移動教室での授業が終わり、自分たちの教室に戻る途中。
複数人で廊下を移動するクラスメイトの後を、私は1人で付いて行く。
(試写会、今週末か……)
音宮坂さんは優しいから、無理しなくていいって言ってくれる。
(でも、試写会には行きたくても行けない人がいる……)
試写会のチケットを貰ったことは素直に嬉しい。
でも、試写会に行ってこそ、このチケットには価値と意味が生まれるって思うと心が痛い。
「待って!」
廊下は、多くの生徒が行き交う場所。
多くの生徒とすれ違う途中で、大きな声を出して駆け抜けて行く2人の女子生徒と遭遇した。
「っ」
ぶつかったわけではない。
でも、女子生徒の大きな声に驚いて身を縮ませてしまった。
「うるさっ」
「あんな大きな声出さなくても聞こえるって」
「ねぇ」
自分の聴覚が心配になって、左耳に手を当てる。
(大丈夫……大丈夫……大丈夫……)
教室に入るとき、廊下で複数の女子生徒に囲まれている音宮坂さんが視界に映った。
(音宮坂さんの友達……)
音宮坂さんには友達がいるってことを、すっかり忘れていた。
友達がいないのは自分だけで、音宮坂さんには音宮坂さんの世界があるってことを、私はすっかり忘れていた。
「海東さん?」
音宮坂さんが過ごす日常に魅入られていると、音宮坂さんを取り囲んでいた女子生徒たちは彼女から何かを受け取る。
色紙のように正方形のかたちをした紙を大切そうに抱き締めながら、女子生徒たちは音宮坂さんの前から去っていった。
「珍しいね、廊下で会うなんて」
私が廊下にいたことなんて判別できない距離にいたはずなのに、音宮坂さんの声は私の聴覚へと届いた。
少し離れたところで突っ立っていた私を見つけてくれた音宮坂さんは、私の元へと近づいてくる。
「あ、お疲れ様です……」
音宮坂さんに見つかったことが嬉しくもあり、恥ずかしさもあり、申し訳なさもあり、いろいろな感情が混ざり合っていることに戸惑う。
「ふっ」
「え?」
「ごめん、同級生にお疲れ様ですって言葉を向けてくるのが面白くて……」
普段はほとんど笑うことのない音宮坂さんが笑いを零す姿を初めて見た。
そのせいか、私の心はどんどん戸惑っていく。
はずなのに、喜びの感情にも同時に包まれる。
「音宮坂さんが私の前で笑うの、初めてですよね……?」
音宮坂さんは呼吸を整えて、私と向き合ってくれた。
「確かに学校では、笑わないかも」
学校では笑わないという言葉を聞いて、急に音宮坂さんのことが心配になった。
「学校が嫌いとか、そういうことじゃないから」
音宮坂さんの言葉を受けて安心するのと、だんだんと周囲が騒がしくなっていくのは同時くらいだった。
一気に放課後らしい和やかな空気が漂ってくる。
「海東さんは、このあと部活?」
「あ、いえ、華道部は週に2回しか活動がないので」
高校入学と同時に、特にやりたいこともなかった私は華道部に入部。
三年間華道部の活動に休まず参加すると、お免状と呼ばれるものが取得できるというところに惹かれた。
「校舎に和室があるって、新鮮で面白いよ」
決して褒められた志望理由ではないけど、今のところは皆勤賞。
「って、ごめんなさい。私のことばっか話して……」
「付き合ってほしいところがあるんだけど、時間、いい?」
音宮坂さんに連れられてやって来たのは、高校生が訪れるにしては敷居の高そうな雰囲気漂うブックカフェ。
「初めて来ました……」
改めて、ブックカフェの外観を見上げる。
高校生が入ってもいいのかって思ってしまうほど、心臓が変な動きで私のことを脅してくる。
「前々から行ってみたいと思ってて」
「私も無縁すぎて……」
「誰でも入れる店とは言っても、緊張するね」
ブックカフェの中には1歩も入っていないのに、既に私たちの間には緊張感が漂っている。
「海東さんの準備が整ったら、入ろ」
「音宮坂さんがいてくれたら、大丈夫そうです……」
私の覚悟が決まったのを確認してくれた音宮坂さんは、ゆっくりとブックカフェの扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
まるで外国の図書館を思い起こすような店内。
至るところに書籍が配置されていて、お店の中には読者好きにとっての夢が詰め込まれている。
「先に本を探すのかな……? それとも先に注文……?」
辺りを見渡すにしても、視線を向けたい場所がありすぎて困ってしまう。
「順番がどちらにしても、ドキドキしますね」
「気に入ってもらえてうれしい」
音宮坂さんとは、同い年のはず。
それなのに、彼女の立ち居振る舞いから安心感を得られてしまうのはどうしてなのかと考える。
すらりと伸びた身長に、まとっている大人びた空気に、今日も私は自然と視線が引き寄せられてしまう。
「あ、本に集中したい人は方、あそこのスペースを使うみたいです」
「ありがとう、海東さん」
