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「もう、限界だ」
リビングに入るなり、オーナーが落胆の声を出した。奥さんも残念そうに顔を下に向けた。幾度となく襲いかかる山火事が心を折ったようで、疲れ切っているのが手に取るようにわかった。今回の火事は特に酷く、それが希望の光を消し去ったのは間違いなかった。
「必死になって消火したけど、ダメだった」
葡萄畑の半分が焼失したという。
「それに、私たちも歳を取った」
住居とワインの製造設備は幸いにも被害を免れたが、葡萄畑を元に戻す気力はないとため息をついた。
「だから、フロリダへ移ろうかと考えている」
保管庫にあるワインを売り払って、余生のための資金にするつもりだと力なく笑った。
「ここは、どうするのですか。まさか売り払うなんてことは」
ないでしょうね、という前に彼は首を横に振った。
「誰も買わないよ。畑の半分は焼けてしまったし、残った半分の樹も煙や高温に晒されてしまった。その影響がどんなものになるか想像もつかない。葡萄畑としての価値はほとんどなくなってしまったんだ」
手塩にかけた葡萄畑が、カルトワインを産んだ素晴らしい土壌が、見放されようとしていた。それは、オーナーと奥さんの血の滲む半生を無にすることに等しかった。
彼らがどれほどの苦労を積み重ねてきたか……、
醸は頭を振った。彼らの努力を無にしてはいけないし、そんなことはあってはいけないのだ。しかし、自分にはどうすることもできない。目の前で打ちひしがれている彼らを助ける力はないのだ。唇を噛むしかなかった。
「潮時なんだよ」
オーナーは寂しそうに笑った。
「始まりがあれば終わりがある。物事に永遠はないんだ。そのことを受け入れなければならない」
横にいた奥さんを抱き寄せて髪にキスをした。奥さんは目を瞑ったままオーナーに身を預けていた。
「妻と二人でワイナリーを始めた日のことを昨日のように思い出すことができる。あの時は無限の可能性を疑わなかった。なんでもできると信じることができた。何度失敗しても立ち直ることができた。失敗すればするほど、なにくそ! という負けじ魂が沸き起こってきた。次から次へとエネルギーが湧いてきたんだ」
そこでふっと笑った。
「若かったんだよ。若いっていうことは本当に素晴らしい」
奥さんが顔を上げて、そうね、というように見つめると、オーナーはまた髪にキスをした。
「いつまでも若さを保てればいいんだが、そうもいかない。人はいつか年を取り、若さから遠く離れていく。ハリがあった肌には皺やシミが増え、ほうれい線は深くなる。髪の毛は少なくなり、残った髪も白髪だらけになる。信じられないことだが、お爺さんになってしまうんだよ。幼い頃に祖父と写った写真を見たらよくわかるよ、あの時の祖父と同じ年齢になったことをね。残念だが、それが現実なんだ。そして、その現実を受け入れなければならないんだ」
彼は左手を奥さんの上半身に、右手を膝裏に置いて抱きかかえようとした。しかし、そのままの姿勢で苦笑いを浮かべた。
「お姫様抱っこはもうできない」
首を弱々しく左右に振ると、いいのよ、というふうに奥さんがおでこにキスをした。
「あなたのせいではないわ、私が太ってしまったからよ」
とても愛おしそうにもう一度キスをすると、彼は奥さんの膝裏に置いた右手を離して、その手で彼女の髪を優しく撫でた。
「これからはのんびりとゆったりと穏やかな時間を過ごそうね」
そうね、というふうに奥さんが目を細めると、彼の視線がこちらに向いた。
「ジョー、フロリダにも遊びに来てくれるかな?」
吹っ切れたような表情に柔らかく包み込まれた時、突然、熱い何かが体の内から込み上げてきた。それは、このワイナリーを受け継ぎたいという強い想いだった。だから、〈わたしに譲っていただけませんか〉という言葉が口から飛び出しそうになった。
しかし、それを声に出すことは出来なかった。そんな力はないのだ。華村酒店を経営するだけで精一杯なのに、ワイナリーにまで手を出すことは出来ない。ただ黙ってフロリダに送り出してあげることしかできないのだ。
