四月としては珍しく続いた長雨の後、鈍く厚い雨雲が流れ去り五月上旬の大型連休はからりとした晴れの日が続いていた。太陽が遮るもののない青空になんの憚りもなくきらきらと輝いている。
 校庭では陸上部とサッカー部がグラウンドを半分にしてそれぞれの練習に励んでいた。生徒たちの快活な声が気持ちよく響く。連休最終日ということもあってか、緩やかな空気が漂う昼時だった。
 陸上部女子二年伊澄潔乃(いすみきよの)は、数十メートル先の高く据えられたバーを睨んでいた。首筋に触れる程度の長さまで切り揃えたショートヘアに長身ですらりとした長い手足。柔らかそうな髪が陽の光を受けて薄茶色に輝いていた。
 棒高跳びのバー越しに、中央山脈最高峰「龍麟岳(りゅうりんだけ)」の雄大な姿が見える。春夏の間も美しい雪渓を纏う三千メートル級の山々。潔乃は、龍麟岳へ向かって高く跳び出すのが好きだった。
 呼吸を整えて手にしたポールを掲げる。しなるポールの反動とともに、勢いよく駆け出した。
 ――パシッ!
 ボックスに突き立てたポールの反発力で、身体が高く持ち上がる。そこからの一連の動作はとても滑らかで、身体が思うままに反応しバーを跳び越えたのが分かった。跳べた、と思った瞬間には既に背中から落ち、マットの上に着地していた。
「すごーい! もう三メートルは余裕で跳べるね!」
 マットの上で寝転び空を仰ぎ見ていると、同じ棒高跳びの選手である三年生の女子部員が手を差し伸べてきた。潔乃は笑いながら彼女の手を取り立ち上がる。
「余裕じゃないですよっ。でも跳べて良かった」
 練習最後の一走を思い通りに終えられ、潔乃は満足そうな笑みを浮かべた。

 潔乃が通う県立松元(まつもと)高校は、県の中心部に位置する松元市の長い坂の途中にある。松元市は地方都市の中ではそれなりに人口も多く、国宝松元城を中心とした城下町が有名な観光都市だ。市の中心部には大型ショッピングモールや美術館・劇場などがあり人出も多いが、中心から少し離れると閑静な住宅街や昔ながらの里山の風景が広がっているため、都市と自然の調和が取れた場所として人気のある街だった。
 そんな松元市の、松元高校からバスで二十分程離れた静かな住宅街で、潔乃は生まれ育った。
「お腹減ったー! 早く来ないかな~」
 部活の練習終了後、潔乃は二人の友人と高校の近くにある小さな洋食屋に来ていた。右隣に座ったバレーボール部二年の小岩井仁奈(こいわいにな)が、食事が運ばれてくるのを待ちきれない様子で誰に言うともなく独りごちた。テーブルに突っ伏して足をぶらぶらさせている。後頭部の高い位置で纏められたお団子が体の動きに合わせて小さく揺れた。
「混んでるから結構待つかもね」
 潔乃の正面で水を飲んでいた牧村美夜子(まきむらみよこ)がストローから口を離し、仁奈の呟きに応える。抑揚のない、しかし透き通った涼しげな声は昔から変わらない。美夜子は潔乃の幼馴染であり、有名楽団に所属している父親の影響で小さな頃からピアノを習っている。彼女は裕福な家庭のいわゆるお嬢様だったが、特にそれを鼻に掛けることはせずいつも冷静で泰然としていて、潔乃とは昔から気が合った。
 高校一年の時に美夜子と仁奈が同じクラスで仲が良く、二年のクラス替えで仁奈と潔乃が一緒になったことをきっかけに自然と三人で集まるようになった。快活な性格で友達も多い仁奈は休日のほとんどを色んな友人と過ごしていたが、潔乃や美夜子が声を掛けると喜んで時間を作ってくれた。仁奈の人懐っこい笑みは場を明るくする。潔乃はこの三人で過ごす時間がとても好きだった。
「潔乃はさ、調子どうなの? 今月の終わりだよね県予選」
 仁奈が伏せていた顔を上げて話題を振る。二人とも部活動には熱心であるため部活の話をすることは多かった。
「うーん……良い方だと思いたい、かな」
 本番は何が起こるか分からないしね、と付け加える。仁奈は「超応援してる~!」と言いながら潔乃に向かって笑い掛けた。
「うちもみんな結構気合入ってるからさ、今年はいいとこまでいけちゃうかもなんだよね! 全国いけたらどうしよ~! 今年は大阪だしやっぱユニバとか行くべきっ?」
「目的それなの?」
 機嫌良く空想する仁奈に対して美夜子が呆れた様子で笑みを浮かべた。仁奈の冗談に応じている時の美夜子は楽しそうだ。
 インターハイ出場は潔乃も目標としていることだ。走ることが好きで陸上部に入部し中学時代は中距離の選手だったが、中学三年の頃にテレビで見た陸上の世界選手権の影響で高校入学を機に棒高跳びへと転向した。空へ跳び出す爽快感も地面へ落ちていく浮遊感も気持ちよく、自分に向いている競技だと思った。インターハイへ出場するには県予選で四位以内に入らなければいけないが、潔乃は今、入賞できるかどうかの際どいラインにいる。
 しばらく談笑していると料理が運ばれてきた。潔乃は大好物のオムライスを頼んでいた。トマトケチャップの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。潔乃と仁奈は元気よく、美夜子は上品に、いただきますと手を合わせた。
「ねえ私さ、前から気になってたんだけど」
 仁奈はガパオライスの一口目を豪快に頬張り飲み込んだ後、添えられた卵の黄身を崩しながら話を切り出した。
「こうやって三人でご飯食べたりお喋りしたりするのは当然楽しいよ、私も大好きだよ。でもね、なんかさ……二人ともぜんっぜん青春する気なくないっ?」
「どういうこと?」
 身を乗り出さんばかりの仁奈の勢いに若干たじろぎつつも、潔乃が「私部活頑張ってるよ」と答えた。しかし仁奈は大げさなくらい大仰に首を振り、
「そうじゃなくてー! 私だって部活は好きだけど、部活三昧じゃつまんなくないっ? 二年になったんだし、今年こそ彼氏作る、とかないの二人とも!」と、熱っぽく言葉を続けた。
 そういう話か、と返答に困ってしまう。美夜子に目配せをすると彼女は大して反応せずしらすとチーズのホットサンドを食べ続けていた。相変わらずマイペースだ。
「私は部活楽しいし、今はいいかなあ」
「私も」
 潔乃と美夜子がそう答えると、同意を得られなかった仁奈はガクッと項垂れた。
「なにその余裕……敗北感で泣きそう……」
 そう言って落ち込んだような様子を見せる仁奈だったが、彼女の手にしたスプーンは止まることなく食事と口を往復している。
「彼氏いらんとか美少女二人に言われても虚しいだけだわ……」
「仁奈ちゃんの方が可愛いよ」と、美夜子が何でもないようにさらりと言う。
「えっ付き合う?」
「付き合わない」
 美夜子つめたーいっ! と喚く仁奈と冷静な口調の美夜子の会話に思わず笑ってしまった。この二人は時折漫才のようなやり取りをするので面白い。
 美夜子の励まし(と言っていいのか分からないが)もあってか元気を取り戻した仁奈はキリっとした表情で、
「彼氏作るって言っても、まず出会いがないよ出会いが。クラスの男子は問題外だし土日は部活か地域のイベント事に駆り出されるし……あっそう言えば再来週も近所の神社の縁日でキッズたちの相手しなきゃなんだったー! めんどくさー!」と捲し立てた。
 モテモテだねと潔乃が茶化すと、ガキンチョにモテても嬉しくないーっと一蹴されてしまった。仁奈は面倒見がよく人から頼み事をされることも多い上にそれをテキパキとこなしてしまうから凄いと思う。他人に仕事を振るのも上手いし断る時ははっきり断れるのも格好いい。自分も誰かから相談を受けることが頻繁にあるが、どちらかと言うと断れないから面倒事を押し付けられているだけのような気がする、と潔乃は思った。
 そんなことを考えていると、不意に仁奈が思い付いたように、
「あ、神社と言えばさ、今日職員室寄った時先生たちの会話聞いちゃったんだけど」
 と話題を切り替えた。潔乃と美夜子が仁奈の次の言葉を待っていると、思いも寄らない場所の名が上がった。
「うちのクラスに八柳(やつなぎ)君っているじゃん? あの人、円窟(えんくつ)神社の神主の孫らしいよ。有名だから知ってるでしょ? 円窟神社」
 一瞬、言葉に詰まった。その神社の名はよく知っている。ただ、無防備な状態で聞かされたその名前に自分でも驚くほど動揺していた。
「知ってるよ。木蘇(きそ)の神社でしょ」
 潔乃が反応できずにいると美夜子が先に口を開いた。彼女も円窟神社のことは知っている。いや、県民なら誰でも知っているほどの有名な神社ではあるが、潔乃も美夜子も実際にその場所を訪れたことがあるという点で思い入れがあった。しかも、忘れられないくらい強い思い入れが。
「そうそう! 木蘇にあるやつ。先生が何の話してるかは分かんなかったんだけどね、八柳君のとこだけ聞こえたんだー。八柳君全然喋ってくれないから知らなかったけど、おじいちゃんが有名な神社の偉い人とか凄くない?」
 八柳君と話すとご利益あったりするかなっ? と冗談ぽく笑う仁奈の声が遠くに聞こえる。潔乃は峨々と聳える龍鱗岳の美しい佇まいに思いを馳せていた。
 松元市の南東に位置し県中心部を南北に連なる中央山脈。松元高校は市街地より高い場所にあるため山脈の険しい稜線がよく見える。その中央山脈に添うように南に四十キロメートル程進んだ山間の深い場所に木蘇と呼ばれる地域がある。潔乃は八年前、小学三年生の頃に、木蘇円窟神社の祭りの最中一時行方不明になったことがあった。
(八柳君、円窟神社の子だったんだ)

