出会いは突然だった。

それまで穏やかでなんの変哲もなかった僕の日常を変えて、勝手にいなくなってしまった彼女と出会ったのは、今にも雪が降りそうな十二月のある日のこと–––。


「冬休みも近づいてきたけど、学生の本業は勉強。先週の数学の小テスト、このクラスだけ飛び抜けて平均点が低かったそうだな。数学担当の樋口(ひぐち)先生から散々嫌味…ではなく、危機的状況であると聞いたぞ。どうやら小テストは三日後にもあるそうだな。これ以上樋口先生を困らせないように」


頬杖をつきながら担任のHRでの長い説教をぼーと聞き流す。

要は僕たちのせいで嫌味を言われるのはもう懲り懲りだから、せいぜい頑張ってくれって話だろう。

そんなこと言われたところで、一体誰がやる気を出すんだろう。

たかが小テスト一つなのに。


桐宮(きりみや)、ちょっといいか」


やっとHRが終わり部活に行ったりどこに遊びに行こうかと放課後を満喫したりするクラスメイトの横を通り過ぎ、僕もバイトに向かおうとさっさと教室を出たところでふと担任に呼び止められる。

なんとなく嫌な予感しかしなかったけど、さすがに無視するわけにもいかず渋々と振り向く。


「…なんですか?」

「さっきの小テストのことなんだが、桐宮からクラスメイトたちに勉強を教えてやってくれないか?なんでも、桐宮だけ群を抜いて毎回点数がいいと樋口先生もおっしゃっててな。ほら、桐宮、特別仲のいいクラスメイトも見たところいないようだし、先生としても心配なんだよ。これをきっかけに仲のいい友達ができるかもしれないし…」

