「あれ、聞こえなかった? どうぞ」




 「あ、いえ。その、悪いですよ。私、先輩の名前も知らないし」




 「ぼくは水川陸。はい、これで使えるでしょ」




 「⋯⋯みずかわ先輩」




 「はい、なーに」






 嬉しさからか、思わず名前を呼んでしまった声に、朗らかに返事をした先輩にぎゅっと手のひらに押し付けられた傘。






 喋って動く先輩はよくわからない。あの日、私に、電車に乗ったみんなにさよならを告げた彼と同一人物に見えなくて、困惑してしまう。






 「あ、大丈夫だよ。ぼく、今日自転車で来ちゃったから」






 と勝手に喋るだけ喋って満足したのか。
 止まない雨の中に、一歩踏み出した先輩。





 「え、ちょっと水川先輩。待ってください、傘」




 「あ、きみは雨の日に出逢ったから、アメちゃんだね」






 なんて振り返った先輩。雨に濡れても、束になった前髪に隠されてその瞳は見えなかった。






 「じゃあね、アメちゃん」







 もう一度私の名前も知らないくせに、ちゃんと掠ったあだ名で呼んだ先輩が雨の中を走り出した。






 あの瞳はそこになかったけれど、どうしようもなく頬が熱くなって胸が苦しかった。






 たった数分、舐めていた飴が溶けて消えてなくなるくらいの時間。






 けれど先輩の名前を知れて、先輩に名前を呼ばれて、先輩に傘をかしてもらえた。





 たったそれだけのことが、嬉しくて。
 先に帰ってしまったサクにこの時ばかりは感謝した。






 ほら、やっぱり雨の日は憂鬱じゃない。





 傘を胸元に抱き寄せて。






 駐輪場まで走り去って行く背中を目で追いかけることしか出来なくて、ようやく見えなくなった先輩に、





 「ありがとうござます」





 と叫んでみて、恥ずかしくなる。





 けれど、すぐにその声は雨脚の増した雨粒たちにかき消されていった。






 先輩が自転車で校門を通りすぎたのを見て、開いた傘はいちごみるく柄で絶妙に運命を感じずにいられなかった。






 そんなことだけで浮足だつ自分が、随分単純に思えて笑えて来る。






 一度、落ち着くためにその場に目を閉じれば、瞳の裏にぼんやりと彼の濡れた背中に張り付いたワイシャツの奥に見えた形の良い背骨が浮かんでいた。