「晃大、この問題教えて」
俺がテキストの問題を指差して顔を上げると、晃大は眉を寄せた。
「それ、さっきの応用」
「さっきのって、どれ?」
なんとなくどの問題かは分かっていたけど、分からないフリをする。だってそうじゃないと晃大はずっと無言だ。
「ねぇ、どれ?」
ねぇねぇと、何度も聞くのに、晃大は数回俺を見てはそのまま無視をする。口を開いたかと思ったら、だいぶ前にドリンクバーへ取りに行ったアイスコーヒーを一口飲んだ。氷が全部溶けていて、もう味もだいぶ遠かったのだろう、ぴくんと眉毛が動く。
「こーだーいくーん」
面倒くさそうな顔をし、一瞬俺の顔をじっと見ると、晃大は握ったペンでその「さっきの問題」とやらを指した。
「考え方は同じだから」
「でもさぁ」
「恵吾」
邪魔するな、とまでは言わないのは晃大なりの優しさだろうか。それでもこうやって顔突き合わせて勉強するなら少しぐらい話をしたって良いと思う。それとも、余程難しい問題を解いているのだろうか。
ただでさえ、夏休みってだけで会えないのに……。
俺と晃大は小学生からの知り合い、所謂幼馴染。ずっと一緒にいるような仲ではなかったが、同じ高校へ進むことが分かった時から連むようになった。その頃から今日みたいにファミレスで勉強を一緒にすることが増えた。そうやっていつも一緒にいて、同じ目標に向かって頑張っていたからかもしれない。次第にお互い惹かれあって、付き合うことになったのだ。
定期考査前やこういう長期休暇には勉強会をしていたし、どこかに出かけたりもした。だが、それも今年の春休みが終わるまでの話。来年は大学受験だからと、晃大は予備校に通い出した。特に夏休みは夏期講習が詰め込まれていて、以前の夏休みや冬休みのように一緒に勉強をするのは愚か、遊ぶ頻度も減ってしまった。
今日はたまたま講義が休みで、俺も予定がなかったから学校の宿題をやろうって話だったんだけど、晃大はとっくに終わらせてしまっていて、代わりにやたら難しそうな予備校のテキストを持って来ていた。
二年になってからクラスも離れてしまい、こういう時にしか会って話すことないのに……。
不貞腐れる俺の方なんて一切見もせず、晃大は黙々と自分のテキストを進めていく。
これ以上何か言ったら怒られると思い、俺は黙って応用問題に取り掛かった。
各々のテキストがひと段落したした頃、晃大と俺はメニューからいくつか注文をした。しっかり昼食は摂ったものの、やっぱり頭を使えばそれなりに腹は減る。夕方近い時間とはいえ、現役高校生は食に対しての我慢が一番緩い。それに、久々に会った気もしたし、少しぐらいゆっくり話せる時間も欲しかった。
テーブルに広げた勉強道具を鞄に詰め込んでいると、スマホが鳴った。丁度晃大はドリンクバーにおかわりを取りに行っていたため、俺は迷いなく画面を確認する。
メッセージはクラスのグループチャットに送信されたものだった。
『明日、衣装合わせしたいので下記に名前のある人は登校してください。予定が有れば、振り替えます』
送信者はクラスの女の子、佐伯さん。真面目な彼女らしい文章で、夏休みの文化祭準備の進捗状況が細かく書き出されていた。メッセージをスクロールすると、俺の名前が記載されている。思わず頬が引き攣った。
マジか……。
思わずため息を漏らす。まだ晃大はこちらに帰ってきていないのが救いだった。
俺のクラスは演劇をやることに決まったのだが、その演目が『シンデレラと白雪姫』。シンデレラのストーリーに白雪姫も紛れ込むというとんでも設定満載な話。演劇部の部長であるクラスメイトの古賀が、脚本を書くといって張り切っていたホームルームは記憶に新しかった。まぁ、それはそれで良いのだけど、配役がこれが本当に最悪なのだ。
「男女逆転のが面白いと思うのよね!」
そんな脚本家の一言でクラス全体が盛り上がってしまった。勿論ブーイングをするやつもいたが、結局は多数決によって決まった。
最初は面白いと思って誰も賛成にしてしまったのだけど、この配役がなかなか決まらなくて、結局、主人公……いやヒロイン役はクジ引きになり、この俺が白雪姫を引き当ててしまったのだ。
う、わぁ……最悪だ……。
こればっかりはマジで行きたくない……!
彼女達の一生懸命さを蔑ろにするつもりも、勿論同じように頑張って暑い中準備当番で登校している子達を裏切るようなことはしたくない。
いや、でもなぁ……。
「どうした、難しい顔して」
「へ?」
声が裏返り、俺の声に晃大が笑った。
「百面相してたぞ。あ、メロンソーダで良かった?」
「あ、うん。さんきゅ。ちょっとね、文化祭の連絡回ってきてて」
苦笑いをし、晃大が俺に持ってきたメロンソーダを受け取った。
実は晃大にはまだ演目も配役も話ていない。そのうちバレるだろうけれど、自分の口からは言い難く、演劇をやるとしか伝えていなかった。
「へぇ。三組は結構張り切ってるんだな」
「う、うん。一組は?」
「まだ顔出してないから何ともだけど……。装飾準備の割り振りされてるから、そろそろ俺も行くと思う」
それ、絶対明日ではありませんように!
