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 日本を離れて3年目の夏、醸はカリフォルニアのワイン農園で住み込みの仕事をするために幸恵と海を渡った。それは、學が伝手を頼りに見つけてくれた仕事だった。
 ナパ・ヴァレーという場所にその農園はあった。ナパはサンフランシスコの北部に位置する緩やかな丘陵地帯で、山腹の斜面は石ころが混じる痩せた土地が多かった。葡萄の生育にとっては厳しい条件だが、その厳しさが却って葡萄に力強さを与えていた。だから、ナパで造られるワインは個性的なものが多く、アルコール度が高めで果実味が濃いという特徴を持っていた。そのため、パワフルな肉料理にも負けない力強さに溢れていた。

 醸と幸恵が住み込みで働き始めたワイン農園はナパの西端で、隣接するソノマ地区が望める場所にあった。『イーグル・エステート』。アメリカの国鳥〈白頭鷲(はくとうわし)〉をデザインしたラベルで有名なワイン農園だった。家族経営故に生産量は少なかったが、カベルネ・ソーヴィニヨンとメルロを絶妙にブレンドした赤ワインは毎年ワイン評論家の高評価を得て、入手が困難なほどの人気だった。そのため、『カルトワイン(極少生産の高品質ワイン)』とも呼ばれていた。

 オーナーが住む館の隣に道具小屋があった。その2階が醸たちの生活スペースとして与えられた。季節アルバイトを宿泊させるために増築された2階には最低限の調理器具と冷蔵庫があったが、シャワーとトイレと洗濯機は外にあり、小屋から出なければ利用できなかった。
「こんな部屋でごめんね」
「ううん。二人の初めての旅行がアメリカで、しかも葡萄畑が見渡せるこんな素敵な部屋に住めて幸せよ」
 幸恵は心からそう思っているようだった。どんな環境であっても常に前向きに考えてくれるのだ。世界最高の女性と巡り会えた幸運に改めて感謝した。

 ワイン農園の朝は早い。暗いうちから起きて、日の出を合図に葡萄畑へ出かけなければならない。そして、日の入りまで働く。特に収穫の時期は忙しい。イーグル・エステートではすべて手摘みで丁寧に葡萄を収穫するので、時間がかかるのだ。しかも、スピードが要求される。葡萄は時間と共に劣化するので、摘み取ってから醸造所へ運ぶ時間をできるだけ短縮しないといけないのだ。
 1日が終わる頃にはくたくたになり、全身が痛くなる。特に腰がきつくなる。1日中腰をかがめて摘み取り作業を行うので、若いとはいえ結構きつい。
「お疲れ様」
 夜になると幸恵は必ず腰をマッサージしてくれた。自分も疲れているはずなのにいつも気を使ってくれた。
「今度は僕がするよ」
 代わろうとすると、「大丈夫。私は2歳若いから」と、手をするりと抜けて夕食の片づけを始めるのだった。
 愚痴一つ言わない幸恵、
 働き者の幸恵、
 心優しい幸恵、
 皿を洗っている幸恵の後姿を見ると、いつも涙が出そうになった。