 八柳彦一(やつなぎひこいち)はいつも一人で本を読んでいる物静かな生徒だ。理由は分からないが常にマスクをしているため彼の素顔を見たことのある生徒はいないらしい。二年へ進級して一か月が経ち生徒たちはそれぞれ気の合う友人とグループを作り始めていたが、彦一は誰とも関わらず必要最低限の会話しかしない。潔乃も彼とほとんど話したことはないが、一度だけ、四月の進路希望調査の時に話をする機会があった。

「伊澄さん」
 聞きなれない声に呼び止められ振り返った先に、一枚のプリントを持った彦一が佇んでいた。潔乃が予想外の人物に驚いていると彦一が「これって伊澄さんに渡せばいい?」と、手にしたプリントを渡してきた。進路希望調査票だった。提出日に調査票を忘れた、もしくは休んでいた生徒は直接教師にプリントを提出することになっていたが、連絡が上手く伝わらなかったようで彦一だけはクラス委員の潔乃に渡してきたのだった。
(あっ)
 見るつもりはなかったが表向きのまま渡されたため進路希望が見えてしまった。項目は第三まであるが第一しか埋まっておらず、しかも「就職」だった。進学校である松元高校の生徒はほとんどが進学を希望するため意外に思ったが、次の瞬間には慌てて目を逸らした。他人の進路を覗き見するなんて失礼なことをしてしまったと、申し訳ない気持ちになる。
「これ、本当は先生に直接渡すことになってるんだけど、私職員室に行く用事あるから良かったらついでに渡しておくね」
 ちょっとした罪悪感を抱きつつ、彦一の申し出を快諾した。書類を纏めるのはクラス委員の仕事だから自分が提出しても恐らく問題ないだろう。
「いいの?」
「いいよ。たぶん私が持っていっても大丈夫だと思うから」
 相手に気を遣わせないように潔乃が自然な振舞いで答えると、彦一は、
「そっか。じゃあよろしく。ありがとう」と、真っ直ぐに目を合わせて感謝の言葉を述べた。
 同年代の男子に堂々と「ありがとう」なんて言われたことがなかったので不意を突かれて思わずどきりとしてしまった。マスクをしていて口元が見えないぶん、琥珀色の綺麗な瞳が印象的だった。
 そのまま彦一はふらっと帰ってしまいそれ以降は会話をすることがなかった。眼光が鋭く背も高いので近寄り難いイメージだったが話してみると丁寧で、表情の変化に乏しい(目元ですらピクリとも動かなかった)のに不思議と穏やかな印象を受けた。

 彦一が円窟神社の人間なら八年前の事件も当然知っているだろう。当時警察や消防団、猟友会なども加わって夕刻から深夜まで大規模な捜索が行われた。結果自分は参道で倒れていたところを助けられたのだが──
「二人はさ、八柳君の素顔見たことある? 私八柳君と去年も同じクラスだったけど、一回もマスク外してるところ見たことないんだよね」
 仁奈がそう言って「美夜子もないでしょ?」と話を振ると、美夜子も頷いた。いつもマスクをしていて体育の授業でも外さない、昼食の時間は教室をふらりと出ていくのでどこで食べているか分からない、という調子で、彦一には謎が多かった。一年の頃には喧嘩で負った傷が顔にあるだの口が異様に裂けているだのといった噂が流れていたらしい。
「あそこまで隠されると気になっちゃうよね。今年は仲良くなって素顔見せてもらえるといいな」
「見られるの嫌だから隠してるんじゃないの? そういうの探るの良くないと思うけど」
「うっ……それはまあそうだけど……」
 美夜子にチクリと刺されて仁奈はしょげてしまった。その後は自然と彦一の話が流れて、話題は翌週の土曜日に予定している潔乃の誕生日会の話に変わった。市内の大型ショッピングモールに入っているレストランでお祝いをしてくれるらしい。二人はもちろん陸上部の友人も集まってくれると言っていて、潔乃はこの日を以前から楽しみにしていた。

「大丈夫?」
「えっ?」
 何を心配されているか分からないでいると、美夜子が続けて「神社のこと」と付け加えた。
 仁奈と別れた後、潔乃と美夜子はバス停で同じバスを待っていた。二人は近所に住んでいるため時間が合う時は一緒に帰っているのだった。
「まだ神様探してる?」
 淡々としていて、しかし僅かに遠慮するような声色で美夜子は尋ねた。八年も前のことなのにまだ気に掛けてくれていることが申し訳なかった。
「よく覚えてるね」
「覚えてるよ。潔乃ちゃんがあんな風に取り乱すところ初めて見たから」
 あの日、美夜子も一緒に祭りへ遊びに来ていた。突然友達が行方不明になり美夜子自身も大いに動揺したであろうが、彼女は潔乃が姿を消してから見つかるまでずっと現場で待っていた。夜の遅い時間帯になり親に帰宅を促されても頑なに動こうとしなかったらしい。
 発見された時のことを潔乃はよく覚えていない。それでも、両親や弟、美夜子が泣いていた光景は目に焼き付いている。本当にたくさんの人に心配を掛けた。そのことがずっと潔乃の心に重くのしかかっていた。
 それにあの時の――自分を助けてくれた大きな黒い狐のことも、忘れられなかった。

