「位置について。よーい……!」
陸上部のマネージャー・小川陽那がスタートの合図を切ると、大和田朱音は力強くも軽やかな足捌きで素早く風を切り、100メートルの線の中で存在感のある走りを見せつけた。
しかしこのペースではタイムは伸びていないだろう。朱音がゴールラインを割ると同時に、陽那はストップウォッチを押した。
「12.8秒! まだ伸びるよ!」
息を切らす朱音に告げると、彼女は悔しそうに頷いて表情を曇らせた。
全国でも有数のスプリンターである朱音だが、あと三週間で始まる全国高等学校総合体育大会を前にタイムが伸び悩んでいた。
こういうとき、下手に励ましの声をかけるのは朱音のプライドに触って逆効果だということを陽那は知っている。
陽那はマネージャーとして陸上部員を支えているが、元々自分も短距離走の選手だったこともあり、選手が抱える悩みなどは人並み以上には理解できているつもりだった。
十八時を過ぎ、やっと一日の練習が終わった。
『各種目全国制覇!』と書かれた目標が壁に貼られている女子陸上部の部室で、制服に着替えた陽那がポニーテールを結び直していると、朱音が叫んだ。
「あっつーい! ねえ陽那、アイス食べて帰ろー!」
朱音とは小学校から一緒の友達だ。同じ時期に陸上をはじめ、短距離選手として互いに切磋琢磨してきた仲だった。
「買い食いはやめておいたら? 試合近いんだから、体重気にしないと」
暑い中練習に励む選手たちには頭が下がるけれど、律するところは律すると決めている。朱音もわかっているのか、陽那の言葉に反論はせず「ちぇー」と頬を膨らませた。
部室を出て校門を出ると突然、朱音が黄色い声をあげた。
「きゃー! 見て! 旭くんだ! うわ、カッコイイ! こんな時間まで学校に残っているって珍しいなー! 姿が見られてラッキー!」
朱音の視線の先を追うと、帰宅途中の旭幸之輔の姿を見つけた。
長身で眉目秀麗、成績優秀かつ大企業の跡取り息子という少女漫画のヒーローのような存在である幸之輔は学校でも有名で、ファンクラブまであると聞いている。
彼のファンである朱音はすっかり上機嫌で、目を輝かせていた。
「確かにカッコイイけど……旭くんって他人に対してすごく冷たいって噂も聞くし、わたしはちょっと苦手かな。やっぱ、男の子は優しいスポーツマンがいい」
「陽那は昔からそう言ってるよね。ま、あたしとしてはライバルが減ってうれしいけど!」
朱音とは陸上だけでなく勉強も同レベルであるため、友人でありライバルという表現が一番しっくりくる関係だ。
ただ、趣味や好みの音楽ですら似通っているというのに、ふたりは好きな男の子のタイプだけは異なっていた。そもそも、朱音が幸之輔を好きになったきっかけが一目惚れだということも、堅実で真面目な恋愛を好む陽那には理解しがたいことだった。
対等を前提として培われてきたふたりの関係が微妙に変わりはじめたのは、今年の春休みに陽那が膝前十字靭帯を切ってしまってからである。
選手として復帰するまでに、手術とリハビリで約八ヶ月はかかると宣告された陽那は、選手としてやっていくことを諦めた。
リハビリが苦痛だからという理由ではなかった。復帰したところで、選手としてやっていける自信がなかったわけでもない。
陽那が引退した理由はただ一つ。ライバルである朱音との差を埋めることはできないと判断したからだ。
陽那にとって、努力をしても朱音に追いつけないという事実を突きつけられるのは、何よりも怖いことだったから。
そんな陽那の心境など露知らず、今日も能天気な朱音は無邪気な笑顔を見せる。
「夏休みに入ったら、ますます旭くんの顔を見られなくなっちゃうなー。一回、告白してみようかなあー」
「恋よりも今はインハイだよ! 練習、集中してよね!」
「あーもう、少しは試合のこと忘れたっていいじゃんかー!」
鞄をぶつけてくる朱音から身を守りつつ、陽那は笑った。
ふたりの日焼けした肌を、夏の風が撫でていった。
◇
夏休み直前、毎年七月の体育の授業は水泳になる。
水着を着なくてはならない恥ずかしさから、水泳の授業を嫌がる女子はとても多いけれど、陽那は水泳の授業を楽しみにしている珍しい生徒だった。
準備運動で全身の筋肉をしっかりと伸ばし、水面に飛び込んだ。今日は五十メートルを泳ぐテストだ。足を動かし、手で水を掻き分け、前へ、前へと進む。
もう陸上では得ることのできない、他者を追い抜く感覚や、呼吸機能の限界へと挑む感覚。陽那はそれらを夢中で味わいながら、真っ直ぐにゴールを目指した。
ゴールしてゴーグルを取った陽那に、女子たちから歓声が沸いた。
「陽那、速ーい!」
「めっちゃ格好よかったよ!」
さすがに水泳部には勝てないが、他のどの生徒よりも速い記録をたたき出した陽那をクラスメイトたちが取り囲んだ。
「すごいね! 陽那、水泳部に入ればいいのに!」
「泳ぐのは好きなんだけどね。ほら、わたし靭帯やっちゃってるから」
右膝を指差した陽那に、彼女たちは残念そうな目を向けた。
「あ、そっか……そうだよね、ごめん。でも本当すごかったよ!」
「いやー、うん、陽那は本当すごいよね! もし陸上も続けていたら、あたしなんて比較にならないくらい差がついたと思うよ」
太陽の下で背伸びをしていた朱音がやって来て、陽那の肩に手を回した。背丈も同じ位のふたりは、視線の高さもちょうど合っている。
「もう、なに言ってるの! もしもの話はなしだって、前から言ってるでしょ?」
陽那は諭すように言って朱音の頬をつねった。朱音は昔から「もしも」の話をすることが多かったが、ここ最近スランプに陥ってからその兆候は顕著であった。
普段通りを装う朱音の表情にはどこか陰があり、いつもの明るい朱音のものではなかったことが、少し気になった。
「……ない! 私の指輪が、なくなってる!」
授業を終えた陽那たちが濡れた髪の毛をタオルで拭きながら教室へ戻ると、クラスメイトの島村里香が青い顔をしていた。
里香はソフトボール部の活発な少女で、良くいえばリーダーシップがあり、悪くいえば目立ちたがりな性格をしている。
彼女の声にクラス中がざわめく中、輪の中心にいる里香に陽那は話しかけた。
「どんな指輪がなくなったの?」
「ブルームの、細いシルバーの指輪……いつもチェーンつけて、首から下げていたやつ。見たことあるでしょ? ……どうしよう! 彼氏に貰ったやつなのに!」
里香はひどく動揺していて、周りにいる女子たちは皆同情し「かわいそう」「盗んだやつは許せない」などと口にしていた。
騒ぎは続いたが予鈴が鳴ったため、陽那たちは一旦席に着いた。
里香が唯一ネックレスを外す水泳の時間を狙うなんて、犯人は絶対に彼女と近しい人物だ。里香の心境を考えればかわいそうだけれど、犯人を特定するのは簡単だろう。
事態を重く捉えなかった陽那は、気持ちを切り替えて授業に集中しなければと考えながら教科書を取り出した。
部活動を終え、部室で制服に着替えているときのことだった。
「朱音、悪いけど制汗剤貸してくれない? 教室に忘れてきちゃったみたい」
「はいよー。ちょっと待っててー」
朱音が鞄を漁ったとき、彼女の鞄の中で何かが光った。
「……ねえ、朱音。それ、指輪だよね?」
疑心、いや、確信を持って陽那は口にした。
――朱音の鞄の中に、チェーンのついた小さなリングを見てしまったのだ。
「こ、これは……その、たまたま廊下で拾って……」
しどろもどろになった朱音が、何度も瞬きをした。嘘を吐くとき、朱音の瞬きが増えることを陽那は知っていた。
陽那は朱音に近づき、彼女の鞄から指輪をひったくった。
「嘘を吐くのはやめて! これ、里香の指輪でしょ? どうして盗ったりしたの?」
朱音は黙って下を向いていた。何も言わない朱音に対して、陽那の怒りはますます大きくなっていく。
「なんでこんなバカなことをしたの? 人の物を盗るなんて、信じられない!」
「……しょうがないじゃん! ストレスが溜まってしょうがなかったんだもん! 周りはタイムタイムって、呪文のように繰り返す
し! 陽那だってそうでしょ⁉」
やっと口を開いたかと思えば、ストレスが溜まっていたという理由を口にするだけで、反省の色も見せないなんて。
「同じ陸上部の仲間として、記録に拘るのは当たり前でしょ?」
「陽那だって弱いくせに、大人ぶらないでよ! あんたがあたしとの勝負から逃げたってこと、知ってるんだからね!」
この一言は、陽那の頭に血を昇らせた。思わず大きな声が出そうになったが、深呼吸をして必死に堪えた。
「……そうだね、わたしも弱いよ。でも、わたしの話はまた別の問題でしょ? とにかく、騒ぎが大きくなる前に里香に謝ろうよ。一緒に付き添ってあげるから」
取り乱している友人の力になれるよう気丈に振舞った陽那の言葉に、朱音は眉間に皺を寄せて何かを言いかけた。それを言い訳だと推測した陽那は、有無を言わさぬ視線で朱音を見つめ、手を握った。
「ね? 朱音ならできるでしょ?」
「……わかった。明日、謝る……あたしひとりで、ちゃんとやるから……」
弱弱しくも小さく頷いた朱音を見て、自分の思いが伝わったのだと信じた陽那は、それ以上責めることはしなかった。
◇
次の日、陽那は登校直後に違和感を覚えた。
「おはよー」
「……」
下駄箱で会ったクラスメイトに無視された陽那は、首を傾げつつもそのときはあまり気にしなかった。
だが教室に入った瞬間、自分が嫌な意味で注目されているという空気を察した。
陽那を見るクラスメイトたちの目が、心配そうなものだったり軽蔑したものだったりで、普段とは明らかに異なっていたからだ。
理由もわからず困惑したまま自席に着くと、里香がやってきた。
「……あのさ、回りくどいのって嫌いだから、単刀直入に言うね。……陽那、あんたが私の指輪を盗んだって、本当なの?」
「……え? ……なんで?」
頭の中が真っ白になった。わたしじゃないのに、どうして?