「余計なお世話です。それに勉強を教えることは先生たちの仕事でしょう。僕に押しつけようとしないでください」


う、と押し黙ってしまった担任にぺこりと会釈をして、帰るために再び廊下を歩き出す。

僕が人と関わろうとしないのは好きでやっていることだ。

友達がほしいだなんて一ミリも思っていない。

中学は今と違って田舎の人の少ない学校に通っていたため、嫌というほど人と関わってきた。

普段からの顔馴染みばかりで家族に似たようなものだったから何も考えなくて楽だったけど、田舎と違う東京はそうはいかない。

入学当初は僕も周りに馴染もうと色々と試みてみたが、結果は上辺だけのただ疲れるだけの関係。

僕から輪の中に入ろうとしなくなっただけであっさりと僕の周りにいる人はいなくなった。

そんな関係を無理して続けることよりも一人でいることの方が楽だと気づいてしまった僕は、そこから人と関わることはやめてしまった。


バイトに向かっている途中で、ポケットに入れていたもうすぐ充電の切れそうなスマホが着信音を鳴らしながら震えていた。

こんな僕に電話をかけてくる相手は、ヘルプで入れないかと頼んでくるバイトの店長か、一人しかいない。

画面を確認すると、思った通りの名前が表示されていてはあとため息をつく。


「…もしもし、父さん。何か用?」

「うわ、ひどいなー。親が子どもに電話するのに、理由なんて必要ないだろう?」

「二日前も電話かけてきたばかりだろ。そんなに心配しなくても、僕はこっちでちゃんとやってるって」

「いやーそんなことはわかってるよ。(なぎ)は昔からしっかりしてるから、一人でも余裕で生きていけることくらい」


高校に進学するにあたって僕は小さな田舎町を出て、今は東京で一人暮らしをしている。

そのため心配をしているのか父さんは一人息子である僕にしょっちゅう電話をかけてくる。


「充電切れそうだし、これからバイトだから。もう切っていい?」

「わー待て待て!…凪、次帰って来れるのはいつだ?」

「年末までバイト入れちゃったから、帰るとしたら年始だけど…それがなに?」

「いや、その、おまえに話したいことがあって…って、あ!」

「もう、私から言うからいいわよ。凪、久しぶり。元気?」

「…母さん」


母さんはたまに父さんと電話をしている時に出てくるけど、ここ最近それもなかったから話すのは三ヶ月ぶりくらいだ。


「あのね、本当は直接会って言いたかったんだけど、私、妊娠してるの。凪はお兄ちゃんになるのよ」

「…え?」


少し急がないとバイトに遅れそうなのに、思わずその場に立ち止まって母さんに言われた言葉を頭の中で反芻する。

妊娠…。お兄ちゃん…。


「予定では、来月には産まれるのよ。女の子ですって。凪に妹ができるの」

「…そう。体には気をつけて。ごめん、そろそろ本当に充電切れそうだから」


一方的に告げるだけ告げて母さんの返事も待たずに、ぷつりと通話を切る。

心なしか息が苦しい。

急にそんなこと言われても…すぐに理解できるわけないだろ。


「…やば、遅刻だ」


ふと時計を確認すると、もう店に着いていないといけない時間なことに気づき、やっと止まっていた足を動かすことができた。


「桐宮くん、遅いよ。前の人が伸びてくれてたからちゃんとお礼言ってね」

「…すみません」


結局バイトには遅刻するし集中することができなくてミスばかりして店長に怒られ、早めに帰された。

今にも雪が降りそうな曇り空を見上げながら、はーと白い息を吐き出す。

…あ、やばい。今日はスーパーに寄らないと冷蔵庫に何もない日なのに、真っ直ぐ家方面に来てしまった。

まあ今日くらいは夕飯抜きでもいいか。死ぬわけじゃないんだし。

そんなことを考えながら住んでいるアパートが見えてきたところで、ふと誰かが倒れているのが見えた。


「え、だ、大丈夫ですか!?」


慌てて倒れている人に駆け寄り、息を呑む。

サラサラの長い黒髪に閉じられている長いまつ毛、雪のように真っ白な肌に一つ一つのパーツどれもが整っている顔立ちと息を呑むほどの美人な女の人だった。

この季節とは全く合わない無地の白の半袖にジーパン姿だけど、なぜかそれすらも様になっている。

…って、そうじゃなくて、見たところ外傷とかはないけどとりあえず救急車を呼んだ方がいいだろう。

ポケットからスマホを取り出すと同時に、残りわずかだった電源が切れて全く使い物にならなくなる。


「…嘘だろ。どうするか…」


周りを見渡してみるけど、もう夜だからか出歩いている人は全くいない。

とりあえずこんな寒空の下放っておけるわけもなく、失礼しますと断りを入れてから女の人の体をそっと持ち上げる。

力にはあまり自信のない僕だけど、それでも軽々と持ち上げられるくらい女の人は軽かった。

そのまま僕の部屋に連れて行き、ベッドの上に寝かせてあげる。

…ここまで連れてきたはいいけど、どうすればいいんだ?

とりあえず使えなくなったスマホを充電器に差しながらどうしたものかと必死に考えを巡らす。


「…ん」

「あ、大丈夫ですか!?」


ふと、女の人のまつ毛がぴくりと揺れてゆっくりとその目が開かれた。


「…ここ、どこ?」

「あ、僕の部屋です…って、あの、怪しい者とかじゃなくて。あなたが家の前で倒れてて、でもスマホの充電切れて救急車も呼べなかったのでとりあえず連れてきただけで…」

「…そう。ありがとう、助けてくれて」


女の人はむくりと起き上がると、ぼーと壁にかかったカレンダーを見つめていた。


「あの…?やっぱりどこか痛みますか?」

「…ああ、大丈夫。ところで、助けてもらったところ早々悪いんだけど、しばらくここに泊めてもらえないかな?」

「…はい?」

「いやー情けないんだけど、今日家を失ってお金もなくってさー。彷徨ってたら君の家の前で倒れちゃってたみたい。図々しいお願いとは思うんだけど、これも何かの縁ってことで、次の家が見つかるまでしばらくここに泊めてくれない?あ、もちろん家事とかはやるからさ」


得体も知れない女の人のわけのわからないお願いなんて、普段の僕だったら絶対に聞かなかっただろう。

…だけどなぜか、淡い笑顔を見せる女の人がなんとなく今にも消えてしまいそうな儚さを持っていて、そんな不思議な雰囲気を纏っていたからかこのまま家を追い出す気にはなれなかった。