〝狐の神様が助けてくれた〟

 保護された後に親や周りの大人にいくら説明しても信じてもらえず、熊か何かと遭遇したのだと解釈されしばらく円窟神社近辺では猟友会による巡回が行われた。当然人を乗せられるほどの大きな狐など見つかるはずもなく、「神隠し」と呼ばれた潔乃の失踪事件は静かに収束していった。
「私は今でも信じてるよ。きよちゃんは?吐くような子じゃないもの」
「ありがとうみょんちゃん」
「みょんちゃんは禁止」
 そう言って二人は笑い合った。こんな何でもない日常が大切に感じる。今思えばあの日の出来事は現実に起こった事なのか、確信が持てなかった。確かめる術もないのであれは夢だったのだと思い込むことにしていた。

 連休明けの一週間も暑い日が続いていた。このまま夏に入ってしまうのではないかと思う程日差しが強い。梅雨入りすれば涼しくなるが、それまでは不安定な天気が続くと天気予報のキャスターが言っていた。
 金曜日の午後一番の授業は他クラスとの合同体育だった。体育館の真ん中にネットを張って境界を作り、男子はバスケットボール、女子はバレーボールの試合を行っていた。
「うおりゃああーー!」
 仁奈が豪快にスパイクを打って相手コートへとボールを放り込む。彼女の身長は百六十センチメートル程度とバレー部にしては小柄な方だが持ち前の運動神経で次々と攻撃を決めていた。
「仁奈ずる! バレー部なんだから手加減しろよ!」
「やっだよー! スパイク打つのたのしー!」
 相手チームからブーイングが起こり体育教師の溝口(みぞぐち)も「小岩井~他のメンバーにもボール回せ~」と仁奈を窘めた。控えのメンバーにずるずると引き摺られて強制的に交代させられる。コートの外で次の試合を待っていた潔乃の横に来て「せっかく試合でスパイク打てるチャンスだったのに」と口を尖らせた。
「仁奈ちゃん凄いよね、かっこいい!」
 潔乃が褒めると仁奈は「まあね!」と得意気な笑みを浮かべた。
「でも私の身長だとあんま角度付けられなくてショボいんだよねー。潔乃は背高くていいな、羨ましい」
 潔乃の横で背伸びをして仁奈が笑った。スポーツをする分には長身だと有利になることが多い。潔乃も棒高跳びを始める上で身長が高いことがプラスに働いた感覚はある。しかし気に入った洋服のサイズが合わない事が頻繁にあるので、そういう点では仁奈や小柄で可愛らしい美夜子が羨ましかった。
「そこまで高くないけどね」
「百七十くらいある?」
「ちょっと足りないかな」
 そんな会話をしていると、コートから外れたボールが大きく跳ね潔乃の横を転がっていくのが見えた。そのまま体育倉庫の方へ向かっていく。「私取ってくる」と言って潔乃はボールを追い掛けた。

 ボールを拾い上げ、倉庫から出ようとした瞬間だった。
 急に立ち眩み潔乃はその場に座り込んでしまった。心臓がドクドクと脈打ち、呼吸が乱れる。自分でも何が起こったのか分からないほどの急激な眩暈に戸惑いを覚える。最近暑い日が多かったから体調を崩したのだろうか……
 ゆっくりと目を開けると、そこは体育館の中心だった。
(――え?)
 どうして?
 全く理解が追い付かない。倉庫から出た先が何故体育館の真ん中なのだろう。
 混乱した頭で辺りを見回すと、他の生徒も、教師も、コートもネットも、忽然と姿を消していた。本能的に体育館の出入り口の方を振り返ったが本来あるべき場所に出入り口はなかった。それどころか倉庫も壇上もない。二階部分はそのままだが一階フロアは四方をただの壁に囲まれている。どう考えても奇妙な空間だった。
 足が震えて立てなかった。八年前のあの時と一緒だ。気付かぬうちに自分の知らない場所へ迷い込んでしまったのだと思った。何の前触れもなく、理不尽に。どうしてまた、という思いが頭をぐるぐると巡る。恐怖で全身が震え歯がカチカチと鳴った。
 不意に、体育館の二階ギャラリーに設置されている窓が揺れた。揺れたと言うより波打ったと表現した方が正しいかもしれない。窓の表面がゆらゆらと揺らぎそこからにゅっと、獣の腕のようなものが伸びてきた。
(――――っ!)
 現れたのは大柄な猿だった。一匹が窓から侵入すると堰を切ったように次々と他の窓からも猿が姿を現した。あっという間にギャラリーを猿たちが埋め尽くし、潔乃を見下ろした。全ての猿から鋭い視線が注がれる。潔乃は何もする事ができず呆然とその光景を眺めるしかなかった。
 猿の群れが一斉にギャラリーの柵を掴み、威嚇し始めた。キーキーと耳障りな声が体育館中に響き渡る。潔乃は耳を塞いで目を閉じ蹲った。怒っている? 何故? そもそもあの猿たちは何? どうして私はここにいるの――
 ドシン、ドシンと、何かが落下する音がした。猿が降りてきた? 確かめるために目を開ける勇気もなかった。こちらへ向かって大勢の猿が駆けてくる音が聞こえる。もうダメ、殺される――っ!
 これから自分の身に起こるであろう衝撃を覚悟したその時、潔乃の頭上で熱風が渦巻いた。轟々と音を立てて彼女の周りを吹き抜ける。それと同時にギャッ! という猿の悲鳴らしきものもあちこちから上がった。何か、とてつもない事が起きている予感がする。
 恐る恐る顔を上げると目の前に信じられない光景が飛び込んできた。いつの間にか大きな黒い塊が現れ、潔乃を庇う様に猿の群れに対峙していた。炭のように燻った黒い後ろ姿、ふわりとした長い尾、四足の大きな獣――
「かみ……さま……?」
 掠れた声が漏れた。目を見開いて、瞬きすら忘れていた。
 黒い獣が潔乃へ向き直る。厚みのある大きな耳にすらりとした鼻先。間違えるはずがない。目の前にいるのは、確かにあの時の黒い狐だった。
 狐が突如身構えると身体から黒い炎が吹き出しその身を包んだ。渦巻いた炎はやがて小さくなり人影のようなものを形成した。思いも寄らない事の連続で思考が完全に停止する。炎の渦から姿を現したのは、同じクラスの男子生徒、八柳彦一だった。