心の中で俺はそう叫ぶ。晃大のクラスは確か模擬店をすることになっていたはずで、当日給仕班になった晃大は、簡単な装飾を割当てられると夏休み前に言っていたのを思い出す。
「来週あたりに夏期講習も落ち着くし、学校でも顔合わせるかもな」
そう言われて一瞬、どきりとした。
「そ……そうだな」
来週ならたぶん、大道具の作業で埋まっていたはずだし……うん、大丈夫だろう。
晃大は不思議な顔で俺を見ていたが、タイミングよく店員が料理を持ってきて、俺は難を逃れた。
「長谷川くんはこれ、戸山くんはこっちね」
次の日、気乗りしないまま教室へ向かうと、佐伯さんは白雪姫役の俺とシンデレラ役の長谷川に衣装の入った袋を手渡した。その場には継母役や意地悪な姉達を演じる男子達もいたが、着替えを渡されたのは俺達二人だけだった。彼らはホッとした顔をしながら、別の作業に取り掛かっていたが、主人公の衣装優先で製作しただけで結局は同じことをするのだ。
次はお前らの番だからな……っ!
ジト目で彼らを軽く睨むと、もう諦めろと長谷川に肩を軽く叩かれる。
「先生から理科の準備室借りてるの。そこで着替えてから家庭科室に来てくれる?」
佐伯さんは理科の準備室の鍵を俺に渡した。
「え、待ってよ。このドレス着て廊下歩くの?」
「仕方ないじゃない。女子もいるんだからここで着替えろなんて言えないもの」
「ならトイレとか……」
「トイレは嫌よ。せっかく作ったドレスが汚れるでしょ」
佐伯さんはぴしゃりと言った。そりゃそうだ、今回の衣装はほとんど家庭科部の彼女が作ったものなのだ。
「でもなぁ……」
長谷川も眉をハの字に寄せるが、彼女の言い分は変わらない。ここで良いとも言ったが、この後ペンキ作業をするとかなんとかでダメだと言われた。理科の準備室は渡り廊下を渡った先だ。作ってもらっといて言うのは確かに気が引けるけど、部活動や文化祭の準備で多くの生徒が登校している中、この格好をして歩くのはかなりの勇気がいる。
「もぅ。作業が進まないから早く行ってきて」
「えぇっ、マジで」
「マジのマジですっ!ほら、準備の邪魔なんだからっ!」
いや、邪魔ってそれはないでしょ!
そんなツッコミすら聞いてもらえない俺達は佐伯さんに背中をぐいぐい押されて教室の外に追いやられた。
「着替えたらそのまま家庭科室ね!」
にこりと笑った佐伯さんは、教室の戸を閉めた。
「……はぁ」
長谷川の溜息が重い。クラスの女子はこういう時、強くて厄介だ。悪いことじゃないのだけど、正直言うと、もう少し優しく接してほしい。それでも今日の今日まで準備をしてくれたことは有難い。ドレスじゃなかったらもっと感謝しただろうけど……。
「……仕方ない、行こう」
俺と長谷川は顔を見合わせると、理科の準備室まで渋々歩いて行った。
クーラーの付いている教室とは違い、夏休みの学校の廊下は温い空気が歩くたびに身体に纏わりつく。更に今日は三十度を超える真夏日だとお天気お姉さんも言っていた。三階にある教室から二階の渡り廊下に出るだけで、身体中が汗ばんだ。
こんなに汗かいてるのに作ったばかりの新しい衣装を着ても良いのだろうか……。
長谷川も同じことを考えていたようで、持っていたハンドタオルで拭けるだけ汗を拭いていた。
申し訳ない気持ちと恥ずかしさでまたもや溜息が漏れる。長谷川とは目を合わせては苦笑いするしかなかった。
準備室に着くと、担任が事前に用意してくれていたのか、冷房がついていた。わかりやすく「出るときはクーラーを消すこと!」とプリントの裏にマジックで書かれた物が机の上に貼られている。
「先生も佐伯さんに言いくるめられたクチかな」
「どうかな。だって先生が一番男女逆転に盛り上がってたし」
そう、文化祭の出し物を決めるホームルームで、男女逆転の意見が出たときに、担任は楽しそうにその意見を推した。自分が女装しなくても良いとなれば、それはそれは誰よりも楽しそうに多数決をとっていた。
「そういえば言ったの?」
長谷川がシンデレラのドレスを広げながら俺に聞いた。
「言ったって、何を?」
「辰巳に」
「いや、まだ。言えるわけないし……っつーか絶対言うなよ。晃大に言うとなったら、言うのは俺!」
俺は長谷川に釘を刺す。他のやつから言われるなら自分から絶対見にくるなと耳が痛くなるまで言うつもりだ。
「言わないよ。俺だって辰巳に見られるの嫌だし」
長谷川は眉をまたハの字に寄せる。長谷川は晃大と同じ予備校に通っていて、俺と晃大の関係を知っている。シンデレラが決まったのは偶然だけれど。
「いや、お前はまだイケメン部類の綺麗な顔だし……。大丈夫だろ」
「大丈夫なもんかよ。足なんか見せられるかっつーの。そういう戸山はさ、童顔だし白雪姫の衣装、似合うと思うよ」
「似合ってたまるかっ」
そう言いながら渡された袋から衣装を取り出した。
「おぉ……意外とすごい」
「確かに。同級生の手作りとは思えないな」
誰もが見たことのあるあの黄色いスカートのドレス。パフスリーブが綺麗に膨らんでいて、女の子が着たら絶対可愛いと思う出来だった。
俺はワイシャツを脱ぎ、インナー代わりに着ていたTシャツの上からドレスを被った。
「長谷川、後ろのチャック締めて」
「ちょっと待って」
ドレスを着たのも、後ろにファスナーのある服を着たのも初めてで、一人で着るのはかなり難しい。ていうかこれ、ちゃんと脱げるのかな……。
