地震の正体にいち早く気づいたのは雪だった。花散里の山を、まっすぐ指さしている。
龍胆は息を呑んだ。
山が動いていた。
(・・・いや、あれは山ではない!)
青い闇の中、山に見えたのは、巨大な髑髏(しゃれこうべ)だった。
むき出しのあばら骨は半透明な膜に覆われている。下半身はなく、地を這う体制だ。手のひらは田畑がまるごと収まるほど大きかった。
龍胆の拘束がゆるむ。そのすきに逃げ出した骸屋は、咳き込みながらニヤリと笑った。
「白骨化した巨人、とでも言うべきかね。おいらの相棒の、『がしゃどくろ』さ」
――おみしりおきを。
うやうやしく頭を垂れる。それを合図に、龍胆と骸屋の間に人骨の指が突き刺さる。
「っ!」
龍胆は身を翻し、それを避けた。骸屋はひらり人骨に飛び乗ると、そのまま『がしゃどくろ』の肩にのる。
ゆうゆうと、地上の龍胆と雪を見下ろした。
あやめは、丘の上から、『屍食鬼の館』の前で繰り広げられる骸屋との戦いを見ていた。
(雪は無事なのか?)
そんな言葉が頭をよぎり、あやめは自分自身にぎょっとした。
(なぜ・・・? 僕は雪の骸が恋しい。生きていては愛でられないだろう?)
それは、雪と出会ってからずっと抱えてきた矛盾だった。
一度向き合えば、疑問は次々と溢れ出した。
なぜ僕はさっさと雪を殺さなかったんだ。
なぜ野放しのまま、十年も生かしておいた?
今だって、どうして。
「どうして、涙が止まらないんだ・・・」
潰された片目を抑える。
雪が死ぬと思ったら。なぜだかとても怖かった。
なんで。どうして?
(――そうだ。僕が娘の骸を集め始めた理由は、『死んでいないと、そばにいてくれないから』だった)
誰ひとり、自分を見てくれない。
『庄屋の跡取り息子』。『金持ちの子』。『前妻の忘れ形見』・・・。呼ばれ方は様々あったが。
(僕を、名前で呼んでくれたのはただ一人。雪だけだった)
あやめは、突き動かされるように走った。
(僕が雪を殺せなかった理由は。君なら、生きていても僕を見てくれると思ったからだ)
雪が死ぬのは、天命なのかもしれない。
大勢を殺めてきた、罪深い男への、極刑。
だが、まだ間に合う。
気づいたらもう、迷いはなかった。
巨体の人骨は、龍胆を叩き潰そうと剛腕を振るう。逃げようにも、相手は巨人だ。人の距離感など、上空からは誤差である。あっという間に追いつかれ、避けるだけで精いっぱいだ。
雪を抱きかかえた龍胆は、せめて、と菫がいる我が家から離れた場所へと走る。
「龍胆さま、血が・・・っ!」
雪は叫ぶ。龍胆の傷口が開いたらしい。着物に血が滲み出ていた。
「落ち着きたまえ、雪。あっちは休憩など取らせてはくれないよ」
落ち着いた声色で雪をなだめるが、内心は動揺していた。
(地上のどこにも逃げ場はない。――物陰に隠れても、上からまるごと潰されれば終わりだ)
まさに八方塞がりだ。雪を抱えたまま、持久戦になるのは目に見えていた。
――どうする。
龍胆は歯噛みする。今回は相手が悪い。あの骨の妖怪からしてみれば、刀など爪楊枝のようなものだ。痛くも痒くもないだろう。
「龍胆さま。・・・わたしはもういいです、おろしてください」
不意に、雪がポツリと言った。