「もう、限界だ」
リビングに入るなり、オーナーが落胆の声を出した。奥さんも残念そうに顔を下に向けた。幾度となく襲いかかる山火事が心を折ったようで、疲れ切っているのが手に取るようにわかった。今回の火事は特に酷く、それが希望の光を消し去ったのは間違いなかった。
「必死になって消火したけど、ダメだった」
葡萄畑の半分が焼失したという。
「それに、私たちも歳を取った」
住居とワインの製造設備は幸いにも被害を免れたが、葡萄畑を元に戻す気力はないとため息をついた。
「だから、フロリダへ移ろうかと考えている」
保管庫にあるワインを売り払って、余生のための資金にするつもりだと力なく笑った。
「ここは、どうするのですか。まさか売り払うなんてことは」
ないでしょうね、という前に彼は首を横に振った。
「誰も買わないよ。畑の半分は焼けてしまったし、残った半分の樹も煙や高温に晒されてしまった。その影響がどんなものになるか想像もつかない。葡萄畑としての価値はほとんどなくなってしまったんだ」
手塩にかけた葡萄畑が、カルトワインを産んだ素晴らしい土壌が、見放されようとしていた。それは、オーナーと奥さんの血の滲む半生を無にすることに等しかった。
彼らがどれほどの苦労を積み重ねてきたか……、
醸は頭を振った。彼らの努力を無にしてはいけないし、そんなことはあってはいけないのだ。しかし、自分にはどうすることもできない。目の前で打ちひしがれている彼らを助ける力はないのだ。唇を噛むしかなかった。
「潮時なんだよ」
オーナーは寂しそうに笑った。
「始まりがあれば終わりがある。物事に永遠はないんだ。そのことを受け入れなければならない」
横にいた奥さんを抱き寄せて髪にキスをした。奥さんは目を瞑ったままオーナーに身を預けていた。
「妻と二人でワイナリーを始めた日のことを昨日のように思い出すことができる。あの時は無限の可能性を疑わなかった。なんでもできると信じることができた。何度失敗しても立ち直ることができた。失敗すればするほど、なにくそ! という負けじ魂が沸き起こってきた。次から次へとエネルギーが湧いてきたんだ」
そこでふっと笑った。
「若かったんだよ。若いっていうことは本当に素晴らしい」
奥さんが顔を上げて、そうね、というように見つめると、オーナーはまた髪にキスをした。
「いつまでも若さを保てればいいんだが、そうもいかない。人はいつか年を取り、若さから遠く離れていく。ハリがあった肌には皺やシミが増え、ほうれい線は深くなる。髪の毛は少なくなり、残った髪も白髪だらけになる。信じられないことだが、お爺さんになってしまうんだよ。幼い頃に祖父と写った写真を見たらよくわかるよ、あの時の祖父と同じ年齢になったことをね。残念だが、それが現実なんだ。そして、その現実を受け入れなければならないんだ」
彼は左手を奥さんの上半身に、右手を膝裏に置いて抱きかかえようとした。しかし、そのままの姿勢で苦笑いを浮かべた。
「お姫様抱っこはもうできない」
首を弱々しく左右に振ると、いいのよ、というふうに奥さんがおでこにキスをした。
「あなたのせいではないわ、私が太ってしまったからよ」
とても愛おしそうにもう一度キスをすると、彼は奥さんの膝裏に置いた右手を離して、その手で彼女の髪を優しく撫でた。
「これからはのんびりとゆったりと穏やかな時間を過ごそうね」
そうね、というふうに奥さんが目を細めると、彼の視線がこちらに向いた。
「ジョー、フロリダにも遊びに来てくれるかな?」
吹っ切れたような表情に柔らかく包み込まれた時、突然、熱い何かが体の内から込み上げてきた。それは、このワイナリーを受け継ぎたいという強い想いだった。だから、〈わたしに譲っていただけませんか〉という言葉が口から飛び出しそうになった。
しかし、それを声に出すことは出来なかった。そんな力はないのだ。華村酒店を経営するだけで精一杯なのに、ワイナリーにまで手を出すことは出来ない。ただ黙ってフロリダに送り出してあげることしかできないのだ。