陽那が朱音の様子を窺うと、自席からこちらを盗み見るように見ていた朱音は、即座に目を逸らした。
「ある人から、陽那が盗ったって話を聞いたの。で、実際どうなの? あんたも疑われるのは嫌だろうし、私としても友達を疑いたく
ない。違うなら早く否定して」
「わ、わたしじゃ……」
否定しようと口を動かしたとき、朱音のことが頭を過った。
試合前のストレス発散のためについ、衝動的にやってしまったという大きな罪。普通なら決して許されることではない。
だが試合前のストレスは、かつて選手だった自分にもよくわかるものであった。
努力しているのに伸びない記録との戦い。自分を追い詰める苦しさ。無責任な周りからの期待、重圧。思い描く未来と結果の剥離を想像して、張り裂けそうになる胸。
朱音の行動は計画性があったものではなく、突発的にやってしまったことなのだろう。
もし自分がここで本当は朱音が犯人なのだと告げてしまえば、朱音の部活動謹慎処分は避けられないだろう。
わたしは、朱音が反省しているって信じたい。
ならば今、わたしが朱音の親友としてできることは――
陽那は深く息を吸った。
「……そうだよ。指輪を盗ったのは、わたし。……本当に、ごめんなさい」
注目が集まっていた中での陽那の発言は、教室中をざわつかせた。再び朱音の方を見ると、彼女は目を丸くして陽那を見ていた。
「マジで陽那がやったんだ……あんたはそんなことするようなやつじゃないって、思っていたのに。……見損なったよ」
里香は軽蔑するように告げて、陽那の元を去って行った。陽那を心配そうな顔で見守っていた友人たちは悲しそうに目を逸らし、疑いの目で見ていた連中は陽那に聞こえるように悪口を言い出した。
その日陽那に話しかけてくるクラスメイトはおらず、陽那は軽蔑の視線と陰口を聞きながら一日を過ごした。
辛いと思わなかったと言えば、もちろん嘘になる。
だが朱音がわかってくれるなら、朱音が陸上をまた頑張る気持ちになれるなら、それだけでこの行動は報われると思った。
放課後、部活の時間がやってきた。
自分と話していれば朱音にも疑いがかかってしまうと思った陽那は、早めに教室を出て陸上部の部室で彼女を待った。
「朱音!」
暗い顔をして部室までやって来た朱音に話しかけると、彼女は脅えた表情を見せた。
「……あ、あたしが頼んだわけじゃないからね!」
朱音の口から飛び出したのは、予想もしていなかった言葉だった。
「……え? 急に、何を言いだすの?」
「陽那はいつもそう! いつだって正しい! でも、あたしが庇ってって頼んだわけじゃない! ……あんたがあの場であたしがやったって言ってくれれば! 正直に言ってくれれば! あたしには謹慎処分が出て、試合に出なくてもすんだのに!」
「朱音、まさか……!」
ようやく言葉の意味を理解できた陽那だったが、それは立っていられないほどの衝撃だった。
「……朱音は、試合に出るのが嫌だったの……?」
陽那は言葉を振り絞り、彼女に問いかけた。
「そうだよ! だから昨日言ったでしょ? 勝負の世界から逃げ出した陽那には、わかんないんだよ!」
陽那は言葉に詰まった。朱音の主張は絶対に間違えていると、言いきれる自信がなかったからだ。
ただ、朱音を庇った行為だけは、彼女のためにやったと自信を持って言える。
「でも……わたしは、朱音のためを思って、」
「それが嫌なんだよ! どうしてわかってくれないの⁉ 陽那のそういう正義感、わたしには辛いんだよ!」
朱音は泣きながら部室を飛び出していった。朱音の言っていることはひどく理不尽で、感情的で、第三者から見れば百パーセント彼女が悪いと言われる内容だろうと思った。
だが陽那はそんな朱音の行動を咎める余裕がないほど、頭が真っ白になっていた。
朱音のことならなんでもわかっていると思っていた。だけどそれは自分の思い上がりだった。彼女のためを思ってやったことが、彼女を傷つけていたなんて。
ショックで動けず、呆然と部室に佇んでいた陽那だったが、
「ここにいたのか小川。ちょっと話があるんだが、いいか?」
部室にやってきた陸上部顧問・佐々木先生の声で我に返った。
「……はい」
「先生は信じたくないが……お前が、クラスメイトの物を盗んだって話を耳にしてな。……その話、本当なのか?」
庇われるのが辛いと泣いた朱音の顔が脳裏をちらついたが、ここで無実を主張しても、かえって事を大きくするだけだと思った。
――それに何より、朱音にはまだ走る権利を失ってほしくない。
「……はい。本当です」
佐々木先生はゆっくりと瞬きをした後、静かに息を吐いた。
「……そうか、残念だ。……小川、お前を一週間の部活動謹慎処分にする」
覚悟はできていたつもりだったが、今まで優等生として生きてきた陽那にとって、謹慎処分はとても大きな罪に感じられた。
その後、犯行の動機や犯行日の詳細などいろいろと訊かれた気がしたけれど、内容は全く頭に入ってこなかったし、何を話したのかも覚えていない。
ただ、自分はやり方を間違えたのだと、それだけを実感していた。
◇
陽那はすっかり居場所を失った。
教室では白い目で見られ、部活動は謹慎をくらってしまった。家に帰れば母親から部活はどうしたのか聞かれることはわかりきっている。とてもじゃないが、説明なんかしたくない。
時間を潰すために学校と自宅の真ん中にある馴染みのない駅で降車し、喫茶店に入りイヤホンで音楽を聴いて、雑音が耳に入らないように努めた。
明日からどうすればいいのだろう。考えなくてはならないことはたくさんあるのに考えたくなくて、お気に入りの曲に耳をすませて気を紛らわそうとした。
自分の世界に入り込んでいると、イヤホンからある曲が流れてきた。
レッドホットの代表曲『BEST FRIEND』だ。陽那も朱音も、自分が生まれる前から存在する、このフォークソングが好きだった。
朱音とはよくカラオケで一緒に歌ったし、陽那がまだ選手だった頃は、ふたりで肩を寄せ合って試合前に聴いていた思い出の曲だ。
しかし今は、全く聴きたい気持ちにならなかった。次の曲へとスキップしたとき、周りの客がある一点を集中して見ていることに気がついた。
客の視線の先を追うと、そこには朱音の想い人、旭幸之輔がいた。
思わずイヤホンを取って、周りの雑談に耳を傾けた。幸之輔は特に目立つ行動をしているわけではない。ただひとりで本を読みながら飲み物を飲んでいるだけなのに、皆彼を見て「格好良い」とか「声かけてみようよ」などと騒いでいた。
今この瞬間までは朱音に対して負の感情を抱いていなかった陽那だったが、幸之輔を見たことで無性に、復讐したいという気持ちが湧き上がってきた。与えられた悲しみを他の感情に変換しないと、とてもじゃないが平静ではいられなかったのだ。
陽那は無意識のうちに、その感情を憎しみに変化させていた。朱音が好きな幸之輔と話をして一緒の時間を過ごせば、少しは朱音へのあてつけになるだろうと考えたのだ。
真っ黒な気持ちを抱きながら、陽那は幸之輔の隣に座った。
「こんばんは。少し話をしてもいいかな?」
周りの女の子たちの注目が、一斉に自分に集まってくるのを感じた。
「俺が飲み終わるまでなら、構わない」
「ありがとう。少しだけだから」
噂以上に冷たい印象を幸之輔に抱きつつ、陽那は内心を悟られないように笑顔で隣に座った。
「それで、話とはなんだ? 二年E組、陸上部の小川陽那」
「……え? わたしの名前、知っていたの?」
「俺は学校の関係者なら全員、顔と名前、特徴くらいは記憶している」
淡々と口にする幸之輔に目を丸くした。全校生徒と教師、併せて約六百人弱を把握するのは容易なことではない。
「へえー! すごいね! 頭いいって噂は聞いていたけど、本当なんだ!」
「そんなことはどうでもいい。話とはなんだ、と聞いている。特にないなら、俺は失礼させてもらう」
「ちょ、ちょっと待って! えっと……ば、場所を変えてもいいかな? ここだと話づらくて……」
「ならば、早く話せる場所まで案内してくれ。時間は有限なのだから」
了承してくれると思わなかった陽那が慌てている様子を、幸之輔は不可解そうに見つめていた。
どこに行けばいいのかわからなかった陽那は、幸之輔と一緒に学校に戻って来てしまった。練習が終わって誰もいないグラウンドに、部活動謹慎中の自分と、汗とは無縁そうな幸之輔がふたりでいるのは場違いな気がした。
ローファーでグラウンドに立つなんて、貴重な経験だ。
足を止め、陽那は大きく息を吸った。今ならなんでも話せるような気がした。
「……わたしね、今日、クラスメイトから物を盗んだ友達を庇ったの。わたしが犯人ですって言ってさ。間違えていないと思った。皆に白い目で見られても、朱音が自分のやったことを反省して、試合で全力を出してくれれば、それでいいって。……なのに……」
あのときの朱音の表情が思い出されて、胸が苦しくなってきた。その息苦しさを吐き出すように、声に出した。
「なのに、朱音はわたしを裏切った! わたしを切り捨てたの!」
辛かった。助けてほしかった。無意識に、いや、意図的に、幸之輔の救いの手を求めていた。幸之輔に想いを寄せる朱音の愚痴を彼に話すことで、心にかかった靄を汚い方法で振り払おうとしていた。
「……君がやったことはただの偽善、自己満足だ。彼女はそんな君の偽善に、堪えられる器を持っていなかったのだろう? ただそれだけの話じゃないか」
――突然、見捨てられた気分だった。
自分は幸之輔に一体、どんな言葉を期待していたのだろう。慰めてほしかったという下心を見透かされたようで、赤面してしまった。
「……なんでよ。なんでわたしばっかり、酷い目に合うの⁉ わたしはただマネージャーとして! 親友として! 朱音を一生懸命に守ろうとしただけ! それなのに、どうしてわたしが悪者になるの⁉」