龍胆は動きを止め、雪の横顔を見つめる。雪は、はにかみ、同時に泣いていた。
ぽろぽろと、涙があふれてとまらない。
「わたしは充分、生きました。――あなたのおかげで、とても、とても幸せな時間だった」
上空から、次々に人骨の五指が二人をとらえようと地面に突き刺さる。だが竜胆は逃げようとせず、雪の言葉へ集中した。
雪は続ける。
「わたしは、両親が殺されたとき、死ぬはずだった身です。・・・あなたに出会えて、つかの間でも生きる喜びを知った。知ることができた」
雪は精いっぱいの笑顔で笑う。
「あなたは何度でも助けに来てくれた。・・・嬉しかった。わたしは、あなたほど優しくて素敵な人に出会えて、心の底から幸せでした」
だから、逃げて。
その一言を聞くと、意外にも、竜胆は雪をおろした。雪はおずおずと龍胆を見上げる。
「君は、ずるい」
龍胆は、眉間にしわを寄せていた。それはどの怪我よりも痛そうで。辛そうで。雪は胸をえぐられたような罪悪感に襲われる。
「雪がいない世界に、生きる価値などない。――・・・わかるだろう」
龍胆はぐっと雪を抱きしめる。
「死ぬときは一緒だ。行く先は違っても。せめて隣で散らせてくれ」
血の匂いに混じり、彼の匂いがふわりと香り、雪はまぶたを伏せた。
互いに、存在理由は同じだったのだ。
雪は腕の中で、力強くうなずく。
(ああ。わたしはひどい)
ともに死ぬと言ってくれた人を、とがめもしない。
(宣言しておいて、死ぬのが怖いだなんて。なんてわがままなんだろう)
雪は子供のように、すりすりと胸板に額をこすりつける。ごめんなさい、とつぶやきながら。
一方、『がしゃどくろ』の肩に乗った骸屋は、顎に手を添え、思案していた。
(死ぬ覚悟でも決めたか? 案外、脆かったな)
もっとねばるかと思ったが、二人は覚悟を決めたようだった。
だが、思い通りに死なせはしない。
「おいらが欲しいのは雪だけだ。何度もおいらを殺してくれたその鬼は、雪を回収したあとでなぶり殺してやる」
骸屋は唇をゆがめ、血の混じった唾を吐く。痛めつけられた礼は、たっぷりしてやるつもりだった。
――ふと、背後に殺気を感じて、骸屋は目を見開いた。
「あやめの兄さん。なんで・・・っ」
次の瞬間、骸屋は、ゴボッ、と口から血があふれた。背後から心臓を一突きにした男の袖を握りしめる。
あやめが、無表情で背後から短刀で背中を刺したのだ。あやめは短刀を引き抜くと、寒風に髪を遊ばせ、優雅に骸屋を見下ろした。
「気が変わった。――すまないね。わびならあとでいくらでもする。・・・雪から手を引いてくれ」
右手で刀を弄びながら言う。骸屋は躰から血を滴らせながらうめいた。
「それが謝っている態度かい。・・・あんた、見損なったぜ。おいらとの契約を破棄して、雪をどうするつもりだい」
「別にどうもしないさ」
あやめはひょうひょうと言った。その顔は、仏のように穏やかで、満足げにほほ笑んでいた。
「雪が年老いていくのを、地獄の底から愛でるだけだよ。こちらへ堕ちてこないか、待ち望みながら」
地上では。雪を抱きしめたまま、龍胆は『がしゃどくろ』を見上げていた。
(攻撃がやんだ。上でなにか起きているのか・・・?)