長谷川も同じように上からドレスを被ると、俺の背中のファスナーをゆっくり上げた。
「俺もやって」
「あいよ。これ、当日絶対一人で着替えらんねぇな……」
「それな……トイレとかどうしたらいいんだろうね」
「うわぁ、考えられんねぇ」
ケラケラと笑いながら、衣装の入っていた袋にワイシャツをとスラックスを突っ込んだ。スラックスは脱ぐか迷ったが、ドレス自体が重く、この冷房の効いている部屋で着ていても暑かったのだ。スカートの丈も長くて熱が篭った感じと、ぺたりと足布が纏わりついている感じが気持ち悪くて脱いでしまった。
家庭科室までは、渡り廊下から教室棟へ戻って一階に降りなければならないが、もうこの際どうにでもなれと、半ばヤケになった。
「えっ。戸山、下脱いだの?」
俺がスラックスを袋に詰め込んだのを見て、長谷川が目を丸くしながら言った。
「だって暑くてさぁ。どうせ着ることになるし、今のうちに振り切った方が良い気がして……」
今日は晃大も学校にいないことだし、さっき渡り廊下を歩いた時にそこまで二階に生徒はいなかった。すると、俺の言い分に何か言いたげな顔をしたが、長谷川もドレスの下に履いていたスラックスを脱ぎ始めた。
「まぁ、確かに……。調整終わるまで暑いもんな」
長谷川は自分に言い聞かせるようにそう言うと、俺と同じように袋へスラックスを投げ入れて、小さな声で「よし」と気合を入れた。その声を合図にした訳じゃないが、俺は恐る恐る準備室のドアを開ける。さっきと同じく廊下には人気はない。ほっと胸を撫で下ろし、準備室の鍵を閉めると家庭科室へ向かった。
「うん、ピッタリね」
家庭科室に入ると、先に来ていた佐伯さんがいつになく嬉しそうに言った。
「身長もあるし、細いからシルエットも良いと思う」
「それ、褒めてるの……?」
「もちろん。袖とかキツくない?腰回りは?」
俺と長谷川は揃って首を振る。もうここまでこの重いドレスを着て来ただけでどっと疲れていた。さっさと脱いで自由になりたい。それに、家庭科室には自分のクラスメイトだけでなく、他のクラスの被服班がせっせと衣装や装飾を作っていた。どの子もみんな真剣にやっているのだが、女装した男子は確かに物珍しいだろう、視線はチラチラとこちらに向けられていた。長谷川に至ってはどこかのクラスの女子に声をかけられ、遠くからスマホを向けられている。やめてやれ、俺まで映り込むだろ……!
「ドレスが大丈夫なら、あとはこれね」
にこりと笑って佐伯さんは、別の紙袋を俺と長谷川に手渡した。
「まだあるの?」
「着ける練習はしないと。本番困るわよ」
中身を見て俺達は絶句した。
あぁ、そうだ……これ着けるって話したっけ……。
夏休みのホームルームで、衣装のデザインが発表された時のことだった。古賀は俺と長谷川に「絶対可愛いから!」と、それぞれ黒髪と金髪のウィッグを用意すると言っていた。それが今、手渡されたものだった。
「マジかよ」
「ん、なに?」
俺が金髪のウィッグを長谷川に手渡すと、長谷川が反応するよりも先に、遠巻きで騒いでいた女子達が「なにそれ!今着けてよ!」と作業を中断して俺達の方にやってきた。
「えぇ、今?」
「着け方教えてあげるから!」
押しに弱い長谷川は、彼女達に言われるままだ。
さすがイケメン、女子の反応は違うな……。
目の前のやりとりに圧倒されていると、佐伯さんに「戸山くんも」と他人事じゃないと遠回しに言われた。
結局、その場にいた女子に押され、ウィッグを着けた。
「戸山、俺……似合ってるの?」
長谷川が不安そうに聞いて来た。溜息と同時に漏れた声は覇気がない。「可愛い、可愛い」と言われながらスマホを向けられた後で、色んな意味で諦めている。
「……大丈夫、めちゃくちゃ可愛い」
俺は苦笑いをしながらそう答えた。
正直、可愛いというより普通に似合っていて驚きだった。金髪のロングヘアのウィッグを着けるだけでなく、その場にいた女子によりメイクまでされている。よく見れば長谷川だが、パッと見はもう誰だか分からない。そりゃ、これだけ騒がれる訳だ。普段何もしなくてもモテる男は女装してもモテる。それも、芸能人だけでなく一般人に置いても同じらしい。うん、それはもうお前で立証されたも同然だよ。なんて、本人には言えないけど。
「……戸山も凄い可愛いから安心して」
「うわー、すっげぇ嬉しい」
俺は棒読みでお礼を伝える。誰かが置きっぱなしにした手鏡を覗き込むと、長谷川同様に一瞬誰だか分からない顔が映り込んだ。俺が着けたのはショートヘアのウィッグで、襟足がいつもより長く、動くたびに擦れるのが気になってしまう。
誰かが持ってきていたコテを使って毛先はカールされるし、この数分で更に疲れてしまった。俺達は二人して溜息を漏らした。
いや、まだ学校に来て一時間も経ってないんだけど……。
家庭科室の時計を見上げ、げんなりしていると、持っていたスマホが鳴った。画面を見るタイミングが長谷川と同じで、クラスのグループチャットなのがすぐにわかる。
あ。ちょい待って……なんか嫌な予感が……。
「あっ!」
すると、俺よりも先に長谷川が声を上げた。慌ててグループ画面を開くと、そこには俺達の写真が載せられていたのだ。
「ちょっ、佐伯さん!困るよこれ!」
「何でよ。古賀さんに見せないといけないし、どうせならみんなに見せたいじゃない」
「そういうことじゃなくてさぁ!」
勝手に写真を回すのは良くないって情報の授業で言われたじゃん!
