「それなら……今日帰ってすぐに家を出られるなら、今すぐ帰って10分以内に荷物を持って出てください。今日泊まれる場所がないなら僕が用意しますから。家でも、家が嫌だったら公園でもなんでもお供しますから」
お願いします。と喉の奥から吐き出された言葉は震えていた。後輩がこんなに必死になるところを見たのは、初めてかもしれない。段々と彼の後ろから煌々と指していた西日が傾いて、温かかった図書室にも冬の夜が近づいてきた。
「必死にならないでよ、明日家出するわたしなんかのために」
「嫌です。先輩がちゃんと家出できるように、僕は最後までやれることをやりたいんです」
「なあに。未来は予定なんだから、今のわたしにはわからないって言ってるじゃん。それになんだか家出が出来なくちゃわたしが死ぬみたいな言い方ね、それ」
「……ッ冗談ですよ」
「なんで、きみが泣きそうな顔をするのさ」
「……泣いてません。それより先輩、明日もまたこの場所で会いましょう」
なにそれ、矛盾してない?
そう返す間もなく、後輩によって図書室から押し出される。それから向き合うような形で肩を掴まれ、鼻先をくっつけてきた彼。ほんのり香ったのは、たしかポピーの花。いいや、たしか白色の花を咲かせるポピーって香りがしないことで有名だった気がする……それでもこの鼻に抜ける爽やかな香りの奥にあるフルーティーさは忘れられない。なんでだろう、どうして。わからない……けれど、どこか懐かしい。
「先輩……また、明日」
そう後輩が顔を離したことにより、解放された。不思議でどこかふわふわした感覚だけが頭の中にもやを残したまま、わたしはそっと肌寒い廊下を歩き出した。頭の上では蛍光灯の光がチラチラと揺れては、ジジッと音をたてる。
「生きて、ちゃんと家出しましょうね」
後輩のおかしな涙声に右手をあげて答える。
そのまま昇降口まで道なりに歩いて、ローファーを履けば薄っすらと脳内にかかっていたもやが消えていくのを感じた。