「…いいですけど、次の家が見つかるまで、ですからね」

「え、本当?ありがとう少年!」


女の人にぐいっと引き寄せられ、柔らかい胸に顔が埋まる。


「ちょ、やめてくださいよ!」

「泊めてくれるお礼、体でもいいよー?」

「な、追い出しますよ!」


女の人はあははと無邪気に笑った。


「少年、名前は?」

「…凪です」

「凪、か。いい名前だねー。私はアンナ。よろしくね」


そんな感じで不思議な女性、アンナさんとの出会いは突然だった。


「…しまった、やっぱりスーパー行くべきだったな。すみません、食べ物とか何もないのでコンビニ行ってきます。ついでにアンナさんの着替えとかも買ってくるので」

「じゃあ私も行くよ」

「え、大丈夫ですか?さっきまで倒れてたんだし、この寒さの中外に出るよりは中にいた方が…」

「大丈夫大丈夫。私も買いたいものがあるの」


アンナさんに僕の一番暖かいダウンコートを貸してあげ、着替えとかも買うならせっかくだしと駅前のショッピングモールに行くことにする。


「この時間やってるのこのショッピングモールくらいなんですけど、ここもあと三十分くらいで閉まるはずだから早めに買い物済ませましょう。お金は僕が払うので」

「悪いねー。いつかちゃんと返すよ」


そのいつかは果たして来るのだろうかと考えながら、アンナさんとお店を回る。

アンナさんは一応遠慮してるのかわからないが、セールものの服や下着を必要最低限分買い、着る物はこれだけで十分だと言っていた。


「元から服にはあんまこだわりないし、着れればなんでもいいよ」

「だからって冬に半袖はどうかと思いますけど…」

「あはは、これも新手のファッション的な?」


夕飯はアンナさんが作ると張り切っていて、こっちは遠慮なく食材を次から次へとカゴに入れてくる。


「あと、私の体の一部も忘れずに買わないと」


アンナさんは最後にタバコの箱を三箱とライターをカゴに入れてきた。

なんとなくそういうものとは無縁な感じがしていたから、タバコを吸う人なんだと少しだけ驚く。


「はーっ、これこれ。やっぱ最高だねー」

「…アンナさんっておいくつなんですか?」


一通り買い物を終わらせて気持ちよさそうにタバコを吸っているアンナさんと並んで歩きながら、ふと気になり聞いてみる。


「レディに年は聞くもんじゃないよ。まあ隠す年齢でもないからいいけどさ。24だよ」

「家もお金もないって言ってましたけど…頼れる人周りにいないんですか?親とか友達とか、恋人とか」

「…私、20歳の時に田舎からこっちに上京してきてね。親とは昔から仲が悪くて、家が和菓子屋なんだけど継げ継げうるさくって。私は私の人生を生きたいし、いい加減うんざりしてほぼ縁を切る勢いでこっちに来たの。なんもやりたいこともなくお金もどんどんなくなっていく一方で、ついに家まだ失ったわけだけど。それにどうも人と関わるのは苦手でね、友達と呼べる友達もいないし、恋人もいるわけない。だからずっと孤独で生きてきた」


アンナさんの吐く白い息がゆらゆらと空に向かって消えていく。


「私の友達兼恋人は、タバコだけってわけ。あ、もしタバコの匂い苦手とかだったら言ってよ?恩人なわけだし、凪の前では吸わないように気をつけるからさ。それに副流煙とか気にする若者も多いでしょ」