そう食ってかかろうが、彼女は「大丈夫、本当に二人とも可愛いから」とにこやかに答えるだけで写真を取り下げようとはしない。
あぁ、どうしようっ!これが先に晃大の目に入ったら……!
考えただけで、身体中に熱が込み上げる。
絶対無理無理!だってまず、ドレスにメイク、しかもウィッグとか!引かれるし、幻滅されたら……っ!
その時だった。
「お、涼しーっ!」
「北川、他のクラスのやつもいるんだから……」
聞き覚えがある声がし、思わず振り向くとそのこには今一番会いたくない人物が立っていた。
「は………?」
一瞬、時間が止まった錯覚に陥った。
ちょっ、えっ……えぇっ?いや、だって、学校は来週からって言ってなかった……?
「……恵吾?」
名前を呼ばれて咄嗟に顔を逸らす。同じく気まずそうな顔をしている長谷川と目が合った。長谷川も長谷川で同じ予備校に通う仲の良い友人に見られたのだ。
いや、でも気まずいのは俺の方が絶対上だし!ていうか、なんですぐバレるんだよっ!
俺は返事をしないまま下を向いた。心臓はバックバクで、もう一度俺の名前を呼ぶ晃大の声が遠くから聞こえる。
あぁ、もう最悪っ……!めちゃくちゃ恥ずかしいっ!
空気を読んだのか、佐伯さんは慌てて広げていた作業道具を片付け始める。彼女は俺と晃大の関係は知らないにしても、いつも一緒にいるのは知っているはず。俺のこの反応を見て、何か諭したのだろう。
いや、片付けじゃなくて、なんとかしてよっ。君がここに呼んだんだからぁっ!
半泣き状態で、机の上に置いていた自分達の服を引ったくると、俺は長谷川の腕を引いて家庭科室の後ろの戸から出て行った。
「ちょ、戸山っ」
小声で長谷川が俺を呼ぶが、俺は長谷川の腕を離さない。むしろその掴む力が増した気がする。分かっているのに緩められなくて、申し訳ないのに、どうにも止められなかった。
恥ずかしくて、自分の意志じゃないのも納得出来ない。だがクラスに協力はしなきゃいけないのは理解していた。それでも、やっぱりこの格好は晃大に見られたくない。
勢いよく階段を駆け上がる。ドレスが重い上に、足元をヒラヒラと布が擦れる感じがむず痒い。こんな体験も、こんな思いも初めてだった。
最後の階段を上った時、やっと長谷川の腕を離した。ぜいぜいと息が荒げ、この格好で真夏の廊下を全力疾走したことを後悔する。
「と……戸山、きついって……」
肩を大きく動かし、苦しそうな長谷川はもうウィッグがズレて大変なことになっていた。
「ごめんって……」
一言謝って、俺は長谷川の着替えを押し付けると、ふらついた足で渡り廊下へ向かう。その途中、ドレスの裾を踏んで盛大に転んでしまった。
「うわぁっ」
「ちょ、大丈……」
心配する長谷川の声が尻すぼみになった。膝を軽くぶつけただけで大したことはない。そう伝えようと顔を上げると、長谷川ではなくそこには汗だくの晃大が心配そうに立っていた。
「こ……」
「膝、大丈夫か?」
「……え、あ……平気……」
晃大は俺の返事を待たずに屈んで俺の腕を掴むと、ゆっくりと立たせた。
「あ、あり……がとう……」
気まずくて、声も身体も萎んでいく。というか恥ずかしすぎて顔が見れなかった。
「なんで逃げた」
「な、なんでって……こんな格好だし……」
チラリと後ろを向くと長谷川と目が合う。
「えっと……俺、先に着替えてくるね」
目を泳がせながらそう言うと、長谷川は俺と晃大を残して渡り廊下をバダバタと走って理科の準備室へ向かって行った。
「別に、変じゃないと思うけど……」
「はぁっ?」
思わず顔を上げて大きな声を出す。心臓はさっきよりもうるさい。
何言ってんのこいつ……っ!