彼女の声は落ち着いていて、心に直接響いてくる感覚に心臓が揺れる。
「せっかくなら本に集中してもいいけど……」
「何か食べたいですね」
「お茶したい」
面白さを感じたのも同時で、楽しさを感じるのも同時で、その、同時が重なるって言うのが嬉しい。
互いの間に、柔らかな笑みが広がっていくのが更に嬉しい。
「飲食スペースで本を読もうか」
音宮坂さんと一旦別れて、ブックカフェに置かれている本を見て回る。
(飲食スペースで本を読むって、気を遣うなー……)
店側が『飲食しながら読書していいですよ』と許可をくれているとはいえ、学校の昼休みとは違う空気になかなか緊張が抜けない。
(自分の好みの本を探すのもいいけど、読んでほしい本もたくさん……)
本棚を前にして、音宮坂さんのこと考える。
音宮坂さんのことを考えると、ほんの少し緊張が解けていく。
(高校に入ってから、助けられてばっかだなー……)
司書教諭室で同い年の音宮坂さんと出会って1年半。
音宮坂さんとの距離がちっとも縮まっていないことに溜め息を吐きながら、待ち合わせの飲食と読書を楽しめるラウンジスペースへと向かう。
「楽しすぎる」
「これは沼りますね」
互いに2冊の試し読み用の本を抱えて、なんの迷いもなく1台のソファーに腰かけた。
(近い……)
ただでさえ試し読み用の本を汚してしまわないか緊張しているのに、近すぎる距離に新たな緊張が芽生えてしまった。
「海東さんにも好みがあるとは思ったんだけど……」
音宮坂さんが手に持っていた2冊の本のうち、1冊を私に差し出してきた。
「海東さんに読んでほしいなって」
「…………」
自分だけが、一方的な気持ちを押しつけようとしていた。
音宮坂さんが喜ぶなんて考えていなくて、ただたた自分の気持ちを音宮坂さんに押しつけようと思ってた。
「読者仲間ってことに甘えて、私の好みを押しつけようと思って」
言葉が出てこない。
「ごめん、やっぱり興味なかった……」
私に差し出した本を引っ込めようとする音宮坂さんの手を引き留める。
「音宮坂さんは、どうして私を喜ばせるのが得意なんですか……?」
私の言っていることの意味が分からない。
そんな表情を浮かべる音宮坂さんのことを安心させたい。
「私も自分の好み、押しつけようとしていて……」
自分が持っていた2冊の本のうち1冊を音宮坂さんに差し出す。
私も、同じことをしようとしていたんだってことを恥ずかしがらずに音宮坂さんに伝える。
「両想いだ」
「両想いとかじゃなくて……」
音宮坂さんから発せられた、両想いという言葉に過剰に反応してしまう。
「ありがとう、海東さん」
私が音宮坂さんのために選んだ本を受け取ってくれた音宮坂さんの笑顔が、あまりにも綺麗すぎて見惚れてしまった。
(もっと、音宮坂さんの笑った顔が見たい)
司書教諭室で昼休みを過ごすとき、音宮坂さんはお昼ご飯を食べることなく本に夢中になる。
ほとんど笑うことがなくて、無愛想な雰囲気さえ漂う音宮坂さん。だから、今、こうして私に笑いかけてくれてることが奇跡みたいで嬉しすぎる。
「海東さん」
ソファーの上で、視線を交える。
「今週末の試写会。映画館の中には入らなくていいから、映画館の外で待つことってできる?」
「映画館の外ですか?」
音宮坂さんの言っている意味が分からないけど、音宮坂さんの話をきちんと聞きたい。
「海東さんに無理はさせたくない」
一方的に自分の思いをぶつけるのではなく、あくまで私の聴力のことを気遣いながら丁寧に言葉を発する音宮坂さん。
「でも、好きな作品が映画化したっていう空気感を海東さんにも体感してほしい」
今も、大きな音が聞こえるたびに、左耳を押さえて周囲の状況を確認してしまう。
(再発は怖い)
また、音の聞こえが悪い世界を生きるのかもしれない。
その、かもしれないが、私を生き辛くさせている。
(でも、怖がってばかりいたら、私の世界はずっと変わらない)
手をぎゅっと握って、力を込める。
「映画館、数年ぶりに挑戦したいと思います」
「どうしても外せない用があって、映画が終わるまでは会えない」
音宮坂さんの視線は、いつだって真摯で。
音宮坂さんの声には、いつだって真剣さが宿っているから。
「でも、海東さんに何かあったら必ず駆けつける」
だから、私は音宮坂さんに惹かれたのかもしれない。
相手を勇気づけられるような、そんな生き方のできる人間になりたいと思った。
(憧れの人に、追いつきたい)
映画館のフロアは映画を見に来た大勢の人で溢れ返っている。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫……)
相変わらず、人混みの中では左耳に手を当ててしまう。
(体調は悪くない)
左耳に手を当てると、左耳から音が入ってこなくなった日のことを思い出す。
(低音障害型感音難聴は完治が可能だけど)
だったら、左耳に手を当てなければいい。
