきり折りやすいフラグだけ立てて、にやりと笑ったサクに軽く舌を出した。
願わくば、このまま傘一本だけでも先輩のものを私のものにしてしまいたかった。とは口に出せなくて、エスカレーターが地下まで降りきるまで押し黙っていた。
「たぶん、いない方がいいの」
「そっか」
いつもと変わらず、雨の日だけはここのホームドアの前は誰にも譲れない。と言わんばかりに、八号車の一番前の扉の前に立つ。
もうホームドアに寄りかかるのはやめた。
先輩に見られるかもしれないと思うと、少しだけ恥ずかしかったから。
それから、ただ息を堪えてギュッと目を瞑っていた。サクのブレザーの袖先を掴んで、必死に願った。
先輩、後ろに立って。うそ、立たないで。うそ、ううん、うそじゃない。なんて。
あと、五分。本来、地下のホームでは聞こえないはずの雨音とおなじリズムで、忙しなく脈を打ち始めた心臓。
どきどきするのに。そんな気分を味わえるのも今日で最後かと思うと、憂鬱じゃない。
どこか浮足立つような鼓動は早いけれど。
ほんのりと胸に残る心地よさに、思わずほころんだ口元。
「アメ、電車くるよ」
サクの声にため息が漏れた。そっと目を開ける。
わからない。
嬉しいのか、すこし寂しいのか。
口の中では転がしすぎて、消えてしまいそうないちごみるくがほんのりと香った。
「残念だったね」
サクの短い言葉でこの場に先輩が来ていないことを悟った。
うまく吸えていなかった息を吸い直せば、雨の匂いがする。かび臭くて、湿っぽい。かなしい香り。
あの日、先輩の瞳があまりにも綺麗だったから。
傘をかしてくれた先輩がやさしかったから。
記憶の中で勝手に美化されただけ?
好きだったのかな。
わからないや。
ただ心臓だけは耳の奥に響くほどうるさく鳴っている。
だから、もう一度だけでいいから。
その髪を上げさせてみたくて。
先輩の瞳がどんな色をしていたのか、もう一度見てみたくて堪らなかったのかもしれない。
でも、同時に安心もしていた。
まだ、もう少しだけこの傘を私のものにしておきたい。
なんて仄暗い考えが、甘く鋭く私の胸の内を突き刺していたから。
仕方がないね、とサクに手を引かれるがまま電車に乗り込む。
扉の近くで立ち止まったサクに
「ねえ、アメ。振り返って」
なんて唆されて、私はそっとホームに目を向けた。
誰もいないと思いたかった。
でも、やっぱり。
うそ、本当は⋯⋯