 彦一は放心状態の潔乃に近付いて身を屈めた。
「安心して。俺は君の味方だ」
 一言声を掛けると、すぐに立ち上がって猿の群れを見渡した。熱風に煽られぎゃあぎゃあと興奮状態の猿たちは今にもこちらへ飛び掛かってきそうだ。彦一は視線はそのままに「俺の側から離れないで」と、潔乃に注意を促した。
 猿たちは距離を取りギギ、ギギ、と牙を剥き出して威嚇をしてくる。異様な光景だ。これだけ多くの猿の敵意をかき立てるものとはなんだ? 自分が一体何をしたというのだろう?
 痺れを切らしたのか、群れの中から一匹の猿が飛び出すと潔乃たちを囲むように円形に待機していた猿たちが一斉に駆け出した。潔乃の口から引き攣った悲鳴が漏れ、身が竦んだ。しかし彼らが潔乃の元へ辿り着く事はなかった。
 ゴオッ――!
 黒い炎が唸りを上げて渦巻いた。潔乃と彦一を中心にして吹き上がった炎は、襲い掛かってきた猿たちの身を撫でて焼いた。逃げようとする者にも容赦なく立ち塞がり波のようにうねりながら広がっていく。猿たちはキィキィと情けない声を出し身体を覆った炎を手ではたいたり転がったりして消そうとした。あっという間に彼らの士気は下がり、混乱で逃げ惑う者たちで体育館の中は騒然としていた。
 どこか現実味のないその光景に、視界はぼやけ音は遠く聞こえる。それでも視線は目の前のクラスメイトの後ろ姿だけをはっきりと捉えていた。彼の黒い髪が風に煽られふわりと揺れている様をただじっと見つめていた。
 彦一は大きく息を吸った。
「そのまま伏して聞け! 私の名は天比熾神玄狐(あまびしのかみげんこ)! 貴公らは霧葉郷(きりばきょう)の山猿衆と見受ける!人間への過度な干渉は黄金背(こがねぜ)殿に対する反逆行為と見做すが、一体どういう了見か!」
 凛然とした低い声が体育館に響く。張り上げているのに不思議と喧しさを感じさせない、威厳のある声だった。
 ビリビリと空気が張り詰めたような気がした。先程まで暴れ狂っていた猿たちが急に鎮まり返り、辺りに静寂が訪れた。
 少しの間沈黙が続いたかと思うと群れの中で一番大きな猿がおもむろに踵を返した。他の猿たちも戸惑いながらも大人しくそれに続く。器用に体育館の壁を登ると、現れた時と同じように二階の窓から消えていった。
(助かっ……た……?)
 脱力して倒れそうになる。早鐘を撞くように鼓動する心臓のせいで呼吸が酷く荒い。
 彦一が再び潔乃の方へ向き直り、膝をついた。「戻ろう」と言って右手を潔乃の目の前にかざすと、彼女の視界が急に暗転した。

「潔乃っ! 大丈夫?」
 目を覚ますと仁奈の青ざめた顔が一番に飛び込んできた。ぼやけていた視界が段々とはっきりしていき、仁奈や教師、他の生徒たちが自分を覗き込んでいるのが分かった。ざわつく周囲の声も聞こえる。
「頭は打ってないか? 先生の姿が見えるか?」
 溝口がしっかりとした口調で潔乃に問い掛け目の前で手をひらひらとさせた。
「だ、大丈夫です。最近暑かったので、少しくらっとしてしまって……」
 立ち上がろうとしてふらついた身体を仁奈が支えてくれた。溝口が「無理に立とうとしなくていい、休んでいなさい」と言って麦茶が入ったペットボトルを渡してきた。それを飲むと少し気持ちが落ち着いて、ぼうっとした頭がクリアになっていく感覚がした。
「小岩井、しばらく付き添ってくれるか? 先生は他の生徒に指示出した後伊澄を保健室に連れて行くから」
 溝口が「落ち着けー! 大丈夫だー!」と言って声を張り上げる。困惑して固まっていた男子も女子も少しずつ動き始めた。潔乃は男子側のコートを見渡し彦一の姿を探した。彼はこちらの様子をじっと伺っていた。区切られたネット越しに目が合う。すると視線を逸らし、試合に戻って行ってしまった。

 保健室のベッドに寝かせてもらいぼんやりと天井を見つめていた。溝口が養護教諭の百瀬(ももせ)に状況を説明している声が聞こえる。
「伊澄、先生は授業に戻るから、何かあったら百瀬先生に言ってくれな」
 そう告げると溝口は保健室を後にした。代わりに百瀬が潔乃の元へ近付き、
「体調はどう? 良くなった?」
 と言って気遣う様な声を掛けてきた。潔乃が良くなりましたと答えると「ちょっと血圧測らせてもらうわね」と続けて、彼女の腕に血圧計のバンドを巻いた。腕の下にタオルを敷いて高さを調節し計測を始める。特に問題のない数値が出て百瀬はにっこりと笑った。
「大丈夫そうね。倒れることはよくある? それとも今回が初めて?」
「倒れたことはないです。自分でもびっくりしてて……」
「そう……じゃあ、連休明けで疲れが溜まってたのかもね。よく水分補給してゆっくり休んで。心配だったら親御さんに連絡するけど」
 少し休めば大丈夫と、百瀬の申し出を断った。本当に体調に問題はなく普段の自分と変わりはない。何もおかしくないのが却って変だ。先程の体験は一体何だったのか。仁奈から聞いたが、潔乃が体育倉庫から出てきて倒れ意識を取り戻すまでの間はほんの数秒だったそうだ。仁奈たちが駆け寄った時には反応があったらしい。でも、そんなはずはない。自分は体育館で大勢の猿に襲われ、黒い狐に助けられ、そしてその後確かに、八柳彦一の姿を見たのだ。
(こんなこと誰にも言えない……)
 天井から下げられたカーテンを閉めてもらいしばらく一人で考え込んでいた。教室に戻ったら八柳君に聞いてみようか。でもまず何から聞けばいいのだろう……
 すると、ドアの外から「失礼します」という男子の声が聞こえてきた。その声に思わず心臓が跳ね上がる。八柳君だ。緊張で汗がじわりと滲んできた。
 彦一はガラガラとドアを開けると「伊澄さんはいますか」と百瀬に問い掛けた。
「いるけど、休んでるわよ。それに今授業中でしょ? ここは私に任せて貴方は授業に戻りなさい」
「話がしたいんですが」
「後じゃだめ? 伊澄さんは体調が良くないのよ」
「……できれば今がいいです」
「急ぎの用事かしら。それなら私が代わりに聞くけど」
「…………」
「急ぎじゃないならまた後で」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 潔乃は勢いよくカーテンを開けて二人の会話に割り込んだ。面食らったような表情の百瀬に「私は大丈夫だから、話をさせてください」と頼み込む。きっと八柳君はさっきの出来事を説明しに来てくれたんだ。すぐにでも彼の話を聞かなければいけない気がする。
 百瀬は「ふ~ん……」と意味深な笑みを浮かべると「分かったわ。少しの間だけね」と言って保健室から出て行ってしまった。何やら勘違いされた予感がするが今はとにかく彦一の話を聞くことを優先した。
「気分はどう?」
 落ち着いた低い声で彦一がそう尋ねた。潔乃が「もう大丈夫」と答えると彦一は「そっか」とだけ呟きベッドの横に置かれた丸椅子に座った。
 二人ともしばらく黙っていた。沈黙が気まずい。自分から話を切り出した方がいいのだろうかと潔乃が口を開こうとすると、
「……さっきのことだけど」
 と、彦一が先に話し始めた。潔乃は身構えて彼の言葉を待った。
「落ち着いて聞いてほしい」
 躊躇いがちな口調で前置きをする。次に続いた言葉は、潔乃の想像を遥かに越えた内容のものだった。
「君の心臓が、物の怪に狙われている」

 十四時発の電車にギリギリで飛び乗って潔乃たちは木蘇へ向かった。三十分程度で円窟神社の最寄り駅に到着するらしい。木蘇地域は山間部にあるため全体的に交通の便が悪く、最寄りと言っても神社までは駅からさらに車で二十分程かかるそうだ。