「兄さん。あいにくだがよ、契約は破棄しても、おいらは、あの女諦める気はさらさらねぇぜ?」
骸屋はゆるゆると立ち上がった。あやめは怪訝な顔をする。
「なに?」
「気に入っちまったんだよ、おいらも。雪のことが」
「・・・・・・!?」
あやめは驚愕し、次いでこの男を関わらせたことを深く後悔した。
(やはり、この男に頼むべきではなかった)
あやめの心配をよそに、骸屋は下卑た笑みを浮かべる。私欲に走った魔物は、商売などかなぐり捨てて、雪への執着心をむき出しにしていた。
「雪は、おいらの収集品に加えさせてもらう。――年取らせるなんて冗談じゃねぇ。花の盛りを摘まずして、なにが面白いってんだ」
「それを僕が許すとでも?」
あやめは凄む。しかし、骸屋からほとばしる殺気は消えなかった。
「契約を破棄した以上、あんたはもう客じゃない」
――邪魔だ。
骸屋は、きっぱりと言い切った。
あやめをすっぽり覆う影が濃くなる。巨大な人骨の手のひらだ。
避けるまもなく、あやめは問答無用で鷲掴みにされた。
「っ!」
ごきごきと、体中の骨が砕ける。『がしゃどくろ』は人を喰う怨霊の集合体だ。なんのためらいもなく、口を開けると、あやめを放り込んだ。
「くそっ!!」
逃げ遅れたあやめは、上半身だけ髑髏(しゃれこうべ)の歯から免れたものの、下半身は無惨にも噛みちぎられた。
躰の大半を喰われた。・・・もはや、再生は不可能だ。
あやめの死にかけの躰は、そのまま白い地面へ――雪の足元へ、落下していった。
雪と龍胆は唖然として、上で繰り広げられた惨劇を見上げていた。
あやめがこちらへ落下してくる。いち早く反応したのは龍胆だった。駆け寄り、地面に落ちる前に受け止める。
「・・・おい、貴様。どういう風の吹き回しだ」
龍胆はあやめを自身の目線と同じ高さまで持ち上げる。青い瞳をギラリと光らせた。
「雪を殺めろと命じたお前が、なぜやつを裏切った?」
もはや手足もない。首だけで、あやめは「ふん」と鼻を鳴らした。
「熟女になった雪も見てみたいと思った。・・・それだけさ」
「は・・・?」
雪は目を点にする。熟女? 意味がわからない。
龍胆は青筋を立てると、ぽいっとあやめを地面へ捨てた。草履でぎりぎりとその頭を踏みつける。
「貴様らは揃いも揃って、雪をなんだと思っている・・・!!」
物のように扱うこいつらが気に入らない。なにより、雪の何十年後まで見せる気はなかった。
あやめは気にする素振りもなく「はは」と笑う。
「小僧。僕にかまっている暇はないぞ。上を見ろ」
『がしゃどくろ』は体制を整えていた。今度こそ、三人まとめて潰すつもりのようだ。
「どうするんだ?」とあやめは片目で問うた。
「僕はもう動けない。あのバケモノに敵う相手など、ここにはいないだろう。どうやって雪を守る? 雪を死なせたら、僕はお前を許さない」
「言われずとも考えている」
龍胆は淡々と言った。しかし、こめかみをつたう冷や汗はとまらない。
判断する前に、『がしゃどくろ』は動いた。
ほかの二人には目もくれず、雪だけをつかもうと手を伸ばしてくる。柱のような骨は、鬼の力でもびくともしない。
あれよあれよと、気づけば雪の鼻先まで、穢れた指は迫っていた。
「雪、逃げろっ!!」
あやめが叫ぶ。一方、龍胆は唖然としていた。
雪は、見たことのない顔をしていた。
――菩薩。
この世のすべての罪穢れを受け止め、安らぎを与える、御仏の顔。
雪の可憐な唇から吐息が漏れる。それは、冬の冷気に冷やされ、白い霧へと変わる。
導かれるように、雪は両手を人骨へ添えると、その指先へ、口づけた。
かるい音を立てて離れる、小さな唇。
刹那、『がしゃどくろ』の指先が黄金に輝き始めた。
「なにっ!?」
骸屋は相棒の異変に動揺する。この光は、見覚えがある。
死ぬ間際に見た。
御仏の救済の光だ。
光は人骨の指先から全身へと、凄まじい勢いで駆け抜ける。光に包まれた髑髏(しゃれこうべ)は、歓喜の表情へと変貌する。
「雪っ! 避けろ!!」