でも、いちいち確かめる。
今も、確認してしまう。
(再発の可能性も高い)
私は、音を聴くことができているのかってことを。
(今日も、明日も、私は音宮坂さんと話がしたい……)
試写会の時間が近づき、劇場への案内が始まる。
(再発は怖い)
人々の流れに乗って、劇場へと足を運ぶ。
(これから先も、ずっと怖い)
劇場に入ったときの空気が久しぶりで、ここに集まった人たちと、ひとつの物語を経験できるってことに喜びが隠しきれない。
(でも、逃げてきたことと向き合ってみたい)
久しぶりの感覚に、わくわくが生まれてくる。
周囲を見渡したい気持ちを抑えながら、購入したパンフレットの表紙を眺めていたときのことだった。
「江見さんが生で見られるなんて!」
「四井さんー、早く会いたいー」
近くに座っていた客同士の会話が聞こえてくる。
(あれ? 私が貰ったチケットって一般試写会……)
音宮坂さんが用意してくれたチケットには、完成披露試写会と書かれてあることに今さら気づいた。
(これって芸能人の方が登壇する……)
劇場を灯す光が弱くなって、劇場が暗くなっていく。
(このチケット)
手にしていたチケットに目を向ける。
(めちゃくちゃプレミアムな……)
アニメ映画の上映が始まる。
このアニメ映画は現代を舞台にしている作品。
目を奪われるほどの美しい海辺を、5人の女の子が散歩している。
『空のことは忘れよう。忘れることで幸せになれるなら……』
大人になった5人の子どもたち。
幼い頃とは違って、女の子が1人欠けている。
4人で、また同じ海を訪れる。
『その幸せって、誰の幸せ?』
[[rb:理玖 > りく]]ってキャラクターの言葉に、心臓が動きを見せる。
『は? 誰って……』
理玖の問いかけに答えることができない主人公。
『もう! 忘れる気なんてないくせに』
『空のことを忘れたら、誰も幸せになれないってこと』
幼なじみたちは、理玖の言葉をきっかけに主人公のことを勇気づけていく。
『過去に戻れる回数に制限があるかなんてわからない。だから……』
理玖の言葉を受けて、主人公の表情に強さが戻ってくる。
『何度だって繰り返してやる』
理玖が喋るたびに、心臓が騒がしい。
私は、自分の心臓に手を当てる。
「…………」
映画の上映が終わり、映画館の照明が点灯し始める。
「…………」
心に熱が溜まって、感想を心で呟くことすら難しいくらい感動している。
でも、会場が大きな拍手に包まれることで、意識が現実に戻ってきた。
(私も拍手送りたいっ……!)
周囲に合わせて、一緒に拍手を送る。
舞台挨拶をするために、監督と劇場版アニメの声優を担当した芸能人が映画館へと入ってきて、益々会場の熱気が高まっていく。
(本物の監督に、本物の芸能人……)
拍手と同時に、更なる歓声に包まれる映画館。
司会進行の挨拶が始まり、拍手の音が静まっていく。
(みんなドラマや映画で見たことがあるけど……)
普段は俳優業をやっている面々の横に並ぶ見知らぬ俳優さん。
(理玖役の方は新人さんかな?)
座席と芸能人の人たちとは距離があって、理玖役の人の顔が確認できない。
「次は本業の方にご挨拶を……」
「監督! 見えない圧がすごいから!」
笑いに包まれる映画館。
(本業ってことは、声優さん……?)
私は周囲に合わせて笑うことなく、理玖役の俳優さんの顔を凝視する。
「[[rb:前嶋理玖 > まえじまりく]]の声を担当しました、[[rb:音宮坂書架 > おとみやさかふみか]]です」
理玖役の俳優さんの挨拶を受けて、事情を読み込むことができない。
茫然とした様子で、舞台挨拶での会話を耳に入れるしかできなくなる。
「音宮坂さんは監督の作品をきっかけに声優を目指したと伺っています」
「はい、波多江監督の作品が昔から好きで……」
音宮坂書架と名乗った声優さんの言葉に夢中になる。
「こんなにも早く夢が実現するとは思ってもいなくて」
「次回作のオーディションにも参加してもらおうかな」
「え、監督! 私も受けたい!」
俳優の江見さんが会場を盛り上げるたびに、会場から出演者に笑い声が届けられる。
「音宮坂さんは声優事務所だから頼みやすい!」
「マネージャー! 次回作のオーディション受けたいっ!」
出演者として楽しそうに過ごす音宮坂書架さんという名前の声優さん。
(あ……)
[[rb:音宮坂書架 > おとみやさかふみか]]に釘付け状態でいると、一瞬、彼女と視線が交わったような錯覚を受ける。
(あるあるだよね……勘違いってやつで……)
[[rb:音宮坂書架 > おとみやさかふみか]]さんは、学校で会っているときの音宮坂さんとは違う。
眼鏡をかけていない瞳で、学校で見せないような柔らかな笑みを私に向けてくれた。
(音宮坂さん……)
自分が音宮坂さんを独占しているわけではないのに、あまりの恥ずかしさに思い切り顔を背けてしまう。
(音宮坂さん、だよね……?)