〝詳しく説明するから円窟神社へ来てほしい〟

 彦一にそう促され勢いでそのまま電車に乗ってしまった。百瀬には早退すると伝えたが、親には何の連絡も入れていない。誰にもこの状況を説明できる自信がなかった。八年前の事件の時も大人は誰一人信じてくれなかった。仕方のないことだが、本当はずっと心のどこかで孤独を感じていた。でも今は、初めて理解者が現れた事に胸が高鳴っていた。神隠しも今日の襲撃も本当に起こった事なのだと、彦一の存在が証明していた。
 ボックス席の斜め前に座る彦一にちらりと視線をやった。彼は黙って車窓から見える景色を眺めていた。聞きたい事がたくさんある。電車の中で話せる内容ではないのがもどかしい。初めて授業を抜け出した後ろめたさとこれから起こる事への不安や期待が入り混じって、ふわふわとした落ち着かない気持ちでいた。

 木製の小さな無人駅に着いて二人は降車した。平日の昼間とはいえ周囲に誰一人見当たらない閑散とした場所だった。彦一の話によると円窟神社の人間が迎えに来ることになっているそうだが……
 潔乃が辺りをきょろきょろと見回していると、一人の男が車から降りてこちらへ近付いてきた。
「やあ、初めまして。俺は八柳孝二郎(こうじろう)。彦一の兄です。君は伊澄潔乃さんだね?」
 男はそう言って人好きのする爽やかな笑顔を潔乃に向けた。年齢は二十代後半くらいだろうか。丁寧にセットされたアッシュブラウンの短い髪に目鼻立ちのはっきりした容姿。品質の良さそうなジャケットをやや着崩し堅苦しすぎないスマートな印象を受ける。背が高くスタイルも良いので、そのまま雑誌にでも載っていそうな雰囲気のある男だった。
「遠かったでしょう。わざわざありがとうね」
「いえ、そんな、こちらこそ」
「彦一から聞いたよ。大変な思いをしたね……でももう安心して。これからは我々講社の人間がしっかりと君をサポートするから」
「え、えっと……」
 相手の迫力に思わずたじろいでしまう。俳優のような凄みのある大人の男にどう接していいか分からないでいると、
「……伊澄さん」
「えっ? はい」
「こいつとはまともに取り合わない方がいい」
 彦一が呆れたように目を細めている。孝二郎がピクリと反応し、浮かべた笑みが張り付いたような気がした。まともに取り合うなとは一体どういう意味だろう?
「ヒコイチクン、何を言っているのかな?」
「取り繕うなよ。どうせすぐボロが出る」
「ハハッ、おかしなことを言うねえヒコイチクンは」
「なんだその喋り方は。気味が悪い」
 二人の会話を聞きながら彼らの顔を交互に見やる。二人にしか分からないやり取りに戸惑っているとおもむろに孝二郎が、
「……ハァ、つまんねー。彦一が余計な口挟むから台無しじゃねえか。しばらくはカッコいい大人のお兄さんでいたかったんだけどなあ」
 と言って上げた前髪をくしゃくしゃとさらに掻き上げた。先程までのキリっとした隙のない様子とは打って変わって、言葉遣いも砕けてフランクな印象だ。姿勢もだらりと崩している。
「てか伊澄さんにどこまで説明したんだ? 俺たちの事は話した?」
「いや全く」
「げ。丸投げかよ。まあいいか俺もばーさんに丸投げしよーっと」
 投げやりな態度でそう呟くと孝二郎は潔乃に向かってニカッと笑い掛けた。
「ま、というわけで色々聞きたい事あると思うけどもう少し我慢して。後でまとめて説明するからさ。ちなみに俺はただの気さくなお兄さんなんで全然気ィ遣わなくていいからね。そいじゃあ早速出発しますか」
 そう言って孝二郎は右手で車のキーをくるくると回し左手をポケットに突っ込んで歩き出した。彦一は彼の後ろ姿を指差しながら「気さくっていうか雑だから。約束は忘れるし生活態度も悪い」と付け加えた。
「おい! 印象悪くなるからいらんこと言うな!」
 孝二郎が振り返り反論する。その後も何やら口喧嘩をしていたが、二人のやり取りが微笑ましくて潔乃はつい笑ってしまった。普段は物静かな彦一でも親しい相手には憎まれ口を叩くことがあるのだと分かって、少し安心した。

 孝二郎の運転で旧街道を走る。円窟神社は龍麟岳のふもとに創建された千年以上の歴史を誇る国内でも有数の神社だ。龍麟岳は全国の山岳修験者から信仰される霊山であり、街道沿いの宿場町には修験者が宿泊する施設として多くの宿坊が作られ発展していったそうだ。
「着いたぞー。お疲れさま」
 観光客向けの広い駐車場に車を停めて降車した。正面に立派な鳥居が見える。この場所は記憶にあった。八年前の事件以降初めて足を踏み入れた事に複雑な感慨が沸いていた。
「天里(あまさと)は奥社で待ってるんだろ? 車で行かないのか?」
「時間あるしせっかくだから歩いていこうぜ。伊澄ちゃんに神社のこと知ってもらいたいしさ」
 三十分くらい歩くけど大丈夫かと尋ねられ潔乃は了承した。奥社という場所で今の状況とこれからのことを説明してもらえることになっているが、いきなり本題に入るのも躊躇われるので緊張をほぐすには良いかもしれない。
 鳥居をくぐり古木に囲まれた石段を登ると目の前に荘厳な社殿が現れた。円窟神社は宝来社(ほうらいしゃ)、中社、奥社の三社を配している。参拝客が最初に目にするのはこの宝来社で、円窟神社の建造物の中では一番新しいがそれでも二百年程前に建てられたものだという。奥行きのある構造で破風を鳳凰や龍の彫刻が飾っている。孝二郎が建物横の柱群は屋根に積もる雪の重みを支えるためにあると教えてくれた。
 宝来社からさらに奥へ進むと中社が見えてくる。社殿は宝来社に比べると質素だが成り立ちは一番古く、千年前に遡る。災害や火災で立て直しはされているが建設当時のまま残っている部分もあるとのことだ。円窟神社は中社を中心にして広がっていったらしい。社務所が置かれており、祭事は主にこの中社で行われる。八月の例祭では宝来社に祀られた豊穣の神の御神輿が参道を通って中社まで渡御される。八年前、潔乃はこの例祭を見に行ったのだ。
 潔乃は社殿のそばに聳え立つ注連縄を巻かれた大きな御神木を見上げた。立派な巨木だ。きっと何百年と生きているのだろう。子供の時に見た姿と変わらぬままそこに存在していた。
「奥社でアマサトっていうばーさんが待ってるんだけどさ、そのばーさんはこの御神木の化身なんだ。千里先も見通せる力を持ってるスゲー神様なんだぜ」
「そんな力があるんですね……すごい……」
 潔乃が感嘆していると孝二郎は「まあそのせいで隠し事ができないのが厄介なんだけど……」と言って力なく笑った。大変そうですねとフォローしたが孝二郎が隠し事とやらのせいで叱られている様子をなんとなく想像できてしまい、潔乃は苦笑した。
 先へ進むと随神門と呼ばれる、神域に邪悪なものが入ってくる事を防ぐ門がある。萱葺屋根に朱色の門。狛犬ではなくお座りをした狐の像が左右に並んでいる。そこから先二百メートルは奥社参道になっていて樹齢三百年以上の檜林が両側に広がっている。
(わあ……きれい……)
 木々の間から差し込んだ光が白く輝いて神聖な雰囲気を作り出している。空気も澄んでおり息を吸うたびに肺が冷涼な気で満たされた。長袖の制服を着ていても肌寒いくらいで、松元とは違う山岳地帯の気候を身に味わっていた。
 檜林を抜けると龍麟岳の岩壁直下に建つ奥社が見えてきた。社の半分は洞の中に埋まっており冬の間は閉鎖されて一般の参拝者は入れないという。本殿の横にある参集殿と書かれた建物の入口に女性が一人立っており、こちらの姿を確認するとにこりと微笑み近付いてきた。
「ようこそおいで下さいました。天里様が中でお待ちです」
 たっぷりとした黒い髪を後ろで束ねた着物姿の妙齢の女性だった。恭しく礼をしている。潔乃もつられて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「この人は春枝(はるえ)さん。住み込みで裏方の仕事をやってもらってる。料理がめちゃくちゃ上手いから今度伊澄ちゃんもご馳走してもらおうぜー」
 孝二郎がそう提案するとふふふと春枝が笑った。切れ長の目をさらに細めている。春枝は「こちらへどうぞ」と言って先導し潔乃たちは参集殿の中へと入って行った。