「…平気です。わかんないけど、なんかタバコの匂いって落ち着きます」

「へぇ、吸ってみる?」

「いや、未成年なんで!」


だよね、とアンナさんはケラケラと笑っていた。

ふと儚げな表情を見せたり、子どもみたいに無邪気に笑ったり、やっぱり不思議な人だと思った。


その日からアンナさんとの同居生活が始まった。


「アンナさん!脱いだ下着置きっぱなしにするのやめてくださいっていつも言ってるでしょ!タバコの吸い殻もちゃんと捨ててください!またこぼれてる!」

「ん…うるさいな…」


すっかり僕のベッドを我が物のように占領しているアンナさんが、毛布を被ってもう一度眠りについた。

他にも小言がたくさんあったけど、アンナさんに構っていられるほど僕も暇ではない。


「今日もバイトなので夜ご飯は冷蔵庫にあるもの適当に使ってください。朝ごはんもここにありますから!僕は学校行ってきますよ」

「んーいってらっしゃーい」


多分寝ぼけているのだろう、目がしっかり開いてないアンナさんがひらひらと毛布の間から伸ばした片手を振ってくる。

アンナさんは物にもこだわりがないようでスマホすら持っていなく、もしも何かあった時に連絡が取れる手段は何もない。

だから少し心配な気持ちもあるけど、なんとなくあの人なら大丈夫だろうと勝手に思っている自分もいる。


「えーじゃあここを真村(まむら)。答えろ」


窓の外に向けていた視線を、教壇の前でニヤニヤと笑っている数学教師の樋口に移す。

僕の隣の席の真村は、後ろの席の友達に背中を突っつかれハッと目を覚ます。


「はい!?えっとー…」

「なんだ?もしかして、寝てて聞いてなかったとかじゃないだろうな?」

「いやいや!そんなわけないっすよー」


樋口は真村が寝ていて答えられないことを明らかにわかっていて、その様子を楽しんでいるようだった。

とことん性格の悪い教師だ。


「おいおい、早く答えろよー。真村が正解するまで次に進まないからなー」

「え、えっと…あれっすよ、あれ!」

「なんだあれって」


真村はクラスで明るく人懐っこい性格から人気者ではあるけど、勉強に関してはバカでこのような応用問題が解けるはずがない。

しかし寝ていて目をつけられたんだから、自業自得でもある。


「…−5」

「え、あ、−5!」

「…なんだ?ちゃんと聞いてたのか、まぐれか。まあいい、次に進むぞ」


どうして助けてあげたのか、自分でもよくわからなかった。

いつもだったら関わりたくないから無視するけど、気づいたら樋口には聞こえないような声でこっそりと真村に答えを教えていた。


「桐宮!さっきはありがとな!まじで助かった!」


…ほらな、こういうやり取りがあるだろうからいつもの僕なら助けなかったのに。


「…いいよ、別に。授業が止まっても困るから」

「お礼させてくれ!そうだ、昼飯一緒に食おうぜ!」

「え、いや…」


今日も一人でお昼を食べようと立ち上がったところで、がしっと真村に腕を掴まれそのまま断るよりも先に連行される。


「桐宮はなににする?なんでも好きなの頼め!俺の奢りだ!」


たかが答えを一問教えたあげただけなのに、なぜか真村と食券の列に並ばされていた。


「いや、悪いよ…。大したことしてないし」

「そんな堅いこと言うなよ、助かったのは事実なんだから。お礼しないと気が済まねぇんだよ!」


でも、と続けようとしたがあっという間に僕たちの番が来てしまう。


「さ、選べ選べ。俺は日替わり定食にするぜ!」

「…じゃあ僕もそれで」


結局真村に奢ってもらい、初めて日替わり定食を食べる。


「…ん、うま」

「なんだ、桐宮もしかして日替わり初めてか?うちの学校の日替わりってなかなかうまいんだぞ」

「へぇ…」


大口でどんどん口に詰めていく真村に、曖昧な返事を返す。


「なあなあ、桐宮って数学得意なのか?俺さ、昨日の小テストも赤点で樋口に目つけられて、補習プリントたっぷりもらっちゃってさ。明日までに提出しないと成績落とすって脅されてて。でもなんもわかんねぇから教えてくんね?」


もしかして、この日替わり定食はそのお願いの前払いも意味していたのだろうか。


「…悪いけど、そこまでのお人好しではないから。誰か別の優しい人を当たってよ」


定食代の五百円を机の上に置き、まだ食べかけのお皿が載ったおぼんごと持って立ち上がる。

これ以上人と関わるのは面倒だ。

僕は一人でただ平穏に毎日を過ごしたいだけだから。





「なんかあった?随分暗い顔してるけど」


ベランダで手すりに体を預けタバコを吸っていたアンナさんが、黙々と宿題を済ませている僕に向かってそんなことを言ってきた。


「…え?」

「帰ってきてからずーっとそんな顔してる」

「別に、何もないですよ。疲れただけです。人と関わるのってやっぱり僕には向いてないなって」


アンナさんに真村との出来事を軽く話す。


「真村はこんな僕に声をかけてくれたけど、僕は突き放すような態度しか取れない。人と関わることを無意識に避けちゃうんです」

「…ふぅん。やっぱり凪は、私に似てるね」


タバコの火を消したアンナさんは、そっと僕の隣に腰掛けてきた。


「きっと人と関わることが苦手なんじゃなくて、怖いんだよ。私は怖い。いつ裏切られるのかわからないから。人と人の繋がりなんて、ふとしたきっかけですぐに切れるって知ってるからね。高校の時に、親友だったと思っていた友達に彼氏を取られたことがあるの。その時に思ったのが友情も恋愛も、ものすごく脆くて簡単に壊れるんだなって。怖いよ今も。またあんな思いをするくらいなら人とは関わりたくないって思うもん」


