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日本人の生活が豊かになり、洋風化すると共にビールの消費量が日本酒を上回るようになった。日本酒しか飲まないという人は確実に減っていたのだ。
1970年9月に幕を閉じた『大阪万博』を機にその流れは加速していった。6,400万人を超える入場者が世界各国のパビリオンに押し寄せ、そこで様々なことを経験した影響は大きかった。洋風化の波は最早止めようがなかった。
その影響は華村酒店にも及び、順調に伸びていた売上が頭打ちになり、月によっては前年を下回るようになった。それでも崇は日本酒の販売にこだわり続けていた。一徹から引き継いだ酒蔵との絆を最優先にしていたからだ。日本伝統文化でもある酒造りを絶やしてはならないという想いが崇の信念を強固にしていた。だからビールには一切手を出さず、日本酒だけを扱い続けた。そのことによって取引先との絆は更に強くなり、一心同体と言ってもらえるようにまでなった。
しかし、1社だけ気になる酒蔵があった。佐賀夢酒造だ。聞くところによると、開夢の突然の渡仏によって急遽後任の蔵元となった弟の継夢は、酒蔵経営に対して父や兄のような情熱を持っていないため変化を望まず、新たな投資にも消極的だということだった。その結果、製造設備は老朽化し、杜氏や蔵人は刺激のない状態でマンネリ化し、酒蔵全体の空気が淀んでいるという噂が立っていた。活力は失われ、変化のない日々を単調に過ごすだけになっているらしい。だから、酒蔵の外で起こっている変化、市場の変化に気づくことはないようだった。
日本人の生活が豊かになり、洋風化すると共にビールの消費量が日本酒を上回るようになった。日本酒しか飲まないという人は確実に減っていたのだ。
1970年9月に幕を閉じた『大阪万博』を機にその流れは加速していった。6,400万人を超える入場者が世界各国のパビリオンに押し寄せ、そこで様々なことを経験した影響は大きかった。洋風化の波は最早止めようがなかった。
その影響は華村酒店にも及び、順調に伸びていた売上が頭打ちになり、月によっては前年を下回るようになった。それでも崇は日本酒の販売にこだわり続けていた。一徹から引き継いだ酒蔵との絆を最優先にしていたからだ。日本伝統文化でもある酒造りを絶やしてはならないという想いが崇の信念を強固にしていた。だからビールには一切手を出さず、日本酒だけを扱い続けた。そのことによって取引先との絆は更に強くなり、一心同体と言ってもらえるようにまでなった。
しかし、1社だけ気になる酒蔵があった。佐賀夢酒造だ。聞くところによると、開夢の突然の渡仏によって急遽後任の蔵元となった弟の継夢は、酒蔵経営に対して父や兄のような情熱を持っていないため変化を望まず、新たな投資にも消極的だということだった。その結果、製造設備は老朽化し、杜氏や蔵人は刺激のない状態でマンネリ化し、酒蔵全体の空気が淀んでいるという噂が立っていた。活力は失われ、変化のない日々を単調に過ごすだけになっているらしい。だから、酒蔵の外で起こっている変化、市場の変化に気づくことはないようだった。