 建物の内外は新しく清潔で、比較的最近建てられたものだと分かる。会議や研修をする部屋が設けられ宿泊もできるので色々と便利に使われているそうだ。そんな説明を受けながら奥へ進んでいくと、他の部屋より高い位置に作られた大広間のような場所に着いた。春枝が先に段差を上がり「お招きいたしました」と言って襖を開ける。孝二郎に中へ入るよう促され潔乃は緊張した面持ちで広間へと足を踏み入れた。
 部屋の奥へ視線を向けると、小柄な老女が座布団の上で正座をしている姿が見えた。俯いた顔に乱れた白髪がかかり影を落としている。皺が深く刻まれた厳しい顔付きに泰然とした貫録を感じる。老女は顔を上げて閉じていた目を見開いた。
「……来たね」
 経文を読むような重くしわがれた声が耳に届く。すると、それまで無言だった彦一が口を開いた。
「天里、霧葉の連中とは連絡が取れたか」
「ああ……既に狒々(ひひ)が動いているよ。やはり辺境の若猿共の仕業らしい」
 〝猿〟という言葉にびくりと反応してしまう。先程の襲撃の話だろうか。ぎこちない動きで老女の前まで歩みを進めると「座ろ」と孝二郎に促された。座布団が前列に一枚後列に二枚用意されており、潔乃が前、彦一と孝二郎が後ろに座った。いつの間にか春枝が用意した茶を運び潔乃の前に置くと、彼女も老女の横で腰を下ろし膝を正して座った。老女は彦一と孝二郎に視線をやり「どこまで説明したんだい」と尋ねた。
「何も」
「全然!」
「……はあ。お前さんよくこやつらに着いてきたね」
 老女は溜息を吐いて顔をしかめた。呆れられたような気がするが自分でも成り行きのままここまで来てしまったので軽率な行動だった自覚はある。でも、何かをせずにはいられなかったというのが正直な気持ちだった。
「まずは自己紹介でもしておこうかね。儂の名は天里。人間に見えるだろうが人間じゃないよ。お前さんたちの言うところの神ってやつだね」
 御神木の化身だという孝二郎の言葉を思い出す。御神木というからには大きな姿形を想像していたが目の前の老女は腰の曲がった細身の、普通の人間にしか見えなかった。千里先を見通す力があるというが具体的に何が見えるのかどう見えるのか、上手く想像ができない。
「我々は尊神講社(そんじんこうしゃ)という団体に所属していてお上から木蘇地域の治安維持を任されている。中央地区の代表でもあるね。治安維持と言っても物の怪の類を取り締まるのが主で、まあ難しいことは考えず怪異専門の警察組織とでも思ってくれればいい」
「警察ってか猟師っぽいよな。獣狩りよくやってるし」
 背後から孝二郎が補足する声が聞こえる。
「そうだね。実際猟友会とも協力関係にある。……さてここからが本題だが、伊澄潔乃さん。心して聞いてほしい。お前さんは特別な魂を持って生まれた特別な人間だ。国の重要な保護・観察対象であり生まれた時から我々がお前さんを保護する役割を担ってきた」
「特別な魂……?」
「そうだ。魂の強さは魂力(こんりょく)という指標で測られる。これは言い換えると全ての生き物に備わる生命力、気力のことだね。その魂力が高いおよそ七から二十くらいの年齢の人間たちが保護対象になるんだが、お前さんはその中でもずば抜けて魂力が高い。本来なら松元の組織の管轄だがお前さんの場合魂力が高過ぎるから、想定外の危険に対処するために我々が担当することになったんだ。彦一をお前さんと同じ高校に入学させたのもそのためだね」
 天里の言葉を頭の中で一生懸命反芻する。言葉そのものの意味は分かるのに理解が追い付かない。私が特別な人間? 一般の家庭に生まれてごく平凡な暮らしを送ってきた私が、どうして。
 信じられない話だが今はとにかく素直に説明を聞こうと押し黙った。天里は続けて「魂力が高いとどうなるかというと……悪さをする物の怪がいることはお前さんも分かるね。怖がらせるつもりはないが、まあ誤魔化しても仕方ないから正直に話そうか」と前置きをした。一拍置いてから、眉間に寄った皺をさらに深くして口を開いた。
「物の怪が高い魂力を得るために、魂の宿ったお前さんの心臓を喰らいに来る危険性がある」
 寒気のするような緊張が顔を強張らせ、潔乃の眼に恐怖の色が浮かんだ。嫌な予感はずっとしていた。しかし杞憂であってほしいという願いはあっさり砕かれ、現実として突きつけられる。心臓を喰らう……ということはやっぱり、あの時八柳君が助けてくれなかったら私は――
「……知らないままの方が良かったんだろうがね。我々も正体を明かすつもりはなかった。だがそんなことも言ってられない状況になっちまったからねえ……」
 部屋中に重苦しい沈黙が張り詰めた。潔乃は俯いたまま何も言えないでいた。指先の感覚が薄い気がする。自分の手を確認して無意識に痛いほどこぶしを握り締めていたせいだと気付いた。
「伊澄さん」
 彦一の声が静まり返った空気を破るように凛と響いた。
「大丈夫だから」
 短く、感情を乗せない一言だった。でもどうしてか、救われたような気がした。今まさにこの瞬間に誰かに――彦一に言ってほしい言葉だった。
「……そうそう。こいつ反則だろってくらい強いし他の講社の連中も含めてこれまでたくさんの子たちを守ってきたからさ。簡単には信用できないかもしれないけど、伊澄ちゃんが安心して暮らせるように俺たち頑張るから」
 孝二郎もトーンを落とした柔らかな声色で潔乃を励ました。からからに喉が渇き引き攣って返事をしようと思っても声にならない。潔乃はコクリと小さく頷いた。
「警戒するに越したことはないが必要以上に恐れることはないよ。さて、これからの話をしようじゃないか。物の怪に狙われるといってもそれがずっと続くわけではない。厄年という言葉は知っているかい?」
「なんとなくは……」
「厄年ってのは気の流れが乱れて災難を招く年のことさ。人生には厄年が三回あると言われているがお前さんの場合は今年が一番危ない。何故かを説明する前に……魂力と信心(しんじん)の話をしようかね」
「ばーちゃん急ぎすぎだろー。ちょっと休憩しねえ?」
 孝二郎が足を崩して駄々をこねる子供のように体を揺らした。「やっぱりお菓子を用意した方が良かったですかねえ」と春枝がとぼけるように呟く。
「私、大丈夫です。このまま話を聞いてもいいですか?」
「いや少し休もうか。一度に色んな事を言われても分かりにくいだろう。茶でも飲むといい。質問があれば聞くがどうだね?」
 休憩するよう促されて潔乃は用意されたお茶に口をつけた。渇いた喉に水分が染み渡り息がしやすくなったような気がする。潔乃は顔を上げて躊躇いがちに口を開いた。
「あの、私がなにか恐ろしいものに狙われている……という話は分かりました。でもそれなら、私の家族や友達はどうなりますか? 私のせいでみんなが危ない目に合うかもしれないと思ったら、心配で……」
「……そこは安心しとくれ。彼らには既に松元の関係団体が付いている。お前さんとは違ってこの一年限定だけどね」
「そう、ですか……良かった……」
 目の前が少し明るくなったような気持ちでほっと胸を撫で下ろすと、天里が「優しい子だね、あんたは」と言って僅かに口角を上げた。褒められるとは思っていなかったので慌ててしまう。すると、会話が途切れたタイミングで春枝が立ち上がろうとした。
「お茶請けをご用意しますね」
「あ、大丈夫です! この時間に頂いたら夕飯食べられなくなるので」
「夕飯! 夕飯かあ……いいなあ」
 ハハッと、孝二郎が突然吹き出した。驚いて後ろへ振り返ると孝二郎が口を手で覆って肩をぴくぴくと震わせていた。笑いを堪えている。今の会話の中のどこに笑える要素があったのだろう?
「いやー……ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだけど、自分が危険な状況に晒されてるって話を聞いた後に夕飯のことを考えられるのっていいなあと思ってさ」
 相当ツボに入ったようでクク……と喉を鳴らしている。褒められた時よりも恥ずかしくて顔に熱が集まるのが分かった。そんなに笑わなくても……と、孝二郎のことを少し恨めしく思った。
「実際良い心がけだよ。日常生活を今まで通り普通に送ることが一番の対処法だからね。物の怪の類を見ようとしてはいけない。それじゃあ話を続けようか」
 話の流れを元に戻すと、天里は先程言い掛けた〝魂力と信心〟の説明を始めた。
「信心というのは説明が難しいんだけどね、単なる信仰心とは違って……神や霊的なものを認識する能力とでも言えるかね。人ならざるものは人に認識されなければそもそも干渉することができないんだ」
 人間は魂力の高低と信心の深度で大まかに四区分に別けられるらしい。魂力が高く信心が深い者は非常に稀な存在で、孝二郎のように神職の血縁に多いため対処がしやすいという。また、魂力が低い者は信心の深度に関係なく狙われる可能性も低いため保護の対象外だそうだ(現代人はほぼ信心が無いので大抵はこれに当てはまる)。
「そこにいる孝二郎なんぞは信仰心は全くないが、生まれてからずっと我々と共にあるから一般の人間には見えない物を認識する能力が高いんだ。しかも然るべき訓練を受けているから危険に対処もできる」
 ちゃんと敬ってるってーと孝二郎が茶々を入れた。
 ここで問題なのが魂力が高く信心が浅い者で、彼らは講社の保護・観察対象になる。信心が浅いため本来は物の怪からの干渉を受けないが、厄年の間は本人の心持ちに関係なく信心の深度が乱れて物の怪が干渉できるようになってしまう。十代後半を境に魂力が落ちていくので自然と支障がなくなっていくが、故にここに該当する子供が一番危ない。潔乃はこの区分に当てはまる。
「何かがおかしいと感じても、徹底的に無視しなさい。目を合わせると危険だよ。特に大禍時(おおまがとき)と呼ばれる日没後の時間帯は物の怪の活動が活発になる。お前さんは夜出歩くような子供じゃないだろうが、意識して自宅に籠りなさい。とにかく普段通りの生活を送るんだ。まあそのために我々の存在を隠す必要があったんだが、今日の襲撃で予定が狂ったね」
 天里は深い溜息を吐いて訝し気な表情を浮かべた。
「あんなこと滅多に起こるもんじゃないんだがね……彦一を付けていて良かったよ。百五十年程前までは物の怪と人間の衝突は多かったが、徐々に減ってきてここ三十年くらい大きな事件はなかった。言い訳に聞こえるかもしれんが……恐ろしい思いをさせて悪かったよ」
 不意に謝られ戸惑いながらも潔乃は首を横に振った。天里は悪くない、というより誰かのせいだとは思わなかった。確かに怖い思いはしたが誰も責める気にはなれない。
「あの猿、たぶん深山(みやま)地区の若猿だと思うけど、切り取った空間に人間を攫うなんて高度な術を彼らが使えるとは思えない。よく調べた方がいい」
 彦一がおもむろに口を開いて天里に向かって意見を述べた。
「そうだね。それも含めてこの子を襲った猿たちのことは今調べさせている。何か分かったらお前さんに知らせるからこの子に教えてやりな」と言った後、天里は潔乃に顔を向け「……ああ言い忘れていたが、お前さんの護衛は主に彦一が担当する。神が人一人に付くのはかなり特例なんだが年格好を考えると適任だからね」と補足した。
 〝神〟という言葉にぴくりと身体が反応した。瞬く間に緊張で身体が強張る。潔乃は身を乗り出してずっと聞きたかったことを言葉にした。
「あ、あの、八年前……私ここで不思議な場所へ迷い込んだんですけど、それって……」
「あれは物の怪の仕業じゃないよ。あの場所は幽世(かくりよ)と呼ばれる神域で、正確にはあの世とこの世を繋ぐ狭間の世界なんだが……祭りの時は境界が曖昧になって稀に魂力の高い子供が迷い込んでしまうことがある。神隠しってやつさ。あの時も彦一がお前さんを助けに入ったね」
 心臓が痛いくらい高鳴った。ほとんどそうだと予測はしていたが、それが確信に変わった。
「じゃあ、あの時の黒い狐は、やっぱり……」
「おや、それも説明してなかったのかい。相変わらず言葉の足りない男だね」
 天里が呆れたというように肩をすぼめて声を投げた。
「その獣は玄狐(げんこ)と呼ばれる火の神だよ。そこですましている彦一の本来の姿さ」