再び舞台挨拶に目を向けるけど、音宮坂書架久さんの笑顔は、もう私には向いていない。
(音宮坂さんと待ち合わせはしたけど……)
映画館の外。
多くの人たちが楽しそうに、それぞれの休日を過ごしている。
(何から話せばいいんだろ……)
映画の完成度の高さに満足している自分がいる一方で、音宮坂さんが声優として仕事をしていることに心臓の音が激しく動いて仕様がない。
(っていうか、私と会う時間なんてない……)
映画館の裏手に回ろうとすると、そこには芸能人の出待ちをする女性が数名待機していた。
「まだかな」
「別のところから出ちゃったかも」
隠れる必要はないけど、隠れて様子を伺う。
すると、女性たちの読み通り、映画関係者が映画館の裏口から出てきて辺りが歓声に包まれる。
「っ」
突然の大きな音。
左耳を押さえる癖が抜けず、私は自分の左耳を押さえながら視線をアスファルトへと向ける。
(大丈夫……大丈夫……怖くない……)
視線を下に向けていた私は、同級生が近づいてきたことに気づかなかった。
「海東さん」
でも、この声を聞き逃すわけがなかった。
「大丈夫? 無理させた……」
「音宮坂さん……」
学校で過ごすときとは、まったく印象の違う音宮坂さんに戸惑った。
でも、自分の目の前にいる人が、学校にいるときの音宮坂さんの声が同じだと確信が生まれると、心臓が高鳴っていくのを感じる。
「音宮坂さん……」
音宮坂さんの服の袖を掴む。
「音宮坂さん……ですよね?」
「陽咲」
いつもの音宮坂さんの声で、呼ばれる。
呼び捨てにされたことはないけど、そこに不快感なんてものは生まれない。
「こっち」
むしろ、もっと呼んでほしいとすら思ってしまう。
「大丈夫だから」
手を引かれる。
繋がれた手に意識が集中する。
(音宮坂さんの手、あったかい……)
出待ちのファンがいる方ではなく、映画館の入口がある大通りへと向かう。
「ここで大丈夫?」
落ち着いた雰囲気で騒がしくなく、適度に会話を楽しめる雰囲気の喫茶店に入った。
「無理してない? 辛いなら、家まで送る……」
「ううん、映画に感動しすぎて耳のこと……忘れてました」
音宮坂さんに笑顔を向け、自分は大丈夫だと音宮坂さんに伝える。
「それなら良かった」
学校では決して拝むことができない音宮坂さんの笑顔に、心臓が落ち着かない。
「本当に音宮坂さん……ですよね?」
店員が紅茶とケーキを運んでくる。
店員がテーブルに注文した品を並べている間に、音宮坂さんは自分の鞄を漁って、学校でかけている眼鏡を取り出した。
「少しは信用してもらえる?」
眼鏡をかけて、口角を上げる音宮坂さん。
「……ほんの少し」
私の反応を見て楽しそうに笑う音宮坂さんは、再び眼鏡を外して鞄へと片づけた。
「学校では目立ちたくなくて」
音宮坂さんの言葉を受けて、廊下で複数の生徒に囲まれている音宮坂さんのことを思い出した。
「廊下で会ったのって、音宮坂さんのファンの方!?」
アイスティーに口をつける音宮坂さん。
一息吐いて、音宮坂さんは次の言葉を紡ぐ。
「本名で活動してるからサイン頼まれて……」
「すごいです! 芸能人みたい……」
声優として仕事をしている音宮坂さんの顔が視界に入って、1人で盛り上がる自分を省みる。
「立派な芸能人ですよね……ごめんなさい、1人で盛り上がって……」
急に思考が冷静になり、恥ずかしくなる。
おとなしく温かい紅茶を飲んで、音宮坂さんのように冷静さを取り戻そうと試みる。
「ううん」
柔らかな笑みを浮かべて、私を見つめてくる音宮坂さん。
「ちゃんと声優としてやれたのかなって」
「すごくかっこよかったです」
「陽咲の目には、芸能人らしく映ってたみたいで良かった」
音宮坂さんの笑顔を見るたびに、テーブルの上に置かれたケーキに手をつけられなくなる。食べるタイミングを失っている私に気づいてくれたのは音宮坂さんだった。
「食べて」
学校にいるときとは、まるで違う印象を与える音宮坂さんを視界に入れるたびに心臓が活発に動き出す。けど、なんとか普段の自分らしく振る舞おうとケーキに集中するフリをする。
「映画館は迫力が違うね」
音宮坂さんの顔を見ずに、ケーキに自分の意識を集中させる。
「本当に体調は大丈夫?」
「まったく問題がなくて驚いてるくらいです」
いつもの自分らしさを取り戻したと覚悟が決まったら、再び顔を上げて音宮坂さんと視線を交えた。
「もっと早く挑戦してみれば良かったなと」
窓硝子越しに、街行く人に視線を向ける。
それぞれの休日を楽しんでいるっていう何気ない日常が展開されていて、そんな様子を美しいと感じてしまう。
「ケーキも、すごく美味しいです」
音宮坂さんに笑顔を向けることができて、ほっとする。
作り笑顔は音宮坂さんに心配をかけてしまうだけ。
だから、自然と笑うことができて本当に良かった。
「普段は名前のないキャラクターを演じる機会が多いけど……」
音宮坂さんの笑顔に見惚れていたいとは思うものの、音宮坂さんはしっかりと声優としての顔を整えていく。
「もっと声の芝居がしたい。キャラクターのことを幸せにしたいなって」
音宮坂さんの声と言葉で、音宮坂さんの目標を聞くことができたことが嬉しくなる。
「その気持ちが、あんなにも心を揺さぶるお芝居に繋がるんですね」
「ありがとう、自分の夢を肯定してくれて」
真摯な瞳で、夢を語る音宮坂さんは凄く綺麗に見える。