俺はすかさず顔を下げる。廊下が暑いんだか、自分の身体が熱いんだかわからないぐらいに火照って、湯気が出そうだった。
「俺の好きなやつは、何着ても似合うって思ったっていうか……」
「……ちょっ」
何、柄にもなく恥ずかしいことを言い出してんだと文句を言おうとしたが、俺が口を挟む前に晃大がそれに待ったをかけた。
「あー……や、待って。今のなし、えーと……」
晃大は額に手を当て考え込む。指の間から俺の方を覗き、目が合うとその目が左右に泳いだ。
「な、なに……。やっぱり変なんでしょ。笑って良いよ。俺が一番変だって、わかってんだからっ」
すると晃大は大きく首を振った。そして少し長めに息を吐くと、赤い顔を方腕で隠しながら気恥ずかしそうに口を開いた。
「ごめん、その……。やっぱちょっと、その……可愛い……と、思う……」
そう言った晃大の頬が赤くになっているのが見え、俺の顔はそれよりも、まるで火を噴いたように熱を帯びた。
「で、なんで言わなかったんだ?」
「……俺だって今日来るなんて聞いてないんだけど!」
「予備校夜だし、昨日恵吾と話してから早いうちに顔出さないと、って思ったんだよ。それで、そっちの言い訳は?」
「……見たら笑われると思ったのっ!」
「それから?」
「……それだけ」
「ふぅん、当日が楽しみだな」
「絶対来るなっ!!」
俺がテキストの問題を指差して顔を上げると、晃大は眉を寄せた。
「それ、さっきの応用」
「さっきのって、どれ?」
なんとなくどの問題かは分かっていたけど、分からないフリをする。だってそうじゃないと晃大はずっと無言だ。
「ねぇ、どれ?」
ねぇねぇと、何度も聞くのに、晃大は数回俺を見てはそのまま無視をする。口を開いたかと思ったら、だいぶ前にドリンクバーへ取りに行ったアイスコーヒーを一口飲んだ。氷が全部溶けていて、もう味もだいぶ遠かったのだろう、ぴくんと眉毛が動く。
「こーだーいくーん」
面倒くさそうな顔をし、一瞬俺の顔をじっと見ると、晃大は握ったペンでその「さっきの問題」とやらを指した。
「考え方は同じだから」
「でもさぁ」
「恵吾」
邪魔するな、とまでは言わないのは晃大なりの優しさだろうか。それでもこうやって顔突き合わせて勉強するなら少しぐらい話をしたって良いと思う。それとも、余程難しい問題を解いているのだろうか。
ただでさえ、夏休みってだけで会えないのに……。
俺と晃大は小学生からの知り合い、所謂幼馴染。ずっと一緒にいるような仲ではなかったが、同じ高校へ進むことが分かった時から連むようになった。その頃から今日みたいにファミレスで勉強を一緒にすることが増えた。そうやっていつも一緒にいて、同じ目標に向かって頑張っていたからかもしれない。次第にお互い惹かれあって、付き合うことになったのだ。
定期考査前やこういう長期休暇には勉強会をしていたし、どこかに出かけたりもした。だが、それも今年の春休みが終わるまでの話。来年は大学受験だからと、晃大は予備校に通い出した。特に夏休みは夏期講習が詰め込まれていて、以前の夏休みや冬休みのように一緒に勉強をするのは愚か、遊ぶ頻度も減ってしまった。
今日はたまたま講義が休みで、俺も予定がなかったから学校の宿題をやろうって話だったんだけど、晃大はとっくに終わらせてしまっていて、代わりにやたら難しそうな予備校のテキストを持って来ていた。
二年になってからクラスも離れてしまい、こういう時にしか会って話すことないのに……。
不貞腐れる俺の方なんて一切見もせず、晃大は黙々と自分のテキストを進めていく。
これ以上何か言ったら怒られると思い、俺は黙って応用問題に取り掛かった。
各々のテキストがひと段落したした頃、晃大と俺はメニューからいくつか注文をした。しっかり昼食は摂ったものの、やっぱり頭を使えばそれなりに腹は減る。夕方近い時間とはいえ、現役高校生は食に対しての我慢が一番緩い。それに、久々に会った気もしたし、少しぐらいゆっくり話せる時間も欲しかった。
テーブルに広げた勉強道具を鞄に詰め込んでいると、スマホが鳴った。丁度晃大はドリンクバーにおかわりを取りに行っていたため、俺は迷いなく画面を確認する。
メッセージはクラスのグループチャットに送信されたものだった。
『明日、衣装合わせしたいので下記に名前のある人は登校してください。予定が有れば、振り替えます』
送信者はクラスの女の子、佐伯さん。真面目な彼女らしい文章で、夏休みの文化祭準備の進捗状況が細かく書き出されていた。メッセージをスクロールすると、俺の名前が記載されている。思わず頬が引き攣った。
マジか……。
思わずため息を漏らす。まだ晃大はこちらに帰ってきていないのが救いだった。
俺のクラスは演劇をやることに決まったのだが、その演目が『シンデレラと白雪姫』。シンデレラのストーリーに白雪姫も紛れ込むというとんでも設定満載な話。演劇部の部長であるクラスメイトの古賀が、脚本を書くといって張り切っていたホームルームは記憶に新しかった。まぁ、それはそれで良いのだけど、配役がこれが本当に最悪なのだ。
「男女逆転のが面白いと思うのよね!」
そんな脚本家の一言でクラス全体が盛り上がってしまった。勿論ブーイングをするやつもいたが、結局は多数決によって決まった。
最初は面白いと思って誰も賛成にしてしまったのだけど、この配役がなかなか決まらなくて、結局、主人公……いやヒロイン役はクジ引きになり、この俺が白雪姫を引き当ててしまったのだ。
う、わぁ……最悪だ……。
こればっかりはマジで行きたくない……!
彼女達の一生懸命さを蔑ろにするつもりも、勿論同じように頑張って暑い中準備当番で登校している子達を裏切るようなことはしたくない。
いや、でもなぁ……。
「どうした、難しい顔して」
「へ?」
声が裏返り、俺の声に晃大が笑った。
「百面相してたぞ。あ、メロンソーダで良かった?」
「あ、うん。さんきゅ。ちょっとね、文化祭の連絡回ってきてて」
苦笑いをし、晃大が俺に持ってきたメロンソーダを受け取った。
実は晃大にはまだ演目も配役も話ていない。そのうちバレるだろうけれど、自分の口からは言い難く、演劇をやるとしか伝えていなかった。
「へぇ。三組は結構張り切ってるんだな」
「う、うん。一組は?」
「まだ顔出してないから何ともだけど……。装飾準備の割り振りされてるから、そろそろ俺も行くと思う」
それ、絶対明日ではありませんように!