龍胆の声で、雪ははっとする。頭上では、『がしゃどくろ』の躰は崩壊し始めていた。巻き込まれればひとたまりもない。
龍胆は雪を担ぎ上げ、不本意だと愚痴をこぼしながら、あやめも連れて行く。雪煙は花散里の村を巻き込み、あたりを真っ白に染めた。
「雪の口づけで、無数の怨霊が成仏したとでも言うのか・・・」
あやめはひとりごちた。雪にそんな力があるとは知らなかった。
疲れ果て、ぐったりした雪を、龍胆はちらりと見やる。力を使い果たしたらしい。
一方、骸屋は崩壊する『がしゃどくろ』から飛び降り、森へと逃げ込んでいた。
木陰に身を潜める。
(どうやら、雪はおいらの想像以上に『上玉』らしい)
喉から手が出そうだ。ますます雪が欲しくなった。
だが、雪の霊力の得体が知れない中、うかつに手を出すのは危険だ。
やむなく、骸屋は踵を返す。
手下の小鬼が差し出した上着を羽織ると、待機させていた牛車へ乗り込む。牽引する牛のいない俥は、ふわりと宙に浮く。あとに続き、魍魎たちは列をなす。牛車の車輪のもうもうとした雲に飛び乗り、夜空の闇へと消えていった。
崩壊した人骨は、やがて雪の結晶へと変貌した。
朝が来れば、太陽で溶かされ、跡形もなく消えるだろう。
誰にも知られることなく。・・・・・・ひっそりと。
意識を取り戻した雪は、無惨な姿となったあやめに歩み寄る。正座すると、ゆっくり、転がる首と、視線を合わせた。
「あなたは、わたしから、たくさんのものを奪った」
雪の長い黒髪が風に遊ばれ、あやめの頬をくすぐる。あやめは目を閉じ、静かに雪の声に耳を傾けていた。
「両親も。龍胆さまの『生』も。――だから、あなたを許すことはできないわ」
「・・・それで、かまわんよ」
あやめはゆるりと目を開けた。
「僕は最初から、許しなど求めてはいない。君に求めたのは・・・」
どこにそんな力が残っていたのか。
あやめは首を宙に浮上させる。
ふわり、雪の唇を奪った。
「あ・・・」
雪は目をまん丸にする。あやめはいたずらが成功した子供のように、無邪気に笑った。
「ふ、最後の最後で油断したね」
龍胆へ向け、ニヤリと笑う。
「じゃあな」
あやめの顔から、黄金の光が放たれた。
やがて、彼の頭があった場所には、こんもりと雪が積もっていた。
あやめは雪へと返った。成仏したのだ。
白く、やわらかな魂は、風に舞う。
散る間際の声は、かすかなものだったが、龍胆の耳には届いた。
『地獄の底から見ているぞ。貴様が雪を幸せにできるかどうか――・・・・・・』
つづく
龍胆は息を呑んだ。
山が動いていた。
(・・・いや、あれは山ではない!)
青い闇の中、山に見えたのは、巨大な髑髏(しゃれこうべ)だった。
むき出しのあばら骨は半透明な膜に覆われている。下半身はなく、地を這う体制だ。手のひらは田畑がまるごと収まるほど大きかった。
龍胆の拘束がゆるむ。そのすきに逃げ出した骸屋は、咳き込みながらニヤリと笑った。
「白骨化した巨人、とでも言うべきかね。おいらの相棒の、『がしゃどくろ』さ」
――おみしりおきを。
うやうやしく頭を垂れる。それを合図に、龍胆と骸屋の間に人骨の指が突き刺さる。
「っ!」
龍胆は身を翻し、それを避けた。骸屋はひらり人骨に飛び乗ると、そのまま『がしゃどくろ』の肩にのる。
ゆうゆうと、地上の龍胆と雪を見下ろした。
あやめは、丘の上から、『屍食鬼の館』の前で繰り広げられる骸屋との戦いを見ていた。
(雪は無事なのか?)
そんな言葉が頭をよぎり、あやめは自分自身にぎょっとした。
(なぜ・・・? 僕は雪の骸が恋しい。生きていては愛でられないだろう?)
それは、雪と出会ってからずっと抱えてきた矛盾だった。
一度向き合えば、疑問は次々と溢れ出した。
なぜ僕はさっさと雪を殺さなかったんだ。
なぜ野放しのまま、十年も生かしておいた?
今だって、どうして。
「どうして、涙が止まらないんだ・・・」
潰された片目を抑える。
雪が死ぬと思ったら。なぜだかとても怖かった。
なんで。どうして?