「私には特に夢がないので……」
音宮坂さんに向けていた視線を外し、俯きがちになってしまう。
「大きくなったら何になりたいかっていうのも大切な夢だけど」
顔を上げて、音宮坂さんを視界に入れる。
「映画館に行くっていうのも立派な夢だと思うよ」
音宮坂さんのような壮大な夢を持っていないことに寂しさを抱く。
いつだって、聴力を失ったときのことを思い出して、未来を向くことを諦めてしまう。
「明日これがやりたいとか、来月はここに行きたいとか、そういうのも夢に数えていいと思う」
普段の音宮坂さんは同級生に思えないくらい大人びているなって感じていたけど、それはもう大人の人たちに混ざって仕事をしているからなのかもしれない。
「って、ごめん! これは私の押しつけ……」
自分のことを励ましてくれた音宮坂さんの気持ちが、ただただ嬉しい。
「音宮坂さん、ありがとうございます」
夢を持っている人に、夢を持ってない人の気持ちは分からない。
それは確かに、そうかもしれない。
でも、音宮坂さんが夢を持っていない私と同じ目線に立とうとしてくれたことが嬉しく思えた。
「陽咲、今日は頑張ってくれてありがとう」
音宮坂さんは電車に乗り込むところまで見送ってくれて、その際に優しい笑顔を浮かべながら手を振ってくれた。
学校での音宮坂さんだったら手を振ってくれないだろうなぁって妄想するのも面白くて、今日は1日があっという間に過ぎていった。
(音宮坂さんが、声優さん……)
自分の部屋のベッドに横になって、充実しすぎた1日に想いを馳せていると部屋の扉がノックされた。
「はい」
部屋の扉を開けて、私の部屋を覗き込んできたのは母さんだった。
「陽咲、体調悪いの?」
「え?」
「まだ映画館は早かったんじゃない? いつ再発するかも分からないんだから……」
あくまで私の体調を気遣ってくれているだけで、母さんは私を咎めているわけじゃない。
「あ……耳の体調は大丈夫」
母さんは私のことを心配しているだけ。
自分は元気だと伝えるために、私は母さんに笑顔を向ける。
「でもベッドに寝てたみたいだから……」
「学校以外の場所に行くのが久しぶりだったから」
「そう?」
自分は大丈夫だということを伝えながら、母親を部屋から出そうとする。
「お母さん!」
すると、妹の母を呼ぶ声が響いた。
「ほら、呼ばれてるよ」
「でも」
私のことが心配で心配で仕方がない母親の背中を、優しく押す。
「私なら大丈夫」
私のことを心配しながらも、母は部屋から出て行った。
母が部屋から出て行ったことに安堵して、ベッドに戻る途中で、ほんの軽い眩暈に襲われた。すぐにベッドに腰を下ろす。
(大丈夫……大丈夫……大丈夫……)
目を閉じて、何事も起きていないフリをする。
左耳に手を当てたかったけど、なんとか抑え込む。
ちゃんと聴こえているってことを確かめながら、私は眠りの世界へと誘われた。
いつもなら、自分のクラスに向かうことに対して何も思わない。
義務教育は中学までと言ったって、高校に通うことも自分的には義務だと思ってる。
(今日のお昼)
今日も、当たり前に義務をこなす。
ただそれだけの日常が繰り返されるだけなのに、自分のクラスに入る前に隣のクラスを気にしてしまう。
(どんな顔で会いに行けばいいのか)
音宮坂さんが来ていないことを確認して、自分のクラスに入っていく。
(今日のお昼、緊張しすぎて食べれないかも)
クラスに入ると、女子生徒が数人集まって揉め合っている様子が視界に映る。
何が起きているのか分からずに、ただ揉めている女子生徒たちに目を向ける。
「おはよ」
私よりも早く教室に着いていたクラスメイトの吉永唯織さんが、たいして仲良くもない私に挨拶の言葉をかけてくれた。
「おはようございます……」
普段、吉永さんから話しかけられることがないこともあって、自分の心臓が速く動くのを感じる。
一方の吉永さんは私が驚いた様子を気にすることもなく、私に話しかけてくる。
「修学旅行の部屋を決めてる真っ最中」
自分の席に鞄を置く。
吉永さんは、揉め合っている女子生徒に目を向けている。
「受験生なんだから、こういう行事って2年のときに終わらせてほしいよね」
「3年になったばっかなのに、部屋割とか決められないですよね……」
「わっかる! 仲いい人なんて限られてるって」
私たちの高校は最も修学旅行が遅いと噂されていて、3年に進学して間もなく修学旅行がある。
「海東さん」
揉め合っている1部女子生徒以外は、決断できない生徒たちに冷めた目線を向けていた。
「本当に空いてるところに入ってもらって大丈夫?」
黒板近くにいた女子生徒が、教室に入ってきた私に声を飛ばして問いかけてくる。
「大丈夫です……」
「ほら、海東さんのおかげで自由に決められるんだから感謝しなよ……」
緊迫した雰囲気に包まれる教室だけど、クラスメイトのやりとりに興味なさそうな吉永さんは廊下を行き交う人たちに目を向けていた。
(もうすぐ修学旅行か……)
音宮坂さんから渡された映画の鑑賞券の半券を、お守りのように大切に持ち歩いている。その鑑賞券が手元にあるだけで、自然と笑顔になってしまう。
(音宮坂さんは修学旅行に行けるのかな)
近くにいた吉永さんが、勢いよく席から立ち上がる。
「書架!」
吉永さんが教室を飛び出し、通りかかった音宮坂さんに声をかける。
(音宮坂さんだ……)
