悪役天使の転生追走録

そんな絶望、生ぬるい。
そう――天使がせせら笑っている声が聞こえるようだった。

「どうして、なの?」

……問いかけられた言葉が胸に刺さる。

「どうして、あなたが……?」

顔を上げると、母さんが痛みをこらえるような表情を浮かべていた。

「ライル……」

母さんは俺を抱きしめ、声を震わせる。
そして、なおも苦しそうに言葉を畳みかけた。

「どうして、あなたが……ザナフェル様の生まれ変わりなの……!」

その事実は、俺をさらに焦らせるのに十分すぎるほど残酷なものだった。

――どうして……?

脳内を満たした恐怖に震えながら、俺は頭を抱える。

わからない、どうして、俺が?

一色に染まった思考を不意に、空色の羽が舞った気がした。



その世界には、ある伝承がありました。
今はもう、はるか昔のこと。
この世界に二人の天使がいました。
茜色の羽の天使はミカエル。
空色の羽の天使はザナフェル。
二人は強大な力を持った仲の良い兄弟でした。
しかし、二人は人間に対しては残虐非道で、この世界を遊戯と見立てていました。
度々、人間として転生し、『天使覚醒』の日に天使の力と記憶を取り戻した上で、世界を蹂躙する脅威の存在。
彼らが国を掌握し、瞬く間に世界を席巻するまで、さほど時間はかかりませんでした。
人々は彼らの存在を恐れ、常に怯えていました。
異世界、ネペンテス。
それは天使に魅せられた者達が住まう世界。
兇嵐の天使たちと隣り合わせの、生きていくには厳しい世界でした。



冬のモノクロームの間。
じっと我慢していた草花たちが一斉に芽吹き、命を謳歌する。
ネーア王国。
大陸で三番目の国土を有し、天使ザナフェル様を敬う神聖国家。
物心ついた頃には、俺、ライルは母さんと共にネーア王国の街々を転々としていた。
吟遊詩人だった母さんは、自身の歌声を生かして生計を立てていた。
父さんは幼い頃に亡くなってしまったけど、母さんからの愛情を一身に受けて旅をする毎日が楽しくてたまらなかった。
そんな俺の安定した日常が崩れたのは、13歳の誕生日のことだった。

天使覚醒の日。

世界中の人々が見守る中、暦がその日を指し示す。
各地の街々の教会で一斉に、狂乱の天使を呼ぶ鐘が鳴り響く。
多くの者の印象に残るその場面。
だけど、俺はそれを見た途端、何もかもが大きく動き出すのを感じた。
それは望まない変化だった。
何故なら、俺の誕生日は、世界の命運がかかった『天使覚醒』の日でもあったから。

「あれ……?」

まるで野草を摘み取るような気紛れであったとも思う。
鐘の音を耳にした刹那に、かっての記憶が戻ったのだ。

……そうだ!
本来の俺は天使ザナフェル。
兄、ミカエルとともに、この世界を支配してきた超常の存在。
そして、ミカエルに度々誘われて、幾度となく人間として転生してきた。

軽く目を閉じて、ミカエルとあの日、交わした誓約のことを思い出す。

『天使覚醒』の日に、天使の力と記憶を取り戻すことができる。
それまでは本来の自分を忘却し、気ままな人間として生きていく。
やがて、天使の力と記憶を取り戻した上で、世界を蹂躙する脅威の存在の一人。

思考がやっとはっきりしてきて、ようやく状況がつかめてきた。
それにより疑念は確信へと変わり、重たい事実として俺の前に横たわっていた。

「――って、俺の今までの前世、ろくでもないじゃんか!?」

一気に全ての前世の記憶を取り戻すことは、まるで稲妻に打たれるようなものだと思った。

「ミカエル兄様も、人間に転生しているんだよな……」

忘れもしない、あの強烈な兄の姿を。
目に焼き付いた銀色の髪を。
陽の光に照らされた彼の笑顔を。
呪いのように、俺の心を掴んで離さないのだから。

「ライル、突然、どうしたの?」

混乱した俺を落ち着かせようと、母さんが優しくその肩に手を添える。
だから、母さんに酷なお願いをしてしまった。

「母さん、ごめんなさい! お願いだから、俺のことを嫌いにならないで……! 俺、実は――」

全ての真実を吐き出したことで、今までしてきたことが変わることはない。
罪悪感だけが胸に残る。

でも、母さんとこれからも一緒にいたい。
この世界で、これからも思い思いに過ごしたい。

その想いには嘘も偽りもなくて、大切に大切に過ごしてきた時間が、心の底から大事になっていた。
時間だけじゃない。
場所も、思い出も。
問われれば、思い出せるほどに。
ただ、問題は真実を伝えても――現状が変わるとは限らないということだ。

「そんな……。どうして、あなたが……ザナフェル様の生まれ変わりなの……!」

大粒の涙を流し、声を枯らして、母さんは糾弾した。
泣きすぎた顔は痛々しいほどに悲壮で。
そんな顔をさせたかったわけじゃないと、俺の胸を締め付けた。

「母さん、ごめん……」

どうにかやっと紡げた言葉はひどく月並みで。
これでは駄目だとわかっているのに、それ以上の言葉が出てこなかった。
なのに……。

これからも母さんと過ごす日々を夢見てしまう――そんな資格ないのに。
平穏の時間を望んでしまう――今まで自分が壊してきたくせに。

望みとそれを拒絶する己自身の感情がごちゃ混ぜになって、俺はまともに息ができなくなっていた。



「生まれ変わった時も死に別れる時も、喜びの時も悲しみの時も、世界を蹂躙する時も阿鼻叫喚を垣間見る時も……」

ふわり、と。
ネーア王国の王城の一室で、茜色の光が舞う。
揺蕩うそれは、まるで弟との再会を待ち望んでいるように――ただ、優しげな色を乗せていた。

「ああ~。お兄ちゃんは今世も、ザナフェルのことをめちゃくちゃ愛しています。だから、ザナフェルもお兄ちゃん大好きでいてね~」

ネーア王国のヴェルディ第一王子に転生した兄天使のミカエルは、今世も変わらず重度のブラコンをこじらせていた。

始まりがあれば、終わりがあるという。
出会いがあれば、別れがある。
そして、絶望があれば、希望が――。
これはそんな……今世ではスローライフを満喫したい弟が、チートな力を持つ天使、ブラコン兄から逃げるお話である。