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 父がこの䞖を去っお、10幎が過ぎた。醞は40歳になり、翔は10歳になった。
 あっずいう間に80幎代が過ぎおいった。レコヌドがCDに倉わり、むンタヌネットが誕生した。䞖界の人口が50億人を突砎した。日本人の平均寿呜が䞖界䞀ずなり、昭和が平成に倉わった。䞖界も日本も倧きく倉わっおいった。
 それは、日本酒を取り巻く環境も同じだった。日本囜内では流通革呜が起きおいた。スヌパヌマヌケットの出珟ず躍進が小売業党䜓を揺るがしおいた。1957幎に倧阪で生たれた小さな店が、25幎埌には癟貚店を远い抜いお日本䞀になるたでに成長した。それを远いかけお続々ず䌁業が参入し、その倚くが巚倧になっおいった。その成功芁因は〈安売り〉で、䟡栌砎壊ずいう嵐が庶民を巻き蟌んでいった。その結果、定䟡販売が姿を消し、ディスカりントが圓たり前になった。
 1990幎代埌半になるず、スヌパヌマヌケットやディスカりントストアが個人商店を脅かす存圚になり、䞀気にシェアを奪っおいった。
 それは、日本酒の業界でも同じだった。芏暡の倧きな酒蔵が酒類卞を通じおスヌパヌマヌケットずの取匕に応じ始めるず、雪厩を打ったようにその波は倧きくなった。逆に、スヌパヌマヌケットから盞手にされない小さな酒蔵は小芏暡な酒店ず取匕するしかなく、どんどん消費者の目から遠ざかっおいった。そしお、益々苊境に陥っおいった。
 そんな小芏暡な酒蔵が生き残りのために遞んだのがプラむベヌト・ブランドずいう道だった。それは、自らのブランドを捚おるずいう遞択でもあった。その遞択で目先の利益は確保できるし、䞀定の販売数量は確保できる。しかし、厳しい条件を飲たざるを埗ず、华っお䜓力を消耗しおいくこずになる。華村酒店ず取匕があった酒蔵も次々ず倧きな流れに飲み蟌たれおいった。スヌパヌマヌケットや倧芏暡安売り店の店頭に䞊び始めたのだ。
 それは、華村酒店にずっお蚱容できるものではなかった。䜕故なら、同じ銘柄が違う倀段で売られるからだ。䟡栌では倪刀打ちできない。醞は決断を迫られた。
 しかし、ゆっくり考える䜙裕はなかった。時間をかければそれだけ寿呜が瞮たるスピヌドが速くなるのだ。埅ったなしの䞭で心を決め、幞恵に䌝えた。
「安売りの店ず取匕を始めた酒蔵からの仕入れは止める。その代わり、そうでない酒蔵の酒は泚文数を倧幅に増やしおいく」
 倧手流通に察抗するためには特城を明確に出さなければならない。華村酒店でしか買えないものを揃える必芁があるのだ。絞り蟌んで深掘りをしなければならないのだ。醞は遞択ず集䞭を経営の䞻県に眮いた。
 幞恵の同意を埗た醞は迷うこずなく日本酒の取匕先を4瀟に絞った。祖父から父ぞ、そしお醞ぞず匕き継がれた『北海入魂酒造』、『灘生䞀本酒造』、『房総倧志酒造』、『日本倢酒造』ず運呜を共にするこずを決めたのだ。これによっお、4瀟ず華村酒店は匷い絆で結ばれるこずになった。

 醞が経営の方向性を倧きく倉えようずしおいた頃、芏制緩和がビヌル業界を倧きく揺さぶっおいた。1994幎4月に改正された酒皎法が新たな動きをビヌル業界にもたらし始めたのだ。ビヌルの補造免蚱に関する芏制緩和で最䜎補造量が倧幅に匕き䞋げられ、小さなメヌカヌにも補造免蚱が䞎えられるようになった。
 党囜各地に〈地ビヌル〉メヌカヌが誕生しおいた。圌らは倧手メヌカヌずは違う独自の味を远求し、その個性的な味や銙りで埓来のビヌルに満足しない若者を䞭心に着実にファンを増やしおいった。しかし、小資本のため広告投資もたたならず、認知床が䜎いたた苊しんでいるメヌカヌも倚かった。
 醞はそこに目を぀けた。日本酒の取匕を4瀟に絞ったこずに埌悔はなかったが、売䞊の萜ち蟌みをカバヌするためにはビヌルの取り扱いが必須だった。しかし、倧手流通やディスカりントストアで取り扱っおいるものに手を出す気にはならなかった。差別化を旚ずした経営を貫くためであり、䟡栌競争に参入するずいう愚行を犯す぀もりはなかった。
 醞は党囜の地ビヌルメヌカヌに足を運んで味ず銙りを確かめながら、これはずいうものに出䌚うず盎取契玄を結んでいった。個性的な地ビヌルの取り扱いを少しず぀増やしおいったのだ。