(――そうだ。僕が娘の骸を集め始めた理由は、『死んでいないと、そばにいてくれないから』だった)
誰ひとり、自分を見てくれない。
『庄屋の跡取り息子』。『金持ちの子』。『前妻の忘れ形見』・・・。呼ばれ方は様々あったが。
(僕を、名前で呼んでくれたのはただ一人。雪だけだった)
あやめは、突き動かされるように走った。
(僕が雪を殺せなかった理由は。君なら、生きていても僕を見てくれると思ったからだ)
雪が死ぬのは、天命なのかもしれない。
大勢を殺めてきた、罪深い男への、極刑。
だが、まだ間に合う。
気づいたらもう、迷いはなかった。
巨体の人骨は、龍胆を叩き潰そうと剛腕を振るう。逃げようにも、相手は巨人だ。人の距離感など、上空からは誤差である。あっという間に追いつかれ、避けるだけで精いっぱいだ。
雪を抱きかかえた龍胆は、せめて、と菫がいる我が家から離れた場所へと走る。
「龍胆さま、血が・・・っ!」
雪は叫ぶ。龍胆の傷口が開いたらしい。着物に血が滲み出ていた。
「落ち着きたまえ、雪。あっちは休憩など取らせてはくれないよ」
落ち着いた声色で雪をなだめるが、内心は動揺していた。
(地上のどこにも逃げ場はない。――物陰に隠れても、上からまるごと潰されれば終わりだ)
まさに八方塞がりだ。雪を抱えたまま、持久戦になるのは目に見えていた。
――どうする。
龍胆は歯噛みする。今回は相手が悪い。あの骨の妖怪からしてみれば、刀など爪楊枝のようなものだ。痛くも痒くもないだろう。
「龍胆さま。・・・わたしはもういいです、おろしてください」
不意に、雪がポツリと言った。
龍胆は動きを止め、雪の横顔を見つめる。雪は、はにかみ、同時に泣いていた。
ぽろぽろと、涙があふれてとまらない。
「わたしは充分、生きました。――あなたのおかげで、とても、とても幸せな時間だった」
上空から、次々に人骨の五指が二人をとらえようと地面に突き刺さる。だが竜胆は逃げようとせず、雪の言葉へ集中した。
雪は続ける。
「わたしは、両親が殺されたとき、死ぬはずだった身です。・・・あなたに出会えて、つかの間でも生きる喜びを知った。知ることができた」
雪は精いっぱいの笑顔で笑う。
「あなたは何度でも助けに来てくれた。・・・嬉しかった。わたしは、あなたほど優しくて素敵な人に出会えて、心の底から幸せでした」
だから、逃げて。
その一言を聞くと、意外にも、竜胆は雪をおろした。雪はおずおずと龍胆を見上げる。
「君は、ずるい」
龍胆は、眉間にしわを寄せていた。それはどの怪我よりも痛そうで。辛そうで。雪は胸をえぐられたような罪悪感に襲われる。
「雪がいない世界に、生きる価値などない。――・・・わかるだろう」
龍胆はぐっと雪を抱きしめる。
「死ぬときは一緒だ。行く先は違っても。せめて隣で散らせてくれ」
血の匂いに混じり、彼の匂いがふわりと香り、雪はまぶたを伏せた。
互いに、存在理由は同じだったのだ。
雪は腕の中で、力強くうなずく。
(ああ。わたしはひどい)
ともに死ぬと言ってくれた人を、とがめもしない。
(宣言しておいて、死ぬのが怖いだなんて。なんてわがままなんだろう)
雪は子供のように、すりすりと胸板に額をこすりつける。ごめんなさい、とつぶやきながら。
一方、『がしゃどくろ』の肩に乗った骸屋は、顎に手を添え、思案していた。
(死ぬ覚悟でも決めたか? 案外、脆かったな)
もっとねばるかと思ったが、二人は覚悟を決めたようだった。
だが、思い通りに死なせはしない。
「おいらが欲しいのは雪だけだ。何度もおいらを殺してくれたその鬼は、雪を回収したあとでなぶり殺してやる」
骸屋は唇をゆがめ、血の混じった唾を吐く。痛めつけられた礼は、たっぷりしてやるつもりだった。
――ふと、背後に殺気を感じて、骸屋は目を見開いた。
「あやめの兄さん。なんで・・・っ」
次の瞬間、骸屋は、ゴボッ、と口から血があふれた。背後から心臓を一突きにした男の袖を握りしめる。
あやめが、無表情で背後から短刀で背中を刺したのだ。あやめは短刀を引き抜くと、寒風に髪を遊ばせ、優雅に骸屋を見下ろした。
「気が変わった。――すまないね。わびならあとでいくらでもする。・・・雪から手を引いてくれ」
右手で刀を弄びながら言う。骸屋は躰から血を滴らせながらうめいた。
「それが謝っている態度かい。・・・あんた、見損なったぜ。おいらとの契約を破棄して、雪をどうするつもりだい」
「別にどうもしないさ」
あやめはひょうひょうと言った。その顔は、仏のように穏やかで、満足げにほほ笑んでいた。
「雪が年老いていくのを、地獄の底から愛でるだけだよ。こちらへ堕ちてこないか、待ち望みながら」
地上では。雪を抱きしめたまま、龍胆は『がしゃどくろ』を見上げていた。
(攻撃がやんだ。上でなにか起きているのか・・・?)