 説明を受けているうちにいつの間にか時刻は夕方五時を回り、陽が傾いてきた。だいたいの状況は理解できたので今日のところはひとまずここで切り上げることになった。帰りは孝二郎が車で送ってくれるという。一時間程度で潔乃の自宅に着くので、部活動がある日よりむしろ帰宅時間が早いくらいだ。
「これをお持ちください」
 春枝が漆器でできた長方形のおぼんに何かを乗せて潔乃の前に差し出した。小さな巾着と文字が書かれた和紙だった。潔乃は和紙を手に取って内容を確認した。時代劇に出てきそうな書状だ。文字は縦書きで蛇腹に折られている。
「そちらは今日ご説明した内容をまとめた書状です。時間がなかったので簡単に書きましたが、よく目を通しておいてくださいね。巾着の方はタガソデソウという香草を乾燥させたものを詰めたお守りです。昔からタガソデは魔除けに使われていて、ある種の物の怪を遠ざけることができるんですよ」
 書状を鞄にしまって巾着も手に取った。首から下げられるように紐が付いている。潔乃は早速それを首に掛けて服の中にしまった。
「何かあったら彦一を頼るか家の中に逃げ込みな。お前さんの家の門はここの随神門と同じ素材でできていて敷地内には結界が張られている。……本当はここが一番安全なんだけどね、まさかお前さんをここに軟禁するわけにはいかないから家に細工をさせてもらった」
 自分の知らないところで長い時間を掛けてずっと守られていたことに改めて驚く。ここまで徹底しているということは、それだけ物の怪に潔乃の心臓を渡したくないのだろう。悪い物の怪が力を得たらどうなるのか……天里はあえてそこには触れなかったが、良くないことが起こるだろうことは容易に想像できる。
(しっかりしなくちゃ……)
 不安な気持ちを懸命に振り払って自分を奮い立たせる。厄年の間の、この一年を凌げばいいんだ。しかも自分一人じゃなくて頼もしい護衛役も付いている。
 神社が所有する車を孝二郎が取りに行っている間、彦一と二人で彼の到着を待っていた。彦一は高校入学時から一人暮らしをしており、全く気が付かなかったが潔乃の自宅近くの単身者用アパートに住んでいるという話だったので、一緒に松元へ帰ることになったのだ。
 隣に並んだ彦一はまるで檜林の一部みたいに静かに佇んでいる。潔乃は話し掛けるべきかどうかで悩みそわそわとしていた。ずっと言いたくて言えなかったことがある。深呼吸をした後、意を決して口を開いた。
「……あの、八柳君!」
「なに?」
 彦一がゆったりとした動作でこちらへ顔を向ける。目が合って思わず視線を逸らしてしまった。会話をする時きちんと相手の目を見て話す性分なのか、彦一は臆さずにこちらの視線を捉える。潔乃は再び彼を見上げた。夕陽に照らされた深い琥珀色の瞳が本当に綺麗だ。
「私、ずっと八柳君に言いたかったことがあって……あの、八年前の時も、今日も、助けてくれてありがとうございました」
 目をぎゅっと瞑ったままぺこりと頭を下げてすぐに顔を上げた。やっと言えた。ずっと探していた神様を目の前にして喜びと興奮が入り混じったような落ち着かない気持ちだった。
 目を開けて彦一の様子を伺う。彼は二、三度瞬きをしたがそれ以上の反応はなく、その場の空気がしん……と静まり返ってしまった。潔乃はいたたまれなくなり慌てて話を続ける。
「ず、ずっとお礼が言いたかったんです。探しに行きたくてもお母さんたちに止められて行けなくて……でも忘れることはできなくて……あの時八柳君が迎えに来てくれなかったら私どうなってたかと思うと……と、とにかく感謝してて……」
 しどろもどろになりつつも言葉を紡いだが最後の方はなんだか尻すぼみになってしまった。彦一を困らせてしまったと思い既に若干後悔し始めていたところ、
「……それが俺の役目だから」
 と言って彦一は素っ気なく顔を背けた後「あの時、怖がらせてごめん」と続けた。
「えっ?」
「説明ができなかった。神域では人間の姿になれないから。狐のままじゃ怖かったでしょ」
 淡々としているが微かに心苦しそうな語気を含んだ話し方だった。潔乃は咄嗟に返事ができず何度か口をぱくぱくさせる。そんなことを気に掛けてくれていたとは思わなかった。助けてくれただけで十分なのに。それにやっぱり、あの時尻尾で撫でてくれたのは怯えていた私を落ち着かせるためだったんだ。
 じっと静かに自分を見下ろす狐の姿を思い出して、何かじんわりと温かいものが胸に広がっていくのが分かった。潔乃の表情に柔らかな笑みが浮かんだ。
「……ううん。怖くなかった、です」
「……敬語使わなくていい。俺も使わないし」
「えっでも八柳君は偉い神様だし……」
「気にしなくていい。大御神(おおみかみ)に比べたら大したことない」
 比較対象のスケールが大き過ぎていまいち大したことなさが伝わらないが、彦一のそういうあっさりとした態度には好感が持てた。どうしても遠慮がちになってしまうがそれ程気にしなくてもいいのかもしれない。
「うん、分かった。……八柳君」
 潔乃は彦一に向き直って、
「これから一年間よろしくね」と、改めて挨拶をした。
「うん。こちらこそ」
 彦一も相変わらず真っ直ぐ潔乃の目を見据えてこくりと頷いた。少しだけ目を細めたような気がした。