「見返りを求めるくらいなら、自分が悪者になろうなんて思わない方がいい」
「わたしは別に、誰かに評価されたくてやったわけじゃない! ただ朱音のためを思っただけなのに!」
「自己犠牲が美しいと思っている反面、恩の押し売りか。俺には今の君の姿も、俺に優しい言葉をかけてほしくて言っているようにしか思えないがね。本当に親友のことを考えているなら、第三者に事件の事情を話したり、主観的立場から胸の内を吐露したりするなど考えられない行為だ」
冷酷な幸之輔の視線にぞっとした。彼の視線から逃れるように、陽那は必死に叫んだ。
「うるさい! やめてよ! 何もかもを見透かしたような目で、わたしを見ないで!」
言い負かされて視線を逸らした陽那の耳には、幸之輔の呆れたような溜息が届いた。
「――では、俺が君の望む物語を綴ってみせよう」
軽蔑され罵倒されるかと思っていた陽那は、幸之輔の言葉に驚いて顔を上げた。
言葉の意味はわからなかったが、彼はふざけているようには見えず、いたって真剣な顔をしていた。
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。まあ、君は何も知らないままでいい」
「……待ってよ、わかるように説明して」
幸之輔が真面目に言っているのか頭がおかしいのかが判断できなくて、頭が痛くなってきた。わざとわからないような言い回しをしているのかと疑いたくなる。
「説明は無意味だと思うがね。では、俺はこれで失礼する」
「勝手なこと言わないで! わたしが望む物語って何? わたしに関係あるのなら、ちゃんとわたしにもわかるように説明して!」
「……感情的な君が理解できるとは、到底思えないな。だがまあ、知的探究心を持つ人間を拒む理由もない。俺についてくるといい」
そう言って幸之輔は歩き出した。早々と遠ざかっていく彼の背中を追いかけることに、陽那は少しの迷いも抱かなかった。
幸之輔は学校近くの本屋に寄り、真っ直ぐに児童書のコーナーに足を運んだ。彼が手にした本は、浜田広介著の『泣いた赤鬼』だった。
「君はこの物語の内容を知っているか?」
「……うん。人間と仲良くなりたいけど上手くいかない赤鬼のために、青鬼がわざと人間を襲うフリをするんだよね。赤鬼が青鬼を追い払うことで、赤鬼は人間に信頼されて仲良くなることができたんだけど、青鬼は遠くへ行ってしまう。そういう話だったよね?」
「そうだ。だが、君の知っている『泣いた赤鬼』は、今日から違う物語になる」
小首をかしげた陽那を無視して、幸之輔はさっさとレジに向かい会計を済ませていた。
外に出ると、着物のよく似合う美しい女性が黒髪を靡かせて立っていた。こんなに綺麗な女性は陽那の人生で見たことがなかった。
「こんばんは、陽那様。お会いできてうれしいです。今日はよろしくお願いします」
「えっ……? あの、あなたは……?」
「私はエイミー、彼の行動を見守るだけの存在です。どうかお気になさらず」
エイミーと名乗った女性は、優雅な笑みを浮かべた。
陽那は幸之輔とエイミーと共に、再び学校に戻って来た。
空には星が輝いていた。帰りが遅くなることを母親に連絡しなければと、陽那はこれから起こることへの不安と少しの興奮を抱きながら頭の片隅で思った。
同い年とは思えない威厳を漂わせながら陽那の前を歩いていた幸之輔は、グラウンドに設置してあるサッカーゴールの前で立ち止まった。そして鞄からは購入した『泣いた赤鬼』の本を、胸ポケットからは何か細いものを取り出した。
「……それって、万年筆? その本にサインでも書くつもりなの?」
陽那が冗談のつもりで言うと、幸之輔は不敵な笑みを浮かべた。
「いいや、作者になるのさ。これくらいの文章量だったら、すぐに終わる」
そう言って本を開いた幸之輔は、手にした万年筆で本に文字を書き込んでいった。
「何してるの⁉」
ぎょっとした陽那を無視して、幸之輔は黙々と手を動かし続けていた。助けを求めてエイミーを見たが、彼女は不介入を決めているのか動じず、ただ見ているだけだった。
どうすればいいのかわからず狼狽した陽那だったが、いくら幸之輔に声をかけても無駄だった。エイミーを見習って彼女と同様、ただ待つことにした。
幸之輔の顔をこんなに間近で真剣に見るのは初めてだった陽那は、彼の顔は精密に作られた像のようだという感想を抱いた。吸い込まれてしまいそうな美しさだ。
「終わったぞ。……それにしても君、人の顔を見るのに遠慮や恥じらいを持つのも、礼儀ではないか?」
「べ、別に見てないし! ぼーっとしてただけ!」
「まあいい。今からは呆けず、瞳を開いてよく見ておくといい」
幸之輔が万年筆のキャップを閉めると、瞬間、彼が手にしていた本から光が溢れ出した。
その光は陽那を含めて、グラウンドの地面から夜空まであっという間に広がり、やがて上下左右すべての空間には何かの映像が映し出されていた。
「こ、これって……まさか、『泣いた赤鬼』⁉」
「ご名答」
陽那がそう判断できたのは、赤鬼と青鬼が仲睦ましげに語り合っている映像と、赤鬼が人間と仲良くしたくて里へ降りていく映像を見たからであった。
「今見えているのが、君の知っている『泣いた赤鬼』だが……さて、物語が変わるのは、これからだ」
陽那の背後から現れた映像は、青鬼が去った後、泣いていた赤鬼が涙を拭いて立ち上がって人間に事情を説明しているものと、旅立った青鬼を赤鬼が自力で探して連れ戻し、人間たちと一緒に皆で仲良く暮らしていくというものだった。
こんな展開は『泣いた赤鬼』には存在しないはずだ。これは一体なんだろうと思っていると、陽那の知らない展開を見せた映像は、青鬼からの手紙を読んで涙する赤鬼の映像の上に重なり、原作通りの映像の方は空間の中から消えてしまった。
幸之輔に理由を問うより先に、陽那たちを囲む空間は再び光り出し、彼が手にした本に収束されていった。
陽那が現実に戻ってきたことを認識したのは、幸之輔に本を渡され、映像の映らない普段通りの星空を見上げたときだった。
「……今のは、現実? それとも、夢?」
「ロマンティックな発言だな。問題ない。物語は無事に改変された」
「改変……つまり、物語の内容が変わったってこと?」
「そうだ。今現在世の中に知れ渡る『泣いた赤鬼』の内容は、赤鬼と青鬼、そして人間が仲良く暮らして終わる結末のものになっている。改変前、原作通りの『泣いた赤鬼』の話を知っているのは、この世で俺とエイミー、そして君だけだ。誰かに話したところで変人扱いされるだろうから、黙っている方が賢明だぞ」
相変わらず幸之輔の言葉は意味不明なものだったが、不思議と嘘は吐いていないのだろうと思った。
「……旭くんって、格好いいのは外見だけなのかも。変わってるね」
「君は偽善者で自己満足に溺れる、俺には理解し難い人種だ」
「わかってもらえなくていいよ。わたしも、旭くんのことを理解するのは諦めたし」
「だが、多勢から友人を庇ったその度胸だけは単純に評価に値してもいいと思った。人間関係の興味も手伝って、今回は少しばかり関わらせてもらったよ」
「……すごく上から目線だね」
人の気持ちをわかろうと努力するどころか好奇心の対象としか捉えられない幸之輔は、一言で言ってしまえば性格が悪くて、腹が立つやつだ。
だけど、腹が立つからこそ――こんな男について、朱音と話をしたいと思った。
朱音とまた普通に話せるようになれたなら、幸之輔とふたりで話したという自慢をしつつ、少しだけ知った彼の性格を全部教えてあげたいと思った。
傲慢で、口が悪くて自信家で、顔で得しているだけで普通なら絶対に近づきたくないタイプの男の子だけど、案外優しいところもあるのだと。
そんな幸之輔を、朱音はどう思うだろうか。彼に夢を見ている彼女のことだ、青い顔をして幻滅もありうる。
表情豊かな朱音の顔を想像すると、なんだかおかしかった。真っ黒になっていた心が澄み渡っていく気分だ。
やっぱり、朱音と仲直りがしたいと思った。
「さて、もう遅い。帰るぞ。君の家はどっち方面だ?」
「桜町方面だけど……え? 一緒に帰るの?」
「当たり前だろう。こんな時間に女の子がひとりで歩くのは危ない」
それは陽那にとって、あまりにも不意打ちの優しさだった。
「……もう、ちょっと待ってよ!」
陽那の返事を待たずにさっさと歩き出してしまった幸之輔を慌てて追いかけると、
「彼が前を歩いていて良かったですね。赤くなった頬を見られずに済みますもの」
「きゃあ!」
いつの間にか隣にいたエイミーに驚き、陽那は声をあげてしまった。
「もう、からかわないでください! わたしは別に、ぜんっぜん、旭くんにときめいたりなんかしていませんから!」
「あら? 私は赤くなった頬と言っただけで、ときめいたかなんて聞いていませんよ?」
「……ほ、ほら! 旭くんに追いつけなくなりますよ! 急ぎましょう!」
「そうですね。あまりに遅いと、苛立った彼に手を引かれてしまうかもしれませんしね」
きっとエイミーは陽那より一枚も二枚も上手で、何を言ってもからかわれてしまうのだろう。反論を諦めながら、陽那はエイミーと幸之輔の友達にも恋人にも見えない不思議な関係性を問おうとして口を噤んだ。
――今は、やめておこう。今わたしがやるべきこと、やりたいことは、朱音との仲直りなのだから。
そう思った陽那は真っ直ぐに前を見つめて、幸之輔を追いかけながら走った。
ケガのせいでわずかな時間しか走れなかったけれど、陽那は選手だった頃の自分を思い出していた。
家まで送るという幸之輔の申し出を、電車の中で考え事をしたいからと言って断った。
理由があるなら従うといった様子で幸之輔はあっさりと了承し、陽那を駅まで送った後はそのままエイミーと去っていった。