心の中で俺はそう叫ぶ。晃大のクラスは確か模擬店をすることになっていたはずで、当日給仕班になった晃大は、簡単な装飾を割当てられると夏休み前に言っていたのを思い出す。
「来週あたりに夏期講習も落ち着くし、学校でも顔合わせるかもな」
そう言われて一瞬、どきりとした。
「そ……そうだな」
来週ならたぶん、大道具の作業で埋まっていたはずだし……うん、大丈夫だろう。
晃大は不思議な顔で俺を見ていたが、タイミングよく店員が料理を持ってきて、俺は難を逃れた。
「長谷川くんはこれ、戸山くんはこっちね」
次の日、気乗りしないまま教室へ向かうと、佐伯さんは白雪姫役の俺とシンデレラ役の長谷川に衣装の入った袋を手渡した。その場には継母役や意地悪な姉達を演じる男子達もいたが、着替えを渡されたのは俺達二人だけだった。彼らはホッとした顔をしながら、別の作業に取り掛かっていたが、主人公の衣装優先で製作しただけで結局は同じことをするのだ。
次はお前らの番だからな……っ!
ジト目で彼らを軽く睨むと、もう諦めろと長谷川に肩を軽く叩かれる。
「先生から理科の準備室借りてるの。そこで着替えてから家庭科室に来てくれる?」
佐伯さんは理科の準備室の鍵を俺に渡した。
「え、待ってよ。このドレス着て廊下歩くの?」
「仕方ないじゃない。女子もいるんだからここで着替えろなんて言えないもの」
「ならトイレとか……」
「トイレは嫌よ。せっかく作ったドレスが汚れるでしょ」
佐伯さんはぴしゃりと言った。そりゃそうだ、今回の衣装はほとんど家庭科部の彼女が作ったものなのだ。
「でもなぁ……」
長谷川も眉をハの字に寄せるが、彼女の言い分は変わらない。ここで良いとも言ったが、この後ペンキ作業をするとかなんとかでダメだと言われた。理科の準備室は渡り廊下を渡った先だ。作ってもらっといて言うのは確かに気が引けるけど、部活動や文化祭の準備で多くの生徒が登校している中、この格好をして歩くのはかなりの勇気がいる。
「もぅ。作業が進まないから早く行ってきて」
「えぇっ、マジで」
「マジのマジですっ!ほら、準備の邪魔なんだからっ!」
いや、邪魔ってそれはないでしょ!
そんなツッコミすら聞いてもらえない俺達は佐伯さんに背中をぐいぐい押されて教室の外に追いやられた。
「着替えたらそのまま家庭科室ね!」
にこりと笑った佐伯さんは、教室の戸を閉めた。
「……はぁ」
長谷川の溜息が重い。クラスの女子はこういう時、強くて厄介だ。悪いことじゃないのだけど、正直言うと、もう少し優しく接してほしい。それでも今日の今日まで準備をしてくれたことは有難い。ドレスじゃなかったらもっと感謝しただろうけど……。
「……仕方ない、行こう」
俺と長谷川は顔を見合わせると、理科の準備室まで渋々歩いて行った。
クーラーの付いている教室とは違い、夏休みの学校の廊下は温い空気が歩くたびに身体に纏わりつく。更に今日は三十度を超える真夏日だとお天気お姉さんも言っていた。三階にある教室から二階の渡り廊下に出るだけで、身体中が汗ばんだ。
こんなに汗かいてるのに作ったばかりの新しい衣装を着ても良いのだろうか……。
長谷川も同じことを考えていたようで、持っていたハンドタオルで拭けるだけ汗を拭いていた。
申し訳ない気持ちと恥ずかしさでまたもや溜息が漏れる。長谷川とは目を合わせては苦笑いするしかなかった。
準備室に着くと、担任が事前に用意してくれていたのか、冷房がついていた。わかりやすく「出るときはクーラーを消すこと!」とプリントの裏にマジックで書かれた物が机の上に貼られている。
「先生も佐伯さんに言いくるめられたクチかな」
「どうかな。だって先生が一番男女逆転に盛り上がってたし」
そう、文化祭の出し物を決めるホームルームで、男女逆転の意見が出たときに、担任は楽しそうにその意見を推した。自分が女装しなくても良いとなれば、それはそれは誰よりも楽しそうに多数決をとっていた。
「そういえば言ったの?」
長谷川がシンデレラのドレスを広げながら俺に聞いた。
「言ったって、何を?」
「辰巳に」
「いや、まだ。言えるわけないし……っつーか絶対言うなよ。晃大に言うとなったら、言うのは俺!」
俺は長谷川に釘を刺す。他のやつから言われるなら自分から絶対見にくるなと耳が痛くなるまで言うつもりだ。
「言わないよ。俺だって辰巳に見られるの嫌だし」
長谷川は眉をまたハの字に寄せる。長谷川は晃大と同じ予備校に通っていて、俺と晃大の関係を知っている。シンデレラが決まったのは偶然だけれど。
「いや、お前はまだイケメン部類の綺麗な顔だし……。大丈夫だろ」
「大丈夫なもんかよ。足なんか見せられるかっつーの。そういう戸山はさ、童顔だし白雪姫の衣装、似合うと思うよ」
「似合ってたまるかっ」
そう言いながら渡された袋から衣装を取り出した。
「おぉ……意外とすごい」
「確かに。同級生の手作りとは思えないな」
誰もが見たことのあるあの黄色いスカートのドレス。パフスリーブが綺麗に膨らんでいて、女の子が着たら絶対可愛いと思う出来だった。
俺はワイシャツを脱ぎ、インナー代わりに着ていたTシャツの上からドレスを被った。
「長谷川、後ろのチャック締めて」
「ちょっと待って」
ドレスを着たのも、後ろにファスナーのある服を着たのも初めてで、一人で着るのはかなり難しい。ていうかこれ、ちゃんと脱げるのかな……。