「兄さん。あいにくだがよ、契約は破棄しても、おいらは、あの女諦める気はさらさらねぇぜ?」
骸屋はゆるゆると立ち上がった。あやめは怪訝な顔をする。
「なに?」
「気に入っちまったんだよ、おいらも。雪のことが」
「・・・・・・!?」
あやめは驚愕し、次いでこの男を関わらせたことを深く後悔した。
(やはり、この男に頼むべきではなかった)
あやめの心配をよそに、骸屋は下卑た笑みを浮かべる。私欲に走った魔物は、商売などかなぐり捨てて、雪への執着心をむき出しにしていた。
「雪は、おいらの収集品に加えさせてもらう。――年取らせるなんて冗談じゃねぇ。花の盛りを摘まずして、なにが面白いってんだ」
「それを僕が許すとでも?」
あやめは凄む。しかし、骸屋からほとばしる殺気は消えなかった。
「契約を破棄した以上、あんたはもう客じゃない」
――邪魔だ。
骸屋は、きっぱりと言い切った。
あやめをすっぽり覆う影が濃くなる。巨大な人骨の手のひらだ。
避けるまもなく、あやめは問答無用で鷲掴みにされた。
「っ!」
ごきごきと、体中の骨が砕ける。『がしゃどくろ』は人を喰う怨霊の集合体だ。なんのためらいもなく、口を開けると、あやめを放り込んだ。
「くそっ!!」
逃げ遅れたあやめは、上半身だけ髑髏(しゃれこうべ)の歯から免れたものの、下半身は無惨にも噛みちぎられた。
躰の大半を喰われた。・・・もはや、再生は不可能だ。
あやめの死にかけの躰は、そのまま白い地面へ――雪の足元へ、落下していった。
雪と龍胆は唖然として、上で繰り広げられた惨劇を見上げていた。
あやめがこちらへ落下してくる。いち早く反応したのは龍胆だった。駆け寄り、地面に落ちる前に受け止める。
「・・・おい、貴様。どういう風の吹き回しだ」
龍胆はあやめを自身の目線と同じ高さまで持ち上げる。青い瞳をギラリと光らせた。
「雪を殺めろと命じたお前が、なぜやつを裏切った?」
もはや手足もない。首だけで、あやめは「ふん」と鼻を鳴らした。
「熟女になった雪も見てみたいと思った。・・・それだけさ」
「は・・・?」
雪は目を点にする。熟女? 意味がわからない。
龍胆は青筋を立てると、ぽいっとあやめを地面へ捨てた。草履でぎりぎりとその頭を踏みつける。
「貴様らは揃いも揃って、雪をなんだと思っている・・・!!」
物のように扱うこいつらが気に入らない。なにより、雪の何十年後まで見せる気はなかった。
あやめは気にする素振りもなく「はは」と笑う。
「小僧。僕にかまっている暇はないぞ。上を見ろ」
『がしゃどくろ』は体制を整えていた。今度こそ、三人まとめて潰すつもりのようだ。
「どうするんだ?」とあやめは片目で問うた。
「僕はもう動けない。あのバケモノに敵う相手など、ここにはいないだろう。どうやって雪を守る? 雪を死なせたら、僕はお前を許さない」
「言われずとも考えている」
龍胆は淡々と言った。しかし、こめかみをつたう冷や汗はとまらない。
判断する前に、『がしゃどくろ』は動いた。
ほかの二人には目もくれず、雪だけをつかもうと手を伸ばしてくる。柱のような骨は、鬼の力でもびくともしない。
あれよあれよと、気づけば雪の鼻先まで、穢れた指は迫っていた。
「雪、逃げろっ!!」