陽那は車内で、幸之輔に頼んで譲ってもらった『泣いた赤鬼』の本の中身を確認した。物語の後半の文章には二重線が引かれていて、その横には機械的な綺麗な文字で、彼が考えたのであろう物語が綴られていた。
その話は本来の『泣いた赤鬼』とはまるで違う、陽那が不思議な空間で見た映像と合致しているものだった。
どうやって改変されたのか理論は全くわからないけれど、ただ、幸之輔の書いたこの哀愁のない平凡なハッピーエンドは、今の自分が求めている物語なのだと感じた。
決意を固めた陽那はイヤホンをして、お気に入りの曲を再生した。
再生した曲は、レッドホットの名曲『BEST FRIEND』
この曲を聴き終わるとき、陽那は青鬼ではなくなっているだろう。
◇
「陽那……どうしてここにいるの?」
謹慎中の陽那は、部活動に参加することを禁止されている。
放課後、女子陸上部の部室にいた陽那を見て、朱音は驚きの声をあげた。
「悪い? クラスではわたし、朱音をはじめ皆に避けられているから、とても話せる状態じゃないでしょ?」
陽那がそう言って肩をすくめると、朱音は気まずそうに視線を逸らした。
「朱音のこと待ってた。どうしても、伝えたいことがあるから」
陽那が一歩踏み出して距離を詰めると、朱音はたじろいだ。
「朱音。指輪を盗んだのはあんただって、里香にちゃんと謝ろう?」
陽那の言葉に朱音は表情を曇らせた。
「……やっぱり、あたしのことムカつくよね。ごめん。陽那に汚名を着せたこと、本当に後悔してる。陽那に正論を言われて逆ギレしちゃったことも、陽那の気持ちを自分勝手に都合のいいように解釈して、自分の罪を正当化しようとしたことも反省してるの」
「うん」
「……でも……怖い! もしも今更あたしが犯人なんですって名乗り出たら、里香だけじゃなくて皆に嫌われる! だって最低なことしたもん!」
「謹慎処分になりたくてやった行為なのに、バレるのが怖いって矛盾してない?」
「だ、だって今の陽那を見ていたら……自己中なこと言って、ごめんなさい! でもお願い! 言わないで……!」
朱音の言っていることは、本当に我儘で卑怯で身勝手な防衛手段であった。
懇願する朱音に溜息を吐きながら更に接近すると、後ずさりしていた朱音の背中は壁につき、ついに彼女は退路を失った。
至近距離で朱音と対面した陽那が手を動かすと、暴力を予想したのか、朱音は咄嗟に顔を庇った。
――陽那は、朱音の手を優しく握った。
「……大丈夫。もしも、クラスの皆が朱音を許さなくても、学校中の皆が朱音を軽蔑しても……わたしだけは側にいるって、命を懸けて約束するから」
朱音がよく使用する「もしも」のフレーズ。
それは悲観的な未来を予想するときに使うのではなく、自信を持って未来を歩くための、おまじないにしてしまえばいい。
「あのさ、わたしが朱音のこと庇ったのって、正義感だけじゃないんだ。勝負から逃げたって指摘、あながち間違ってないよ。だから今回の件も、朱音への贖罪の気持ちが大きかったんだと思う。ごめん。だからさ、これでおあいこってことで!」
陽那の言葉に、嘘や偽りは一つもなかった。格好つけない素直な気持ちを伝えられたことで、むしろすっきりした気分にさえなっていた。
何も言わない朱音の手をそっと離して、陽那は部室のドアノブに手をかけた。
「朱音が犯人ですなんて、わたしからは言わないよ。でも、あんたが自首してくれるって……信じてる」
部室を出ていった陽那の耳に、朱音の返事は聞こえてこなかった。
だけど陽那は、親友である彼女のことを信じている。
だからこそ、罪のない汚名を浴びていようとも、前を向いて歩けるのだ。
◆
泣かない赤鬼・あとがき
陽那を駅まで送り届けた後、幸之輔は生温い夜風に癖毛を揺らしながら、夏の騒々しい夜をエイミーと歩いていた。
「彼女を家まで送ると言ったときは、成長したなと感心したんですけどね。遠慮されて本当に送らないのが、貴方が冷たいと言われる所以ですよ」
「成長とは保護者が使うべき言葉だ。君が使うには相応しくない」
「あら、保護者ですよ。貴方が行う改変の責任を、私は代償という形で負っているのですから」
不快だが一理あると思った幸之輔は、反論はしないでおいた。
「……それにしても、対象人物に直接影響を受けるであろう物語を推測し、提案するやり方に変えて正解だったな。小川陽那と出会い彼女の胸中を聞いたのは偶然だったが、彼女が受けた刺激は大きく、とても有益なデータを得ることができた。次回は俺が対象の目星をつけて接近する。君は口出しせず、ただ俺の行動を傍観していろ」
「もちろんそのつもりですが、貴方の……」
何かを言いかけたエイミーの体が、何重にもぶれた。
「代償が降りてきたのか?」
「……はい。今回の代償は、『大勢の人に誤解され疎まれる』……とのことです」
「『羅生門』を改変した際の代償『寿命を芥川龍之介と同じとする』は、時が来なければわからないものだからともかく、今回の代償も俺からは変化がわからないのか?」
「代償を把握し、その身に受けるのは私だけです。ですから、基本的には物語の改変をした著者である貴方にすらわかりませんよ。……いえ、貴方なら著者でなくとも、わからないでしょうね。人間の心情に疎いですし」
「何を楽しそうにしている。面白くもなんともないぞ」
「だから驚きましたよ。『泣いた赤鬼』を、小川陽那もその親友も救える可能性を残したハッピーエンドに変えるなんて」
「彼女に与える影響が知りたかっただけだ。だが結果として、反吐が出るほどくだらないエンディングになってしまった。この代償は大きい気がするが、エイミー、本当に君に払い切れるのか?」
エイミーは目を丸くした後、くすりと笑った。
「珍しいこともあるものですね。貴方が私の心配をするなんて」
「君は今日、俺に驚きすぎだ。俺をなんだと思っている」
「なにって……恐ろしく冷静で、残酷で、友達がおらず、どこか抜けていて、ギャグセンスのない男だと思っています」
「……もういい、喋るな」
幸之輔が溜息を吐くと、一人の女が仁王立ちになって行く手を塞いでいた。
「知り合いか?」
幸之輔がエイミーに訊いた途端、前方にいた女は奇声をあげながらエイミーに向かって突進してきた。女の手に包丁が握られているのを確認した幸之輔は、咄嗟に女の腕を掴んで捻り上げた。
「痛い痛い痛い痛あい!」
叫んだ女が包丁を落としたのを見て、幸之輔は少しだけ力を緩めてやったが、凶器を持つ素性も知らない女を見過ごすわけにはいかない。
「君は誰だ。なぜエイミーを狙う?」
冷たい声色で問いかけると、女は幸之輔に陶酔しているような表情を見せた後、エイミーを睨みつけた。
「近頃、この女が幸之輔様の周りをうろちょろして邪魔だったので。この女がいなくなれば、幸之輔様がわたしを見てくださると思ったので」
おかしな日本語とおかしな解釈を振りかざし、女は幸之輔に笑いかけた。
「愚かな脳味噌をしているな。警察に突き出してやろう」
女を掴んだまま幸之輔がポケットから携帯電話を取り出すと、エイミーはその手を押さえてかぶりを振った。
「お嬢さん。今回は見逃しますが、次はないですよ」
「うるさい! あんたの言葉なんて誰が聞くか!」
「……彼女の言葉は、俺の言葉だ。言うことを聞いて、さっさとこの場から去れ」
「……幸之輔様が、そう仰るなら」
幸之輔の言うことは絶対だと思っているのか、女はあっさりとふたりの前から姿を消した。女がいなくなったのを確認してから、幸之輔は苛立ち混じりに声をあげた。
「……なぜ彼女を見逃した? また狙われたらどうするんだ?」
「警察に行って、私のことを根掘り葉掘り訊かれるのはごめんですから」
エイミーは幸之輔の視線から逃れるようにして、再び歩き出した。
「さて……どうやら私は、貴方に恋心を抱いていた女の恨みを買ったようですね。それが今回の代償に繋がったと。……そうすると、私はあと何回身の危険に晒されるのでしょうね?」
他人事のように答えたエイミーの表情からは、恐怖心は全く読み取れなかった。幸之輔は後味の悪さを覚えたが、代償に関しては無関係という契約をしている。
「……そうだな」
「まあ、何はともあれ、貴方の仰る通り『泣いた赤鬼』は物語の良さをなくし、没個性的な話になってしまいましたね」
「ああ。物語として形を成さない、最悪の結末だ。何もかもを手に入れようとすると失敗する、俺はそれを知っているくせに、物語を書き換えた。この選択は読者に現実で生きる希望を与えると同時に、叶えられなかったときの失望も与えることになるだろう」
「本当ですね。幸いにして小川陽那は前者でしたが、旭幸之輔版の『泣いた赤鬼』は、貴方の想像以上に多くの人の未来に悪影響を与えるでしょうね」
エイミーのマンションに到着したとき、幸之輔は思い出した。
「ところで、君は本当に小川陽那とは初対面だったのか? 否定していたが、彼女を見たときの反応が大きいように見えたのだが」
「……私としたことが、とんだ失態を犯してしまったようですね。貴方に心情を推理されてしまうなんて」
「それを失態と呼ぶのか。俺に対して失礼だと思わないか?」
「まあ、お気にならさないでください。彼女と私は知り合いではありません。かつて中学陸上競技界で有名な方だったので、突然の邂逅に私が勝手に驚いた……ただそれだけのことですから」
取るに足らない出来事だと判断した幸之輔は、「そうか」と呟いて踵を翻した。
「小川陽那……残念ながら、彼女は本物の青鬼にはなれなかったということだ」
浜田広介が著した青鬼は、友人のために悪役を買って出て、最後には独りでいることを選んだ誇り高き鬼である。
帰り道、幸之輔は湿気の多い夜に癖毛をますますうねらせながら、もう見ることのできない青鬼に敬意を払った。