机に置いていたスマホが震え、新規メッセージを知らせてきた。

相手は父さんからで「産まれてくる赤ちゃんの名前、今度凪も一緒に考えような」と来ていた。


「…僕はいらない存在なんです。本当の母さんは、僕を産んだ時に死んでしまった。病気だったから。僕を産むと体が耐えられなくて死んでしまうというリスクを知っていたはずなのに、母さんは僕を産むことしか考えていなかったんです。自分が病気になったのは自業自得なんだとか言って、僕のために命を捨てた。父さんが新しい母さんと再婚したのは、僕が中学生の頃でした。来月には妹も産まれます。二人の血が繋がっている、本当の子ども。父さんは本当の母さんの話をしてくれた時も決して僕を責めることなんて一度もなかったけど、本当はどう思っているかなんてわからない。本当の子どもができて、僕はもういらないとついに言われるかもしれない」


上京してきたのは、偽りの家族な気がして耐えられなくなったからという理由からだ。

僕はあの二人と家族として毎日を過ごすのが怖かった。


「これ以上他人と関わって、僕はいらない存在だって思われるんじゃないかって考えてしまう。家族すらも信じられないのに、他人なんて余計信じられるはずがないから」


…そうか、僕はずっと人と関わることが怖かったんだ。

人の気持ちなんて、言葉にされてもされなくても本当の気持ちはその人にしかわからないから。

家族にも他人にも、一つの命を奪ってまで産まれてきた僕を否定されることがずっと怖かったんだ。


「…人と関わることを怖がって、避け続けた結果待っていたのは“孤独”だった。私がタバコを吸い始めたのも、孤独だった自分を紛らわすため。何も現状は変わらないっていうのにね」


アンナさんはそっと僕の頭を自分の肩に引き寄せてきた。

アンナさんからはタバコの香りがほのかに香ってきて、それが僕の涙腺を刺激してきた。


「凪も、そうなんでしょ?怖いって思ってるけど、本当は家族とも仲良くしたい。友達だってほしい。平穏な日常は虚しいだけだってそう思ってるんでしょ?」

「…っ」


どうして彼女には全てお見通しなんだろう。

16年間生きてきて唯一、まだ出会って一週間もしていない彼女だけが僕が一人で抱えてきたことに気づいてくれた。


「大丈夫だよ。凪の人生はまだまだこの先長いんだから。どんなに人を避けようとしても、必ず入り込んでこようとするしつこい人だってこの世にいる。そういう人を大切にすればいいの。凪のそばにも、もういるでしょ?」


スマホが震え、再度メッセージの通知を知らせてきた。


–––「凪が上京してからもう半年以上が経つけど、やっぱり俺も母さんも凪がいなくて寂しいよ」


「私と凪は同じ孤独を抱えているからこそ、出会ったのかもね」


子どもをあやすかのように優しく頭を撫でてくれるアンナさんの手に身を委ねて静かに泣き続ける。

僕がアンナさんを突き放せなかったのは、なんとなく似た物同士だと気づいたからかもしれない。

アンナさんは不思議な人だけど、温かくて優しくてそんな彼女に僕は一目見た時から惹かれてしまっている。

だから僕はアンナさんを拒めないんだ。





「あーもう!全然わかんねぇよ」

「俺らだってわかんねぇからなんの力になってやれなくて悪いな。これから部活行かないとだし。樋口意地悪すぎだろ。もう諦めな、真村」

「はー!?ふざけんなよ!」

「…そこはここの公式をあてはめるんだよ。こことここはこの公式を使って」

「…え、桐宮?」


プリントを散乱させて机に突っ伏していた真村の後ろから、使う公式にマーカーペンで丸をつけてあげる。


「え、なんで…。俺、てっきり嫌われたのかと思って…」

「…お人好しではないけど、困ってるクラスメイトを見捨てられるほど冷たい人間ではないから。それに僕は人と話すのが苦手なんだよ。君みたいな陽キャの塊と長時間話すのは余計疲れる」