 車のエンジン音が聞こえて白く飾り気のない軽自動車が近付いてきた。運転席から顔を出して孝二郎が「お待たせ」と声を掛ける。背が高いので窮屈そうだ。孝二郎の車は高そうなオフロード車なので軽自動車に乗ってるとちぐはぐな感じがしてちょっと面白い。
「ちなみにこいつはただの人間なので実の兄じゃない」
「えっ? なんだ? 何の話?」
 孝二郎にとっては脈絡のない話を持ち出され彼は戸惑いながら二人の顔を交互に見やった。潔乃はあえて話を広げずに「お願いします」と言って車の後部座席に乗り込む。彦一も助手席に座った。
「往復だと大変なのに、すみません」
「いいよー俺松元でメシ食ってくるし。彦一も行くよな? 何がいい?」
「なんでもいい」
「じゃあラーメンな。駅前通りのラーメン屋評判良いから寄って行こうぜ」
 他愛もない会話を聞いていると、ようやく一息吐けた気がした。今日は長い一日だった。体育館で倒れてから半日も経っていないのにそれがもうずっと前の出来事のような気がする。帰ったらゆっくり休んで明日からのことは明日考えよう。
 夕暮れが近付いてじわじわと夜の薄い紫色が滲み出した空を背景に、潔乃たちを乗せた車が走り出した。

 出発してからしばらくすると、後部座席からすうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……寝ちゃったか」
 赤信号で停車している間に孝二郎は後ろへちらりと視線をやった。今日は色んな事が起きて疲れたのだろう。猿に襲われて訳も分からないままよく知らない場所へ連れてこられて知らない大人に囲まれてとんでもない話を聞かされて……随分気を張っていたと思う。
「伊澄ちゃん良い子だよな。初めて話したけど想像よりずっと素直でしっかりした子だった。それに可愛いし」
「……」
「冗談だって」
 いや伊澄ちゃんが可愛いのはホントだけどと言って笑う孝二郎の横顔を窘めるように睨んだ。
 可愛いかどうかは置いておいて、強い子だとは思った。ショックを受けてからの回復が早い。自分の命が狙われているなんて話を聞かされたら気が動転して泣き喚いても仕方ないはずなのに、彼女は堪えて次のことを考えていた。普通は瞬時に家族や友人の安全まで気が回らないだろう。
「お前、伊澄ちゃんに優しくしてやれよ。不安に思ってるだろうからさ」
「分かった」
「ほんとに分かってんのかねえ……」
 それ以上返答する気が起きなくて黙っていると、孝二郎も話を続けるつもりはないらしく車内に沈黙が訪れた。彦一は窓へ向き視線を外にやる。
 流れていく景色に夕陽が陰を作っている様子が見える。大勢の人間が帰宅する時間帯で道が混んでいるが、これだけの数の人間にそれぞれ帰る場所があるというのもなんだか凄い話だと彦一は感心した。
 空を眺めるともうほとんど陽は沈み、一面を夜に明け渡しつつあるのが分かる。薄暮(はくぼ)の光が完全に消えたら、物の怪たちの時間が始まる。