陸上部のマネージャー・小川陽那がスタートの合図を切ると、大和田朱音は力強くも軽やかな足捌きで素早く風を切り、100メートルの線の中で存在感のある走りを見せつけた。
しかしこのペースではタイムは伸びていないだろう。朱音がゴールラインを割ると同時に、陽那はストップウォッチを押した。
「12.8秒! まだ伸びるよ!」
息を切らす朱音に告げると、彼女は悔しそうに頷いて表情を曇らせた。
全国でも有数のスプリンターである朱音だが、あと三週間で始まる全国高等学校総合体育大会を前にタイムが伸び悩んでいた。
こういうとき、下手に励ましの声をかけるのは朱音のプライドに触って逆効果だということを陽那は知っている。
陽那はマネージャーとして陸上部員を支えているが、元々自分も短距離走の選手だったこともあり、選手が抱える悩みなどは人並み以上には理解できているつもりだった。
十八時を過ぎ、やっと一日の練習が終わった。
『各種目全国制覇!』と書かれた目標が壁に貼られている女子陸上部の部室で、制服に着替えた陽那がポニーテールを結び直していると、朱音が叫んだ。
「あっつーい! ねえ陽那、アイス食べて帰ろー!」
朱音とは小学校から一緒の友達だ。同じ時期に陸上をはじめ、短距離選手として互いに切磋琢磨してきた仲だった。
「買い食いはやめておいたら? 試合近いんだから、体重気にしないと」
暑い中練習に励む選手たちには頭が下がるけれど、律するところは律すると決めている。朱音もわかっているのか、陽那の言葉に反論はせず「ちぇー」と頬を膨らませた。
部室を出て校門を出ると突然、朱音が黄色い声をあげた。
「きゃー! 見て! 旭くんだ! うわ、カッコイイ! こんな時間まで学校に残っているって珍しいなー! 姿が見られてラッキー!」
朱音の視線の先を追うと、帰宅途中の旭幸之輔の姿を見つけた。
長身で眉目秀麗、成績優秀かつ大企業の跡取り息子という少女漫画のヒーローのような存在である幸之輔は学校でも有名で、ファンクラブまであると聞いている。
彼のファンである朱音はすっかり上機嫌で、目を輝かせていた。
「確かにカッコイイけど……旭くんって他人に対してすごく冷たいって噂も聞くし、わたしはちょっと苦手かな。やっぱ、男の子は優しいスポーツマンがいい」
「陽那は昔からそう言ってるよね。ま、あたしとしてはライバルが減ってうれしいけど!」
朱音とは陸上だけでなく勉強も同レベルであるため、友人でありライバルという表現が一番しっくりくる関係だ。
ただ、趣味や好みの音楽ですら似通っているというのに、ふたりは好きな男の子のタイプだけは異なっていた。そもそも、朱音が幸之輔を好きになったきっかけが一目惚れだということも、堅実で真面目な恋愛を好む陽那には理解しがたいことだった。
対等を前提として培われてきたふたりの関係が微妙に変わりはじめたのは、今年の春休みに陽那が膝前十字靭帯を切ってしまってからである。
選手として復帰するまでに、手術とリハビリで約八ヶ月はかかると宣告された陽那は、選手としてやっていくことを諦めた。
リハビリが苦痛だからという理由ではなかった。復帰したところで、選手としてやっていける自信がなかったわけでもない。
陽那が引退した理由はただ一つ。ライバルである朱音との差を埋めることはできないと判断したからだ。
陽那にとって、努力をしても朱音に追いつけないという事実を突きつけられるのは、何よりも怖いことだったから。
そんな陽那の心境など露知らず、今日も能天気な朱音は無邪気な笑顔を見せる。
「夏休みに入ったら、ますます旭くんの顔を見られなくなっちゃうなー。一回、告白してみようかなあー」
「恋よりも今はインハイだよ! 練習、集中してよね!」
「あーもう、少しは試合のこと忘れたっていいじゃんかー!」
鞄をぶつけてくる朱音から身を守りつつ、陽那は笑った。
ふたりの日焼けした肌を、夏の風が撫でていった。
◇
夏休み直前、毎年七月の体育の授業は水泳になる。
水着を着なくてはならない恥ずかしさから、水泳の授業を嫌がる女子はとても多いけれど、陽那は水泳の授業を楽しみにしている珍しい生徒だった。
準備運動で全身の筋肉をしっかりと伸ばし、水面に飛び込んだ。今日は五十メートルを泳ぐテストだ。足を動かし、手で水を掻き分け、前へ、前へと進む。
もう陸上では得ることのできない、他者を追い抜く感覚や、呼吸機能の限界へと挑む感覚。陽那はそれらを夢中で味わいながら、真っ直ぐにゴールを目指した。
ゴールしてゴーグルを取った陽那に、女子たちから歓声が沸いた。
「陽那、速ーい!」
「めっちゃ格好よかったよ!」
さすがに水泳部には勝てないが、他のどの生徒よりも速い記録をたたき出した陽那をクラスメイトたちが取り囲んだ。
「すごいね! 陽那、水泳部に入ればいいのに!」
「泳ぐのは好きなんだけどね。ほら、わたし靭帯やっちゃってるから」
右膝を指差した陽那に、彼女たちは残念そうな目を向けた。
「あ、そっか……そうだよね、ごめん。でも本当すごかったよ!」
「いやー、うん、陽那は本当すごいよね! もし陸上も続けていたら、あたしなんて比較にならないくらい差がついたと思うよ」
太陽の下で背伸びをしていた朱音がやって来て、陽那の肩に手を回した。背丈も同じ位のふたりは、視線の高さもちょうど合っている。
「もう、なに言ってるの! もしもの話はなしだって、前から言ってるでしょ?」
陽那は諭すように言って朱音の頬をつねった。朱音は昔から「もしも」の話をすることが多かったが、ここ最近スランプに陥ってからその兆候は顕著であった。
普段通りを装う朱音の表情にはどこか陰があり、いつもの明るい朱音のものではなかったことが、少し気になった。
「……ない! 私の指輪が、なくなってる!」
授業を終えた陽那たちが濡れた髪の毛をタオルで拭きながら教室へ戻ると、クラスメイトの島村里香が青い顔をしていた。
里香はソフトボール部の活発な少女で、良くいえばリーダーシップがあり、悪くいえば目立ちたがりな性格をしている。
彼女の声にクラス中がざわめく中、輪の中心にいる里香に陽那は話しかけた。
「どんな指輪がなくなったの?」
「ブルームの、細いシルバーの指輪……いつもチェーンつけて、首から下げていたやつ。見たことあるでしょ? ……どうしよう! 彼氏に貰ったやつなのに!」
里香はひどく動揺していて、周りにいる女子たちは皆同情し「かわいそう」「盗んだやつは許せない」などと口にしていた。
騒ぎは続いたが予鈴が鳴ったため、陽那たちは一旦席に着いた。
里香が唯一ネックレスを外す水泳の時間を狙うなんて、犯人は絶対に彼女と近しい人物だ。里香の心境を考えればかわいそうだけれど、犯人を特定するのは簡単だろう。
事態を重く捉えなかった陽那は、気持ちを切り替えて授業に集中しなければと考えながら教科書を取り出した。
部活動を終え、部室で制服に着替えているときのことだった。
「朱音、悪いけど制汗剤貸してくれない? 教室に忘れてきちゃったみたい」
「はいよー。ちょっと待っててー」
朱音が鞄を漁ったとき、彼女の鞄の中で何かが光った。
「……ねえ、朱音。それ、指輪だよね?」
疑心、いや、確信を持って陽那は口にした。
――朱音の鞄の中に、チェーンのついた小さなリングを見てしまったのだ。
「こ、これは……その、たまたま廊下で拾って……」
しどろもどろになった朱音が、何度も瞬きをした。嘘を吐くとき、朱音の瞬きが増えることを陽那は知っていた。
陽那は朱音に近づき、彼女の鞄から指輪をひったくった。
「嘘を吐くのはやめて! これ、里香の指輪でしょ? どうして盗ったりしたの?」
朱音は黙って下を向いていた。何も言わない朱音に対して、陽那の怒りはますます大きくなっていく。
「なんでこんなバカなことをしたの? 人の物を盗るなんて、信じられない!」
「……しょうがないじゃん! ストレスが溜まってしょうがなかったんだもん! 周りはタイムタイムって、呪文のように繰り返す
し! 陽那だってそうでしょ⁉」
やっと口を開いたかと思えば、ストレスが溜まっていたという理由を口にするだけで、反省の色も見せないなんて。
「同じ陸上部の仲間として、記録に拘るのは当たり前でしょ?」
「陽那だって弱いくせに、大人ぶらないでよ! あんたがあたしとの勝負から逃げたってこと、知ってるんだからね!」
この一言は、陽那の頭に血を昇らせた。思わず大きな声が出そうになったが、深呼吸をして必死に堪えた。
「……そうだね、わたしも弱いよ。でも、わたしの話はまた別の問題でしょ? とにかく、騒ぎが大きくなる前に里香に謝ろうよ。一緒に付き添ってあげるから」
取り乱している友人の力になれるよう気丈に振舞った陽那の言葉に、朱音は眉間に皺を寄せて何かを言いかけた。それを言い訳だと推測した陽那は、有無を言わさぬ視線で朱音を見つめ、手を握った。
「ね? 朱音ならできるでしょ?」
「……わかった。明日、謝る……あたしひとりで、ちゃんとやるから……」
弱弱しくも小さく頷いた朱音を見て、自分の思いが伝わったのだと信じた陽那は、それ以上責めることはしなかった。
◇
次の日、陽那は登校直後に違和感を覚えた。
「おはよー」
「……」
下駄箱で会ったクラスメイトに無視された陽那は、首を傾げつつもそのときはあまり気にしなかった。
だが教室に入った瞬間、自分が嫌な意味で注目されているという空気を察した。
陽那を見るクラスメイトたちの目が、心配そうなものだったり軽蔑したものだったりで、普段とは明らかに異なっていたからだ。
理由もわからず困惑したまま自席に着くと、里香がやってきた。
「……あのさ、回りくどいのって嫌いだから、単刀直入に言うね。……陽那、あんたが私の指輪を盗んだって、本当なの?」
「……え? ……なんで?」
頭の中が真っ白になった。わたしじゃないのに、どうして?