あやめが叫ぶ。一方、龍胆は唖然としていた。
雪は、見たことのない顔をしていた。
――菩薩。
この世のすべての罪穢れを受け止め、安らぎを与える、御仏の顔。
雪の可憐な唇から吐息が漏れる。それは、冬の冷気に冷やされ、白い霧へと変わる。
導かれるように、雪は両手を人骨へ添えると、その指先へ、口づけた。
かるい音を立てて離れる、小さな唇。
刹那、『がしゃどくろ』の指先が黄金に輝き始めた。
「なにっ!?」
骸屋は相棒の異変に動揺する。この光は、見覚えがある。
死ぬ間際に見た。
御仏の救済の光だ。
光は人骨の指先から全身へと、凄まじい勢いで駆け抜ける。光に包まれた髑髏(しゃれこうべ)は、歓喜の表情へと変貌する。
「雪っ! 避けろ!!」
龍胆の声で、雪ははっとする。頭上では、『がしゃどくろ』の躰は崩壊し始めていた。巻き込まれればひとたまりもない。
龍胆は雪を担ぎ上げ、不本意だと愚痴をこぼしながら、あやめも連れて行く。雪煙は花散里の村を巻き込み、あたりを真っ白に染めた。
「雪の口づけで、無数の怨霊が成仏したとでも言うのか・・・」
あやめはひとりごちた。雪にそんな力があるとは知らなかった。
疲れ果て、ぐったりした雪を、龍胆はちらりと見やる。力を使い果たしたらしい。
一方、骸屋は崩壊する『がしゃどくろ』から飛び降り、森へと逃げ込んでいた。
木陰に身を潜める。
(どうやら、雪はおいらの想像以上に『上玉』らしい)
喉から手が出そうだ。ますます雪が欲しくなった。
だが、雪の霊力の得体が知れない中、うかつに手を出すのは危険だ。
やむなく、骸屋は踵を返す。
手下の小鬼が差し出した上着を羽織ると、待機させていた牛車へ乗り込む。牽引する牛のいない俥は、ふわりと宙に浮く。あとに続き、魍魎たちは列をなす。牛車の車輪のもうもうとした雲に飛び乗り、夜空の闇へと消えていった。
崩壊した人骨は、やがて雪の結晶へと変貌した。
朝が来れば、太陽で溶かされ、跡形もなく消えるだろう。
誰にも知られることなく。・・・・・・ひっそりと。
意識を取り戻した雪は、無惨な姿となったあやめに歩み寄る。正座すると、ゆっくり、転がる首と、視線を合わせた。
「あなたは、わたしから、たくさんのものを奪った」
雪の長い黒髪が風に遊ばれ、あやめの頬をくすぐる。あやめは目を閉じ、静かに雪の声に耳を傾けていた。
「両親も。龍胆さまの『生』も。――だから、あなたを許すことはできないわ」
「・・・それで、かまわんよ」
あやめはゆるりと目を開けた。
「僕は最初から、許しなど求めてはいない。君に求めたのは・・・」
どこにそんな力が残っていたのか。
あやめは首を宙に浮上させる。
ふわり、雪の唇を奪った。
「あ・・・」
雪は目をまん丸にする。あやめはいたずらが成功した子供のように、無邪気に笑った。
「ふ、最後の最後で油断したね」
龍胆へ向け、ニヤリと笑う。
「じゃあな」
あやめの顔から、黄金の光が放たれた。
やがて、彼の頭があった場所には、こんもりと雪が積もっていた。
あやめは雪へと返った。成仏したのだ。
白く、やわらかな魂は、風に舞う。
散る間際の声は、かすかなものだったが、龍胆の耳には届いた。
『地獄の底から見ているぞ。貴様が雪を幸せにできるかどうか――・・・・・・』
つづく