教室の向こう側の廊下で、言葉を交わし合う音宮坂さんと吉永さん。
(吉永さんも、音宮坂さんが声優って知ってるのかな)
音宮坂さんの見た目は、地味で目立たない学校バージョンになっている。
「…………」
仲良さそうに話をする音宮坂さんと吉永さん。
2人が1年や2年のときに同じクラスだったとか、中学の頃から仲がいいとか、そういう2人だけの関係性は分からない。
「…………」
でも、仲が良さそうに見えるっていうのが、ただ単に羨ましいと思った。
(私と音宮坂さん……ただの読書仲間だから……)
心臓のあたりが、きゅっと痛くなる。
読書好きっていう共通がなくなると、私たちは赤の他人になってしまう。赤の他人は高校を卒業したら、もう2度と会うことがなくなってしまう。
「久保寺先生」
昼休みに図書館の扉を開いて、図書館の中にいる久保寺先生に声をかける。
「海東さん」
騒がしい教室が苦手な私を、久保寺先生は今日も温かく迎え入れてくれる。
「まだ音宮坂さん来てないけど」
「お昼を食べさせてもらえたら、それで……」
図書館の扉を閉じて、隣接している司書教諭室へと向かう。
(いつもは音宮坂さんの方が早いのに……)
持ってきたお弁当を机の上に広げるけど、いつもの席に音宮坂さんがいないことが寂しい。
(音宮坂さんだって友達がいるんだから、寂しがってられない……)
音宮坂さんに意識を向けることをやめて、お弁当に集中しようとしたとき。司書教諭室の扉が開いて、音宮坂さんが入ってくる。
「お疲れ様、海東さん」
「お疲れ様です、音宮坂さん」
同級生にお疲れ様って言うのが面白いって言っていた音宮坂さんだけど、今日は音宮坂さんの方からお疲れ様って言葉を投げかけてくれた。
「……どんな顔で海東さんに会えばいいのか」
いつもの席に、持ってきたお弁当を机の上に置きながら音宮坂さんが話しかけてくれる。
「……緊張して、来るのが遅くなっちゃった」
「…………え?」
音宮坂さんが何を言っているのか意味が分からなくて、音宮坂さんへと視線を向ける。
「どう接していいかわからなくて……」
音宮坂さんが、私のことを見てくれない。
「……いつも通りでいいですよ」
私の声に反応してくれた音宮坂さん。
ようやく音宮坂さんの視線が戻ってきて、私たちは今日初めて視線を交えた。
「あ、でも、いつもって、どっちが素……?」
自分で声をかけておきながら、自分で戸惑ってしまった。
眼鏡越しの音宮坂さんの瞳は優しく笑っていて、焦っている私を温かく見守ってくれている。
「静かに本を読む音宮坂さんも」
そんな音宮坂さんの視線に気づいて、私は恥ずかしさで視線を背けてしまう。
「声優としての音宮坂さんも」
視線を音宮坂さんではなく、机へと向ける。
「どっちもかっこいいから……」
でも、逃げてばかりいたら何も変わらない。
逃げ出した視線を、音宮坂さんへと戻す。
「どっちの音宮坂さんも、応援させてください」
突然、同級生にこんなことを言われて困るかもしれない。
音宮坂さんが動揺していないことを祈りながら、自分の気持ちが本物だってことを音宮坂さんに伝える。
「……ありがとう、海東さん」
持ってきたお弁当に集中しようと思っていたけど、音宮坂さんと視線が交わる。
一緒に穏やかな笑みを浮かべて、あ、自分の気持ちが伝わったんだと安堵した。
「海東さんにお願いがあるんですが……」
「私にできること?」
「修学旅行一緒に行動したいなって……」
箸を使って、上手くミニトマトを掴んだのも束の間。
「え!?」
ミニトマトは、お弁当箱の中へと落下した。
「3組と4組ってスケジュールが似たり寄ったりだなと思って」
「仕事は……」
「修学旅行に行けないほど、仕事が忙しいわけじゃないから」
「友達は……」
「いるけど……」
せっかく音宮坂さんと視線が交わったのに、音宮坂さんは私から視線を外してしまった。
「あ、音宮坂さん、無理しなくていいよ! 私なんて、ただの読書仲間でしかないから……」
自分で言っていて、虚しくなる。
でも、音宮坂さんには音宮坂さんの日常を優先してほしいと言葉に気持ちを込める。
「ただの読書仲間とは思っていないから……」
自分の右手で顔を覆う音宮坂さん。
音宮坂さんの顔が、見えなくなる。
「私との時間を、ほんの少しもらえたらいいなって……」
顔が綻んでいく。
なんて言葉を返したらいいのか分からなくなるくらい嬉しい言葉が、私の聴覚を揺らしていく。
「修学旅行……正直、興味なかったですけど、音宮坂さんと一緒なら楽しみになってきました」
私が音宮坂さん誘いに了承すると、音宮坂さんは私に視線を戻してくれた。こんな簡単なことで、音宮坂さんは私の元に戻ってきてくれた。
「自由行動の時間がありましたよね」
私だけでなく、進学したばかりのクラスで行く修学旅行なんて誰も楽しみにしていないかもしれない。それでも、楽しみのなかった修学旅行への期待が一気に膨れ上がる。
「海東さん」
「3組と4組が一緒に行動する日は……」
音宮坂さんが名前を呼ぶ声と、修学旅行の日程を話そうとした私の声が重なった。
「私のこと、頼って」
どっちが先に話すか悩む暇もなく、音宮坂さんは声を届け続けてくれた。
「病気への理解が甘いのはわかってる」
音宮坂さんは躊躇いもなく言葉をくれるのに、私はいつも音宮坂さんに送る言葉を迷ってしまう
「それでも私は、海東さんの力になりたい」