「うおー!桐宮、おまえってやつは…!なんていいやつだ!」

「…やっぱり嫌いかも」


ガバッと抱きついてきた真村を必死に剥がしながら、思わず笑っていた。

この世界には僕が知らないだけでもっともっとたくさんの人がいるだろう。

その中に、きっとこんな僕でも受け止めてくれる人がいるはずだ。


「うん、バイトの調整できたから、年末から帰るよ。冬休みいっぱいはそっちにいるつもり」


下校時刻ギリギリで真村の補習プリントを無事終わらせることができ、提出まですることができた。

何度もお礼を伝えてハグをしてこようとしてきた真村と別れて、父さんと電話をしながら一人帰り道を歩く。


「ああ、母さんにも伝えといて。体も気をつけるようにって。うん、じゃあまた」

「おかえり、凪」


電話を切ると同時に、ガードレールにもたれかかるようにして待っていたアンナさんがタバコを吸いながら声をかけてきて、驚いて目を見開く。


「びっ…くりした。こんなところでなにしてるんですか?」

「タバコ切れちゃったからさ、コンビニに買いに行ってたら向こうから凪が来るのが見えて。ここで待ってた。誰かと電話してたの?」

「…ああ、父さん。年末から帰ることにしたから、その報告です。もう終わりましたけど」

「そっか」


アンナさんは今日も幸せそうにタバコを吸いながら、僕の隣をテクテクとついてくる。


「…凪はやっぱり私とは全然似てないかもね」

「…え?なんですか、急に」

「凪みたいな強さを、私は持ってないから。昨日まで悩んでたくせに、もう清々しい顔してる。強い証拠だよ。これから凪はどんなことが起きても一人で道を切り開いていけるんだろうね。もう孤独からとっくに抜け出してるんだよ」


少し前を歩いていたアンナさんがふわっとタバコの匂いを漂わせて笑顔で振り返ってきた。

その今にも消えてしまいそうな儚い笑顔に、僕は気づいたら思わずアンナさんの腕を掴んでいた。


「…凪?」

「あ、すみません。なんかバカみたいって思うかもしれないんですけど、アンナさんが今にも消えてしまいそうな気がして…」


アンナさんはふっと優しく笑うと、腕を掴んでいた僕の手にそっと自分の手を重ねてきた。


「私はここにいるよ」

「…そう、ですよね。変なこと言ってすみません」


そっとアンナさんの手を離して、もう一度隣に並ぶ。


「凪にタバコを始めた理由は孤独を紛らわせたかったからって言ったよね」

「…え?はい、昨日の話ですよね」

「それも嘘ではないんだけどね、本当のもう一つの理由は、“早く死にたかったから”」

「…え?」


アンナさんは表情を変えずにタバコを吸うと、ふぅーと長く時間をかけてゆっくりと吐き出した。

僕の口から漏れた息も寒さで白く変わり、アンナさんの吐いた煙と共に空に上っていく。


「タバコは体に良くないってよく言うでしょ?だから、ずっと吸ってればいつか病気になって死ねるのかなって、そればかり考えてた。タバコは私が私でいられるための武器なの。あ、別に病んでるわけじゃないよ?そう思ってた時期もあるって話。今でもたまに考えるけど、死にたいだなんてもう思ってない。むしろ生きたい。タバコはもうすっかり依存でね、今でもやめられてないだけ。人生って本当色んなことがあるよ。うまくいかなくて死にたいと思う日もあれば、幸せだと感じる日もある、大切な人と出会う日だってある。私もねもう出逢ってるの。自分の命よりも大切に想ってる人に」