陽那が朱音の様子を窺うと、自席からこちらを盗み見るように見ていた朱音は、即座に目を逸らした。
「ある人から、陽那が盗ったって話を聞いたの。で、実際どうなの? あんたも疑われるのは嫌だろうし、私としても友達を疑いたく
ない。違うなら早く否定して」
「わ、わたしじゃ……」
否定しようと口を動かしたとき、朱音のことが頭を過った。
試合前のストレス発散のためについ、衝動的にやってしまったという大きな罪。普通なら決して許されることではない。
だが試合前のストレスは、かつて選手だった自分にもよくわかるものであった。
努力しているのに伸びない記録との戦い。自分を追い詰める苦しさ。無責任な周りからの期待、重圧。思い描く未来と結果の剥離を想像して、張り裂けそうになる胸。
朱音の行動は計画性があったものではなく、突発的にやってしまったことなのだろう。
もし自分がここで本当は朱音が犯人なのだと告げてしまえば、朱音の部活動謹慎処分は避けられないだろう。
わたしは、朱音が反省しているって信じたい。
ならば今、わたしが朱音の親友としてできることは――
陽那は深く息を吸った。
「……そうだよ。指輪を盗ったのは、わたし。……本当に、ごめんなさい」
注目が集まっていた中での陽那の発言は、教室中をざわつかせた。再び朱音の方を見ると、彼女は目を丸くして陽那を見ていた。
「マジで陽那がやったんだ……あんたはそんなことするようなやつじゃないって、思っていたのに。……見損なったよ」
里香は軽蔑するように告げて、陽那の元を去って行った。陽那を心配そうな顔で見守っていた友人たちは悲しそうに目を逸らし、疑いの目で見ていた連中は陽那に聞こえるように悪口を言い出した。
その日陽那に話しかけてくるクラスメイトはおらず、陽那は軽蔑の視線と陰口を聞きながら一日を過ごした。
辛いと思わなかったと言えば、もちろん嘘になる。
だが朱音がわかってくれるなら、朱音が陸上をまた頑張る気持ちになれるなら、それだけでこの行動は報われると思った。
放課後、部活の時間がやってきた。
自分と話していれば朱音にも疑いがかかってしまうと思った陽那は、早めに教室を出て陸上部の部室で彼女を待った。
「朱音!」
暗い顔をして部室までやって来た朱音に話しかけると、彼女は脅えた表情を見せた。
「……あ、あたしが頼んだわけじゃないからね!」
朱音の口から飛び出したのは、予想もしていなかった言葉だった。
「……え? 急に、何を言いだすの?」
「陽那はいつもそう! いつだって正しい! でも、あたしが庇ってって頼んだわけじゃない! ……あんたがあの場であたしがやったって言ってくれれば! 正直に言ってくれれば! あたしには謹慎処分が出て、試合に出なくてもすんだのに!」
「朱音、まさか……!」
ようやく言葉の意味を理解できた陽那だったが、それは立っていられないほどの衝撃だった。
「……朱音は、試合に出るのが嫌だったの……?」
陽那は言葉を振り絞り、彼女に問いかけた。
「そうだよ! だから昨日言ったでしょ? 勝負の世界から逃げ出した陽那には、わかんないんだよ!」
陽那は言葉に詰まった。朱音の主張は絶対に間違えていると、言いきれる自信がなかったからだ。
ただ、朱音を庇った行為だけは、彼女のためにやったと自信を持って言える。
「でも……わたしは、朱音のためを思って、」
「それが嫌なんだよ! どうしてわかってくれないの⁉ 陽那のそういう正義感、わたしには辛いんだよ!」
朱音は泣きながら部室を飛び出していった。朱音の言っていることはひどく理不尽で、感情的で、第三者から見れば百パーセント彼女が悪いと言われる内容だろうと思った。
だが陽那はそんな朱音の行動を咎める余裕がないほど、頭が真っ白になっていた。
朱音のことならなんでもわかっていると思っていた。だけどそれは自分の思い上がりだった。彼女のためを思ってやったことが、彼女を傷つけていたなんて。
ショックで動けず、呆然と部室に佇んでいた陽那だったが、
「ここにいたのか小川。ちょっと話があるんだが、いいか?」
部室にやってきた陸上部顧問・佐々木先生の声で我に返った。
「……はい」
「先生は信じたくないが……お前が、クラスメイトの物を盗んだって話を耳にしてな。……その話、本当なのか?」
庇われるのが辛いと泣いた朱音の顔が脳裏をちらついたが、ここで無実を主張しても、かえって事を大きくするだけだと思った。
――それに何より、朱音にはまだ走る権利を失ってほしくない。
「……はい。本当です」
佐々木先生はゆっくりと瞬きをした後、静かに息を吐いた。
「……そうか、残念だ。……小川、お前を一週間の部活動謹慎処分にする」
覚悟はできていたつもりだったが、今まで優等生として生きてきた陽那にとって、謹慎処分はとても大きな罪に感じられた。
その後、犯行の動機や犯行日の詳細などいろいろと訊かれた気がしたけれど、内容は全く頭に入ってこなかったし、何を話したのかも覚えていない。
ただ、自分はやり方を間違えたのだと、それだけを実感していた。
◇
陽那はすっかり居場所を失った。
教室では白い目で見られ、部活動は謹慎をくらってしまった。家に帰れば母親から部活はどうしたのか聞かれることはわかりきっている。とてもじゃないが、説明なんかしたくない。
時間を潰すために学校と自宅の真ん中にある馴染みのない駅で降車し、喫茶店に入りイヤホンで音楽を聴いて、雑音が耳に入らないように努めた。
明日からどうすればいいのだろう。考えなくてはならないことはたくさんあるのに考えたくなくて、お気に入りの曲に耳をすませて気を紛らわそうとした。
自分の世界に入り込んでいると、イヤホンからある曲が流れてきた。
レッドホットの代表曲『BEST FRIEND』だ。陽那も朱音も、自分が生まれる前から存在する、このフォークソングが好きだった。
朱音とはよくカラオケで一緒に歌ったし、陽那がまだ選手だった頃は、ふたりで肩を寄せ合って試合前に聴いていた思い出の曲だ。
しかし今は、全く聴きたい気持ちにならなかった。次の曲へとスキップしたとき、周りの客がある一点を集中して見ていることに気がついた。
客の視線の先を追うと、そこには朱音の想い人、旭幸之輔がいた。
思わずイヤホンを取って、周りの雑談に耳を傾けた。幸之輔は特に目立つ行動をしているわけではない。ただひとりで本を読みながら飲み物を飲んでいるだけなのに、皆彼を見て「格好良い」とか「声かけてみようよ」などと騒いでいた。
今この瞬間までは朱音に対して負の感情を抱いていなかった陽那だったが、幸之輔を見たことで無性に、復讐したいという気持ちが湧き上がってきた。与えられた悲しみを他の感情に変換しないと、とてもじゃないが平静ではいられなかったのだ。
陽那は無意識のうちに、その感情を憎しみに変化させていた。朱音が好きな幸之輔と話をして一緒の時間を過ごせば、少しは朱音へのあてつけになるだろうと考えたのだ。
真っ黒な気持ちを抱きながら、陽那は幸之輔の隣に座った。
「こんばんは。少し話をしてもいいかな?」
周りの女の子たちの注目が、一斉に自分に集まってくるのを感じた。
「俺が飲み終わるまでなら、構わない」
「ありがとう。少しだけだから」
噂以上に冷たい印象を幸之輔に抱きつつ、陽那は内心を悟られないように笑顔で隣に座った。
「それで、話とはなんだ? 二年E組、陸上部の小川陽那」
「……え? わたしの名前、知っていたの?」
「俺は学校の関係者なら全員、顔と名前、特徴くらいは記憶している」
淡々と口にする幸之輔に目を丸くした。全校生徒と教師、併せて約六百人弱を把握するのは容易なことではない。
「へえー! すごいね! 頭いいって噂は聞いていたけど、本当なんだ!」
「そんなことはどうでもいい。話とはなんだ、と聞いている。特にないなら、俺は失礼させてもらう」
「ちょ、ちょっと待って! えっと……ば、場所を変えてもいいかな? ここだと話づらくて……」
「ならば、早く話せる場所まで案内してくれ。時間は有限なのだから」
了承してくれると思わなかった陽那が慌てている様子を、幸之輔は不可解そうに見つめていた。
どこに行けばいいのかわからなかった陽那は、幸之輔と一緒に学校に戻って来てしまった。練習が終わって誰もいないグラウンドに、部活動謹慎中の自分と、汗とは無縁そうな幸之輔がふたりでいるのは場違いな気がした。
ローファーでグラウンドに立つなんて、貴重な経験だ。
足を止め、陽那は大きく息を吸った。今ならなんでも話せるような気がした。
「……わたしね、今日、クラスメイトから物を盗んだ友達を庇ったの。わたしが犯人ですって言ってさ。間違えていないと思った。皆に白い目で見られても、朱音が自分のやったことを反省して、試合で全力を出してくれれば、それでいいって。……なのに……」
あのときの朱音の表情が思い出されて、胸が苦しくなってきた。その息苦しさを吐き出すように、声に出した。
「なのに、朱音はわたしを裏切った! わたしを切り捨てたの!」
辛かった。助けてほしかった。無意識に、いや、意図的に、幸之輔の救いの手を求めていた。幸之輔に想いを寄せる朱音の愚痴を彼に話すことで、心にかかった靄を汚い方法で振り払おうとしていた。
「……君がやったことはただの偽善、自己満足だ。彼女はそんな君の偽善に、堪えられる器を持っていなかったのだろう? ただそれだけの話じゃないか」
――突然、見捨てられた気分だった。
自分は幸之輔に一体、どんな言葉を期待していたのだろう。慰めてほしかったという下心を見透かされたようで、赤面してしまった。
「……なんでよ。なんでわたしばっかり、酷い目に合うの⁉ わたしはただマネージャーとして! 親友として! 朱音を一生懸命に守ろうとしただけ! それなのに、どうしてわたしが悪者になるの⁉」
