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 日本の地ビールやヨーロッパのビール、それに、蕎麦焼酎の売上が順調に伸びて華村酒店の経営は順風満帆といえるものだったが、幸恵の表情はぱっとしなかった。姉のことで頭がいっぱいになっていたのだ。
 愛夢農園の経営が厳しかったわけではない。というよりも順調だった。『アイム・ソー・ハッピー』が国際オレンジ・コンテストで金賞を取って大きく売上を伸ばしていたのだ。交配に成功したあとも毎年改良を重ねて、よりジューシーに、より甘く、それも上品な甘さになっていたのが高く評価されていた。
 それだけでなく、病害虫に強い樹になったことも大きかった。ミカン農家を悩ます〈黒点病〉や〈そうか病〉、〈かいよう病〉の発生頻度が低くなり、なおかつ、ハダニを始めとする害虫がつきにくくなった。品質がいい上に生産効率の大幅な向上が見込める新たなミカン樹の誕生が高く評価され、金賞を連続受賞するという快挙を成し遂げていた。
 しかし、順調な経営に反比例するように幸恵の姉の様子がおかしくなっていた。
「最近、凄く老け込んだように見えるの。長年の疲れが出ているのかもしれないし、それが気持ちを落ち込ませているかもしれないの」
 暗く沈んだような声になり、更に、「私のせいだと思う」と自分を責めるような口調になった。本来ならスペイン研修後に帰国して愛夢農園を姉と二人で共同経営するはずだったのに、醸と知り合い、アメリカへ渡り、そして、結婚して華村酒店を共に切り盛りすることになった幸恵は、愛夢農園の経営を姉に任せきりにしていたことを悔やんでいるようだった。
 それだけでなく、姉が結婚をしなかったのは自分に責任があるとも思っているようだった。農園の仕事に忙殺されて適齢期の男性と知り合うチャンスさえなかったのかもしれないし、経営に専念するために結婚を諦めたのかもしれないが、どちらにしても、自分が愛夢農園の経営に携わっていれば違う結果になっていたに違いないと思っているようだった。人並み以上の美しさと優しさを持つ姉なら素敵な男性と結婚して子供に恵まれ、女としての幸せを手にしていたはずだと決めつけているようだった。幸せ過ぎる自分との対比が、幸恵の心を更に暗くしているのは間違いなかった。

「そんなに自分を責める必要はないと思うよ」
 余りにも思い詰めているので慰めたが、表情は晴れるどころか更に曇ってしまった。
「社長を辞めたいって言ってるの」
 初めて聞く話だった。
「疲れたから、そろそろのんびりしたいって言ってるの。仕事を離れてゆっくり温泉巡りをしたいらしいの」
「そうなんだ……。でも、社長を辞めるっていっても誰か代わりの人はいるの?」
「いない。そんな人はいないの」
 幸恵の母校である愛媛県立農業大学から毎年卒業生を迎えているのでミカン栽培のプロは育っているが、経営を任せられる人はいないのだそうだ。
「そうか、困ったね」
 鼻から息を吐いて、腕組みするしかなかった。代わりの人を紹介したくても、農業関係、特に果樹に詳しい友人や知人は皆無なのだ。なんの役にも立ちそうになかった。
 ところが、幸恵がいきなり改まったような顔になったと思ったら、「ちょっといい?」と見つめられた。
「なに?」
「実はね、こんなこと言ったら驚くかもしれないけど、醸さんにお願いしてって言われているの」
「えっ!」
 余りの急展開にひっくり返りそうになった。
「それはちょっと……」
「そうよね。やっぱり無理よね」
「うん」
 どう考えても無理だった。仕事量がどんどん増えていて今でも手一杯な状態なのに、これ以上手を広げることは不可能だった。それに、ミカンのことに関しては素人同然なので、例え余裕があったとしても引き受けることなんてできるはずがなかった。
「申し訳ないけど……」
 それ以上言葉を継げなかった。幸恵は頷いてくれたが、目を合わせられなくなった。窓の外には厚い雲が垂れ込めていた。