3

 北海入魂酒造の北海誉(ほっかいほまれ)(なだ)生一本(きいっぽん)酒造の六甲錦醸、佐賀夢酒造の一献盛(いっこんさかり)、房総大志酒造の芳醇大漁(ほうじゅんたいりょう)、食卓の上には祖父、一徹が愛した銘酒が並んでいた。父は食卓に置かれた二つのお猪口にそれぞれの酒を注いでは飲んでいた。一つは自分用で、もう一つは一徹用。その二つを交互に飲み干しては次の酒を注ぎ、日本地図を広げて色々な場所を指差しては、引継ぎの旅のことを母に話しかけた。その度に母はうんうんと何度も頷き、醸は黙って二人の会話を聞いていた。
 父が日本最北端にある酒蔵の場所を指差した。
「お義父さんに連れられて初めて北海道に行った時、見たこともないようなご馳走が出てきてびっくりしたよ。毛ガニだろ、ズワイガニだろ、ボタンエビにウニ、アワビだろ、余りの旨さに舌が驚いて味蕾が踊り出してさ」
 楽しそうに思い出を語る父に嬉しそうな表情で母が頷いた。
「神戸の灘生一本酒造では参ったよ。いきなり杜氏から取引中止を宣言されてね。でもね、お義父さんがにこやかに対応してくれて難を切りぬけることができたんだ。駆け引きのない心と心の付き合いの大切さを学んだよ。それにね、私のことを倅って言ってくれたのは嬉しかったな」
 六甲錦醸をうまそうに飲む父を母はにこやかに見つめていた。
「佐賀で食べた呼子(よぶこ)のイカは最高だったね。それに、一献盛・純米極上酒がよく合うんだ。それだけじゃない。初めて食べた沖縄の海ぶどうが口の中でプチプチと弾けて、それに合わせた泡酒がまた良くてね」
 そうだったわね、と母が相槌を打った。
「それが(さき)ちゃんの挑戦に繋がったのよね」
「そうなんだ。一つの出会いが次に繋がっていくんだ」
 頷いた父が新たな場所を指差した。千葉県の房総だった。
「房総大志酒造の蔵元が叩いたなめろう(・・・・)が旨くてね。それに合わせた『荒波おろし』がまた最高でさ」
 蔵元と一徹のやり取りを思い出した父の口調がしんみりとしてきた。
「蔵元がお義父さんに『恩返しをさせてください』って言ったんだ。そしてね、3年寝かせた古酒を持ってきて、名前を付けてくださいって言うんだ。お義父さんは目を瞑って心の内から湧き出てくる言葉を待っているようだったが、いきなり『よし!』と言って半紙に筆を走らせたんだ。そこには『芳醇大漁』という言葉が書かれていた。見事な筆だったし、お義父さんにしか命名できない素晴らしい名前だった」
 その古酒を父親はしみじみと味わうように飲み干した。すると、蔵元と一徹の別れを惜しんだシーンが蘇ってきたのか、突然表情が変わった。
「お義父さんとの引継ぎの旅が……」
 言葉が切れて父の肩が震え出し、その震えがどんどん大きくなった。
「んぐっ」
 深く重く沈みこむような嗚咽が発せられると、母の左手が父の右手を優しく覆った。
「あなたがお店を継いでくれたから……、父は本当に喜んで……、本当に幸せだったと思います。あなたのお陰です。ありが」
 そこで母は右手で口を押えて絶句した。
 醸は両親の後姿に声をかけられなかった。肩を震わせて耐え忍んでいるのを後ろからじっと見守るしかなかった。それでも辛くなって目を逸らすと、祖父の遺影が目に入った。優しい笑顔がそこにあり、祖父の膝にちょこんと座った幼い日のことが蘇ってきた。すると、これ以上はないというほどの愛情を注いでくれた祖父との思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。居ても立ってもいられなくなって後ろから両親の肩を抱くと、肩の震えが伝わってきて醸の肩も両親以上に震え出した。その瞬間、何物にも代えがたい大きなものを失った寂しさに襲われた。
「子供を抱かせてやりたかったな……」
 父と母は醸の手に自分の手を重ね、うんうんと何度も頷いた。