「見返りを求めるくらいなら、自分が悪者になろうなんて思わない方がいい」
「わたしは別に、誰かに評価されたくてやったわけじゃない! ただ朱音のためを思っただけなのに!」
「自己犠牲が美しいと思っている反面、恩の押し売りか。俺には今の君の姿も、俺に優しい言葉をかけてほしくて言っているようにしか思えないがね。本当に親友のことを考えているなら、第三者に事件の事情を話したり、主観的立場から胸の内を吐露したりするなど考えられない行為だ」
冷酷な幸之輔の視線にぞっとした。彼の視線から逃れるように、陽那は必死に叫んだ。
「うるさい! やめてよ! 何もかもを見透かしたような目で、わたしを見ないで!」
言い負かされて視線を逸らした陽那の耳には、幸之輔の呆れたような溜息が届いた。
「――では、俺が君の望む物語を綴ってみせよう」
軽蔑され罵倒されるかと思っていた陽那は、幸之輔の言葉に驚いて顔を上げた。
言葉の意味はわからなかったが、彼はふざけているようには見えず、いたって真剣な顔をしていた。
「……どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。まあ、君は何も知らないままでいい」
「……待ってよ、わかるように説明して」
幸之輔が真面目に言っているのか頭がおかしいのかが判断できなくて、頭が痛くなってきた。わざとわからないような言い回しをしているのかと疑いたくなる。
「説明は無意味だと思うがね。では、俺はこれで失礼する」
「勝手なこと言わないで! わたしが望む物語って何? わたしに関係あるのなら、ちゃんとわたしにもわかるように説明して!」
「……感情的な君が理解できるとは、到底思えないな。だがまあ、知的探究心を持つ人間を拒む理由もない。俺についてくるといい」
そう言って幸之輔は歩き出した。早々と遠ざかっていく彼の背中を追いかけることに、陽那は少しの迷いも抱かなかった。
幸之輔は学校近くの本屋に寄り、真っ直ぐに児童書のコーナーに足を運んだ。彼が手にした本は、浜田広介著の『泣いた赤鬼』だった。
「君はこの物語の内容を知っているか?」
「……うん。人間と仲良くなりたいけど上手くいかない赤鬼のために、青鬼がわざと人間を襲うフリをするんだよね。赤鬼が青鬼を追い払うことで、赤鬼は人間に信頼されて仲良くなることができたんだけど、青鬼は遠くへ行ってしまう。そういう話だったよね?」
「そうだ。だが、君の知っている『泣いた赤鬼』は、今日から違う物語になる」
小首をかしげた陽那を無視して、幸之輔はさっさとレジに向かい会計を済ませていた。
外に出ると、着物のよく似合う美しい女性が黒髪を靡かせて立っていた。こんなに綺麗な女性は陽那の人生で見たことがなかった。
「こんばんは、陽那様。お会いできてうれしいです。今日はよろしくお願いします」
「えっ……? あの、あなたは……?」
「私はエイミー、彼の行動を見守るだけの存在です。どうかお気になさらず」
エイミーと名乗った女性は、優雅な笑みを浮かべた。
陽那は幸之輔とエイミーと共に、再び学校に戻って来た。
空には星が輝いていた。帰りが遅くなることを母親に連絡しなければと、陽那はこれから起こることへの不安と少しの興奮を抱きながら頭の片隅で思った。
同い年とは思えない威厳を漂わせながら陽那の前を歩いていた幸之輔は、グラウンドに設置してあるサッカーゴールの前で立ち止まった。そして鞄からは購入した『泣いた赤鬼』の本を、胸ポケットからは何か細いものを取り出した。
「……それって、万年筆? その本にサインでも書くつもりなの?」
陽那が冗談のつもりで言うと、幸之輔は不敵な笑みを浮かべた。
「いいや、作者になるのさ。これくらいの文章量だったら、すぐに終わる」
そう言って本を開いた幸之輔は、手にした万年筆で本に文字を書き込んでいった。
「何してるの⁉」
ぎょっとした陽那を無視して、幸之輔は黙々と手を動かし続けていた。助けを求めてエイミーを見たが、彼女は不介入を決めているのか動じず、ただ見ているだけだった。
どうすればいいのかわからず狼狽した陽那だったが、いくら幸之輔に声をかけても無駄だった。エイミーを見習って彼女と同様、ただ待つことにした。
幸之輔の顔をこんなに間近で真剣に見るのは初めてだった陽那は、彼の顔は精密に作られた像のようだという感想を抱いた。吸い込まれてしまいそうな美しさだ。
「終わったぞ。……それにしても君、人の顔を見るのに遠慮や恥じらいを持つのも、礼儀ではないか?」
「べ、別に見てないし! ぼーっとしてただけ!」
「まあいい。今からは呆けず、瞳を開いてよく見ておくといい」
幸之輔が万年筆のキャップを閉めると、瞬間、彼が手にしていた本から光が溢れ出した。
その光は陽那を含めて、グラウンドの地面から夜空まであっという間に広がり、やがて上下左右すべての空間には何かの映像が映し出されていた。
「こ、これって……まさか、『泣いた赤鬼』⁉」
「ご名答」
陽那がそう判断できたのは、赤鬼と青鬼が仲睦ましげに語り合っている映像と、赤鬼が人間と仲良くしたくて里へ降りていく映像を見たからであった。
「今見えているのが、君の知っている『泣いた赤鬼』だが……さて、物語が変わるのは、これからだ」
陽那の背後から現れた映像は、青鬼が去った後、泣いていた赤鬼が涙を拭いて立ち上がって人間に事情を説明しているものと、旅立った青鬼を赤鬼が自力で探して連れ戻し、人間たちと一緒に皆で仲良く暮らしていくというものだった。
こんな展開は『泣いた赤鬼』には存在しないはずだ。これは一体なんだろうと思っていると、陽那の知らない展開を見せた映像は、青鬼からの手紙を読んで涙する赤鬼の映像の上に重なり、原作通りの映像の方は空間の中から消えてしまった。
幸之輔に理由を問うより先に、陽那たちを囲む空間は再び光り出し、彼が手にした本に収束されていった。
陽那が現実に戻ってきたことを認識したのは、幸之輔に本を渡され、映像の映らない普段通りの星空を見上げたときだった。
「……今のは、現実? それとも、夢?」
「ロマンティックな発言だな。問題ない。物語は無事に改変された」
「改変……つまり、物語の内容が変わったってこと?」
「そうだ。今現在世の中に知れ渡る『泣いた赤鬼』の内容は、赤鬼と青鬼、そして人間が仲良く暮らして終わる結末のものになっている。改変前、原作通りの『泣いた赤鬼』の話を知っているのは、この世で俺とエイミー、そして君だけだ。誰かに話したところで変人扱いされるだろうから、黙っている方が賢明だぞ」
相変わらず幸之輔の言葉は意味不明なものだったが、不思議と嘘は吐いていないのだろうと思った。
「……旭くんって、格好いいのは外見だけなのかも。変わってるね」
「君は偽善者で自己満足に溺れる、俺には理解し難い人種だ」
「わかってもらえなくていいよ。わたしも、旭くんのことを理解するのは諦めたし」
「だが、多勢から友人を庇ったその度胸だけは単純に評価に値してもいいと思った。人間関係の興味も手伝って、今回は少しばかり関わらせてもらったよ」
「……すごく上から目線だね」
人の気持ちをわかろうと努力するどころか好奇心の対象としか捉えられない幸之輔は、一言で言ってしまえば性格が悪くて、腹が立つやつだ。
だけど、腹が立つからこそ――こんな男について、朱音と話をしたいと思った。
朱音とまた普通に話せるようになれたなら、幸之輔とふたりで話したという自慢をしつつ、少しだけ知った彼の性格を全部教えてあげたいと思った。
傲慢で、口が悪くて自信家で、顔で得しているだけで普通なら絶対に近づきたくないタイプの男の子だけど、案外優しいところもあるのだと。
そんな幸之輔を、朱音はどう思うだろうか。彼に夢を見ている彼女のことだ、青い顔をして幻滅もありうる。
表情豊かな朱音の顔を想像すると、なんだかおかしかった。真っ黒になっていた心が澄み渡っていく気分だ。
やっぱり、朱音と仲直りがしたいと思った。
「さて、もう遅い。帰るぞ。君の家はどっち方面だ?」
「桜町方面だけど……え? 一緒に帰るの?」
「当たり前だろう。こんな時間に女の子がひとりで歩くのは危ない」
それは陽那にとって、あまりにも不意打ちの優しさだった。
「……もう、ちょっと待ってよ!」
陽那の返事を待たずにさっさと歩き出してしまった幸之輔を慌てて追いかけると、
「彼が前を歩いていて良かったですね。赤くなった頬を見られずに済みますもの」
「きゃあ!」
いつの間にか隣にいたエイミーに驚き、陽那は声をあげてしまった。
「もう、からかわないでください! わたしは別に、ぜんっぜん、旭くんにときめいたりなんかしていませんから!」
「あら? 私は赤くなった頬と言っただけで、ときめいたかなんて聞いていませんよ?」
「……ほ、ほら! 旭くんに追いつけなくなりますよ! 急ぎましょう!」
「そうですね。あまりに遅いと、苛立った彼に手を引かれてしまうかもしれませんしね」
きっとエイミーは陽那より一枚も二枚も上手で、何を言ってもからかわれてしまうのだろう。反論を諦めながら、陽那はエイミーと幸之輔の友達にも恋人にも見えない不思議な関係性を問おうとして口を噤んだ。
――今は、やめておこう。今わたしがやるべきこと、やりたいことは、朱音との仲直りなのだから。
そう思った陽那は真っ直ぐに前を見つめて、幸之輔を追いかけながら走った。
ケガのせいでわずかな時間しか走れなかったけれど、陽那は選手だった頃の自分を思い出していた。
家まで送るという幸之輔の申し出を、電車の中で考え事をしたいからと言って断った。
理由があるなら従うといった様子で幸之輔はあっさりと了承し、陽那を駅まで送った後はそのままエイミーと去っていった。