なんで私が、低音障害型感音難聴を患っちゃったんだろうって思った。再発の可能性がある病気を抱えながら生きるなんて、怖すぎると思った。
(再発したときに、迷惑をかけたくない……)
また、音も声も聞こえが悪くなる日々に戻るかもしれない。みんなには綺麗に聞こえる音と声が、私だけ綺麗に聞こえない。
(今までずっと消極的な生き方をしてきた)
みんなと違うってことが、私の生き方を狭めてしまった。
「海東さん? 体調悪い? ごめんね、気づかなくて……」
「違います……」
瞳が涙で滲んでくる。
やっと綺麗に音と声を拾えるようになったのに、今は綺麗に音宮坂さんを見ることができないのが悔しい。
「怖くて……」
顔を上げる。
いつだって音宮坂さんは私と向き合ってくれるから、自分だけ逃げるのは狡いと思った。
「いつか音宮坂さんの声が聴こえなくなることも」
顔は上げたけど、瞳は潤んだまま。
「いつか音宮坂さんの声を忘れてしまうことも」
涙が流れるのを必死に堪えて、言葉を紡いでいく。
音宮坂さんのような綺麗な声ではないところが辛いけど、自分の気持ちを自分の声で届けていく。
「どっちも怖くて……」
音宮坂さん斗心配をかけないように、なるべく口角を上げる。自分か抱える事情はたいしたことではないと気丈に振る舞いながら、音宮坂さんを見つめる。
「音宮坂さんの気持ちはうれしいです。でも、私は音宮坂さんの迷惑になることしかできません」
「音宮坂さんの思い出の中に、迷惑かける奴いたなーって……そんな記憶を残したくないんです」
高校3年にとっては、貴重な昼休み。
お弁当を食べ進めてほしいと合図を送ってくれる陽咲の気遣いに、返す言葉を見失った自分が情けなかった。
「だから、体調が悪くなるようなことがあっても、自分一人で乗り越えてみせます」
陽咲は、私を傷つけないように最後の最後まで声色に気を遣った。
「……わかった」
自分は言葉に想いを乗せるのに、かなりの時間を要してしまった。
「でも」
陽咲は、自分の感情を言葉に乗せることができる。
そんな素直さを兼ね備えた陽咲のことが、今も昔も羨ましい。
「一人で頑張って、どうしても駄目なときは」
ずっと一人で頑張ってきた陽咲の姿を見てきたからこそ、私は陽咲のことを支えたいと思った。
「必ず声をかけて」
もう、陽咲は独りじゃない。
いつか、そんな言葉を届けられるようになりたい。
「よっ、未成年」
放課後になったと同時に、収録スタジオに向かうという生活を何度も繰り返しているはずなのに。
今も、慣れましたって胸を張ることができない。
「さっさと家に帰ること」
「二十歳になったら、飲み会連れていってください」
「はいはい、まずは無事に高校を卒業しろよー」
収録が終わると、スタジオにいた先輩声優やスタッフたちが解散していく。
それは当たり前のことだけど、もっともっと声の芝居がしたい私にとって、その当たり前はただただ寂しい。
「書架!」
「吉永……」
収録スタジオを出たあとは、もう家に帰るだけのはず。
もうすぐで未成年が夜の街を出歩くような時間ではなくなるのに、同級生は私のことを呼び止める。
「読み合わせ、付き合って」
同級生が、同業者っていうのは面倒くさい。
「同期に相談して……」
「同期が、年上ばっかなの!」
先輩声優たちの輪から1人だけ抜け出してきた吉永唯織は、家に帰ることを許してくれない。
「現役女子高生声優の数は多くても、女子高生声優は肩身狭いの……」
「さっさと家に帰って、予習したい……」
「明日の放課後、海東陽咲さんと一緒に帰れるようにしてあげるから」
「は?」
友人が多そうな性格をしているとは思ってはいたけど、ここで吉永の口から陽咲の名前が出てくるなんて予想もしていなかった。
「この間、廊下で話したでしょ? 教室に戻ってきたら、陽咲の視線が書架に向いてたから。仲いいのかなって」
スマホを触って、勝手に予定を決めていく吉永。
いつもなら文句のひとつでも言ってやるのに、陽咲が絡んでくると何も言えなくなってしまう。
(陽咲に気まずい想いさせたまま別れたから……)
大切な相手を支えたい。
その気持ちに嘘はないのに、低音障害型感音難聴を患った陽咲の気持ちを理解するのは凄く難しい。
「よし、連絡入れたから、どっちかの教室で待ち合わせして」
「っていうか、なんで海東さんの連絡先……」
「修学旅行関連」
吉永は、陽咲と同じクラスということを最大限に活かしていた。
(私は……)
読者仲間ってことを、まったく活かせていない。
司書教諭室で出会ったのなんて1年のときなのに、未だに陽咲の連絡先を知らない。
学校以外の場所で会うなんて、この間の試写会が初めてだった。
「今日は遅いから諦めるけど、今度、読み合わせ付き合って」
ちっとも縮まっていない陽咲との距離。
でも、私たちに残された時間は、残りわずか。
あと数ヵ月で、別れの季節が迫る。
(ここで勇気を出さないと、私たちは卒業……)
陽咲に気を遣って、大人っぽい雰囲気を演じてきた。
陽咲に何かあったときに、真っ先に頼ってもらえるように。
「吉永!」
1度は振られたけど、やっぱり私は陽咲を支えたい。
「助かった」
陽咲が辛いとき、真っ先に頼ってもらえるような存在になりたい。
(やっぱり音宮坂さんの芝居はすごい……)
音宮坂さんが出演しているアニメをパソコンで観た。