長谷川も同じように上からドレスを被ると、俺の背中のファスナーをゆっくり上げた。
「俺もやって」
「あいよ。これ、当日絶対一人で着替えらんねぇな……」
「それな……トイレとかどうしたらいいんだろうね」
「うわぁ、考えられんねぇ」
ケラケラと笑いながら、衣装の入っていた袋にワイシャツをとスラックスを突っ込んだ。スラックスは脱ぐか迷ったが、ドレス自体が重く、この冷房の効いている部屋で着ていても暑かったのだ。スカートの丈も長くて熱が篭った感じと、ぺたりと足布が纏わりついている感じが気持ち悪くて脱いでしまった。
家庭科室までは、渡り廊下から教室棟へ戻って一階に降りなければならないが、もうこの際どうにでもなれと、半ばヤケになった。
「えっ。戸山、下脱いだの?」
俺がスラックスを袋に詰め込んだのを見て、長谷川が目を丸くしながら言った。
「だって暑くてさぁ。どうせ着ることになるし、今のうちに振り切った方が良い気がして……」
今日は晃大も学校にいないことだし、さっき渡り廊下を歩いた時にそこまで二階に生徒はいなかった。すると、俺の言い分に何か言いたげな顔をしたが、長谷川もドレスの下に履いていたスラックスを脱ぎ始めた。
「まぁ、確かに……。調整終わるまで暑いもんな」
長谷川は自分に言い聞かせるようにそう言うと、俺と同じように袋へスラックスを投げ入れて、小さな声で「よし」と気合を入れた。その声を合図にした訳じゃないが、俺は恐る恐る準備室のドアを開ける。さっきと同じく廊下には人気はない。ほっと胸を撫で下ろし、準備室の鍵を閉めると家庭科室へ向かった。
「うん、ピッタリね」
家庭科室に入ると、先に来ていた佐伯さんがいつになく嬉しそうに言った。
「身長もあるし、細いからシルエットも良いと思う」
「それ、褒めてるの……?」
「もちろん。袖とかキツくない?腰回りは?」
俺と長谷川は揃って首を振る。もうここまでこの重いドレスを着て来ただけでどっと疲れていた。さっさと脱いで自由になりたい。それに、家庭科室には自分のクラスメイトだけでなく、他のクラスの被服班がせっせと衣装や装飾を作っていた。どの子もみんな真剣にやっているのだが、女装した男子は確かに物珍しいだろう、視線はチラチラとこちらに向けられていた。長谷川に至ってはどこかのクラスの女子に声をかけられ、遠くからスマホを向けられている。やめてやれ、俺まで映り込むだろ……!
「ドレスが大丈夫なら、あとはこれね」
にこりと笑って佐伯さんは、別の紙袋を俺と長谷川に手渡した。
「まだあるの?」
「着ける練習はしないと。本番困るわよ」
中身を見て俺達は絶句した。
あぁ、そうだ……これ着けるって話したっけ……。
夏休みのホームルームで、衣装のデザインが発表された時のことだった。古賀は俺と長谷川に「絶対可愛いから!」と、それぞれ黒髪と金髪のウィッグを用意すると言っていた。それが今、手渡されたものだった。
「マジかよ」
「ん、なに?」
俺が金髪のウィッグを長谷川に手渡すと、長谷川が反応するよりも先に、遠巻きで騒いでいた女子達が「なにそれ!今着けてよ!」と作業を中断して俺達の方にやってきた。
「えぇ、今?」
「着け方教えてあげるから!」
押しに弱い長谷川は、彼女達に言われるままだ。
さすがイケメン、女子の反応は違うな……。
目の前のやりとりに圧倒されていると、佐伯さんに「戸山くんも」と他人事じゃないと遠回しに言われた。
結局、その場にいた女子に押され、ウィッグを着けた。
「戸山、俺……似合ってるの?」
長谷川が不安そうに聞いて来た。溜息と同時に漏れた声は覇気がない。「可愛い、可愛い」と言われながらスマホを向けられた後で、色んな意味で諦めている。
「……大丈夫、めちゃくちゃ可愛い」
俺は苦笑いをしながらそう答えた。
正直、可愛いというより普通に似合っていて驚きだった。金髪のロングヘアのウィッグを着けるだけでなく、その場にいた女子によりメイクまでされている。よく見れば長谷川だが、パッと見はもう誰だか分からない。そりゃ、これだけ騒がれる訳だ。普段何もしなくてもモテる男は女装してもモテる。それも、芸能人だけでなく一般人に置いても同じらしい。うん、それはもうお前で立証されたも同然だよ。なんて、本人には言えないけど。
「……戸山も凄い可愛いから安心して」
「うわー、すっげぇ嬉しい」
俺は棒読みでお礼を伝える。誰かが置きっぱなしにした手鏡を覗き込むと、長谷川同様に一瞬誰だか分からない顔が映り込んだ。俺が着けたのはショートヘアのウィッグで、襟足がいつもより長く、動くたびに擦れるのが気になってしまう。
誰かが持ってきていたコテを使って毛先はカールされるし、この数分で更に疲れてしまった。俺達は二人して溜息を漏らした。
いや、まだ学校に来て一時間も経ってないんだけど……。
家庭科室の時計を見上げ、げんなりしていると、持っていたスマホが鳴った。画面を見るタイミングが長谷川と同じで、クラスのグループチャットなのがすぐにわかる。
あ。ちょい待って……なんか嫌な予感が……。
「あっ!」
すると、俺よりも先に長谷川が声を上げた。慌ててグループ画面を開くと、そこには俺達の写真が載せられていたのだ。
「ちょっ、佐伯さん!困るよこれ!」
「何でよ。古賀さんに見せないといけないし、どうせならみんなに見せたいじゃない」
「そういうことじゃなくてさぁ!」
勝手に写真を回すのは良くないって情報の授業で言われたじゃん!
