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 それは突然の訪問だった。夕方遅くに咲が現れたのだ。無地の紙袋を手に持っていた。
「どうしたの?」
「ちょっとね」
 悪戯っぽく笑った咲は、「おば様はいらっしゃる?」と奥の方に視線をやった。
「いるよ。呼んでこようか?」
 頷いたので奥に向かって声をかけると、「あら、咲ちゃん、いらっしゃい」と出てきた母はニコニコして近寄り、その手を取った。
「さあ、上がって」
 部屋に入ると、コーヒーがいいか紅茶がいいかと母が尋ねたが、咲は首を振って、「グラスを用意してくれる? ぐい吞みでもいいけど」と言いながら細長いボトルを取り出した。
 醸が棚から出した肥前びーどろに注いだのは、透明な液体だった。
「富士桜ならうちにも売るほどあるよ」
 笑いを取ろうとしたが、笑みは浮かばなかった。
「飲んでみて」
 促されてグラスを鼻に近づけると、爽やかな香りが嗅粘膜(きゅうねんまく)を心地良く包み込んだ。
 飲むと、当たりがソフトだった。酸味が爽やかで、とてもフルーティーな味わいだった。それは、今までに飲んだことのない日本酒だった。
「これって……」
「そうなの。やっとアルコール度数の低いお酒ができたの。7パーセントよ」
「あっ!」
 一気に記憶が蘇ってきた。依頼してから5年が経とうとしていたので頭の中から消えかかっていたが、咲はその間も試行錯誤を繰り返してくれていたのだ。
「途中で発酵を止める方法で造り始めたのだけど、嫌な臭いがどうしても取れなかったの」
 使用する天然水を見直し、新たな酵母を採用し、長期の低温発酵技術を導入することによって、その課題がやっと解決できたのだという。
 醸はなんと言っていいかわからず、細長いボトルに視線を落としたが、咲は母に向き直って、「おば様も召し上がってください」とグラスに注いだ。
 母が口を付けると、その途端、パッと表情が明るくなった。
「おいしいわ」
「本当ですか。良かった」
 母以上の笑みを見せた咲は、「おば様」と優しい声を出し、ボトルを持って母に近づけた。
 ラベルの部分は白い紙で覆われていた。それを丁寧に剥がすと、4つのひらがなが現れた。はなゆり。
「お名前を使わせていただきました」
 華村の〈はな〉と百合子の〈ゆり〉を合わせて『はなゆり』と命名したのだという。
「まあ~」
 母は目を丸くして、右手を口に当てた。
「泡酒をはなむらさき(・・・・・・)と命名していただいた御礼です。気に入っていただけました?」
「咲ちゃん」
 一気に涙声になった母が咲の手を握ると、「なんて幸せなこと……」と声を詰まらせながら引き寄せて、優しく抱きしめた。
 少しの間そのままでいた母だったが、咲の体を離すと、グラスを持って立ち上がり、遺影の前に置いた。
「あなた、咲ちゃんがね、私の名前を付けた日本酒を造ってくださったのよ。あなたからも御礼を言って」
 すると、父の声が聞こえたような気がした。それは、命名してくれたお礼だけでなく、蔵元として立派にやっている咲への賛辞に違いなかった。