陽那は車内で、幸之輔に頼んで譲ってもらった『泣いた赤鬼』の本の中身を確認した。物語の後半の文章には二重線が引かれていて、その横には機械的な綺麗な文字で、彼が考えたのであろう物語が綴られていた。
その話は本来の『泣いた赤鬼』とはまるで違う、陽那が不思議な空間で見た映像と合致しているものだった。
どうやって改変されたのか理論は全くわからないけれど、ただ、幸之輔の書いたこの哀愁のない平凡なハッピーエンドは、今の自分が求めている物語なのだと感じた。
決意を固めた陽那はイヤホンをして、お気に入りの曲を再生した。
再生した曲は、レッドホットの名曲『BEST FRIEND』
この曲を聴き終わるとき、陽那は青鬼ではなくなっているだろう。
◇
「陽那……どうしてここにいるの?」
謹慎中の陽那は、部活動に参加することを禁止されている。
放課後、女子陸上部の部室にいた陽那を見て、朱音は驚きの声をあげた。
「悪い? クラスではわたし、朱音をはじめ皆に避けられているから、とても話せる状態じゃないでしょ?」
陽那がそう言って肩をすくめると、朱音は気まずそうに視線を逸らした。
「朱音のこと待ってた。どうしても、伝えたいことがあるから」
陽那が一歩踏み出して距離を詰めると、朱音はたじろいだ。
「朱音。指輪を盗んだのはあんただって、里香にちゃんと謝ろう?」
陽那の言葉に朱音は表情を曇らせた。
「……やっぱり、あたしのことムカつくよね。ごめん。陽那に汚名を着せたこと、本当に後悔してる。陽那に正論を言われて逆ギレしちゃったことも、陽那の気持ちを自分勝手に都合のいいように解釈して、自分の罪を正当化しようとしたことも反省してるの」
「うん」
「……でも……怖い! もしも今更あたしが犯人なんですって名乗り出たら、里香だけじゃなくて皆に嫌われる! だって最低なことしたもん!」
「謹慎処分になりたくてやった行為なのに、バレるのが怖いって矛盾してない?」
「だ、だって今の陽那を見ていたら……自己中なこと言って、ごめんなさい! でもお願い! 言わないで……!」
朱音の言っていることは、本当に我儘で卑怯で身勝手な防衛手段であった。
懇願する朱音に溜息を吐きながら更に接近すると、後ずさりしていた朱音の背中は壁につき、ついに彼女は退路を失った。
至近距離で朱音と対面した陽那が手を動かすと、暴力を予想したのか、朱音は咄嗟に顔を庇った。
――陽那は、朱音の手を優しく握った。
「……大丈夫。もしも、クラスの皆が朱音を許さなくても、学校中の皆が朱音を軽蔑しても……わたしだけは側にいるって、命を懸けて約束するから」
朱音がよく使用する「もしも」のフレーズ。
それは悲観的な未来を予想するときに使うのではなく、自信を持って未来を歩くための、おまじないにしてしまえばいい。
「あのさ、わたしが朱音のこと庇ったのって、正義感だけじゃないんだ。勝負から逃げたって指摘、あながち間違ってないよ。だから今回の件も、朱音への贖罪の気持ちが大きかったんだと思う。ごめん。だからさ、これでおあいこってことで!」
陽那の言葉に、嘘や偽りは一つもなかった。格好つけない素直な気持ちを伝えられたことで、むしろすっきりした気分にさえなっていた。
何も言わない朱音の手をそっと離して、陽那は部室のドアノブに手をかけた。
「朱音が犯人ですなんて、わたしからは言わないよ。でも、あんたが自首してくれるって……信じてる」
部室を出ていった陽那の耳に、朱音の返事は聞こえてこなかった。
だけど陽那は、親友である彼女のことを信じている。
だからこそ、罪のない汚名を浴びていようとも、前を向いて歩けるのだ。
◆
泣かない赤鬼・あとがき
陽那を駅まで送り届けた後、幸之輔は生温い夜風に癖毛を揺らしながら、夏の騒々しい夜をエイミーと歩いていた。
「彼女を家まで送ると言ったときは、成長したなと感心したんですけどね。遠慮されて本当に送らないのが、貴方が冷たいと言われる所以ですよ」
「成長とは保護者が使うべき言葉だ。君が使うには相応しくない」
「あら、保護者ですよ。貴方が行う改変の責任を、私は代償という形で負っているのですから」
不快だが一理あると思った幸之輔は、反論はしないでおいた。
「……それにしても、対象人物に直接影響を受けるであろう物語を推測し、提案するやり方に変えて正解だったな。小川陽那と出会い彼女の胸中を聞いたのは偶然だったが、彼女が受けた刺激は大きく、とても有益なデータを得ることができた。次回は俺が対象の目星をつけて接近する。君は口出しせず、ただ俺の行動を傍観していろ」
「もちろんそのつもりですが、貴方の……」
何かを言いかけたエイミーの体が、何重にもぶれた。
「代償が降りてきたのか?」
「……はい。今回の代償は、『大勢の人に誤解され疎まれる』……とのことです」
「『羅生門』を改変した際の代償『寿命を芥川龍之介と同じとする』は、時が来なければわからないものだからともかく、今回の代償も俺からは変化がわからないのか?」
「代償を把握し、その身に受けるのは私だけです。ですから、基本的には物語の改変をした著者である貴方にすらわかりませんよ。……いえ、貴方なら著者でなくとも、わからないでしょうね。人間の心情に疎いですし」
「何を楽しそうにしている。面白くもなんともないぞ」
「だから驚きましたよ。『泣いた赤鬼』を、小川陽那もその親友も救える可能性を残したハッピーエンドに変えるなんて」
「彼女に与える影響が知りたかっただけだ。だが結果として、反吐が出るほどくだらないエンディングになってしまった。この代償は大きい気がするが、エイミー、本当に君に払い切れるのか?」
エイミーは目を丸くした後、くすりと笑った。
「珍しいこともあるものですね。貴方が私の心配をするなんて」
「君は今日、俺に驚きすぎだ。俺をなんだと思っている」
「なにって……恐ろしく冷静で、残酷で、友達がおらず、どこか抜けていて、ギャグセンスのない男だと思っています」
「……もういい、喋るな」
幸之輔が溜息を吐くと、一人の女が仁王立ちになって行く手を塞いでいた。
「知り合いか?」
幸之輔がエイミーに訊いた途端、前方にいた女は奇声をあげながらエイミーに向かって突進してきた。女の手に包丁が握られているのを確認した幸之輔は、咄嗟に女の腕を掴んで捻り上げた。
「痛い痛い痛い痛あい!」
叫んだ女が包丁を落としたのを見て、幸之輔は少しだけ力を緩めてやったが、凶器を持つ素性も知らない女を見過ごすわけにはいかない。
「君は誰だ。なぜエイミーを狙う?」
冷たい声色で問いかけると、女は幸之輔に陶酔しているような表情を見せた後、エイミーを睨みつけた。
「近頃、この女が幸之輔様の周りをうろちょろして邪魔だったので。この女がいなくなれば、幸之輔様がわたしを見てくださると思ったので」
おかしな日本語とおかしな解釈を振りかざし、女は幸之輔に笑いかけた。
「愚かな脳味噌をしているな。警察に突き出してやろう」
女を掴んだまま幸之輔がポケットから携帯電話を取り出すと、エイミーはその手を押さえてかぶりを振った。
「お嬢さん。今回は見逃しますが、次はないですよ」
「うるさい! あんたの言葉なんて誰が聞くか!」
「……彼女の言葉は、俺の言葉だ。言うことを聞いて、さっさとこの場から去れ」
「……幸之輔様が、そう仰るなら」
幸之輔の言うことは絶対だと思っているのか、女はあっさりとふたりの前から姿を消した。女がいなくなったのを確認してから、幸之輔は苛立ち混じりに声をあげた。
「……なぜ彼女を見逃した? また狙われたらどうするんだ?」
「警察に行って、私のことを根掘り葉掘り訊かれるのはごめんですから」
エイミーは幸之輔の視線から逃れるようにして、再び歩き出した。
「さて……どうやら私は、貴方に恋心を抱いていた女の恨みを買ったようですね。それが今回の代償に繋がったと。……そうすると、私はあと何回身の危険に晒されるのでしょうね?」
他人事のように答えたエイミーの表情からは、恐怖心は全く読み取れなかった。幸之輔は後味の悪さを覚えたが、代償に関しては無関係という契約をしている。
「……そうだな」
「まあ、何はともあれ、貴方の仰る通り『泣いた赤鬼』は物語の良さをなくし、没個性的な話になってしまいましたね」
「ああ。物語として形を成さない、最悪の結末だ。何もかもを手に入れようとすると失敗する、俺はそれを知っているくせに、物語を書き換えた。この選択は読者に現実で生きる希望を与えると同時に、叶えられなかったときの失望も与えることになるだろう」
「本当ですね。幸いにして小川陽那は前者でしたが、旭幸之輔版の『泣いた赤鬼』は、貴方の想像以上に多くの人の未来に悪影響を与えるでしょうね」
エイミーのマンションに到着したとき、幸之輔は思い出した。
「ところで、君は本当に小川陽那とは初対面だったのか? 否定していたが、彼女を見たときの反応が大きいように見えたのだが」
「……私としたことが、とんだ失態を犯してしまったようですね。貴方に心情を推理されてしまうなんて」
「それを失態と呼ぶのか。俺に対して失礼だと思わないか?」
「まあ、お気にならさないでください。彼女と私は知り合いではありません。かつて中学陸上競技界で有名な方だったので、突然の邂逅に私が勝手に驚いた……ただそれだけのことですから」
取るに足らない出来事だと判断した幸之輔は、「そうか」と呟いて踵を翻した。
「小川陽那……残念ながら、彼女は本物の青鬼にはなれなかったということだ」
浜田広介が著した青鬼は、友人のために悪役を買って出て、最後には独りでいることを選んだ誇り高き鬼である。
帰り道、幸之輔は湿気の多い夜に癖毛をますますうねらせながら、もう見ることのできない青鬼に敬意を払った。