そう食ってかかろうが、彼女は「大丈夫、本当に二人とも可愛いから」とにこやかに答えるだけで写真を取り下げようとはしない。
あぁ、どうしようっ!これが先に晃大の目に入ったら……!
考えただけで、身体中に熱が込み上げる。
絶対無理無理!だってまず、ドレスにメイク、しかもウィッグとか!引かれるし、幻滅されたら……っ!
その時だった。
「お、涼しーっ!」
「北川、他のクラスのやつもいるんだから……」
聞き覚えがある声がし、思わず振り向くとそのこには今一番会いたくない人物が立っていた。
「は………?」
一瞬、時間が止まった錯覚に陥った。
ちょっ、えっ……えぇっ?いや、だって、学校は来週からって言ってなかった……?
「……恵吾?」
名前を呼ばれて咄嗟に顔を逸らす。同じく気まずそうな顔をしている長谷川と目が合った。長谷川も長谷川で同じ予備校に通う仲の良い友人に見られたのだ。
いや、でも気まずいのは俺の方が絶対上だし!ていうか、なんですぐバレるんだよっ!
俺は返事をしないまま下を向いた。心臓はバックバクで、もう一度俺の名前を呼ぶ晃大の声が遠くから聞こえる。
あぁ、もう最悪っ……!めちゃくちゃ恥ずかしいっ!
空気を読んだのか、佐伯さんは慌てて広げていた作業道具を片付け始める。彼女は俺と晃大の関係は知らないにしても、いつも一緒にいるのは知っているはず。俺のこの反応を見て、何か諭したのだろう。
いや、片付けじゃなくて、なんとかしてよっ。君がここに呼んだんだからぁっ!
半泣き状態で、机の上に置いていた自分達の服を引ったくると、俺は長谷川の腕を引いて家庭科室の後ろの戸から出て行った。
「ちょ、戸山っ」
小声で長谷川が俺を呼ぶが、俺は長谷川の腕を離さない。むしろその掴む力が増した気がする。分かっているのに緩められなくて、申し訳ないのに、どうにも止められなかった。
恥ずかしくて、自分の意志じゃないのも納得出来ない。だがクラスに協力はしなきゃいけないのは理解していた。それでも、やっぱりこの格好は晃大に見られたくない。
勢いよく階段を駆け上がる。ドレスが重い上に、足元をヒラヒラと布が擦れる感じがむず痒い。こんな体験も、こんな思いも初めてだった。
最後の階段を上った時、やっと長谷川の腕を離した。ぜいぜいと息が荒げ、この格好で真夏の廊下を全力疾走したことを後悔する。
「と……戸山、きついって……」
肩を大きく動かし、苦しそうな長谷川はもうウィッグがズレて大変なことになっていた。
「ごめんって……」
一言謝って、俺は長谷川の着替えを押し付けると、ふらついた足で渡り廊下へ向かう。その途中、ドレスの裾を踏んで盛大に転んでしまった。
「うわぁっ」
「ちょ、大丈……」
心配する長谷川の声が尻すぼみになった。膝を軽くぶつけただけで大したことはない。そう伝えようと顔を上げると、長谷川ではなくそこには汗だくの晃大が心配そうに立っていた。
「こ……」
「膝、大丈夫か?」
「……え、あ……平気……」
晃大は俺の返事を待たずに屈んで俺の腕を掴むと、ゆっくりと立たせた。
「あ、あり……がとう……」
気まずくて、声も身体も萎んでいく。というか恥ずかしすぎて顔が見れなかった。
「なんで逃げた」
「な、なんでって……こんな格好だし……」
チラリと後ろを向くと長谷川と目が合う。
「えっと……俺、先に着替えてくるね」
目を泳がせながらそう言うと、長谷川は俺と晃大を残して渡り廊下をバダバタと走って理科の準備室へ向かって行った。
「別に、変じゃないと思うけど……」
「はぁっ?」
思わず顔を上げて大きな声を出す。心臓はさっきよりもうるさい。
何言ってんのこいつ……っ!
俺はすかさず顔を下げる。廊下が暑いんだか、自分の身体が熱いんだかわからないぐらいに火照って、湯気が出そうだった。
「俺の好きなやつは、何着ても似合うって思ったっていうか……」
「……ちょっ」
何、柄にもなく恥ずかしいことを言い出してんだと文句を言おうとしたが、俺が口を挟む前に晃大がそれに待ったをかけた。
「あー……や、待って。今のなし、えーと……」
晃大は額に手を当て考え込む。指の間から俺の方を覗き、目が合うとその目が左右に泳いだ。
「な、なに……。やっぱり変なんでしょ。笑って良いよ。俺が一番変だって、わかってんだからっ」
すると晃大は大きく首を振った。そして少し長めに息を吐くと、赤い顔を方腕で隠しながら気恥ずかしそうに口を開いた。
「ごめん、その……。やっぱちょっと、その……可愛い……と、思う……」
そう言った晃大の頬が赤くになっているのが見え、俺の顔はそれよりも、まるで火を噴いたように熱を帯びた。
「で、なんで言わなかったんだ?」
「……俺だって今日来るなんて聞いてないんだけど!」
「予備校夜だし、昨日恵吾と話してから早いうちに顔出さないと、って思ったんだよ。それで、そっちの言い訳は?」
「……見たら笑われると思ったのっ!」
「それから?」
「……それだけ」
「ふぅん、当日が楽しみだな」
「絶対来るなっ!!」