音宮坂さんの声だって、すぐに分かった作品もあるでも、最後まで観ても、どの役が音宮坂さんか分からなかった作品もあった。
(音宮坂さんには、大好きな声の芝居に集中してほしい……)
音宮坂さんの声だって分かっただけで、自然に満面の笑みが浮かんでくる。
(好きな人を追いかけるだけじゃなくて)
駅に到着し、電車に乗り込む人と駅に降りる人が入れ替わる。
(好きな人を幸せにできたら良かったのに……)
席が空いて、音宮坂さんは周囲を確認した上で私に腰かけるよう促す。
「荷物持ちます」
「ありがとう」
スマホが通知を知らせて、鞄からスマホを取り出す。
「駅まで、母が迎えに来てくれるって」
「良かったね」
「難聴になってから、すっごく過保護になっちゃって……もう完治したんですけどね……」
放課後に、音宮坂さんと一緒に帰宅するっていう初めての経験。
この間の試写会で駅まで送ってもらったけど、そのときとは感覚が違う。
「心配なんだよ。陽咲と同じで」
今だけ。
高校生だからこその放課後を体験する。
音宮坂さんと一緒に。
「陽咲も、心配なことがあるでしょ?」
「……また、音が聞こえにくくなるのかなって……」
「陽咲と一緒で、お母さんも不安なんだよ」
高校3年生になったばかりだけど、卒業が迫っているって考えるだけで寂しくなってくる。
音宮坂さんと一緒に過ごす昼休みが終わると思うと、心臓が揺れだすのを感じる。
「音宮坂さん……も……?」
「うん、心配。不安も抱えてる」
「ごめ、っ」
完治しているのに、低音障害型感音難聴の話をしてしまった。
優しい音宮坂さんに甘えてしまったことを後悔していると、頭に温もりを感じた。
「心配するのも、不安なのも、陽咲が大切だから」
頭に、音宮坂さんの手が置かれた。
音宮坂さんへの謝罪の言葉で頭がいっぱいになっていたのに、それらの言葉は口から溢れる前に止まってしまった。
「一緒に抱えたい」
言葉が止んだのを確認した音宮坂さんは、ゆっくりと手を遠ざけていく。
「……音宮坂さん、すごく大人に見えます」
「こう見えて役者だから」
「大人すぎて、私、追いつけません」
電車の中にいられる時間が、あまりにも短すぎる。
一緒に下校しているのに、住んでいる場所が遠いと、一緒にいられる時間はこんなにも短い。
「陽咲のお母さんが迎えに来るまで」
一緒に電車を降りる。
まったく関係ない駅に降りてくれる気遣いも大人っぽくて、同級生のはずなのに音宮坂さんがどんどん遠ざかっていくのを感じる。
「っ、陽咲っ!」
駅に降りる人は私たちだけじゃなくて、多くの人たちが騒がしい音を立てていく。
「陽咲、気をつけて……」
音宮坂さんを追いかけようとしたけど、人混みの中でよろけそうになった。
それを支えてくれたのは赤の他人でもなんでもなく、私を助けてくれたのは同級生の音宮坂書架さんだった。
「……名前」
「名前?」
「呼んでもいいですか……音宮坂さんの名前」
手を引かれて、乗車する人たちの邪魔にならないスペースへと移動する。
こういうときに周囲を気遣うことのできない自分はまだまだ子どもで、音宮坂さんは大人の世界を生きる人だってことを感じる。
「名前、わかる?」
「っ、こういうときにいい声出すの、狡いです……」
出会ったのは、高校1年のとき。
私たちの関係は、ずっと読書仲間のまま。
音宮坂さんは大人びた雰囲気で、私は子どもっぽいまま3年生になった。
「聞きたい」
少しも縮まらない距離に泣きそうになっていたのは自分だけだった。
音宮坂さんはずっと私の手を離さないでいてくれた。
「私の名前を呼んでる陽咲の声」
予告もなく、いきなり名前を呼んでくる音宮坂さん。
顔に熱が籠るのが分かって、駅に差し込む淡い夕陽に助けを求めたくなる。
赤く染まっていく顔を、隠してくれって。
「陽咲」
「いや、あの、これ! 思ったよりも照れ……」
気づいたら、壁際へと追い詰められていた。
駅を利用する人たちの邪魔にならないように、壁へ壁へと追い込まれるのは当然といえば当然。
「陽咲」
でも、その当たり前が私のことを追い込んでいく。
「陽咲」
「っ」
2人きりの環境じゃないはずなのに、まるで2人きりなんじゃないかと錯覚してしまう。
「書架さんっ!」
左耳に、手が当てられる。
優しく撫でるように触れられて、それがくすぐったくて身を捩らせる。
「私の声、聴こえる?」
ただ名前を呼んだだけなのに、恥ずかしくて書架さんの顔を見ることができない。
でも、音宮坂さんの問いかけを無視したくなくて、音宮坂さんの言葉に頷く。
「陽咲に名前呼んでもらえて、すごくうれしい」
音宮坂さんの声が聴こえる。
音宮坂さんの声が聴こえることが、幸せすぎて堪らない。
「……音宮坂さん」
「名前でいいのに」
何も怖いものなんて待っていないのに、恐る恐る顔を上げて視線を交える。
「明日も、明後日も、その次の日も、私のこと呼んで」
響く。
音宮坂さんの声だけが、響く。
「私は……また、書架さんの声……聞こえなくなっちゃうかもしれないけど……」
零れる。
自分の声が。
自分の想いが。
「躊躇わないで、私に聞かせて。陽咲の声」
彼女の声が、ずっと心に閉じ込めてきた感情を受け止めてくれると伝えてくる。
「独りは、怖い……独りだけ、音のない世界を生きるのは怖いから……っ」
その日、初めて。
(ずっと、傍にいてください)
私は憧れの同級生に、抱き締められた。