「…え?」


アンナさんが死にたいと思っていた時があるという告白を聞いた時よりもはるかに衝撃を受けている自分がいた。

前にアンナさんは恋人はいないと言っていた。だから、僕はなんとなく安心していたんだ。

最初から叶うことのない恋だけど、それでもほんの少しだけチャンスがあるのではないかとそう信じていた。

だけど、これってもうそういうことだよな…。

アンナさんには片想いなのかはわからないけど、自分よりも大切に想っている人がいる。心から愛している人が、いるんだ…。


「凪ー!置いてくよー」


いつの間にか僕よりもずっと先に進んでいたアンナさんが、無邪気に笑いながら僕に向かって片手を振っていた。

その顔はとても今にも死にたいと思っている顔ではなく、本当に過去の話だったんだとわかる。


「…今行きます」


…アンナさんに愛する人がいるからって、なんだ。

その人はアンナさんが家もなく倒れるほど彷徨っていた時に、何もしなかった人だ。

二人の間に何があったのかは知らないけど、今アンナさんの隣にいるのはこの僕だ。


「僕はアンナさんのそばにずっといますからね」

「えー?なになに、急にかっこいいこと言っちゃって。–––ありがとうね」


アンナさんは僕の考えていることがわかったのか、それともそうじゃないのか、少しだけ泣きそうな顔で笑っていた。





「真村、ちょっといい?」

「ん?なんだー?」


放課後のクラスメイトたちに囲まれてカラオケに行こうと騒いでいる真村に、申し訳ないなと思いつつも恐る恐る話しかける。


「あ、桐宮もカラオケ来たいのか?ちょうど今から誘おうと思ってたところで…」

「あー悪い、今日はちょっと…。次は行くからまた誘ってよ」

「おう。ん?じゃあなんの話だ?」

「あのさ、相談…なんだけど」


誰にも聞かれないように廊下の隅っこに真村を連れて行くと、ぐいっと顔を近づける。


「真村って、恋愛経験も豊富だろ?だからこそ聞きたいんだけど、年上の人に告白する時、おまえだったらなんて言う?」

「…は?」


アンナさんが僕のことを恋愛対象として見ていないことくらい、一緒に過ごしていてわかる。

だからこそ意識してもらうには告白をするしかないだろう。

多少気まずくなるとしても、意識してくれるならそれでいい。


「はー!?桐宮、おまえまさかの年上に恋しちゃった感じ!?まじかよ!あのクールでイケメンで頭脳明晰な桐宮が、年上好き…うぐっ」


大声を出した真村の口を慌てて塞ぐ。

何してるんだこいつ!


「悪い悪い。友達として嬉しくてさ、つい。今度会わせてくれよ。桐宮が好きになった人ってどんな人か気になるだろ」

「…絶対嫌だ」

「まあそれは置いといて、なんて告白するかだよな。年上かー。残念なことに俺の経験上年上はあまり知識がなくてな。まあ桐宮の気持ちを包み隠さず全部伝えることが大事なんじゃね?女ってストレートが一番らしいし?」

「…聞いた人間違えた」

「わー待てよ!大真面目だぞ俺は!それに誰よりもおまえのこと応援してるぞー!」


恥ずかしくて真村に背を向けたまま、感謝の気持ちを込めて手を振る。

自分の気持ちを隠さずに全部伝える…。

恋愛なんて今までしてこなくて戦略とかを考えることが苦手な僕にとっては、一番ぴったりな方法かもな。


今までの僕だったら考えられないことばかりだ。

友達に恋愛相談なんてするのも、叶う見込みがない相手を好きになって、告白までしようと必死になっていることも。

全部アンナさんと出会ってから、変わったこと。

この気持ちも、アンナさんへの想いも全部言葉にして伝えたい。


「ただいまー」


ドキドキする心臓を必死に落ち着かせながら、アンナさんが待っているであろうリビングにゆっくりと歩いていく。


「アンナさん、聞いてほしいことが…」


リビングの扉を開けるけど、アンナさんがいる気配はなかった。

それどころか、アンナさんの着替えや歯磨きなどの私物も、一切消えてなくなっていた。


「アンナさん…?」


嫌な予感がする。

名前を呼んでみるけど、返事は返ってこない。


「アンナさん…アンナさん!」


洗面所、トイレ、お風呂場、寝室、ベランダ。家中どこを探してもアンナさんはいなかった。

まるで、ここで一緒に過ごした一週間が全て幻だったかのように。


「…違う。たしかにアンナさんはここにいた」


だってこんなにも、僕の家にアンナさんのタバコの匂いが残っている。

微かだけど、たしかに残っているんだ。


「…?」


ふと、見逃していたけどリビングの机の隅っこに紙切れが一枚置かれていた。


「…っ」


そこに書かれていたのは、たったの一文。

だけど僕の胸を締め付け、苦しくさせるのには十分だった。


“凪と出逢えてよかった。  杏凪(アンナ)


その日彼女は、タバコの香りだけを残して僕の前から姿を消してしまった。